航空母艦

生き残った“最初の空母”と“最後の空母”
世界に先んじて日本海軍が開発に成功した“航空母艦”は、その後の海戦の姿を大きく変えた。戦艦に変わって海軍の中核をなし、幾多の戦いを繰り広げた空母の多くは終戦を待たずに大平洋に没した。終戦時に姿を留めていたのは【鳳翔】【隼鷹】【海鷹】【竜鳳】【天城】【葛城】の6隻。しかしそのいずれも改造艦や急造艦であり、正規空母は1隻も残ることはなかった。しかし、日本海軍最初の空母【鳳翔】と最後に竣工した【葛城】が生き残ったことは、感慨深いものを感じずにはいられない。

航空機を海上に運び出し、甲板上から離発着させるという奇抜な発想の船を実際に建造し、実用の域までこぎつけたのは日本海軍が世界初であった。その艦名は【鳳翔】、天かける鳳である。大正11年12月27日に竣工した【鳳翔】はその後何度かの改装、修理を経ながら徐々に近代化したが、大東亜戦争開戦の時にはすでにその役目を後続の新鋭大形空母に譲っていた。航空艦隊の支援艦として索敵や連絡任務を帯びミッドウェーなどに出撃し無事帰還。以後は呉にあって練習艦として新たな人生を得た。世界初の空母は若き空母乗員を送り出す仕事を続けながら終戦を迎え、その後は南方への特別輸送艦として再び外洋へと出航。空母ならではの収容力を活かして、多くの同胞を祖国へと運んだ。
復員輸送という戦争の後始末を終えた【鳳翔】は、米軍の命令により昭和21年8月から解体作業が開始され、翌年5月には全てが鉄屑へと帰した。
輝くような戦績を残した艦ではなかったが、日本海軍の栄枯盛衰を静かに見つめ続けた【鳳翔】は日本初、世界初の空母として最後まで生き抜き、歴史に深くその名を刻んだのである。

大手の民間海運会社であった日本郵船は、24000t、24ノットという世界トップレベルの旅客船を建造し、大平洋航路へ就役させる計画を立てていた。【橿原丸】と【出雲丸】である。時は昭和12年、軍備増強を続けていた日本海軍は、この2隻の建造費用のうち6割を負担するかわりとして、万が一の時には徴用するという条件を付けた。あくまでも有事に備えた事前措置ではあったが、時局が風雲急を告げる昭和15年10月には旅客船としての建造が中止され、一転して空母への建艦行程にスイッチされた。
【隼鷹】として竣工した【橿原丸】と、【飛鷹】として竣工した【出雲丸】は即刻前線に投入。旅客船からの改造艦としては、一級の性能を備えていた両艦は第二機動部隊の主力として南大平洋方面で馬車馬の働きをする。しかし19年6月のマリアナ沖海戦で僚艦【飛鷹】が沈没。【隼鷹】も大きな損害を受けて、満身創痍で修理のために内地へ帰還した。修理の後は燃料の不足から輸送任務に従事するが長崎半島沖で米潜の雷撃を受け再び損傷。修理が完了するまえに佐世保で終戦を迎えた。
平時であれば豪華な高速旅客船として多くの乗客をアメリカに運んだであろう【橿原丸】だが、時の運命か多くの将兵を乗せそのアメリカと戦い、アメリカの手によって解体されたのである。

戦前、大阪商船が保有していた世界的豪華客船【あるぜんちな丸】。昭和14年5月31日に竣工した【あるぜんちな丸】は13000トン、22ノット、3ヶ月かけて世界を一周する旅客航路に就航していた。しかし、そんな豪華客船も押し寄せる戦火の波には逆らえず、昭和17年5月1日に海軍に徴用、昭和18年の11月23日に約1年間の改装工事を終えて、空母【海鷹】として生まれ変った。だが、他の徴用船同様に民間船の改造空母は絶対的な速力が不足しており、効果的な作戦行動は望むべくもなく、船団護衛や航空機輸送などの任務に翻弄されることになる。【海鷹】もまた作戦らしい作戦には参加せず、南方からの物資輸送に専念。昭和20年1月に敵潜水艦が待ち受けるバシー海峡を突破してシンガポールからの重油輸送に奇蹟的に成功した後は、呉で次期作戦に備えていたが3月の呉空襲で被弾。聯合艦隊籍を外れ付属となり、標的艦・練習艦として内地にあった。さらに7月の空襲の際には別府沖でこれを回避、室津へ向けて航行途中に触雷し遂に日出海岸で座礁した。その後は米艦載機の格好の標的となり連日空襲を受けて大破し、そのまま終戦の日を迎えたのである。
解体作業完了は昭和23年1月31日であった。世界旅行という華々しい舞台から一転航空母艦となり戦場に踊出た【海鷹】は輸送・護衛という目立たぬが重要な任務を良くこなし、海軍の根底を支え続けた船である。歴史の影に隠れたこうした艦艇達にあらためて感謝の念を捧げたい。

次々と失われる空母を何とか補充し、機動部隊・航空艦隊の壊滅を防がんと、戦時急造の準正規空母が量産された。【葛城】もまたそんな時局に鑑みて生まれた空母であった。【雲龍】【天城】に続き、雲龍級の3番艦として昭和19年10月15日に呉で竣工。そして結果としてこの【葛城】の竣工をもって帝国海軍の空母建造の歴史に幕が降りた。
昭和19年10月15日は、聯合艦隊最後の大海戦“レイテ沖海戦”の10日前である。つまり【葛城】がいざ戦場へ赴かんとした時、すでに聯合艦隊は主力艦、航空機のほとんどを失っており、【葛城】が積むべき戦闘機も、所属すべき航空艦隊も存在していなかった。完成はしたものの出撃の機会がなかった【葛城】は、寮艦【天城】とともに呉港外に係留されたまま、三次に渡る呉大空襲を迎える。この空襲により【葛城】は4発の直撃弾を浴び甲板などの一部を損傷したが、そのまま終戦を迎えた。昭和20年10月に特別輸送艦としての任務が決まり海軍籍を除籍され、損傷修理のあと【KATSURAGI】として南太平洋・オーストラリア方面を往復。復員船の中では最大級の収容能力を有していた【葛城】は、外地で迎えを待つ日本兵の眼にどれほど頼もしく映ったことか想像に難くない。また、一度も戦場へ向かうことのなかった【葛城】が初めて外洋へ出た時、その背中には“敗戦国艦艇”という重い事実が課せられていた。乗員の心境を想えばもはや言葉はない。
そして輸送任務をやり遂げた【葛城】を待っていたのは、やはり“解体”の二文字であった。昭和21年12月22日から大阪日立造船桜島で解体が始まり、一年後の22年11月30日、帝国海軍最後の空母はその姿を永久に消したのである。

【天城】もまた寮艦【葛城】と同じく戦場へ赴くことはなかった空母である。竣工後は呉港外の三ツ子島に停泊していたが、呉大空襲で大破転覆。左舷を海中に没し無残に艦底をさらした姿で終戦を迎えた。戦後一大作業によって昭和22年7月に浮揚作業が完了、そのまま解体作業が行なわれた。しかし【天城】の艦底部分だけは浮桟橋としてそのまま残され、青函連絡船用として函館に回航されたという。平成12年現在それがどうなっているのか定かではないが、残された艦艇がこういった形で戦後の日本復興にも関わっていた事は、感慨深いものがあろう。

空母【竜鳳】も上記5空母と同じく“改造空母”である。しかし、【竜鳳】他の空母と違い前身も軍艦であった。【竜鳳】の前身は潜水母艦【大鯨】であり、同艦は着工当時から空母への転用を考慮して設計されていた。時局の変化を鑑みて開戦直前の昭和16年9月から【大鯨】の改装工事が始まり、翌年11月に完了、ここに空母【竜鳳】が誕生した。完成後すぐに聯合艦隊主力があったトラックへ向けて出航したが、不運にも八丈島近海で米潜の雷撃を受けて損傷。そのまま横須賀へ引きかえした。その後マリアナ沖海戦に出撃し、多少の損害を受けながらも帰還したが、レイテ沖海戦時はもはや搭載する航空機が底をついており内地待機となってしまう。以後は出撃の機会もなく練習艦として呉にあったが、20年3月の空襲で大破炎上し、艦艇としての機能を喪失した。振り返れば新技術の導入失敗などにより【大鯨】時代から様々な問題点を抱える船であったが、総じてあまり幸運な艦ではなかったようにも思える。
船の生涯とはまさに人の生涯と同じで、幸、不幸も浮き沈みもあるものなのかもしれない。【竜鳳】の解体は昭和21年9月に完了している。

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