日本国を恐怖した共産主義大国ソ連

昭和7年(1932年)4月に、国際共産党組織(コミンテルン)から日本共産党へ宛て一通の“運動方針書”が届けられた。これは後に「32年テーゼ」と呼ばれる、約1万字程度の日共に対する“扇動文書”的ものである。コミンテルンは世界各国の共産党組織の頂点に君臨する組織であり、スターリンの(ソ連の)意思(利益)を色濃く反映したものである。日共に届けられた「32年テーゼ」には反共産主義を貫く日本国を徹底的に罵倒する言葉が並べ立てられていた。主なところでは・・・

(1)日本は強盗的帝国主義であり、現に帝国主義的強盗戦争を行っている。
(2)日本独占資本主義は絶対主義的な軍事的・封建的帝国主義であり、軍事的冒険主義である。
(3)日本国内には封建制の強大な遺物、農民に対する半封建的搾取方法が認められる。
(4)日本は仏国とともにソビエトに対する出征の発頭人としての役割を引き受け、反ソ計画を持っている。

などの一見難解な社会科学用語が並べられているが、実は大した意味を含むものではなく「封建的」や「軍事的」という言葉を連呼して日本糾弾色を出しているに過ぎない。そしてその目的は極左勢力による日本国内の政治的、治安的混乱を扇動し、日本国の国力低下を招き、国民の国家に対する絶望感と不信感を煽り、最終的には共産主義革命を引き起こすことだった。多くの正常な国民はこんな荒唐無稽な「出鱈目話し」など気にも掛けてはいなかった。しかし熱心な共産党員や一部の文化人がこれを「神のお告げ」のごとく信仰し、一字一句残さず暗記していたと言います。コミンテルンからの「激励文」は彼等にとってまさに「お守り」であり「教典」であり「免罪符」だったのである。

では何故コミンテルンはそうまでして日本国の弱体化に躍起になったのか?そこには様々は要素があるが、比較的大きな要因と思われるのは「日本国への恐怖心と復讐心」である。ロシアは有史以来無敵を誇る常勝国家であった。ナポレオンを初めて撃退したのもロシア。かのビスマルクでさえロシアとだけは戦わない、と固く誓っていた。ロシア帝国は常に敵を撃破し、また敵を恐怖におとしめるに足る国力と勢力を保持してきた。そう、日本国と戦うまでは。栄光に満ちたロシアの歴史に初めて黒星を付けた日本国。この敗戦はロシアにとって衝撃的なものだった。以来ロシア人の中には日本国に対する敵愾心と復讐心と恐怖心が根強く刷り込まれるに至った。日本国を日本人を苦しめ滅ぼし溜飲を下げんと虎視眈々と狙っていた者もあったことでしょう。そして昭和20年8月にそのことが証明される。「日本降伏」が確定的になったのを見極めたソ連は日ソ中立条約を無視して宣戦布告を発する。そして日本国がポツダム宣言を受諾した8月15日以後も戦闘行為を停止せず、怨念にとり憑かれた様に日本軍を追い詰めてゆく。さらにはポツダム宣言をまったく無視した北方領土への侵攻。挙げ句には「戦争終結」の事実を無視し、日本兵を“捕虜”として極寒のシベリアへ抑留。長きに渡り述べ57万数千人を強制労働に従事させ、結果として推定で5万数千人が生きて祖国の地を踏むこと叶わなかった。栄光のロシアの歴史を汚した日本人に復讐するのは今ぞ、相手が日本人であれば条約も終戦も関係ない。そんな思い無くして果たしてこれほど狡猾で残虐で傍若無人な国家的行為を行えるであろうか?答えは否である。
そのような事実を見れば、「32年テーゼ」がもたらされた昭和7年当時ソ連(ロシア)がいかに、隆盛を極める日本国に対して敵愾心と恐怖心を持っていたか理解できる。
さらにコミンテルンが「日本弱体化・共産化」に異常な感心を寄せていた証拠がもう一つある。それはコミンテルンが各国の共産党に対して発した各種文書の数である。コミンテルンは当然世界中の共産党に向けて多くの“文書”を送っているが、その多くはごく短い“檄文”やセレモニーなどでの“挨拶文”であった。いかにコミンテルンといえども、世界のどの先進国共産党に対してもその国の社会を論議の対象としたり具体的運動方針を指示することはなかった。

しかし日本に向けられた「32年テーゼ」ただ一つは異様な内容である。前述の通り「32年テーゼ」は徹頭徹尾「日本下卑」であり「下等悪辣国家日本」を連呼するものである。さらにその数が問題となる。「コミンテルン資料集」におさめられている過去コミンテルンが発した“テーゼ”と思しき物(日本宛以外)を数えてみると以下のようになる。
●イタリア宛/1924.7.8/7ページ●ドイツ宛/(日付なし)/3ページ●ペルー宛/1930.3/11ページ●中国宛/1930.6/9ページ●中国宛/1931.7/17ページ●ラテン・アメリカ宛/1929.3/17ページ
以上である。コミンテルンが存続した間に各国共産党あるいは共産勢力に対して送られたテーゼと“思われる”ものはたったこれだけなのである。しかもその内容もほとんどが檄文であった。イタリア、ドイツへはファシズムとの闘争を促し、ペルーへは党結成を希望する書簡です。混迷深まる中国へは現段階での助言に止めている。それに対して日本へはどうだったか。初めて日共へ向けてテーゼが発っせられた大正11年1月30日から「32年テーゼ」が出される昭和7年4月までの間に、実に15通に渡り内容の濃い文書が発せられている。このことはコミンテルンの当時最大の目的がまだまだ弱小組織であった日本共産党へ対する徹底的なテコ入れにあり、さらに言えば“日本弱体化”こそが共産主義ソ連の国是であったということである。そして皮肉なことに、「32年テーゼ」の効果はまるで「ソ連の怨念」のごとく現代日本にも暗澹と広がっている。戦後の共産主義勢力の台頭と無秩序にくり返された極左過激派によるテロ事件や騒擾事件は、現代日本の左傾思想蔓延の確かな土壌となっている。

ロシア、そしてソ連は誰疑うことのない大国であろう。しかし、その大国を震撼せしめ「日本恐怖症」に陥れた我が国もまた彼の国を凌ぐ大国であったのです。過去に於いては軍事力、現代に於いては経済力で世界を凌駕する我が国は、真の意味での「戦勝国」への長い道のりの途上であると感じています。

                               参考文献:反日的日本人の思想/谷沢永一 著/PHP文庫

日本国の潜在力