【紙上追体験 あの戦争】(90)

 戦争は動物たちにも非情

[1998年08月30日 東京朝刊]


 昭和18年(1943年)9月4日午後、東京・上野動物園で空襲に備えて処分された動物たちの慰霊祭があった。逃げ出して市民に危害を加えることを事前に防ぐという大義名分があったものの、処分が公表されると、「かわいそうだ」という声が巻き起こった。

 当時、歩兵第236連隊の一員として中支戦線にいた成岡正久(戦後高知市議会議員)は、「ヒョウと暮らす男」として各部隊で有名だった。戦後、成岡が出版した「豹と兵隊」(芙蓉書房)によれば、16年2月、武漢に近い湖北省陽新県の村に出動したとき、近くの牛頭山にヒョウが出没する話を聞き、退治に行った。親ヒョウは見つからなかったが、洞穴で生後20日前後の子供のヒョウ(オス)を見つけ、部隊に持ち帰る。隊員たちが一緒に面倒をみて、一カ月もたたぬ間に部隊のマスコットとなった。

 成岡にはとてもよくなつき、一緒に寝ていた。半年もするとかなり大きくなり周囲を威圧する雰囲気があった。それでも兵隊の中で育ったためカーキ色の軍服を着た日本兵にはまったく従順だった。警備にあたる兵士らにとって心強い存在で、食べ物をねらうイヌやネコを追い払うので、炊事係からは「衛兵」と呼ばれていた。ところが、部隊の作戦参加で飼うことができなくなり、上野動物園に引き取られる。

 そのヒョウ「八紘」が動物園にやって来たのは17年7月。園では出征兵士が育てたヒョウであることをPR。人気を集めていたが、18年8月18日に処分された。この直後、成岡は休暇で帰国、電報で八紘の死を知らされる。成岡は「楽しかった陽新時代のハチ(八紘)の姿を思いだし悲嘆にくれた」と書いている。八紘ははく製にされる。

 逃げ出すと危険と思われる動物の処分は8月17日から始まっていた。処分を最終的に決定したのは昭南(シンガポール)市長から東京都長官に就任したばかりの大達茂雄(戦後文相)。昭和31年に出された伝記「大達茂雄」(同伝記刊行会)によれば、彼は空襲でおりが壊れ猛獣が逃げ出す事態をもっとも心配していた。

 「人間は一発の爆弾よりも一頭のトラの出現を恐れる」。しかし、「これが都民に知れ渡ったらどんな影響がでるか」「大人なら話せばわかるだろうが、子供には理屈で納得させることができない」。一刀両断、決心のぐらついたことのない大達がこのときは幾日も考え、「やむを得ない」という結論に達する。

 8月半ば、公園課長の井下清が長官室に呼ばれた。このころ動物園では非常時の場合の準備も進めていた。長官は「気持ちはわかるが、どっちみち半年かそこらで処分しなければならぬ。その間どんな不測の事態が起こるともかぎらないのだから、思いきっていまのうちに」と指示したという。

 野動物園の責任者は戦時中ずっと園長代理をつとめた福田三郎(戦後飼育課長)。彼は戦後出版した「実録上野動物園」(毎日新聞社)の中で、「8月16日は私にとって忘れられない日になった」と書いている。この日昼前、福田は電話で井下にすぐ来るようにといわれた。「猛獣処置のことに違いない」と直感して、すでにできていた一覧表を持っていった。陸軍獣医学校の古賀忠道(園長だったがこのとき応召中、戦後東京動物園協会理事長)も来ていた。

 福田の記録によれば、井下の指示は「一カ月以内に毒殺せよ」だった。射殺は銃声がするために禁止。翌朝、福田は職員全員を集めて指示を伝えた。「秘密だから家族にも話すな」と付け加えた。

 17日の閉園後、最初に毒殺されたのはメスのホクマンヒグマ。3グラムの硝酸ストリキニーネを入れたサツマイモを与えると、22分後、絶命した。だが、実際は毒入りのえさを食べなかったことなどから、ほかの方法で処分された動物のほうが多かった。

 ツキノワグマは首にロープを巻き付けて数人がかりで引っ張った。15分で絶命。クロヒョウには先にワイヤロープの付いた棒を使い、首にかけた。4分30秒で絶命。ガラガラヘビは最初、頭部を針金で突き刺し、翌朝けい部をひもでぐるぐる巻きにして殺した。生きているニワトリなどしか食べないニシキヘビの場合は解剖刀を使用した。エチオピア産のライオンの場合は、絶食させたあと、毒入りの肉を与え、最終的に心臓部をやりで刺した。

 よく知られているようにゾウは「ジョン」「花子」「トンキー」の三頭がいた。三頭はいずれも絶食によって処分されるのだが、慰霊祭のときには、花子とトンキーがまだ、生きていた。福田は井下から「ゾウが残っていることは長官には内緒にしろ」と指示される。ゾウは幕の後ろに隠された。

 これより先、おとなしいトンキーについては、ゾウがいなかった仙台動物園に疎開させることが現場サイドでほぼ決まっていた。貨車で輸送することにし、動物園では上野署からゾウを駅まで歩かせる許可も取っていた。仙台動物園の関係者も上京、スタンバイした。しかし、大達はこれを一蹴した。

 「上野動物園百年史」は、「このように強い長官の態度の背景にはまだ、戦争に勝っていると思っている国民に対し、戦争はそんなになまやさしいものではないことを自覚させ、警鐘を発する考えがあった」という内容の古賀の言葉を紹介している。

 処分された動物たちの中には、高松宮殿下、エチオピアのハイレセラシエ皇帝らから寄贈された動物たちも含まれていた。

 ところで、動物園には軍関係者からの寄贈が多かった。寺内寿一元帥はカニクイザル、オオトカゲなど。東条英機首相と杉山元参謀総長の名前でチョウセンツキノワグマやマンシュウイノシシ、また、8月14日には駆逐艦「風雲」からキスカ島撤退作戦で持ち帰ったホッキョクギツネが寄贈された。もちろんこれらの中からも処分される動物が出る。9月23日までに殺されたのは27頭にのぼった。

 はく製となった八紘は昭和24年、元飼い主の成岡からの強い希望によって彼の元に返される。現在は高知市の子ども科学図書館に展示されている。


◆ベルリン動物園は火の海


 ドイツのベルリンに対する連合国側の空襲では、市の中心部を流れるシュプレー川のすぐ南にあるベルリン動物園も大きな被害を受ける。

 35年間園長をつとめたハインツ博士らの著書「シュプレー川のノアの箱船」などによれば、動物園に最初に爆弾が投下されたのは1941年9月8日で、エランド(ウシ科のほ乳類)一頭が犠牲になった。

 1943年8月には計5回の空襲があり、11月22日から23日にかけての夜間空襲では、園の約30%が被害を受ける。園舎が破壊され、ゾウ7頭、ライオン3頭、トラ2頭、サイ、チンパンジーなどが死亡、翌年7月まで閉園を余儀なくされる。また、隣接の水族館にも爆弾が落ちてワニ4匹が死んだ。

 空襲を避けるため動物園ではこのころすでに、南部のミュンヘンや、ウィーン、プラハへの動物の疎開を始めていた。翌年までに750頭の動物を移動させた、と記されている。

 1944年末の時点で、動物園には計約900頭の動物がいた。1945年4月22日から5月3日にかけてのドイツ軍とソ連軍によるベルリン攻防戦で、動物園も火の海に。地下壕に隠れていた職員が動物にえさをやりに行って、死亡することもあった。

 それでもライオンやハイエナなど91頭が生き延びた。人気者だったゾウの「シャム君」も助かり、日本から贈られたコウノトリ一羽も生き残った、という。


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