満州事変


1.国書刊行会「高等学校最新日本史」
 (平成6年文部省検定済み)
 (本文)蒋介石軍は北京に入城して北伐を達成し,列国は蒋の国民政府を承認した.張作霖の子張学良が満州の実権を継いで国民政府に参加したため(注釈文1),中国の統一はいちおう達成された.それを背景として,国民政府は日本の手に落ちていた中国の権利(国権)を回復する意向を公式に表明した.
 関東軍は,武力で満州を中国からきりはなすことを企図し,昭和6年(1931)9月,軍の一部は独断で柳条湖付近の鉄道線路の爆破事件をおこした(柳条湖事件)(注釈文2).軍はただちに全面的な軍事行動に移り,半年で満州全土を制圧した(満州事変).第2次若槻内閣は不拡大方針を表明したが,関東軍はこれを無視し,事変は拡大の一途をたどった.軍の行動は世論の支持も受けた.若槻内閣は総辞職し,政友会総裁の犬養毅が組閣した.
  中国の対日感情は極度に悪化し,昭和7年(1932)1月には,排日運動が特に高まっていた上海で,日本の海軍陸戦隊は中国軍と衝突した(第1次上海事変).しかし,列国の調停により紛争が収拾されると,ただちに撤退した(上海停戦協定).
 かねてから関東軍により,新国家建設が強力に進められていたが,昭和7年(1932)3月,日・朝・満・蒙・漢の諸民族の協力(五族協和)を理想にかかげて満州国の建国が宣言され,溥儀(清朝最後の皇帝宣統帝)が執政にむかえられた(2年後に皇帝).満州国承認に反対していた犬養内閣は,昭和7年(1932)の5・15事件で崩壊し,つぎの斎藤実内閣が日満議定書に調印して,満州国を承認した(注釈文3).しかし,満州回復をめざしていた国民政府ははげしく反発した.
 国民政府の提訴を受け,満州問題調査のためにイギリスのリットンを団長とする調査団が,国際連盟から派遣された.昭和7年(1932)に提出されたリットン報告書は,日本軍の行動は正当な自衛行動ではないとしながらも,日本の特殊権益を認め,また満州で広範囲な自治を確保することを提案した.翌年2月の連盟総会で,南満州鉄道付属地以外の日本軍を撤兵させること,中国の主権下の組織を満州に設立することを求めた対日勧告案が,42対1で採択されると,松岡洋右ら日本代表は退場し,3月日本は国際連盟からの脱退を通告,昭和10年(1935)から発行した
 昭和9年(1934)12月,日本はワシントン海軍軍縮条約破棄を通告,昭和10年(1935)12月にはロンドン海軍軍縮会議(第2次)がひらかれたが,意見は一致せず,翌年1月日本は脱退した.そして,昭和11年(1936)12月,ワシントン・ロンドン両海軍軍縮条約は失効し,以後,無制限の建艦競争が各国間でくりひろげられた.
(注釈文1)張政権の五色旗は,中華民国(国民政府)の青天白日旗にかえられた.
(注釈文2)参謀本部の参謀が満州を調査旅行中に中国軍隊に殺害されたこと(中村大尉事件)や,長春西北方の万宝山において,朝鮮人と満州人が水利権・耕作権をめぐって衝突したこと(万宝山事件)などがおこっていた.なお,この事件は,当時より最近まで「柳条溝事件」とよばれていた.
(注釈文3)議定書には,満州における日本の権益の承認や日本軍の駐屯が規定されていた.

2.実教出版株式会社「高校日本史B」
 (平成6年文部省検定済み 平成7年発行 平成8年度用教科書)
 (本文)満州では,民族主義の立場から国権回復運動がおこり,満鉄並行線の建設など満鉄の独占的経営への反発が強まった.さらに満鉄は,世界恐慌の影響を受けて経営が悪化していた.軍部内には,満州でのこのような動向に危機感をもち「満蒙問題」を武力で解決しようとする動きがおこった.政党・財閥・大新聞や民間右翼がこれに共鳴し,「日本の生命線満蒙」の危機を高唱した(注釈文1).
 1931年9月18日夜,関東軍は,奉天(現在の瀋陽)郊外で満鉄線路を爆破し,これを中国軍の行為だと主張して張学良軍を攻撃し,翌日には奉天城を占領した(柳条湖事件)(注釈文2).第2次若槻内閣は不拡大方針を唱えたが,関東軍は計画的に戦線を拡大し,開戦半年後には満州の主要部分を占領した(満州事変).こうして,日本と中国の15年にわたる戦争(十五年戦争)がはじまった.
 (歴史のまど)1932年1月,戦火は日本軍の謀略によって上海に飛火した(上海事変).上海は伝統的に抗日運動のさかんな都市であり,国際都市であったため,日本軍は頑強に抵抗し,欧米列強の対日感情も悪化して日本軍は苦戦した.
 しかし,この間,軍部は1932年3月,清朝最後の皇帝愛新覚羅溥儀を執政にして「満州国」を建国した.
 国際連盟は日本の提案によりイギリス人のリットン卿を団長とする調査団を日本・中国に派遣した.しかし,調査団来日の翌日,「満州国」建国を宣言し,調査団の延期要請にもかかわらず,日本政府は調査団報告書公表直前に「満州国」を承認し,日満議定書を調印した(注釈文3).日本軍による1933年2月の熱河省攻撃は報告書を審議する国際連盟総会のさなかであった.日本は翌日,国際連盟を脱退するが,国際的孤立につながるこの道は,日本が国際的動向に対抗しつつ選んだものであった.
(注釈文1)長春郊外でおきた万宝山事件や中村大尉事件が最大限利用された.
(注釈文2)中国国民政府は,これを日本の計画的侵略であるとして国際連盟に提訴した.
(注釈文3)議定書が調印された9月15日夜,抗日ゲリラ隊は満鉄を経営する撫順炭坑を襲撃した.翌朝,日本軍は,事件に関係あるとして近くの平頂山部落の住民3000人余を虐殺した(平頂山事件).

3.自由書房「高等学校新日本史B」
 (1993年文部省検定済み 1994年発行 1995年度用教科書)
(本文) 関東軍は国民政府と提携して排日・抗日の態度を強める張学良とその軍隊を倒し,満州を全面的に支配するため(注釈文1),1931(昭和6)年9月18日,奉天郊外の柳条湖で南満州鉄道爆破事件をおこし(柳条湖事件),軍事行動を開始した(満州事変)(注釈文2).ときの第2次若槻内閣は,不拡大方針をとったが,軍部はこれに従わず,たちまち全満州を占領した(注釈文3).翌1932(昭和7)年3月,軍部は清朝の廃帝溥儀(宣統帝)を執政(のちに皇帝)にむかえて,「満州国」をつくりあげた.そして同年9月,日本政府は日満議定書に調印(注釈文4)して,同国を承認するとともに,これを日本の完全な支配下においた.
 日本の中国侵略に対し,中国では激しい排日・抗日運動がおこった.中国国民政府は日本の軍事行動を侵略と非難し,事変の直後,国際連盟に提訴した.連盟はリットン調査団(注釈文5)を現地に派遣して調査させた.その調査報告にもとづいて,日本軍の満鉄付属地への撤兵と「満州国」承認の取り消しを勧告する決議案が,1933年2月の連盟総会に上程された.これが可決されると日本は,同年3月,国際連盟から脱退し,これまでの協調外交をすて,孤立外交へと進んだ.
 日本軍は同年,中国の熱河省・河北省に侵攻し,5月に国民政府と塘沽停戦協定をむすび,日本の満州と熱河省の支配を事実上黙認させた.
(注釈文1)軍はさかんに,満州は日本の生命線であると宣伝した.
(注釈文2)この年から1945(昭和20)年の敗戦までの戦争を総称して,十五年戦争ともよばれる.
(注釈文3)翌1932年1月,日本軍は列強の目を満州からそらすため,上海で中国人を買収して日本人僧侶を襲わせ,これを機に戦闘にもちこんだが,中国軍の激しい抗戦にあった(第一次上海事変).列強の圧力もあって,中国政府と停戦協定をむすび,日本軍は撤退した.
(注釈文4)調印の日(9月15日)の夜,撫順炭鉱(満鉄の経営)を襲撃した抗日ゲリラ部隊が通り過ぎただけの平頂山村を,ゲリラに通じているとみなして,日本軍は全村民3,000人余を虐殺した(平頂山事件).
(注釈文5)イギリスのリットン卿を団長として,仏・伊・独・米の各国代表からなっていた.

4.第一学習社「高等学校改訂版新日本史B」
 (平成9年文部省検定済み 平成10年発行 平成11年度用教科書)
(本文)世界恐慌の影響で日本経済は低迷が続いた.一方中国各地では反日運動がひろまり,張作霖の子張学良は国民政府に協力することを表明し,日本のもっている権益の返還を要求する民族運動をおこした.こうした政治的・経済的な情勢を背景に,一部の軍人は右翼と結んで現状打破を叫び,急進的な行動に走るようになった.とくに関東軍では,政府の協調外交に反対して強硬外交を主張する声が強く,「満蒙」を日本の勢力下におくために武力で占領しようとする動きが強まった.1931(昭和6)年9月18日夜,関東軍は奉天郊外の柳条湖で南満州鉄道の線路を爆破し(柳条湖事件),それを中国軍の行為であると主張して軍事行動をおこし,満鉄沿線の主要都市を占領していった(満州事変).第2次若槻内閣は不拡大方針をとったが軍部の侵略行動を阻止することができず,総辞職した.
 かわった政友会の犬養毅内閣は,軍部に同調しながらも満州事変の処理につとめた.しかし,翌年1月に日本軍は上海事変をおこし,諸外国がこれに注目しているあいだに,軍部は清朝最後の皇帝であった溥儀を執政につけ,3月には満州国の建国宣言を発表させた.(注釈文1)
(注釈文1)満州国を承認したのは,日本・ドイツ・イタリアなど数か国にすぎなかった.1934年には帝政をしき,溥儀が皇帝となった.


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