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九三式魚雷。正式名称を「六十一センチ九三式無気泡酸素魚雷」という。軍事規模のうえでは英米のそれに格段に劣る帝国海軍が、なぜ3年9ヵ月の長い月日を闘い抜くことができたのか。また時として敵を絶望の淵に追い込むほど圧倒的な力を発揮しえたのか。それはこの九三式酸素魚雷という究極の最新兵器が貢献した部分が非常に大きい。それは“蒼き殺人者”として英米の海兵に恐れられ、終戦までその正体が明かされることはなかった。
そもそも魚雷という兵器の発祥は1866年にイギリスで考案された。鉄球の飛ばし合いや船体のぶつけあいに始まった艦船同士の戦闘は徐々に近代化し、ついに水中を自走して敵船に突撃する魚雷が登場するに至る。魚雷の推進機関は初期のころから圧搾空気式が用いられていた。そしてこの圧搾空気式はその後魚雷推進の定石として定着する。
我が国が初めて手にした魚雷は、1884年(明治17年)にイギリスより輸入されたシュワルツコッフ魚雷であった。緒元は●圧搾空気冷走魚雷●炸薬(火薬)21kg●射程400m。その後1905年にはさらに進化した乾式過熱装置搭載の魚雷が輸入され、それをベースに呉工廠で初の国産魚雷の試作を行った。その研究開発の結果誕生したのが国産第一号魚雷の“三八式二号B魚雷”である。射程は1000m、炸薬95kgであった。その後休むことなく開発はつづけられ、1911年の四四式魚雷(雷速36ノット、射程7000m、炸薬160kg)、1914年の六年式魚雷(射程15000m、炸薬200kg)、そして1932年には九三式酸素魚雷の基礎となる、九〇式魚雷(雷速46ノット、射程7000m、炸薬400kg)が誕生する。だがこの九〇式魚雷の開発は多くの困難との闘いでもあった。気室の破損事故で人命が失われたこともあった。また技術的にも爆発尖(信管)の過敏・不感の設定にてこずり、自走中に水圧で爆発する事態が相次いだ。魚雷の技術は発明国でありイギリスに一日の長があり、日本でもたびたび最新の魚雷を輸入してその分析を進めていた。もちろん技術的にはすでに特許がおりており、そのまままねをするわけにはいかない。よって応用と改良が重ねられ、独自の技術を確立していったのだ。イギリスやアメリカという世界的海軍国でも着々と魚雷の開発は進められていた。しかし射程・炸薬の性能を向上させることは魚雷自体の大型化が絶対条件であった。だが大型の魚雷は駆逐艦への搭載が極めて難しく、最も魚雷を活用するべき駆逐艦での運用に支障をきたしてしまっては本末転倒である。したがってこの時期、魚雷の性能はもはや頭打ちとされていた。だが必要は発明の母である。魚雷を大型化せずに航続距離を伸ばすためには、より効率のよい推進機関を使えばいい。そう考えるのが当然の流れであろう。前述のようにこれまでの推進機関は圧搾空気式が主流であった。御存じのように“空気”とは酸素・窒素・二酸化炭素などの複数の気体が混合されて構成されている。だが実際に魚雷の燃料を燃焼させるために使うのは酸素だけである。残りの気体は燃焼に使われず、また海水に溶けることもなく気泡となって海面に達する。これがいわゆる“雷跡”である。魚雷を放たれた側は、自艦に忍び寄るこの気泡の痕跡である“雷跡”をいち早く発見し、素早く船体と魚雷の進行線を平行にすることで回避行動をとる。つまり雷跡が見えなければ、魚雷回避は極めて困難ということになる。そこで燃料の燃焼に“空気”ではなく“酸素”を使えばよいという発想が生まれた。しかし実は酸素の使用の一番の理由は雷跡を消すためではなく、決められた燃料で燃焼効率を良くし、同時に雷速も維持するために発想されたものであった。その発想はフランス海軍が最初であったが、その他イギリス、アメリカ、ドイツでも研究が進められていた。そして当然日本でもその流れにのって“酸素魚雷”に着目していた。しかし、酸素魚雷の研究開発には大きな壁が存在した。“純酸素”はそれ自体が爆発物なのである。よって研究段階から爆発事故が続発し多くの優秀な技術者が次々と失われる事態に立ち至ったのだ。それは日本だけでなく、他の海軍でも同様の事故が発生していた。そしてついにイギリスをはじめ酸素魚雷に光明を見い出していた各国は“殺人的危険物”として酸素魚雷の開発を放棄してしまった。日本でもその危険性から開発は頓挫、酸素魚雷実現は露と消えたかと思われた。だが世界的に不可能のレッテルが張られた“酸素魚雷”の実用化を、日本だけは密かに狙い続けていた。海軍規模が英米に劣る帝国海軍が、実際の戦闘に於いて勝利をおさめるためには、数に頼らない優秀な兵器と優秀な人材が不可欠であった。そのため新兵器の開発と海兵の精鋭化にはまさに全力がそそがれていた。
昭和4年、日本海軍は艦政本部の通牒により呉海軍工廠魚雷実験部において、一時中断していた酸素魚雷の開発を再開した。指揮をとったのは大八木静雄技術大尉。技術者達は大八木大尉の指揮のもとすでに実用化の段階にあった九〇式魚雷を使い、試行錯誤をくりかえした。酸素魚雷の最も危険な瞬間は着火時にあった。燃料に点火する瞬間に酸素に引火して大爆発を起こすのである。大八木大尉はこの着火時の引火を防ぐために一つのアイディアをしぼり出した。着火時の原動力素を従来と同じ空気とし、その後徐々に酸素の割合を高くしてゆき、最終的に純酸素までもってゆく方法である。この方法はずばり適中、道が無いと思われていた酸素魚雷の開発はついに新たな一歩を踏み出したのである。着実にそして密かに進められた研究と開発の結果、昭和7年、はじめての初歩的実験が行われ見事に成功した。大八木大尉のアイディアが実証された瞬間であった。戦後大八木大尉は当時のことをこう述懐している。「そのころ関係部員は誰一人宿舎へ帰る者はなく、全員泊まり込みで、それこそ寝食を忘れた日々だった」。そして翌昭和8年、皇紀2593年、待望の酸素魚雷第一号試作が完成した。呉工廠での魚雷の実走実験を見守るのは、長年開発に携わってきた日本の至宝の技術者達であった。万が一実験が失敗し、着火と同時に爆発すれば、全員木っ端微塵である。だが参加した全員が自信を持って見つめていた。“必ず走る”と。魚雷は放たれた。そして見事に疾走した。それは想像以上の高速であった。見守る全員はもはや万歳を叫ぶ声も出ないほどの歓びの深さであったという。
その後も開発は着々と進み、昭和11年、ついに世界初の酸素魚雷がこの世に生まれ出た。雷速50ノットで射程20,000m、炸薬500kgの怪物魚雷は我が日本国が生み出した空前絶後の兵器であった。正式採用は昭和11年であったが、その研究開始の紀元号をとって“九三式魚雷”と呼ばれることになった。ちなみに、当然この酸素魚雷は最高軍機に属するもので、当時関係者内では“酸素”という言葉は禁句であった。そのために酸素を“第二空気”または“特用空気”と呼び、機密保持の徹底をはかったという。
九三式魚雷は誇張でなく当時の世界の魚雷レベルを20年以上先んじた性能を保持していた。具体的に言えば射程で3倍から4倍、炸薬で1.5倍から2倍の量である。(別表)この魚雷が海軍の、主に水雷戦隊に与えた自信は大きい。当時の艦隊決戦構想は、あくまでも戦艦の主砲同士の撃ち合いにあった。水雷戦隊は対潜行動や対小型艦艇、または撹乱が主任務の言わば補助艦艇的な存在だった。しかし、圧倒的な性能を誇る九三式魚雷の登場により、その構想が徐々に変容してきたのである。艦隊決戦の切り札として充分通用するこの魚雷に、水雷屋達は絶対の自信をもっていた。雷速36ノットで射程40,000mといえば、敵の魚雷はおろか戦艦の主砲も届かない距離である。その遠距離から炸薬500kgの無航跡魚雷を撃ち放てば、こちらは無傷で敵を殲滅できる。そう考えても不自然はない。実際に水雷戦隊の戦闘様式は大きく変化した。自らが最も誇る物を最大限に利用するのが闘いを有利にする方法でもある。日本海軍が世界に誇った物、優秀な光学レンズ、黒い眼による驚異的視力、徹底的に洗練された艦艇、そして酸素魚雷。これらの物から導き出される答えは一つ、“夜間雷撃戦”である。日本海軍の夜戦能力は連合軍にとって大きな衝撃を与えた。欧米人の青い眼は夜間の視力に劣り、夜戦での大きなアドバンテージでる敵早期発見が困難であった。そのため幾度となく日本海軍により苦汁を舐めさせられることとなった。だが、皮肉にも欧米人の視力の劣勢は、“レーダー”という電子兵器を生み出すきっかけとなり、徐々に日本海軍を圧倒してゆくのである。戦後英米をして「これだけは日本に遠く及ばなかった」と感嘆せしめた“九三式酸素魚雷”であったが、時代は艦隊決戦から航空決戦へと移り変わりつつあった。対戦中期まで大暴れをしてきた酸素魚雷も、末期になると各鎮守府の兵器庫に高々と積み上げられられるばかりの状態であった。 |
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