日大会頭・古田研究  
                                       
2004−1月21日(水)より掲載開始

会頭古田重二良(ふるたじゅうじろう)
明治34年(1901)秋田県に生まれる。
大正13年本学専門部法律科卒。
同15年本学高等専攻科法律科卒。
同4月本学に勤務、昭和20年工学部事務長となり、事務監、参与理事に挙げられ、戦後の工学部再建に力を尽くした。
同24年理事長、理事会長に就任、呉文柄総長とともに学園の運営に当たった。
31年文部省私大審議会委員、33年会頭、34年私大審議会会長に就任、本学の財政基盤の確立を図るとともに全国有数の規模の大学に育て上げた。
また、私学振興にも功労があった。
45年10月死去。69歳。
        「日本大学の90年」より転載

 

古田とは・・・・ 高木正幸
             この文章は,1970年10月の朝日ジャーナル掲載の,高木正幸氏の著作の転載です.

大衆団交で辞任を約束してから2年以上、「裏切り」「欺瞞」の非難さげすみに耳をふさぎ、あるいは居直りながら、古田氏は会頭から会長と、ついにその死まで、「日大帝王の座を守り続けた。
8月18日の入院から、68日、東京神田の日大駿河台病院6階の特別室で、古田会長は「余生」を、「古田二郎」の偽名で送った。「佐藤首相の秘書の名前だ」「いや古田重二良の名をもじったものだ」と、憶測の渦巻く病室の中で、入院の後半、特に大学のことをつぶやくが、ほとんどを昏睡状態で過ごした。偽名で身を潜め、ガンに蝕まれながら、それが日大の腐敗をもたらした「自分の大学」へのやみくもの執着を、全うしたのだった。」


階段を駆け上がった男

「わたしゃぁ、百姓の子だからね.晩年は百姓をして横芝(別荘のある千葉県の土地)へ隠居して、余生を送りたいと、墓場まで、あんた、用意してるんですよ.夫婦二人暮らしして、余生を送りたい.」
古田会長は、最初人と会うとき、どことなくキッと身構えた感じになった.
 これには、長い間やってきた柔道の試合前の構えが身についてしまったのだという弁護と、傲慢で、冷たい性格の現れだとするそしりの両者がある.
だが、柔道7段、23貫という巨躯が、朴訥な秋田なまりでしみじみと語るのを聞くとき、そこに『日大帝王』と『百姓』への2つの志向が、微妙にかもし出す雰囲気が感ぜられた.
古田会長は秋田市の農家に生まれた.
秋田師範に入ったが、気に食わぬ校長の排斥運動をやったために、中退になったと伝えられている.
「古田は秋田犬、かみついたら離れないよ」と、日大時代の同窓、池田正之輔代議士が言ったというが、人並みはずれて執念深い性格の持ち主であった。


秋田師範中退後、日大で柔道の主将をしていた先輩を頼って、日大高等師範部から、高等専攻部の法科に入った。
学業よりも柔道にふけり、柔道部キャプテンとして都下学生界にまでその名を広めた.

令名で鎮圧

大正14年3月、法科を卒業と同時に柔道師範として、高等工学校(現工学部)に就職、後に事務職員となった.
日大の経営に結びついた第一歩だが、その後昭和20年には、工学部事務長、23年参与、24年理事、理事長と、とんとん拍子で経営マンとしての道を駆け上った。
「日本大学70年略史」などを編纂した箭内真次郎氏らの語るところによると、工学部の事務職員だった昭和のはじめ、芸術学部で校舎設備に対する不満から学生の騒ぎが起こったことがあったが、そのとき古田氏は柔道部キャプテンだったという令名と、巨躯からくる威力で学生を『鎮圧』したと言う。



山岡氏にならって古田会長が大学経営の基本とした最大の人物は、その学生時代に日大理事、のちに総長となった山岡万之助氏であったといわれる。」
 古田会長が学生であった大正21年9月、日大はその3年前に新築したばかりの神田三崎町の校舎を関東大震災によって全焼した。
 当時日大には、法律はじめ政治、商、宗教、美学、歯、工などの各科に、計1万1,500人の学生がいたが、他の大掌関係者が移転などを考えていたときに、山岡理事は強引に「1ヶ月後に授業をはじめる」とバラック校舎を立て、10月から授業を再開した。
 この結果、他に転校する掌生も出ず、大学の経営を維持することが出来たといわれる。
 学生として山岡氏のこのやり方をみて来た古田会長は、自分が経営者となってから、その手口を集大成した。


その後、日大皇道学院に籍を置いた右翼の児玉誉士夫氏とも知合い、'学内治安組織。としであった"統制部]に協力したとも伝えられるが、日大闘争の中で学生が糾彌した、体育・右翼系学生の院外団」"親衛隊的性格は、古田会頭自身にもその萌芽があったといえようo
古田会長が理事長に就任した二四年当時、日大は戦災でいためつけられた校舎をかかえ、財政も危機状態で、教職員の総料の支払いさえ危ぶまれていたという。
大学本部のある神田三崎町の商店街が「日大様、かけ売りおことわり」のはり紙を出したというエピソードが伝えられるのは、そのころのことだ。
金を集め、校舎を復輿し、学生をふやし、古田会長の学校経営者としてのらつ腕がその後発揮される。そして、理薯長就任後わずか四年目の二八年に「大学の自治の名にかくれて大学を私物化し、公金数千万円を乱費した」として、古田理事長、呉文納会頭・総長が学校関係者一七人に告発される騒ぎが起った。
この事件は、古田会長をめぐっての派閥争いの芽ばえとその手腕にまかせて腐敗を生むまで大学を紳張させたことを物語るエピソードとして語りつがれている。


そしてその経営者としての名声をとどろかせたのが、理事長になって以後、次々とうった大幅の授業料値上げであった。
 教授会など学内では「学生が来なくなるのでは」という反対が強かったが、それを押しのけて強行した。 神武景気と技術革新時代の人づくりの要講によって、学生は滅るどころではなかったのである。
 他の私大は、授業料値上げのチャンスを失い、あるいはその後やろうとして失敗したときに、古田理事長が打った値上げのバクチの成功は、まさに彼が私学経営者であることを世に印象づけた。
 昇る勢いの古田会長は13年、私立大学審議会の委員に選ぱれ、理事長から会頭に就任した33年には、同審議会の会長に選出された。

会頭に就任以来、この10年間の日大の成長率は、さらに驚異的であった。
知識人、技術者のマスプロを目ざす政府の文教政策、産業協同路線にのっかり、むしろそれを先取りして、拡大に拡大をつづけた。
かくて生れた学部11、付属高校26、系列下の大学7という「日大コンツェェルン」の約10万人という学生数は10年前の2万数千人にくらぺ約四倍である。
早稲田、慶応、立教、中央など、他の私大のふえ方は一、二割程度であった。そして、他の私大の一倍半から二倍というとぴぬけて高い授業料で、33年当時32臆円といわれた日大の牢間収入は、10年後の43年度、約300億円と、約10倍にはね上がった。
紛争前、そこから出る黒字は、年間約100億とも伝えられていた。

カネグラにウジムシ


「われわれはまあ、急進期における社会の要請こたえて、たくさん学生をとったんですよ。理工なんか、平均三分ぐらいしか、多く学生をとっていないというから、何やってんだおまえは、二倍、三倍と、もっとよけいとれといったんですよ。

しかし、経営主義者だ、金もうけ亡者だといわれるが“大学においては教育と研究をず立派にするということでなけれぼ、経営はうまゆかんですよ。
学校が立派だと社会から認知される。
志願者がどんどんふえるでしょう。
志願者がふえるとすればだ、月謝の値上げもむつかくない。
寄付金もまたもらえる。
そういう風に、立派になることが経営の骨子なんですよ」

古田会長は日大を、立派にする、大きくする方策として、理事長だった27年、日本大学合理化企画委員会を発足させ、33年、総長・会頭の呉文柄氏にかわって会頭.理事長となったとき「日本大学改善方策案改正案」をつくり、経営第一主義の学内支配体制を制度的に確立した。
その特徴的なものが学部の独立採算制であったが、それは名前通りの経営の自主性を学部仁与えるものではなく、学部の財政力に応じて負担する上納金などを通じて、古田会頭-本部への"水揚げ競争"をあおり、学部間、教職員同士の競争意識を薄め、反目を醸成したものであったことは、幾度も指摘されてきた。

                                         続く

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