日露戦争の背景

の教科書比較


1.国書刊行会「高等学校最新日本史」
 (平成6年文部省検定済み)
(本文)下関条約(日清戦争後)調印の直後,かねてより極東侵略の国策を進め満州に野心をいだいていたロシアは,清国の働きかけに応え,ドイツ・フランスをさそって遼東半島を清国に返還するよう強く要求してきた(三国干渉).(・・・省略・・・) 
(本文)「眠れる獅子」とおそれられていた東洋の大帝国清は,日本との戦争によって弱体ぶりを暴露し,列強による蚕食をまねいた.一方,朝鮮では日清戦争後,ロシアが朝鮮王室に対する影響力を深めていった.(注釈文1)
 ロシアは,1896年,清国と対日軍事同盟をむすび,吉林・国龍江両省を横断してウラジオストクにいたる東清鉄道の敷設権を得た.(・・・省略《ドイツの中国進出の動向》・・・)さらにロシアは,遼東半島の旅順・大連港一帯を租借し(注釈文2),東清鉄道から大連港にいたる鉄道敷設権を獲得した.ロシアのねらいは,全満州から朝鮮までを勢力下におくことであった.(・・・省略《イギリス,フランス,アメリカの中国,極東進出の動向》・・・)
 (・・・省略《北清事変》・・・)この事変をきっかけとしてロシアは満州を占領し,その後も撤兵せず,この地域における独占的な権益を清国に認めさせた.
 わが国の政界には,ロシアとの間に妥協点をみいだそうとする満韓交換論(注釈文3)もあったが,多くは,ロシアの南下をおそれるイギリスとの提携に活路を求めようとした.その結果,明治35年(1902),イギリスは「栄光ある孤立」をすて,わが国と日英同盟協約をむすんだ(日英同盟).
 明治36年(1903),ロシアは日本の撤兵要求を無視して満州に兵を駐留させた(注釈文4).第一次桂太郎内閣は,あくまでも外交手段によって衝突をさけようと交渉をつづけたが,他方で開戦の準備も進めた.明治37年(1904)2月,ついに交渉は決裂し,わが国はロシアと交戦状態にはいった(日露戦争)(注釈文5).
 (注釈文1)明治28年(1895),日本公使三浦梧楼らは大院君とむすんで閔妃を殺害したが,列国の非難をあび,翌年国王高宗もロシア公使館に移り,親露政権ができた.
 (注釈文2)旅順には要塞をきずき,旅順港には露清両国軍艦以外の入港を禁止し,大連を貿易港とした.
 (注釈文3)日本の韓国支配をロシアに認めさせる一方で,ロシアの満州支配を認めようという考えで,伊藤博文や井上馨らが唱えた.なお,朝鮮は1897年に,国名を大韓とあらためていた.
 (注釈文4)神鞭知常らを中心とする対露同志会や戸水寛人らの七博士は主戦論を唱えた.これに対し,幸徳秋水は社会主義的な立場から,内村鑑三はキリスト教的人道主義の立場から非戦論を唱えた.
 (注釈文5)戦費総額約17億円の多くは,国債と外国債でまかなわれた.当初,日本に勝ち目はないとみられていたから,外国債の募集は困難をきわめたが,日本銀行副総裁高橋是清らの努力により,おもに英米二国で募集に成功し,約8億円を調達することができた.

2.実教出版株式会社「高校日本史B」
 (平成6年文部省検定済み 平成7年発行 平成8年度用教科書)
 (本文)《下関条約を受けて》遼東半島の割譲は満州(中国北東部)への南下を策していたロシアを刺激し,ロシアは軍事力を背景に,ドイツ・フランスとともに日本に対し,遼東半島を清国に返還するよう強くせまった(三国干渉).(・・・省略・・・)
 (本文)日清戦争後,ヨーロッパの列強はきそって中国本土の分割にのりだした(注釈文1)(帝国主義の時代).(・・・省略《北清事変》・・・)戦乱に乗じてロシアは大兵力で満州を占領し,韓国(注釈文2)にも勢力をのばした.ロシアは,1901年,清国領内を通過する東清鉄道経由でウラジオストクにいたるシベリア鉄道を開通させ,支線を大連・旅順にのばし,極東の軍事関係は緊張した.
 桂太郎内閣の外相小村寿太郎らは,イギリスとむすんでロシアの南下に対抗することを主張し,1902年に日英同盟が成立した.(・・・省略《近代天皇制についての解説,教育勅語の紹介など,産業革命の進行,足尾鉱毒事件》・・・)
 (本文)南下するロシアに対し,日本はロシアの満州支配を認めるかわりに,日本の韓国における特殊な地位を認めよ,と提議した.しかし,ロシアはこれを受けいれなかった.
 国内では対露開戦の世論が強まったが,幸徳秋水・木下尚江・堺利彦・内村鑑三らは『万朝報』などで非戦論を主張した.(注釈文3)幸徳と堺は平民社を創立して『平民新聞』を発行し,戦争中も非戦運動をつづけた.
 1904(明治37)年2月,日本海軍が韓国の仁川沖と旅順港のロシア艦隊を奇襲したのち,日本はロシアに宣戦を布告した.(注釈文4)
 (注釈文1)ロシアは三国干渉の代償として,旅順・大連地区を租借し,満州を勢力圏とした.日本は福建省に勢力圏を設定した.
 (注釈文2)1987年,朝鮮王国を大韓帝国に,国王を皇帝に改めた.
 (注釈文3)幸徳・堺・木下は社会主義者,内村はキリスト教徒.
 (注釈文4)攻撃の2日まえ,ロシア駐在日本大使がロシア政府に国交断絶と行動の自由を通告していたので,当時の国際法上,この奇襲は適法であった.

3.自由書房「高等学校新日本史B」
 (1993年文部省検定済み 1994年発行 1995年度用教科書)
 (本文)《下関条約を受けて》遼東半島の割譲は,東アジアへの南下政策を進めるロシアの利害と衝突した.下関条約調印の直後,ロシアはドイツ・フランスを誘い,わが国に対し,遼東半島を清国に返還するよう要求してきた(三国干渉).(・・・省略・・・)
 (・・・省略《資本主義の成立・政党の進出》・・・)
 (本文)日清戦争で清国の弱体さが明らかになると,列国は清国に対し露骨な帝国主義的侵略を行った.1898(明治31)年,ドイツは山東半島の膠州湾を,ロシアは遼東半島の旅順・大連を,イギリスは九竜半島・威海衛を,翌年フランスは広州湾を租借した.(注釈文1)各国はこれらの租借地を拠点として,鉄道敷設権などさまざまな利権を手に入れた.
 このため清国民衆の生活は圧迫され,排外的気運が高まるなかで,1900(明治33)年,宗教的秘密結社である義和団が,扶清滅洋を唱えて乱をおこし,北京の各国大使館を包囲した(義和団の乱).イギリス・フランス・ロシア・アメリカ・日本など8か国は,日本軍を主力とする連合軍を組織して(注釈文2),これを鎮圧した(北清事変).出兵各国は翌年,清国と北京議定書をむすんで,巨額の賠償金と軍隊の北京常駐権などをえた.
 ロシアはこれを機会に,満州(現在の中国東北地区)の要地を占領しつづけ,満州の実権をにぎろうとした.このロシアの南下政策は,日本の大陸政策と鋭く対立した.政府はイギリスと提携して,ロシアの南下政策を防止しようとし(注釈文3),イギリスも極東政策上,日本と提携することを有利と考え,「栄光ある孤立」の政策をすてたので,1902(明治35)年,桂内閣のとき,日英同盟が成立した.
 ロシアの南下政策はその後も変わらず,満州の兵力をさらに増強し,その勢力は韓国にもおよんだ(注釈文4).政府は,韓国・満州における利権をめぐって,ロシアと交渉をつづけるかたわら,開戦の準備を進めた.日本国内では開戦論が高まり(注釈文5),政府も開戦の決意をかため,1904(明治37)年2月,ついに宣戦を布告した(日露戦争).
 (注釈文1)アメリカは中国分割に直接には参加しなかったが,ハワイを併合し,フィリピンを領有し,1899年には,中国の門戸開放・機会均等を列国に提案した.
 (注釈文2)日本はその後「極東の憲兵」ともいわれるようになり,帝国主義国家の一員となった.
 (注釈文3)一方では伊藤博文らのように,満州におけるロシアの行動を黙認したうえで,韓国における日本の利益の確保を,ロシアに認めさせようという日露協商論もあった.なお,朝鮮は1897年に国名を大韓帝国(略称,韓国)と改称し,国王も皇帝と改めた.
 (注釈文4)1895年の三国干渉後,朝鮮政府や王室はロシアに接近し,日本の影響力が大きく後退したので,日本公使の指示で守備隊などを王宮に乱入させて閔妃を殺害した(閔妃殺害事件).このため,朝鮮宮廷はロシアに保護を求め,同時に親露政権も成立した.
 (注釈文5)対露同志会や戸水寛人ら東京帝国大学などの七博士が主戦論をとなえて世論を刺激したのに対し,キリスト教徒の村内鑑三は非戦論を,社会主義者の幸徳秋水・境利彦らは反戦論をとなえた.また,戦時中に発表された与謝野晶子の「君死にたまうこと勿れ」や,大塚楠緒子の「お百度詣で」の詩が,人びとの感動をよんだ.

4.第一学習社「高等学校改訂版新日本史B」
 (平成9年文部省検定済み 平成10年発行 平成11年度用教科書)
 (本文)下関条約が調印されると,ロシア・フランス・ドイツの3国は,日本の遼東半島領有が清国の首都の安全をおびやかし,朝鮮の独立を有名無実化するという理由で,遼東半島を清国に返還するように勧告してきた(三国干渉).ロシアは,遼東半島を勢力圏にいれて満州(現在の中国東北地区)進出をすすめようとし,フランスは露仏同盟の提携を強めるためにロシアに同調し,近東進出をめざしていたドイツはロシアの勢力を東アジアに向けさせることをはかった.日本は,この3国と戦うだけの力をもたなかったため,やむなく遼東半島を返還した.このため,国内ではロシアへの憤激が高まり,「臥薪嘗胆」の合言葉のもとにロシアへの復讐心をつのらせた.同年におきた閔妃虐殺事件(注釈文1)以後は,朝鮮政府に対するロシアの影響力が増大した.
 (省略・・・《国家主義の台頭》《北清事変》・・・)
 (本文)ロシアは,北清事変のとき大軍を送って満州を占領し,事変終結後も駐留した.韓国(注釈文2)と陸つづきの満州がロシアの支配下に入ることは,韓国における権益を守ろうとする日本政府にとって大きな脅威となった.政府内では,ロシアに満州経営の自由を認めるかわりに韓国における優越権を確保する主張と,イギリスとの同盟によるロシアの南下政策を阻止しようとする主張との対立があった.第1次桂太郎内閣は後者を選び,1902(明治35)年に日英同盟を結んだ.日英同盟では,イギリスは清国に,日本は韓国と清国にそれぞれ特殊権益のあることを双方が認め,いずれかが第三国と戦うときには中立を守ることなどが規定された.
 日本はロシアの勢力が南に拡大してくることに脅威を感じ,イギリスの支援をうしろだてに,ロシアに対して満州からの撤退を要求したが,ロシアはこれに応じなかった.交渉はきわめて難航し,国内では対露開戦を主張する世論が急速に高まった.これに対して,反戦や非戦を唱えるものもあった.(注釈文3)
 1904(明治37)年2月,日本はロシアに宣戦布告して,日露戦争がはじまった.日本軍は大きな犠牲を払いながらも勝ちすすみ,1905(明治38)年1月の旅順包囲戦,3月の奉天戦を戦い,5月には日本海海戦でバルチック艦隊を撃破した.しかし,日本は軍事力・財政力が底をつき,戦争続行が困難となった.ロシア側も,国内に生じた革命運動が激化してきたため戦争終結に動いた.
(注釈文1)三国干渉後,朝鮮では,閔妃がロシアに接近して親日勢力を追放して政権を握った.そこで,日本公使の指揮のもとに日本守備隊などが王宮に侵入して閔妃を殺害し,親露勢力をのぞこうとしたが,列国の非難をあびた.
(注釈文2)朝鮮は1897年に国号を大韓帝国(韓国)と改めた.
(注釈文3)東京帝国大学教授ら7人の博士が強硬意見を桂首相に提出した.また,国権論者は対露同志会を結成して,主戦論をあおった.これに対して,内村鑑三はキリスト教的人道主義の立場から,平民社は社会主義の立場から非戦論を展開した.また,与謝野晶子は「明星」に戦場にいる弟を案じた詩を発表した.


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