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過去レスを読みましたが。。。。 投稿者:元文理(^。^)学科  投稿日: 5月30日(日)00時21分46秒

催涙太郎様。面白く過去レスを読みましたが、以下の記述には誤りがあります。

>後の成田闘争では救急班の女性の顔面を撃ち、殺してしまう事件があった。あな恐ろしや恐ろしや。

これは東山薫君(男性。タクシーのアルバイトをしながら野戦病院活動をしていた)虐殺のことと思われる。また顔面ではなく頭部に打撃される。無論○機の催涙弾水平撃ちによる虐殺である。

しかし最近のイラク反戦デモ(パレードともいう)で久しぶりに○機を見たのですが、まるで”子供子供”と言う感じでした。こちらが相対的に老けたということでしょう。


天木直人さんの講演会 追記 投稿者:21才学生  投稿日: 5月 1日(土)22時52分37秒

ここまで、私の書き込みを読んで下さった皆さん、ありがとうございました。
天木直人さんの講演会も興味深いものでしたが、それと同じくらい、自分と同年代の大学生と話をしてきたことは、私にとって貴重な経験であり、思わず書き続けてしまいました。

追記

天木さんが最後に、反戦運動をする学生に向けられた言葉です。
「反戦団体だからといって、反戦運動だけの目的で人が集まる必要はないのです。政治家は、ばかなんですよ。粛々と議論したら彼らは勝てない。それはおかしいでしょう、と彼らに言えば、彼らは反抗できません。訴えることが重要なのです。反戦運動には、いろんな形の参加があっていいのです。」
また、反戦運動において、お金を払うより、一時間でも、デモに参加するほうが、はるかに大切であるとおっしゃいました。そして、燃焼しきれない人間は、偉くなっても意味がない、とのことでした。天木さんは、何も好戦的なデモをするのが良いとお考えなのではありません。
反戦の意思がある人は、きちんと意思表示をする必要があるとお考えなのでしょう。あくまで、意思表示の手段の一つとしてデモをして、「燃焼する=意思表示」という意味で言われたのだと思います。
そして、学生時代に、天木さんは意図的に友人を作らなかったと言われました。自分を犠牲にして付き合いたくなかったそうです。自分の時間をとられることが嫌だったようです。
しかし、今ではいろんなところから、講演会や取材の依頼などが来るようで、断ろうとしたら怒られる、とおっしゃっていました。
編集済


ノンセクトの学生 投稿者:21才学生  投稿日: 4月30日(金)23時41分37秒

9時半ごろ、天木さんはお帰りになった。
その後、講演会に参加した学生たちが今までどのような反戦運動をしてきたのかを話したり、小泉政権が倒れた後には政治はどうあるべきかなどについて話をした。

反戦団体のメンバーの中に、昨年の暮れに、北海道に署名活動をしに行った学生がいた。
彼は、「自分ができることをしたいと思った。自衛隊のイラク派遣はおかしいのではないかと思って北海道に行った。最初は、講演会に行ったりしていたが、やがて、デモに行くようになって、結局は最後の最後まで行ってしまった(北海道行きのこと)。」と発言した。
「北海道の現地の人(北海道の基地から自衛隊は派遣された)の緊張感が伝わった。京都で署名活動をしていても誰も集まらなかったけど、北海道では、向こうから人が集まってきて、署名をしてくれた。特に、旭川は陸自が派遣されるということで緊迫していた。」

この学生は、ノンセクトである。私が以前、話をした時に、本心かどうかは不明だが、政治活動を始めたきっかけは「何となく」と答えていた。
大学に合格した時に虚しさを覚えたという。このまま(役に立つか分からない)勉強をして就職をして、ということに虚しさを感じた時に、偶然、政治活動をしている学生から話を聞いたという。独学で法律を学び、社会問題を解決しようとしていることや、その人のいきいきとした姿に共感をして、自分も少し勉強してみようと感じたという。新入生だった頃、自分の居場所を求めて、サークルのようなスタイルの勉強会に行って、徐々に実質的な政治活動を始めていったらしい。その流れで今はイラク反戦をしているという。
サークルのようだった勉強会のメンバーは、今はすっかり一般学生の生活をしているようだ。彼はなぜ今でも活動をしているのだろうか。先日、彼は「信念を持って活動していることを見てもらえば(一般学生にもイラク反戦の趣旨を)分かってもらえるのではないか。」と言っていた。彼は、何となく成り行きで始めた政治活動を「信念」を持ってやっているようだ。近頃は、イラク反戦は自分にとって「義務」とも言っていた。一度、始めたことは貫徹するというのだろうか。
今年の初め、私は、彼に「イラク反戦は生きがいですか」そう問いかけたことがある。彼は、「今更何を聞いているんですか、しらじらしい」と笑って答えてくれなかった。
すると、隣にいた一般の方が「イラク反戦なんかやって、お前は人生を無駄にする気か」と言いたいんでしょう?と私におっしゃった。
政治活動をしたために、就職できなかったり、活動家として生きていかざるを得ない人もいる。私は、彼の政治活動の全てを批判的に見ているわけではない。しかし、のめり込むのではないかと心配になることもある。
ノンセクトの学生に少なからず感情移入するのは、やはり同年代だからだろうか。
同じ時代を、同じ目線で生きるとは一体どういうことなのだろうか。

この続きはまた次回にします。


天木直人さんの講演で 投稿者:21才学生  投稿日: 4月30日(金)23時40分34秒

講演会後の交流会の続編です。
参加者が天木直人さんに質問をしました。

参加者が「(イラク戦争反対を唱えた時)天木さんに誰も同調しなかったのはがっかりしましたか。」と尋ねる。
天木さんは応えた。「実際、志高く公務員をしていた人はいません。親も公務員だったり、天下りやお金のためのようでした。トップになることが目的なんです。何千人もの警察官を指揮するとか、部下を持つとか。」
どうやら、がっかりするというよりも、天木さん自身、自分に続く人がいないのは必然的だと考えた側面があったようである。

天木さんは言った。「こっちがアメリカを嫌いになるとアメリカもこちらを嫌いになる。
アメリカに行った日本人が、喫茶店でコーヒーを注文したらコカコーラが出てきて、結局、それをのむ羽目になる日本人もいる。そして、アメリカにいながらにして部屋で万葉集と枕草子を読んで「やっぱり日本はいい」となってしまう日本人がいる。」
日本人がアメリカ生活をするにはある意味において、ドライになる必要があるらしい。
天木さんは続ける。「アメリカ人同士は仲が良さそうであっても絶えざる緊張の中で生きています。日本人もアメリカ人のようにドライになれば、と思う。」

今度は、別の参加者が質問する。この方は死刑反対の運動をしていらっしゃる年配の方である。やや今回のイラク戦争とは関係してこない質問ではありますが掲載します。
「死刑を肯定する人は意識の真相で、ナチスやオウム真理教でサリン事件を起こした人たちと共通の意識を持っていると私は考えています。彼らは、殺すことは場合によっては許され、正義であるという認識を持っているのです。天木さんは、どうお考えでしょうか。」
天木さんは応える。
「私は、死刑を肯定する人が、ナチスやサリン事件を起こしたオウムの信者と根底において同じとは考えていません。死刑を肯定する人は何でも死刑にしようと考えているのではありません。残虐に複数の人を殺して、死でもって罪にあがなうべき人に限定して死刑を肯定していると思います。」
編集済


天木直人さんの講演で 投稿者:21才学生  投稿日: 4月28日(水)03時40分45秒

天木さんは「若い学生(主催団体のセクト学生)の発言に勇気づけられました」とおっしゃった。天木さんは学生時代を思い出されたのか、(当時と)変わった校舎もあるが、入試の合格発表に使われていた壁が残っているなどと語られた。そして当時の学生運動の空気の中で自分がどう過ごしてきたのかを話された。
「私は極めて打算的、現実的な学生でした。心の中では明らかにベトナム戦争はおかしいと思っていましたが、親に迷惑がかかるとか、自分のイメージに傷がつくとか考えて一度もデモに参加したことはありませんでした。周りがデモに参加していた中で、一人で図書館で勉強していました。おなかがすいたのですが、図書館が封鎖されて出られなくなりました。デモの中で、カンパとしてパンが配られていて、自分もデモの仲間だと勘違いされて、パンをもらってそのまま図書館で勉強を続けたのです。そして、社会に出てから反権力になった。大学の友人から電話があって、その人は学生運動の先頭に立っていた人でしたが、今のお前はあのときの俺よりも凄いと言われました。」
「何も積極的に政治や反戦に関われといは言わない。何かがおかしいと思いつつ、何もしないのではなく、何かやったほうがいい。好戦的なデモをしなくても正しいことを言えば必ず分かってもらえます。先日、私は、初めてデモをしました。国会をとりまきました。国家権力は敵だと言って喧嘩するのは違和感があります。後輩が働いている総理府に詰め寄るのは嫌だが、粛々と自分の思う正しいことを訴える。デモをやっても小泉氏は応えませんが違憲訴訟は法的な力がある。アルジャジーラに電話をして違憲訴訟をイラクに伝えたいと思ったら、取材をしてくれました。(講演会主催の反戦団体)に少しながら、いずれ京都に落ち着いたらサポートします(天木さんの家は京都にあるそうです)。」

その後、京大法学部地下で天木さんと残った参加者で交流会が行われた。
「自分が一番偉いという気持ちで行動していいが、独善的ではだめ。勉強をして謙虚になって行動することが自信になる―。」
天木さんは続けられた。
「最初は(大学の)授業に出ていたのですが面白くなくてやめました。(学生時代が)昨日のことのように思い出されます。(外務省に勤めた)35年間は短いようで長かった。どんな局面でもやりたいことをやる。」
「対等にアメリカ人と日本の国民が議論をする形になっていない。アメリカに行きたくて22才でアメリカに行きました。どうやったらアメリカ人とコンプレックスなく対等に話ができるのか、と考えていました。息子も外国に行ったのですが帰ってきました。どうも日本がカンファタブル(心地よい)らしい。反戦活動だけじゃなく、インターネットで国際的な連中とコミュニケーションしたり、アメリカ人と共に政治活動するなどしてはどうかと思います。立派な志で反戦する日本人がたくさんいます。今は、「自己責任」の時代だから行けないけど中東に行ったほうがいいと思いますよ。」さすがにこの発言には天木さんご本人も参加者も笑った。
「中東には、パルテノン神殿よりも大きい建造物があります。私は、デトロイト領事館の後、レバノンに2年半いました。私は、現実的、利己的な人間(天木さんはアメリカに行きたくて外務省に入省されたという。2年半、アメリカに行ったら外務省をおやめになるというお考えだった)でした。しかし、私が入省する年から制度が変わり、1年間東京で働かなくてはならなくなりました。霞ヶ関の、国の官僚の世界が体質的に合いませんでした。そこでは良い生活はできないとオハイオに留学しました。ミシガン、オハイオの管轄でした。私はロマンチストですから(天木さんはなぜかアメリカでマイクと呼ばれていた)京大の(?)大学食堂のドアを開けると皆が昔の学生に見えました。自分が話しかけられるように感じました。オハイオの大学で何とかガールフレンドを作ろうと思いましたが仲の良い人はいたのですが、できませんでした。そして、エール大学で聴講生をしました。昔のガールフレンドのことが思い出されました。東京から帰った後、アフリカのナイジェリアへと渡り、日本に帰ったときには嬉しかったですね。しかし、外務省の体質にはなじめませんでした。課長まではやりました。外(外国?)に行くことが多かったですね。」
大変長文ですので、一旦、切ります。連日、書き込みまして申し訳ありません。流れを止めるなどとお考えにならず、他の方も書き込んで下さい。私が勧めるのも恐縮ですが。もちろん、質問などおありでしたら初めて掲示板に来られた方でもお気軽になさって下さい。
編集済


天木直人さんの講演で 投稿者:21才学生  投稿日: 4月26日(月)23時09分18秒

質疑応答です。
Q「日本はイラクを積極的に植民地化しようとしているように見えるのですが」

A「それは違うと思います。日本政府にはそれほどのガッツはない。アメリカについていくだけ、加担しています。アメリカは世界中どこでも戦争できるシステムにしています。コンピュータシステムでつながっていますから、日本のイージス艦とアメリカの軍もつながっている。日本は、アメリカが戦争する国全てと戦争することになります。改憲でそれが現実のこととなるのではと思います。日本は戦後60年しか平和がなかったのです。」

Q「大統領がブッシュから別の人に代わっても小泉はすぐまた対応をその人に合わせて変えるのでしょうか。それから、日本国民は政府にマインドコントロールされていると思うのですがどうお考えですか」

A「小泉は大統領が代われば何の問題もなく自分も変わる人です。国連の助けが欲しければ国連、と騒ぐ。アメリカ、フランス、ドイツが安保理決議でもめたとき、小泉は日本の力を過信していないと言いつつ、日本主導にしようとしている。あの人は中味がない人。日本国民がマインドコントロールされているということについては、マインドコントロールというより―、マスコミを通じて情報は入ってくるので事実として(必然的に)、国民の受け取る情報は偏ります。自分は役人でしたから国のイカサマが分かります。政府は次元が低い。戦争を体験するしか戦争を止めることはできない。拒否できない日本人、日本の国益だけで動く日本。3人の人質救済は、間違いなく市民外交が国の外交を上回った結果です。」
質疑応答終了。
ここで講演会主催のセクト学生が団体の宣伝をする。その学生は天木さんと同じ京大法学部の学生であった。「戦争は一部の資本家が利益のために起こしたのであり、一握りの人に利益が流れるのを認めるお人よしの自衛官や国民はいないはず」という主張から、彼は一体なぜ反戦運動をしているのか、もはや私には分からなかった。
この後、再び天木さんのコメントがあります。人質事件で、初めてデモをして総理府に詰め寄ったこと、そしていかにして国に訴えればよいのかについても話がありました。講演会終了後に、京大法学部の地下室にて交流会がありましたのでその様子についても順次書きたいと思います。


天木直人さんの講演で 投稿者:21才学生  投稿日: 4月26日(月)23時08分50秒

天木直人さんの講演内容の続編です。
「軍人(アメリカ)がやっていることはイラクの安定のためではなく、よその国の占領です。いま、深刻なのはパレスチナ問題です。イスラエルがパレスチナにやっていることと同じことをアメリカはイラクにやろうとしています。抵抗する人を徹底的につぶすことです。民家を誤射したりします。「テロに屈しない」と小泉氏は言います。民衆の蜂起はテロとは違います。アメリカは国家テロです。暴力としては、はるかに大きいのです。小泉氏はアラブなんてどうでもいい人です。ブッシュが正しいと思っている人。パレスチナは復讐したくてもリーダーは殺され、お金もありません。屈服してしまいます。しかし、レバノンの人たちはそれはありえないと言っています。ここまで彼らは犠牲を払ったのです。最後の一人まで闘うでしょう。必ず流れは変わります。しかし、これ以上深刻になってやっと世界が動くのかもしれません。それは悲しいことです。プロレタリアートが革命を起こすと言いつつ、共産主義化ではなく米国一国主義になっています。成功した人が独り占め。勝ち組、負け組(の違いがはっきりしてきました)。しかし、いずれ新しいイデオロギーが出ます。私がマルクスほど天才なら新しい理論でも書きますが、誰かがアメリカにかわるやり方を提唱することを期待します。国民が自らの手で国を動かす日が来ることを期待したい。」大使の仕事は国と日本の関係を深めることだと天木さんは言う。レバノンの人を知るということに力を注ぎ、民間人、ジャーナリストなど人と会って話を聞き、情報を聞かれていたそうです。イラクをどう助けるべきかということについては「イラクの治安の改善です。復興支援は後のこと。国際社会がアメリカの占領をやめさせることが一番です。それなくして国際貢献としてサマワで自衛隊が局所的に助けるべきではない。小泉氏のモチベーションは根拠のために嘘をつくことです。小泉を打倒していくべき。」と述べられた。

私は正直、驚いた。「小泉を打倒」とは反戦団体も3月ごろから使用していた言葉なのだが、それをこの前まで外務省にいた方がはっきり口にしたのである。そして「アメリカは凄い力を持つ国ですから意見を言うことはできませんが、アメリカは行き詰っている今、本当の意味で国際社会に助けを求めていくべきなのです。兵隊が要らなくなったら復興をするのです。」とおっしゃった。
「いやいやアメリカを支持するのはブッシュは好まない。少しでも事実を把握すれば(私たちはこの戦争が)アメリカのエゴによる戦争であると分かります。」
そして質疑応答に入った。
編集済


はじめまして 投稿者:21才学生  投稿日: 4月26日(月)04時25分24秒

掲示板の皆さん、こんにちは。私は、学生運動に関心を持ち、大学のゼミでも多少それについて触れ、偶然サイトで見つけた反戦団体の学生から話を聞く機会も得ました。
日大全共闘(共通)掲示板を見られた方は私をご存知かもしれませんね。
4月23日に、京都大学で行われた反戦団体主催の天木直人さんの講演会についてこちらにも書き込ませていただきます。興味がおありでしたらお読みになって下さい。全てを記録したわけではありませんので意味が通らないところもあり、申し訳ありません。
天木さんは「中東はパレスチナ、イスラエルの問題があります。私は、9・11(イラク戦争?)の1年前まで中東をフォローしていました。」と切り出した。「平和がいかに簡単に破壊されるのか、国際政治の無力さを感じました。9・11の時、パレスチナの人々は歓喜していました。日本は、アジアには間違ったことをしました。しかし、少なくとも中東には迷惑をかけずに、と思っていましたが日本はアメリカとの関係を重視しました。確かに、大量破壊兵器の国連査察をフセインは拒否していました。しかし、レバノンの人はアメリカの狙いがイラクを親米政権にしようとしていたことに既に気がついていたのです。反対意見を持っていたのです。私は、日本の中東政策を追究すべきと考えていましたが日本政府や外務省は中東について、もともと知らないし、知ろうとしないでアメリカを支持するより仕方なかったのです。アラビアの同僚(天木さんの同僚)とは年1回、建前の会議はしますが中東を支配するのはアメリカで、理想を追うのは意味がないし(という雰囲気があり)パレスチナ政策についても日本の外交について語ることはありませんでした。かっこいい言い方をすれば、私は(イラク戦争について)反対意見を唱える者がいたことを残したいと思いました。誰かが口火を切ればそれに続く者が、と期待していました。しかし、誰一人としていませんでした。今回(イラク戦争)は最後のきっかけだと思いました。何年も外務省で残念な場面を見てきました。いい加減な外交(基本的な情報収集をしない)をしていることを伝え、国民のための外交をしていないことを、日米同盟の元に外交の枠が決められ、あまり外交の必要がなく議論もなされない、国民には情報は関係ないという実態を世の中に明らかにし、自らの手で外交を実現すべきだと思って本を書きました。頭にきて外務省を辞めろといわれてから1カ月半くらいで書いた本(『さらば外務省』)です。」天木さんは本を出すことの予想しうる反響をも覚悟していたそうだ。そして続けられた。「イラク戦争で最後は地上戦でアメリカはてこずると思っていたが不思議な形でフセインは消えた。アメリカはイラクを支配できるのでは?という意見もあると考えました。また、周辺諸国が立ち上がって中東の混乱が起こるのでは、とも思いました。しかし、これらは外れました。ただ、確かにイラクは混乱しました。」そして話は3人の人質に及びました。「自分は、まがりなりにも35年、官僚でしたから国に抵抗する術を知っています。それでも国家権力に1人で反抗することのばかばかしさを感じましたから、その術を知らない3人は「自己責任」と言っている政府に抵抗することの難しさ、プレッシャーは相当だと思います。箕輪登氏(自民党タカ派議員として有名だった人物)が小泉首相の決めた自衛隊イラク派遣を憲法違反だと言ったことに私は賛同しました。警察も何もかもが国と結びついているからこれまでの裁判、砂川裁判も駄目でした。(自衛隊派遣の裁判に関わっている)弁護士は「天木さんは本が売れたからばっかり、つまり、国民に支持されているからいいけど、もし売れなかったら今頃、牢屋行きでしたよ」と言いました。小泉氏を私は、とんでもない人間だと思ってきました。弱い国民を非難する人で、だんだん国の力が大きくなっています。深刻なのは、小泉氏を非難しないことです。大手のマスコミもそう(小泉氏を非難しない)です。マスコミも一企業なんです。権力の行き過ぎをチェックする基盤を失いつつあります。小泉氏は今でもあれ(自衛隊イラク派遣)は正しかったと言っています。小泉氏は正直なことを言いません。本心は「ブッシュ支持」だけだと思うのですが、イラク人が「自衛隊はいらない」と言っているのに人道援助と言っているのは国民の注意をそらすためなのではないかと思います。そして、(人質事件については)ひたすら自己責任論。国民の権利を国が抑圧しています。」その後、天木さんのお話は、イラク戦争の本質、そしてイラクをどう助けるべきかということに及びます。
大変長文ですので、一旦、切らせていただきます。
編集済


三里塚野戦病院日記 郡山吉江著 1979.12.31発行 投稿者:  投稿日: 4月22日(木)21時15分54秒

野戦病院でともに闘った東山君の死−1977年5月十日−


 今ここで戦闘があったという。機動隊が駆け足で後方に去ってゆく。すぐマスクをかけたが、目にしみるガスで私のめがねはくもってしまう。1969年当時のガスをしらない青年たちに「目をこすってはだめ」と声をかけながら、私は臨時野戦病院で仕事にかかった。

 応急手当したけが人を次々と車に乗せ野戦本部に運ぶ。私はけが人と一緒に車で本部に帰ると「東山君、あと一時間しかもたぬ」と聞き、私はハッと胸をつかれた。

 すでに報道されているように東山君は臨時で借りた野戦でけが人の手当てをしていた。血迷った機動隊が農家に押し入ろうとしたので仲間とスクラムを組んで止めた。その時、近距離で対峙した機動隊が、ガス弾をスクラムに打ち込んだ。ガス弾はちょっと横をむいた東山君の左耳を直撃し倒れた。(日赤の)医師は「手術不能」「脳死」といった。

 デモや集会は老人も子供も参加する。そこへガスを打ち込む事は集会に参加させぬ為の権力の常套手段である。これを書いている今、東山君の死を知らせる電話が入った。死亡時刻は十日午後十畤三十分である。

(『婦人民主新聞』77.5.20号)
 
編集済


(無題) 投稿者:天野屋 りへい  投稿日: 4月10日(土)02時43分53秒

桜の散るころ 投稿者:天野屋 りへい  投稿日: 4月 8日(木)05時58分20秒

今年も桜が咲き、散り始めた。35年前もそうだった。三軒茶屋から、多摩電、京王線を乗り継いで、桜上水へ。1969年4月、文理学部奪還闘争である。学部前で、機動隊の挟み撃ちを食らった(たぶんそうだったと記憶している。)。学生は、丸腰。なすすべなく、そのほとんどは、グランドに退避したと思う。逃げ遅れた一部が、側溝を背に取り囲まれ、袋叩きにあう。落ちたのか落とされたのか、はたまた逃げようとして飛び込んだのか?記憶に無い。殴られ蹴られ、その痛さに体が動かない。どぶ泥の中であえぐ我々に、催涙弾の追加。どぶ泥とクロロアセトフェノン(催涙弾の有効成分)の強烈なにおいの中、非常にも桜吹雪が舞い降りた。以来、桜の花を見ると、あの強烈な臭いがよみがえる。50半ばに来た現在も、そうである。


以上は、新着順1番目から10番目までの記事です。


愛知さん 投稿者:経済OB  投稿日: 4月 5日(月)01時13分18秒

回答はBBS参照
見てください

http://8013.teacup.com/keitoy2002/bbs


(無題) 投稿者:愛知  投稿日: 4月 4日(日)17時15分42秒

日大闘争の背景には
大学の権力闘争があったと聴いたことがありますが本当っすか??


自国領土防衛より、イラクが大事か? 投稿者:帰ってきた酔っ払い全共斗  投稿日: 3月27日(土)02時03分15秒

対米追従、売国奴小泉純一郎殿
貴君は、我が日本国の固有の領土防衛/奪還より、対米帝国主義追従の道を選ぶのか?
三笠海上自衛官殺人事件を、闇に葬ろうとしている裏には何があるのか?
北方領土しかり、今回の魚釣島しかり、軟弱外交極まりない。
なぜ、イラクと言う外国に自衛隊がいて、魚釣島には警察すら駐在しないのか?
不審船に領海侵犯された時点で、なぜ阻止できなかったのか?
海上保安庁は、よくやっていると考える。
魚釣島侵略者は、警察が捕まえた。
北朝鮮の工作船に、海上保安庁の巡視船がロケット砲で攻撃された時、海上自衛隊はいなかった。
しかし、イラクには、自衛隊が派遣されている。なぜ日本が侵略されている時、自衛隊がイラクにいるのか?
どうせ何時かは、体制翼賛会。全学連も、日大全共斗も見分けが付かない『あほ』な,田原そういちろう氏。インチキ全共闘○○○氏のインタビュー。チャンチャラおかしいよ。小泉ともども、売国奴のばい菌。鶏インフルエンザより、もっと性質が悪い。おかげでコチトラ、毎日10時過ぎまで残業だ。馬鹿野郎!
酔っ払いより。


反田原総一郎(5)総括 投稿者:催涙 三郎  投稿日: 2月15日(日)02時50分27秒

あえて、ここで、田原総一郎氏を問題にするは、
氏は、故田村君のよきパートナーであったし、
彼の追悼集会に参加してくれて、感謝する気持ちである一方、
氏が、情報不足からか、
もしくは、全共闘を語るには早すぎたのかは別として、
氏が全共闘運動を評論するには、ふさわしくないと考えた。
できれば、ああした、論調のものは回避して欲しい。
現在、日大闘争史を作っているので、その後でも、
論評して欲しいと思うからです。
もちろん、日大全共闘を戦った多くの諸君が、
出版している書物も多いので、それを見て欲しい。
そうすれば、それほどには、酷い論評にはならないのでは
と考える次第である。
編集済


反田原総一郎(4) 投稿者:催涙 三郎  投稿日: 2月15日(日)02時40分11秒

こうしたいい加減な評論の最後に東大闘争、日大闘争の話が始まる。
相変わらず、論調は三派全学連が主題である。すなわち、「68年
1月、佐世保に寄稿しようとした原子力空母エンタープライズを阻
止するために、三派全学連約800人が米軍基地への突込みを敢行
した。」、「二月には、新空港が決った三里塚の農民たちと三派全
学連の学生たちが三里塚空港実力阻止決起集会を開き、2000人
以上が参加した。こうして権力によって、全共闘の「戦場」が次々に
提供された。」というのであるが、まったく全共闘とは関係のない
話で、全共闘を語る口癖は直らない。三派全学連が全共闘で、何故、
全学連運動は止揚されるのか。この矛盾を疑うことすらしない彼が、
マスメディアに君臨する事態は、マスメディアの本質そのものだ。
こうした論調で日大闘争、東大闘争を語られても、読む方が疲れる。
秋田の写真を飾って、日大全共闘を語らず、日大全共闘が、死闘を
経て、その組織化を行い、大衆団交を勝ち取ったことを語らず、日
大全共闘が、直接民主主義を経て党派を寄せ付けず、警官隊や大学
当局との戦いに挑んだことを語らず、日大闘争が、東大闘争の支援
において、苦闘の末に支援決定を決めるも、あらゆる妨害にあって、
十分な支援ができなかったことを語らず、そして、日大闘争が、
大学の理想像に近づけば近づくほど、現在の大学の存在に疑問を
持った、大学解体の結論を得たことも語らず、全共闘世代と称して、
全共闘運動を語らずのすべてであった。
あえて、論評すべきことではなかったと反省するが、ここまでき
たので、全部を記載する。


反田原総一郎(3) 投稿者:催涙 三郎  投稿日: 2月15日(日)02時39分12秒

次の取材は元中核派細江俊三である。彼が説明したいのは、
全共闘世代が「細江は淡々と語った。マルクスにもレーニンにも、
もちろん毛沢東にもまったく関心がなく、理解していなかったと
あっけらかんと言い切るのはまさに60年安保世代と全共闘世
代の根本的違いである。」ということらしいが、党派の人間に
これを語らせる破廉恥さも去りながら、全共闘が、
不勉強なやからのレッテルとするのも不謹慎である。
もちろん、全共闘学生が当時の左翼運動に無関係なものも多くはいたが、
それが、全共闘運動を語るわけではない。
全共闘運動と全学連運動の現象的な違いは、後者が大学を政治街頭闘争
の草刈葉と考えたのに対して、後者はそれに
反対し、大学での戦いに固執したことにある。
ましてや、共産主義運動などは、1つのジャンルであり、
60年安保闘争ですら、党派の指導によっているが、参加する多くの大衆は、
左翼ではなかった。
1960年6.15国会突入をめぐって、保守党政権下、
大学生のほぼ10割近くが参加したとすれば、その内容が左翼に偏っていた
としても、ほとんどの大衆は、全共闘運動で言う無党派であったことがいえる。
次の取材はブントシンパである高橋龍太郎である。「高橋は擬制の終焉
を読んで、医学部の学生である私自身が差別する側にいて、ヒエラルキ
ーの一員、つまり、擬制を構成している存在だと語り、後ろめたさを
感じた。そして自己変革、自己否定という意識が生じたとも語った。」
と、田原が高橋に言わせたかったのは、吉本隆明の著作「擬制の終焉」
が全共闘運動への影響をあたえたと言うことらしい。確かに、全共闘
運動は、最後に自己変革、自己否定をキーワードと得たが、それは戦
いの地平で確保した言葉の1つであって、その言葉が最初にあった
のではない。ましてや、後ろめたさから、闘争をやったのでもない。
東大闘争には、医学部闘争には、この種の影響がなかったといえば、
うそになる。しかし、それが党派的イデオロギーの注入と同じに、
全共闘闘争の大きな阻害要因であったことも明らかである。
次の取材は早稲田のカリスマ的存在であった中核派戦闘隊長彦由
常広の影響を受け、吉本隆明の影響も受け、全共闘白書を刊行
した高橋公への取材である。「私に語ってくれた元全共闘活動家
たちの説明はきわめてわかりやすかった。一つにはマルクス主義
の訓話学の呪縛から解き放たれていたこと、そして彼等の行動自
体が、マルクスの呪文に縛られた擬制を突き破ることにあったた
めだろう。」というように、彼には、取材者の選択もそうだが、
全共闘運動は上の空、どうでもよい存在になる。彦由に語らせた
言葉でも分かる。「全共闘世代にとっては、平和も民主主義も
あたり前で、むしろ、あきあきしている。こんな状況を変えた
い。」と。全共闘世代が、この種の言葉で動いたとすれば、
それ以降も見かけ上、平和と民主主義の継続の中で、全共闘運動を、
田原自身が麻疹と思っている何よりの証明である。このホームペー
ジがそうでないと明らかに死の努力をしている矢先の田原の発言は
許されるものではない。
田原は、全共闘白書に依拠した発言が多い。たとえば、三井一征が
語った「乱暴にいうと、ぼくたちはの世代はぶっ壊す楽しさを知っ
てしまった。」と引用し、「マスプロ教育に退屈し、不満をたぎらせ
ていた大学生たちは、早大闘争の情報に飛びつき、同じパターンの
闘争が中央大学、明治大学、法政大学、立正大学、そして全国の大
学にまたたくまに広がった。」というのである。本当にそうだろう
か。少なくとも、日大闘争はそうではなかった。もし、全共闘運動
がそうであるならば、田原は違った全共闘運動を見ているのであっ
て、私としては、彼の全共闘運動理解が、全学連運動との見分けが
つかないかところにあるというよりは、かれら、この種のデマゴギー
をマスメヂアを通じて流す限り、日本の夜明けはさらに遠くなると
言わざるを得ない。
編集済


反田原総一郎(2) 投稿者:催涙 三郎  投稿日: 2月15日(日)02時35分36秒

「1967年10月8日佐藤栄作首相の南ベトナム訪問を実力阻止する
ために、反日共系全学連2500が角材や投石で約2000人の警官隊
の壁を突破しようとした。」「この後、11月12日に、佐藤首相の訪
米を阻止するために、反日共系全学連約5800人が警官隊約5000
人と、前回を上まわる激しい流血をくり返した。」「この二度の取材が、
私といわゆる全共闘運動の出会いであった。」という、
冒頭に書かれたこの3つのフレーズで分かるように、
彼は、全学連闘争の延長線上に全共闘運動を見ているのであって、
全学連運動を遮断した全共闘運動を見ていない。この生き様は、
彼等ならば、経験しているであろう、1960年の6.15国会突入、
ハガチー訪日阻止、岸訪米阻止の展開で証明済みであり、何ら、
運動の新しさ、世代の新しさもないのである。
「その後、73年の夏まで、私はドキュメンタリー番組でほとんど
が全共闘がらみの若者ばかりを取材しつづけてきた」とする、
この能天気な評論家を、育てつづけるマスメディアこそ、まさに、
歴史の偽証で訴えてもよいのではあるまいか。
確かに、このホームページで明らかにされるように、1967年代から、
学園の戦いは始まっていた。しかし、それぞれは水面下であり、
その運動が、彼がいうような「1968年当時、全国の大学の約8割に
あたる165校が大学闘争中で、その約半数がバリケード封鎖されていた。」
という歴史的展開を得るには、すなわち、全共闘運動が育つには、
まだ、歴史には明らかにされない、多くの学生たちの育ちがある。
それは彼が取材した全学連運動を延長戦とした
学生たちとは違うのである。
まず、彼は盾の会メンバー森田必勝を取材したという。
彼は左から右への転向者である。浅沼稲次郎に暗殺に反対し、
早稲田で左翼に加わり、後に党派の振り回しにあって、
反党派となったいきさつからみても、彼は全共闘運動とは
無関係な存在である。
ただ、反党派といえば、全共闘運動にもその傾向はあったが、
それは党派闘争を繰り返す彼らを批判していたのであって、どちらか
というと共闘である。
ただし、党派の手法(街頭政治闘争)に、賛同することはな
かった。すなわち、全学連羽田闘争も、盾の会反自衛隊闘争も、全共闘運動
とは、違う次元の運動である。
編集済


反田原総一郎(1) 投稿者:催涙 三郎  投稿日: 2月15日(日)02時33分19秒

周囲で田原総一郎を崇める人々は多い。
日大全共闘のメンバーの中でも、この恩恵にあやかりたいと思う人もいる。
私は、田原総一郎もマスメディアの一員であり、やがては、大政翼賛会の
メンバーに成り下がると確信している。
もちろん、現在、その兆候が既にある。
ただ、彼の言論の1つ1つを取り上げて批判するほど、時間的余裕はないが、
雑誌現代で、巨弾連載戦後(私たちは間違っていたか)の連載物
「21全共闘世代に横たわる二つの世代」については、
本ホームページに関係者もおり、また、その内容の不確かさもあり、
当然、反論しておかないと後世のためならずと考える。
まず、二つの世代とは、戦後戦前というフレーズでなく、
1950年代後半からの全学連と1960年代後半の全共闘という
意味合いであると理解する。
とすれば、歴史性からすれば、全共闘運動は、それまでの全学連運動を
切り捨てた運動であり、かって、全学連運動が、
それまでの共産主義運動を切り捨てたように、
全共闘運動もそれまでの当は闘争を切り捨てたのである。
田原総一郎は、この観点についての説明をしない。
なぜならば、彼は、本格的な日大闘争を取材していないのであり、
その上で、全共闘運動を語ろうとすれば、党派の闘争としてしか
語れないのであり、その全体論調を全共闘とは無関係なものとせ
ざるを得ず、無関係な事件、関係者を持って全共闘を語ろうとする。
この観点で、彼の論調を克明に追ってみよう。
編集済


古田研究 NO.5 投稿者:古田研究no.6  投稿日: 1月28日(水)01時38分16秒

古田研究 NO.6
 そしてその経営者としての名声をとどろかせたのが、理事長になって以後、次々とうった大幅の授業料値上げであった。
 教授会など学内では「学生が来なくなるのでは」という反対が強かったが、それを押しのけて強行した。 神武景気と技術革新時代の人づくりの要講によって、学生は滅るどころではなかったのである。
 他の私大は、授業料値上げのチャンスを失い、あるいはその後やろうとして失敗したときに、古田理事長が打った値上げのバクチの成功は、まさに彼が私学経営者であることを世に印象づけた。
 昇る勢いの古田会長は13年、私立大学審議会の委員に選ぱれ、理事長から会頭に就任した33年には、同審議会の会長に選出された。

会頭に就任以来、この10年間の日大の成長率は、さらに驚異的であった。
知識人、技術者のマスプロを目ざす政府の文教政策、産業協同路線にのっかり、むしろそれを先取りして、拡大に拡大をつづけた。
かくて生れた学部11、付属高校26、系列下の大学7という「日大コンツェェルン」の約10万人という学生数は10年前の2万数千人にくらぺ約四倍である。
早稲田、慶応、立教、中央など、他の私大のふえ方は一、二割程度であった。そして、他の私大の一倍半から二倍というとぴぬけて高い授業料で、33年当時32臆円といわれた日大の牢間収入は、10年後の43年度、約300億円と、約10倍にはね上がった。
紛争前、そこから出る黒字は、年間約100億とも伝えられていた。

カネグラにウジムシ

「われわれはまあ、急進期における社会の要請こたえて、たくさん学生をとったんですよ。理工なんか、平均三分ぐらいしか、多く学生をとっていないというから、何やってんだおまえは、二倍、三倍と、もっとよけいとれといったんですよ。

しかし、経営主義者だ、金もうけ亡者だといわれるが“大学においては教育と研究をず立派にするということでなけれぼ、経営はうまゆかんですよ。
学校が立派だと社会から認知される。
志願者がどんどんふえるでしょう。
志願者がふえるとすればだ、月謝の値上げもむつかくない。
寄付金もまたもらえる。
そういう風に、立派になることが経営の骨子なんですよ」

古田会長は日大を、立派にする、大きくする方策として、理事長だった27年、日本大学合理化企画委員会を発足させ、33年、総長・会頭の呉文柄氏にかわって会頭.理事長となったとき「日本大学改善方策案改正案」をつくり、経営第一主義の学内支配体制を制度的に確立した。
その特徴的なものが学部の独立採算制であったが、それは名前通りの経営の自主性を学部仁与えるものではなく、学部の財政力に応じて負担する上納金などを通じて、古田会頭-本部への"水揚げ競争"をあおり、学部間、教職員同士の競争意識を薄め、反目を醸成したものであったことは、幾度も指摘されてきた。


みなさまへお知らせ 投稿者:古田研究  投稿日: 1月21日(水)15時13分57秒

冒頭にも書きましたが,
この文章は,1970年10月の朝日ジャーナル掲載の,高木正幸氏の著作の転載です.
編集済


以上は、新着順11番目から20番目までの記事です。


階段を駆け上がった男4 投稿者:古田研究 NO.5  投稿日: 1月21日(水)14時54分46秒

山岡氏にならって古田会長が大学経営の基本とした最大の人物は、その学生時代に日大理事、のちに総長となった山岡万之助氏であったといわれる。」
 古田会長が学生であった大正21年9月、日大はその3年前に新築したばかりの神田三崎町の校舎を関東大震災によって全焼した。
 当時日大には、法律はじめ政治、商、宗教、美学、歯、工などの各科に、計1万1,500人の学生がいたが、他の大掌関係者が移転などを考えていたときに、山岡理事は強引に「1ヶ月後に授業をはじめる」とバラック校舎を立て、10月から授業を再開した。
 この結果果、他に転校する掌生も出ず、大学の経営を維持することが出来たといわれる。
 学生として山岡氏のこのやり方をみて来た古田会長は、自分が経営者となってから、その手口を集大成した。


階段を駆け上がった男3 投稿者:古田研究 NO.4  投稿日: 1月20日(火)19時56分33秒

その後、日大皇道学院に籍を置いた右翼の児玉誉士夫氏とも知合い、'学内治安組織。としであった"統制部]に協力したとも伝えられるが、日大闘争の中で学生が糾彌した、体育・右翼系学生の
'院外団」"親衛隊的性格は、古田会頭自身にもその萌芽があったといえようo
古田会長が理事長に就任した二四年当時、日大は戦災でいためつけられた校舎をかかえ、財政も危機状態で、教職員の総料の支払いさえ危ぶまれていたという。
大学本部のある神田三崎町の商店街が「日大様、かけ売りおことわり」のはり紙を出したというエピソードが伝えられるのは、そのころのことだ。
金を集め、校舎を復輿し、学生をふやし、古田会長の学校経営者としてのらつ腕がその後発揮される。そして、理薯長就任後わずか四年目の二八年に「大学の自治の名にかくれて大学を私物化し、公金数千万円を乱費した」として、古田理事長、呉文納会頭・総長が学校関係者一七人に告発される騒ぎが起った。
この事件は、古田会長をめぐっての派閥争いの芽ばえとその手腕にまかせて腐敗を生むまで大学を紳張させたことを物語るエピソードとして語りつがれている。


階段を駆け上がった男2 投稿者:古田研究 NO.4  投稿日: 1月20日(火)02時07分53秒

秋田師範中退後、日大で柔道の主将をしていた先輩を頼って、日大高等師範部から、高等専攻部の法科に入った。
学業よりも柔道にふけり、柔道部キャプテンとして都下学生界にまでその名を広めた.

令名で鎮圧

大正14年3月、法科を卒業と同時に柔道師範として、高等工学校(現工学部)に就職、後に事務職員となった.
日大の経営に結びついた第一歩だが、その後昭和20年には、工学部事務長、23年参与、24年理事、理事長と、とんとん拍子で経営マンとしての道を駆け上った。
「日本大学70年略史」などを編纂した箭内真次郎氏らの語るところによると、工学部の事務職員だった昭和のはじめ、芸術学部で校舎設備に対する不満から学生の騒ぎが起こったことがあったが、そのとき古田氏は柔道部キャプテンだったという令名と、巨躯からくる威力で学生を『鎮圧』したと言う。


階段を駆け上がった男 投稿者:古田研究 NO.3  投稿日: 1月19日(月)04時11分24秒

「わたしゃぁ、百姓の子だからね.晩年は百姓をして横芝(別荘のある千葉県の土地)へ隠居して、余生を送りたいと、墓場まで、あんた、用意してるんですよ.夫婦二人暮らしして、余生を送りたい.」
古田会長は、最初人と会うとき、どことなくキッと身構えた感じになった.
 これには、長い間やってきた柔道の試合前の構えが身についてしまったのだという弁護と、傲慢で、冷たい性格の現れだとするそしりの両者がある.
だが、柔道7段、23貫という巨躯が、朴訥な秋田なまりでしみじみと語るのを聞くとき、そこに『日大帝王』と『百姓』への2つの志向が、微妙にかもし出す雰囲気が感ぜられた.
古田会長は秋田市の農家に生まれた.
秋田師範に入ったが、気に食わぬ校長の排斥運動をやったために、中退になったと伝えられている.
「古田は秋田犬、かみついたら離れないよ」と、日大時代の同窓、池田正之輔代議士が言ったというが、人並みはずれて執念深い性格の持ち主であった。


古田とは・・・・ 投稿者:古田研究 NO.2  投稿日: 1月15日(木)02時21分46秒

大衆団交で辞任を約束してから2年以上、「裏切り」「欺瞞」の非難さげすみに耳をふさぎ、あるいは居直りながら、古田氏は会頭から会長と、ついにその死まで、「日大帝王の座を守り続けた。
8月18日の入院から、68日、東京神田の日大駿河台病院6階の特別室で、古田会長は「余生」を、「古田二郎」の偽名で送った。「佐藤首相の秘書の名前だ」「いや古田重重二良の名をもじったものだ」と、憶測の渦巻く病室の中で、入院の後半、特に大学のことをつぶやくが、ほとんどを昏睡状態で過ごした。偽名で身を潜め、ガンに蝕まれながら、それが日大の腐敗をもたらした「自分の大学」へのやみくもの執着を、全うしたのだった。」


徹底抗戦に向けて-2 投稿者:レジスタンス下馬  投稿日: 1月 3日(土)19時24分8秒

それにしても、三宿の警ら隊は弱すぎた。それとも、われらが強かったのか?拳銃に手を掛けた警官の右手を強打したのは、祖父の形見の木刀。闘う孫に、あの世からのご加護があったのか。私では、考えも及ばない、機敏な行動であった。 、、、、、、、何せ35年前の話。思い出しながら書いてます。今日は、ここまで。


徹底抗戦に向けて-1 投稿者:レジスタンス下馬  投稿日: 1月 3日(土)05時57分18秒

1969年2月9日深夜、国鉄中央線荻窪駅西口に集合、3名。装備(漫画雑誌とガムテープで出来た鎧/ウエットスーツ)確認。武器(火炎瓶の信管)の確認。ゲバ坊の類は目立つのでもちお歩かず。ただ、『これはお守りだよ。』そういって、2番目の姉が渡してくれた一振りの木刀。黒檀製。祖父の形見であった。当時、姉は22歳。若かったものである。我が家の末娘も22歳。これに比べれば、よくあれだけ落ち着いた行動が出来たものである。渋谷駅下車。1名合流。かれの荷物は、握り飯。1食1ヶx3食/日x3日x5人。合計45ヶ。缶ジュース30本。糧食5人x3日分であった。午前1時を回った。1人来ない。誰からも文句は出ない。怖いのは、皆一緒だった。糧食を分配。渋谷駅を後にした。246号線をただひたすら歩く。大橋の第四機動隊駐屯地にさしかかる。様子を伺うが、いたって静か。しかし、車両の配列が違う。普段は見られなかった放水車が2台、先頭位に並んでいた。必ず来る。急がねば。三宿で、警ら中のパトカーと遭遇。交戦。結果は、圧勝。主な武器は、缶ジュース。缶ジュースパンチは強烈であった。パトカーのライト、フロントガラス、無線機を破壊。キーは、どぶにポイ。我らの進軍はつずく。 編集済


全共闘の制服?? 投稿者:理工OB  投稿日:12月22日(月)13時06分24秒

全共闘ホームページの中で、米軍軍服にライトブルーのヘルが全共闘の制服とかとありますが・・・・と「ケロちゃん」はご理解しているようですが、些細な事ですが青ヘルは経闘委のヘルメットで、各学部それぞれ違っていました。
ちなみに我が理闘委は白に赤のモヒカンで結構目立っていましたし、私は個人的には農獣医の赤ヘルや芸闘委のヘルメットが好きでした。
また私の独断と偏見ですが、私から見て過激であった学部も農獣医と芸術学部です。(経闘委の方に怒られそうですが)
余計なことですが参考意見です。


栄光のらいとぶるー  投稿者:へりくつおじさん  投稿日:12月21日(日)21時42分3秒

りょうこチャンの歌が、聞こえてきます。できちゃったの広末ではない。
『もお泣かないで坊やーあなたは強い子でしょー、、、、、、、、、、』
善意に解釈すれば、圧倒的に優位な軍事力の米帝に戦いを挑んだベトコン兵と北ベトナム兵の戦死者、その家族の悲しみを曲にしたものでしょう。我々が、敷石を投げ、ゲバボウを振り回していたとき、ベトナムでは、毎日殺し合いがつずいていました。少年からわれらの年代まで、いや、もっと上の年代まで、民族自決のため闘ったと考えます。
現在イラクにおいて、暴れている人々は、必ずしもフセイン支持者だけではないでしょう。米帝下請け、日本軍のライトブルーは、絶好の標的になるでしょう。
編集済


(無題) 投稿者:ケロちゃん  投稿日:12月20日(土)04時44分58秒

全共闘ホームページの中で、米軍軍服にライトブルーのヘルが全共闘の制服とかとありますが、米軍流用の迷彩服にライトブルーのベレー帽は、イラク派兵の自衛隊(JAP ARMY)の姿そのものではないか?おまけにC−130輸送機はライトブルーに塗り替えられている。あの映像見てこちとら、頭がくらくらした。防衛庁長官は全共闘のOBではあるまいに、何で真似をするか。こうなったら、イラク反戦の象徴として、再度ライトブルーを反戦の象徴として取り戻すほかはあるまい。全共闘の諸君はどう思う?誰か返事くれ。


以上は、新着順21番目から30番目までの記事です。

(無題) 投稿者:水闘委行動隊  投稿日:12月18日(木)21時16分37秒

現*文理哲学科殿 投稿者:水闘委行動隊  投稿日:12月18日(木)04時53分13秒

<「なぜお前たちは今現在この社会に生きていて、学生運動を行なわないのか?」
と言及する教授人が多からずおり、
「この社会の現状を見て日大が運動を行なわないとは、もうこの世も終わりだ」と先日、他大から講師としていらしてる先生も申しておりました。
この先生の発言は、失礼です。なぜ、日大生が運動しなければこの世が終わるのでしょうか? こんなアジに、惑わされることはありません。自ら立ち上がると決めたとき、決起すればよろしいのではないのでしょうか。この先生、35年前の日大全共闘、輝ける時代しか頭にないようです。その前の10数年に及ぶ苦しい戦い、その後のアウシュビッ体制化の泥仕合。この先生は、何も知らない。あの民主化闘争は、先輩達の血の滲む努力に加え、ポン大生が怒り震え、あの巨大闘争に発展しました。もちろん戦いをとうして、ポン大生から


お知らせ 投稿者:管理人s●  投稿日:12月17日(水)02時22分38秒

このページ一番下の「管理者メニュー」をクリックすると,自分で投稿したものについては編集、訂正、削除ができます。
管理者は,基本的に手を入れませんので,皆様よろしくお願いします。
(ただし,エロ関係,誹謗中傷は,直ちに削除します)


初めまして 投稿者:現・文理学部哲学科  投稿日:12月12日(金)03時03分18秒

HPの内容全て拝見させて頂きました。
先輩諸君の軌跡に私自身、大変感銘を受けました。
信じられないかもしれませんが、現在日大では
「なぜお前たちは今現在この社会に生きていて、学生運動を行なわないのか?」
と言及する教授人が多からずおり、
「この社会の現状を見て日大が運動を行なわないとは、もうこの世も終わりだ」と先日、他大から講師としていらしてる先生も申しておりました。
。そこで、私自身この大学に籍を置くものとして
「全共闘とはなんたるか」を知らねばと思い、ここに辿り着きました。
そして、いてもたってもいられずに、ここに書き込みました。


HPよりのお知らせ 投稿者:管理人@ S●  投稿日:12月 5日(金)01時16分45秒

投稿文書中「思い出の催涙弾」「催涙弾物語」の2編は,HP本文に転記しました。
投稿者ご本人の希望によるものです。

http://www.geocities.co.jp/WallStreet/5328/siryoukan.htm


文理。佐々木・レイモンドさんは………………  投稿者:遠州灘の仙人  投稿日:12月 2日(火)13時24分23秒

文理。
佐々木・レイモンドさんは……………、いますか。

(なんだか、尋ね人探しみたいだね(笑))

文闘委のページ、読みました。


懐かしいですね。最近は、無性に懐かしいんだね。

入学して、闘争は終わっていたが、「黒ヘル」のあの先輩、どうしているかな。

今の僕に多大な影響を与えた、偉大な先輩。どうしている。どなたか、知りませんか。

佐々木・レイモンドという母は日本人、父がアメリカ人。日米・ハーフの先輩。

中庭での芸術的なアジ演説。しびれた。田舎の私に、人生そのものを教えてくれた。

あの先輩は、いますか。


三里塚2(催涙弾物語) 投稿者:催涙三郎  投稿日:10月18日(土)12時33分08秒

この雨が戦後初めて使用された催涙液と分かったのは、
次の朝、新聞を見てのことである。
確か、この催涙液はその強さから、2度と使われることはないと記憶している。
また、この液がいかに強力であることが分かったのは、
霧雨のように少し被っただけなのに、
何日経っても、鼻の上にできた爛れた皮膚が直らない事である。
それが解消するには、半年以上を要した。
もちろん、経験上、医者に行ける筈がない。
話を戻すと、霧雨が降ると同時に、隊列が壊れた瞬間、すでに、
機動隊の姿が前に現れた。
すれ違いに、先に紹介されたKが、首を振りながら、下りてきた。
私も危険を感じて、集会場に下りることにした。
今度は、後ろで、催涙ガスの発射音が鳴り出した。
公園の裏には、夕暮れとて、黒々とした木戸の山があった。
咄嗟に、私は待たせた彼女を連れて、集会場の背後の山に逃げた。
安全と見た、山にも機動隊が催涙弾を打ち込みながら近づいた。
すでに、機動隊は勢いずいて、参加者を逮捕し始めた。
山の上で、彼女は震えて、足が止まってしまった。
これは拙いと思って、恋人同士のデートを装う事とした。
機動隊は次々と叫びながら、2人の側を行き過ぎた。
もちろん拘束されて連れて行かれるものも多い。
ようやく落ち着いた時点で、私は集会所に下りて、
成田駅に向かった。
もしかしたら、この経験は、6.15安保闘争国会突入と全く同じものだ。
まだ、ここでも、恋人同士を装った2人を見過ごした市民警察は健在であった。
しかし、60年から、8年以上も立って、
日大闘争が開始される前夜である。
確実に、国家権力はその武装の質を高めていた。
それが、日大闘争での催涙弾の水平打ち、
三里塚での催涙弾水平打ちが1女子学生の死をもたらすという時代の流れが、
確実に変わっていた。
60年から10年近くを経て、
人々の焦りは、赤軍を生み、過激派を生み、党派闘争をエスカレートさせ、
新たな学生運動を作り出していた。
この中で、日大闘争が、赤軍と間違えられたり、
党派に間違えたりしていく背景がある。しかし、日大闘争は、学生運動とは
違った新たな1ページを築くこととなった。
学生運動と、学園闘争とは1線が引かれることになる。
この厳しくも短い68,69日大闘争が始まるのは、この後である。


三里塚1(催涙弾物語) 投稿者:催涙三郎  投稿日:10月18日(土)12時30分25秒

私は、当時三里塚闘争を三里塚に生活する農民達の闘いと思っていたので、
その闘争との係りは、日大闘争ほどではない。
というよりは、成田空港は国家的事業であり、国が威信をかけた事業故に、
その敗北感は先にあった。
結果として、三里塚では今でも闘いが続いているのであり、
その素晴らしさに感激する一方、日大闘争に勝利しなければ、
三里塚での勝利はないと共に語った多くの言葉の空しさを感じざるを得ない。
それでも、日大全共闘の学生達の多くが、参加していった経緯もあり、
この闘いを今無視して、日大闘争を語ることは出来ないと思う。
すでに書いたように、日大全共闘10周年の集会をやると、
その集会がそのまま三里塚闘争勝利となるような具合でもある。
この三里塚は農民の闘いであるとの原則は日大闘争では守られていて、
三里塚同盟の戸村一作委員長には、講演なり、支援なり多くを学んだ学生達は多いが、
日大全共闘の決議で、三里塚闘争を闘ったことはなかったと記憶している。
それ程に他の闘いとの連携の難しいことを日大闘争は自ら示していった。
という前置きはよしとして、これは私の経験としての三里塚闘争であり、
決して、誰も語ってくれない三里塚闘争でもある。
そして、その最大の印象は初めて身体に催涙液を浴びたことである。
催涙ガスの最初の経験は1960年の6.15安保闘争である。
催涙液の最初の経験は1968年の3.10成田闘争である。
ともに、日本発というか、新たな闘争の幕開けに私は参加したことになる。
この記念すべき闘争の表現を第三者の言葉で語ると、
「反対同盟千三百人、全国から一万人の労働者・学生・農民・市民、全学連二千人は
バリケードに突撃、催涙液の放水を浴びながら突入、数台の装甲車と数千の機動隊に
守られた公団に肉迫した。その後方を反対同盟・反戦青年委・市民が支援、逮捕者
百九十八人、負傷者五百人を出した。」
となる。
私は、不謹慎にも、彼女と一緒に空港公団前の三里塚公園に足を運んだ。
思ったよりも、大きな集会であるので、感心を示しながらも、
この集会が、成田空港公団占拠という目的を持った集会とは知らずにいた。
偶然にも、彼女の中学時代の先輩早稲田大学のKに会い、紹介された。
Kも一匹狼で、集会に参加したようだが、私たちをデモ隊に加わるように
誘いながらも強制はせずに、そそくさとデモ隊の中に入っていった。
その隊列は白ヘルメットであると記録する。
その時のKのことばで言葉で、「一番白が激しいので、そこに参加する」
との意思表示であったと記憶する。確かに、白ヘルメットは突撃集団の先頭の立った。
若者が激しさに飢える時代の証明でもある。
すでに、雰囲気では、組織動員の時代が終わっているようにも見えた。
Kから隊列に一緒に入れと誘われたとき、一瞬、躊躇ったのは、年齢差かもしれない。。
さて、集会への集まりは鈍く、時間を要したが、行動は早かった。
隊列が整えられるや否や、デモ隊は即座に成田空港公団に走った。
何故か、私もまた、血潮が騒いで、デモ隊の後ろに入った。
平坦では足早でも、坂道はゆっくりに見える。さらに、その速度は鈍った。
デモ隊の先頭は、岡の上の公団を守る機動隊との折衝が起こったらしい。
その瞬間、どーとデモ隊が崩れながら、岡から降りてきた。
同時に、私の上にも、放水車が雨を降らした。


アウシュビッ体制下のコーヒースタンド 投稿者:水産学科闘争委員会行動隊  投稿日:10月 1日(水)13時56分54秒

1969年7月、学友諸君の協力で学内の出入りが自由になる。学食の入り口に、コヒースタンドが有りました。ここに、アルバイトとして入り込み、農獣医学部闘争委員会の連絡事務所兼情報収集場所として、活用させていただきました。当時のオーナーさんごめんなさい。でも、このオーナーさん全共闘シンパでした。コーヒー会社の荷物に混じり、ビラも同時に入荷。配送会社のアルバイトは、なぜか民青シンパ。ホットドックの持ち帰りパッケイジにビラを詰め、ビラ撒き部隊を待つ。当然、ビラ撒き部隊には、コーヒー無料配布。ついでに、スペシャルドックもサービス。ある日、関東軍のユニホームを着たガードマンから、スペシャルドックの注文。『洋風、和風、どちらにしますか?』ガードマン、『和風。』どっちにしろ、右翼向けスペシャルは辛子満杯でした。  (解説;通常のホットドックは、ソーセイジ1/4本。スペシャルは、1本。闘う仲間のスペシャルは、ソーセイジ2本入り。)  ちょっと思い出した話でした。


催涙弾物語(追記)  投稿者:催涙三郎  投稿日: 9月12日(金)20時44分24秒

催涙弾が日常的に使われるようになったのは、1970年前後である。
1960年は、あくまでも、警察は市民警察であり、治安警察ではなかった。
治安はむしろアメリカの駐留軍によって守られていた。
だから、善良な市民が、電話をかけているのを見て、とがめだてすることはない。
たとえ、1970年代に向けて、闘争が激しさを増したとしても、所詮は民主化運動である。
人々は、家庭に帰り、職場に帰り、大学に戻れば、安全であった。
その逃げ場が精神的には市民であり、それを支える日常的な物理空間があった。
電話ボックスという小さな空間すら、市民権保護の場所である。
といえば、軒下といえども、警官は踏み込む事はなかった。
それが、1960年安保闘争6.15の実体である。
実は、1970年安保闘争もまたそのように闘う予定であった。
この闘いを変えたのは、他でもない、日大闘争である。
日大闘争は、戦後のこの市民権を逆手に取った闘いを否定した。
その上で、この記述の最後として、6.15から6.19に到る他愛の無い、安保闘争を記す。
6.15は通常の人々を震撼させた。
私を東京から逃がそうという話も進んだ。
それは、GHPが行った赤狩りを知る人は、6.15のような闘争に共感し、
かつ、その危険性を理解していた。
しかし、日本の警察と進駐軍との違いは理解していなかった。
大衆闘争は、この違いを乗り越えて、数日という短い期間ではあるが、
日常性を打破して育っていった。
私が朝帰りで、大学につくと、大学の中は騒然としていた。
クラスというクラスが討論を巻き起こしていた。
私も授業に出た。
授業は討論会場であった。
私は6.15を非難する共産党(民青系)の諸君の意見にうんざりしながら眠気が走った。
しかし、授業参加者は違った意見を持っていた。
やおらと私は発言した。
拍手が沸いた。
後は、政府非難決議が飛び散った。
次の瞬間、それぞれが、学内オルグ活動を決議していた。
見事に大衆は昨日の国会突入を見て、目覚めていた。
次の日の学生大会は、普段の登校人数(400名)の倍以上で成立し、
19日夜の日米安保条約自然承認に合わせた抗議のストライキ権を確立した。
19日は、数万の学生が国漢を取り巻いた。
ほとんどが、共産党の自衛隊出動というデマに抗しての群集である。
当時の総評も国会周囲に労働者を動員した。
それは数十万人にも及ぶと言われている。
誰からともなく、整然とする闘いが叫ばれた。
ヒットラーではないが、国会放火のデマも流された。
そうして、労働者数十万が、国会に近づかないことが伝えられた。
希望に燃えた学生達は、日米安保条約の自然承認を待って、がっくりと国会を去った。
学生が国会を包囲してたときに、与党議員が震え上がって、国会の一室に
寄り添っているとの情報が出た。
当時の江田社会党委員長は、国会周辺の石塀の上を右往左往していた。
明らかに、政府機能は麻痺していた。
学生達が、国会を制覇した一瞬であった。
しかし、それ以上の方針を学生達は持たなかった。
この時、国会占拠は十分出来た。
占拠は、数十万の大衆を動かしたであろう。
この実現は、1970年まで持ち越された。


催涙弾物語(3) 投稿者:催涙三郎  投稿日: 9月 6日(土)15時23分21秒

警官との肉弾戦で、互角の勝負を挑んでいた。
それほどに、南通用門で苦肉を舐めた学生がチャペルセンターに集っていたのだ。
その時に、私は、催涙弾が水平に打ち始めたのを見た。
それこそ、顔面を通り過ぎる弾を感じた。
先頭の警官は明らかに、催涙銃を水平に構えていた。
私は危険を感じて一目散に逃げた。
警官は畳みかえるように、機動力をました。
幸い、チャペルセンター前の道路の先に4つ角があり、
曲ったところに電話ボックスがあった。
私は疲れから逃げ切れないと思った。
とっさに私は電話ボックスに飛び込んだ。
電話をかける振りをした。
その瞬間に、角を曲がった警官が押し寄せた。
警官の一人が「誰かが、ここにいる」と叫んだが、
警官は前にいる群集を追いかけて、私の目の前を去った。
ゆっくりと、私は同志への電話をして、無事を確かめた。
短い時間と思ったのだが、彼もまた、南通用門から逃げて、真っ直ぐに
自宅に帰り、医者に見てもらほどの時間的余裕があったらしい。
その後、警官のいないのを確かめ、国会から飯田橋までを恐る恐る歩き、
始発を待った。
その間も、警官は路地をくまなく、探索していた。
幸いに、彼らは、独り行動が出来ない。
さすがに、飯田橋には、始発を待つ人々がいた。
その中で、私は1日の安堵感を持った。
太郎殿、前後を説明するのに時間がかかりました。
これで1幕は終わりですが、催涙弾物語は、5幕が良いところかと思います。


催涙弾物語(2) 投稿者:催涙三郎  投稿日: 9月 6日(土)15時18分50秒

一緒に入れた自動車の演壇で、全学連幹部の誰かが1学生が殺されたと叫んだ。
「その報復にチャペルセンターに向かおう」と呼掛けた。
チャペルセンターには、4.28国会突入の経験がある。
私は隊列の先頭にいた。
振り返ると、演壇車は南通用門を離れようとしていた。
後ろに続く群集の波は薄かった。
その数は、多くて数百名規模だ。
隣の仲間が「やばいやばい」と言った。
それでも数百の群集が、南通用門内の広場からチャペルセンターに向かうように動いた。
前には、黒々とした警官が待ち構えていた。
南通用からチャペルセンターは下りであり、警官の抵抗は小さかった。
向き合う警官の隊列が崩れた。
誰かが、「警官が危ない」と叫んだ。
群集は動きを止めた。
その瞬間、崩れた警官の更に後ろの警官の隊列にいた指揮官から「行け」の号令がでた。
最初はこん棒の突きで襲ってきた。
デモ隊の隊列が崩れた。
更に「かかれ」の号令が飛んだ。
逃げ惑う群集に向かってこん棒の嵐が振った。
その音は「トタン屋根を襲う夕立」の音に聞えた。
この時に、ほとんどの群集はこの時、頭を割られた。その数は数百に登る。
もちろん、ほとんどの学生が拘束された。
私は、逃げ惑う学生が南通用門に今もある楠にしがみついたり、登ったりする学生を見た。
何重となく学生は楠にしがみついた。
私は、最後に楠に近づいたときに、その危険をとっさに察知して、
この群集を迂回して、南通用門から外に出た。
外では、知合いの女子学生が私を向かえた。
私は勇気を持った。
そのまま、チャペルセンターに向かった。
チャペルセンター前には、警官さえ姿を見せていなかった。
国会内には装甲車が陣取っていた。
国会の外には、14台のトラックを改造したような装甲車が並んでいた。
南通用門から逃げてきた学生も数人である。
ちょうど、チャペルセンター前は闘争の死角といえた。
誰かが、一台の装甲車に手をかけた。
その数は、5,6人に増えたが、装甲車はびくともしなった。
しかし、見る見る内に学生の数は数十人となった。
その時に、ようやくに装甲車が揺れ始めた。
そして、遂に、装甲車が横転した。
歓声とともに、誰かが火をつけた。
もやもやと火の手は上がった。
群集は、その知恵を次の装甲車に応用した。
群集も増え、喚起に包まれた。
最後の一台を燃やすや否や、遠くで、「ポーン、ポーン」と音が鳴り出した。
それが催涙ガスとは誰もが知る良しもない。
しかし、次の瞬間に機動隊の群れが見えた。
最初は催涙ガス弾は群集の後ろや前に山なりに落ちた。
それでは、群集は怯まなかった。
とりあえず、私の催涙弾物語第2号


催涙弾物語(1) 投稿者:催涙三郎  投稿日: 9月 6日(土)15時15分15秒

催涙太郎殿
名調子に水を差す積もりはないが、事実関係だけ。
「真正面から顔面に向ってガス弾を撃たれた経験者は手を上げて…、おらんじゃろう。」
私の経験する催涙弾は6.15樺道子の亡くなった日。
黒々とした大軍が、国会を包囲していた。
若者には、今国会を突破しないと日米安保条約が国会を通過するとの悲壮感があった。
ちょうど、その日は日米安保条約が自然承認される6月19日の4日前だ。
集められた大衆は反代々木という共産党の議会主義に反対を唱える学生だけの集団である。
何かを予測しながら、大軍は静かに全員が集るのを座ってその時を待った。
決して統制の取れた集団とは思えない。
それでも、全てが、自分の大学で学生集会を終えて、大挙国会に動員された。
すると、一斉に笛の音とともに、大軍が動きだした。
国会を包囲した大軍は1万人とも3万人ともいわれる。
大軍の動きは激しさを増した。
それも、国会を一周だけするのではない。
2回3回と国会を包囲しながらのデモ行進だ。
何か獲物を狙うようでもあり、また、一部大衆の中に苛立ちが走った。
それ以前4月28日には、大衆は議事堂チャペルセンター前からの国会突入を経験していた。
これは、国政史上、2,26に次ぐ快挙でもある。
当然、チャペルセンター前からの突入の期待が高まった。
しかし、1度、2度とその期待は裏切られた。
そこには、余りに多くの装甲車、警官の群れがあった。
3〜4回目の包囲デモの最中に、
隊列の中に、国会突入が始まったと噂が広がった。
どこかは分からなかったが、誰もがチャペルセンター前を意識した。
私の所属する大学は弱小軍団で、総勢20数名の隊列であり、デモ隊の後方に位置していた。
それほどに全体の隊列は長かった。
その長かった隊列が崩れるのは一瞬の出来事だった。
後方にいた、我が隊列の前に視野が広がったのは、噂の立った数分の後のようだ。
視野が開けると、その前では、南通用門に向かう別の隊列があった。
その隊列は、見う見るうちに、警官との衝突で霧散した。
私は、チャペルセンター前でないことに、落胆の気持ちが走ったのを覚えている。
我が隊列の中の同志数名が隊列を離れて、南通用門に立って、守る警官とのドンパチを始めた。
武器は竹竿である。
明らかに竹竿の折れ曲がるのを目にした。
ここでも、哀れを感じた。
誰かが、警官の隙を見て、南通用門扉には長い鎖がかけたらしい。
誠に細い鎖だが、後で、この顛末を語る人もいる。
すでに、それを引っ張る群集は少なかった。
それでも、それぞれに持った得物で、学生は闘っていた。
それは、円形劇場での観劇のように、群集に取り囲まれての行動であった。
突如、全く、突如だが、警官が守りを解いた。
南通用門が、少数で引っ張る鎖で開かれた。
どっと、南通用門に向かって群集が殺到した。
樺道子はこの中で死んだと思う。
国会に突入した群集は数千人ともいわれる。
デモ隊のほとんどが、あの狭い南通用門から入場した。
ここで、再び、集会が持たれた。
とりあえず、私の催涙弾物語第1号


思い出の催涙弾 −その4 バケツ式ガス弾戦− 投稿者:催涙太郎  投稿日: 9月 6日(土)05時40分31秒

 全学部の日大全共闘や、明大・中央大等々の全共闘・セクト諸君が中央大学中庭で東大闘争支援集会を終えて街頭に出た途端、町の中は機動隊の群れ。集会から出てきた学生を包囲していた。
 学生投石開始。機動隊催涙弾発射開始。飛んでくる催涙弾はみんな新型P型ガス弾。ほぼ水平に多量に飛んでくる。危ないッたらありゃしない。

 誰かがゲバ棒をバット代わりに打ち返す。校舎から持ち出したテニスラケットで打ち返す奴もいる。うまいもんや。これなら優勝ホームランと思いきや、打った拍子に破裂したり、空振りして後ろの奴を直撃する。
 
 ならばと校舎からバケツを持ち出して、飛んでくるガス弾をガランゴロンとナイスキャッチ。イチローもどき。路上に落ちたガス弾にすかさずバケツをガバッとかぶせて数秒待つと、バケツの中でボンッと炸裂。
 「ガランゴロン」「ガバッ」「ボンッ」これを何度も繰り返すうち、路上にガス弾の白い粉の小山が沢山できる。
 この白い粉を手ですくいバケツにかき集め出した天才が現われた。
 さすが日大全共闘、東大のように学力は無いが知恵はある。さぁーお立会い。なんだか楽しいことを考えた。確か経済3闘委の彼等である。

 機動隊の戦術は、しこたまガス弾を叩き込み、学生がひるんだ隙に突撃をしてくる。しかし当日はバケツのお陰でガス弾の効果半減。おまけに電光石火で敷石が投石用石に作り変えられ投石の雨やまず。
 後退しない時の機動隊は道路幅一杯、横1列に楯を構えて並び、その楯の上に2列目の隊員がまた楯を並べ、更に3列目の隊員が天井をつくるように楯を並べ、丁度、半かまぼこ状態の壁を組んで投石を防ぐ。各隊員の一糸乱れぬ行動でタテ140センチ・ヨコ60センチの楯を組み立てて1個中隊ぐらいが入れる防壁を作るのである。お見事にも。

 粉がそこそこ貯まったバケツを下げて、ガス弾三勇士、機動隊の防壁に近づき、やおら下から2段目の楯を剥がしに掛る。剥がされまいと隊員抵抗するがやがて力尽き、空いた隙間からバケツの粉を振り掛ける。中から隊員の声がする「ゲホゲホ」。有毒な粉を吸ってしまったらしい。かわいそうに。

 皆でバケツ4−5杯掛けてたら、粉が無くなった。
 機動隊の防壁の中で咳き込む奴が増えていた。
「ガス弾を撃ってこーい」と皆でお願いの声を上げたが撃ってこなくなったので、この作戦は終了した。当バケツ式ガス弾戦の話は後にも先にも聞いたことが無い。人類史上、最初で最後の作戦となったようだ。
 


以上は、新着順1番目から10番目までの記事です。

 


思い出の催涙弾 −その3 顔面水平撃ち− 投稿者:催涙太郎  投稿日: 9月 6日(土)05時38分41秒

 忘れもしない69年1月18日。御茶ノ水での東大安田講堂闘争支援集会へ出発前。バリ校舎前で学部決起集会を開いていた。
 本郷方向に向う消防車を発見。誰かが止めて「まさか安田講堂に放水に行くんじゃござんせんでしょうね」と優しく聞く。消防士曰く「後楽園方面で火災発生の報があり出動中でござんす」「それはそれはご苦労なこってス。お気をつけておいきなせい」とお見送りしたが、これが真っ赤なウソ。夕方のテレビニュースで安田講堂に放水している姿が映っていた。ユニフォーム組は信用できん。

 次いで機動隊の装甲車が差し掛かる。「止めちまえ」見事な反射神経の日大全共闘。山賊もどき。投石を始めるが後ろ数台の装甲車から機動隊員が降りてきた。
 「やばい。校舎に戻れ」2階ベランダから見渡すと、皇居方向に延々たる装甲車の車列。取り合えず先頭車両に投石していると、投石防御ネットを持った隊員とガス弾銃を持った隊員がおりてきた。「構え」の指示も無く銃を私に向け、「ていっ」とも聞かずに引き金を引きやがったのじゃ。真正面から顔面に向ってガス弾を撃たれた経験者は手を上げて…、おらんじゃろう。弾の丸い頂点が段々大きくなって飛んで来るんじゃ。とっさに首を傾けると後ろの壁ではね飛んだ。催涙弾の種類なんぞ覚えておらんがなもし。中学で剣道をやってて良かった。

 心に余裕ができて…?、機動隊が可哀想なもんで投石を止めてベランダに隠れていると、行くは行くは機動隊の車両デモ状態。全国の機動隊車両が大集合してたんだそうな。
 こん時からじゃな、機動隊が催涙弾を相手に向って水平に打ちだしたのは。しかも銃を持った奴が自分の好き勝手に打ち始めたのは。あな恐ろしや恐ろしや。後の成田闘争では救急班の女性の顔面を撃ち、殺してしまう事件があった。あな恐ろしや恐ろしや。


思い出の催涙弾 −その2 新型P型ガス弾− 投稿者:催涙太郎  投稿日: 9月 6日(土)05時35分47秒

 68年10−11月頃であったろうか、新型の微粉末炸裂タイプの催涙弾(正式名称はP型ガス弾と言うらしい)が同時に使われ出し、やがてこればかりになる。
 発射後、数秒の着弾点で「ボンッ」と弾が破裂して催涙性微粉末が飛び散るタイプ。確か発煙筒タイプよりやや長く先がとがっていた。

 粉の正体は後に国会でも取り上げられたが、ベトナム戦争でジャングルに潜んだベトコンを追い出すために戦略爆撃機で大量散布した「枯れ葉剤」そのものであった。妊婦・胎児への悪影響が著しく「ベトちゃん・ドクちゃん」等の先天性障害者をつくった原因物質である。又、煙と違って飛散した粉がいつまでも落下地点に留まる。戦場となった商店街や駅では何日もこれを吸い込む。目への刺激より気管に入った時の咳き込み症状が激しい。

 弾が破裂するので打ち込まれると一瞬ひるむ。当然、投げ返せない。破裂前に投げ返そうとした勇敢な同志がいたが、スナップを利かせてる最中に顔の横で炸裂し、真っ白け。瞬時に歌舞伎の女形になった。周囲の者が「おや、まー」と言ったかどうかは記憶に無い。粉が服に付着すると簡単には落ちず、しばし仲間はずれになる。

 先がとがっていて重量も増したためか、標的に向ってかなり正確に飛ぶようになった。あまり上空に打ち上げずに角度のある放物線、つまり発射角度が低くなった。校舎の窓に向けて撃つとガラスを貫通して室内で破裂する。危ないんだよ。


思い出の催涙弾 −その1 発煙筒タイプ− 投稿者:催涙太郎  投稿日: 9月 6日(土)05時34分27秒

 日大闘争が始まった頃の催涙弾は、長さ20数センチの発煙筒タイプ。弾頭は平ら。専用の銃で空に向って放物線を描くように打ち上げ、鎮圧する集団の先頭列から数メートル後ろあたりに落す。あまり後ろに落すと機動隊と直接対峙する連中の鎮圧にならないからでしょう。射程距離50−60メートル位か。
 発射直後から薄い煙を上げながら飛んで来て、落下すると一層激しく催涙性白煙を噴出。目を刺激し、濃い煙を吸い込むとセキ込む。確かに涙が出るが目をこすらないようにして涙を一杯出すか、水びしょびしょのタオルを目に当てていると症状は治まる。風下にいれば被害なし。
 催涙弾を発射する隊員は特別の担当らしが、勝手には撃たない。小隊長が「構え」と言うと構え姿勢をとり、「ていっ(撃てと言ってるらしいがこう聞こえてた)。」の号令で発射していた。

 発煙筒タイプを打ち込まれた時は手を火傷しないように軍手をつけて投げ返す。すると激高した機動隊員がこれをまた投げ返す。こちらもまたまた投げ返す。繰り返しているうちに煙が出なくなる。風があれば煙は大気に薄められる。
 機動隊員はガスマスクなんぞつけてない。シールド面つきヘルメット姿。楯を持っているので濡れたタオルで眼痛症状の緩和処置もできない。機動隊が発射する発煙筒タイプ催涙弾は機動隊員諸氏を制圧する効果の方があった。


wing span さんへ 投稿者:水産学科闘争委員会行動隊  投稿日: 9月 1日(月)04時16分46秒

wing spanさん。  *宗田理の「ぼくらの七日間戦争」を思い出しました。

あの映画のモデルは、日大闘争でしょうね。あの闘争の、華やかな部分だけ、子供向けに製作したのでしょう。画像の中で、18歳当時の私と学友たちの、奮戦記が見えていました。




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(無題) 投稿者:wing span  投稿日: 8月26日(火)18時38分01秒

宗田理の「ぼくらの七日間戦争」を思い出しました。


以上は、新着順11番目から15番目までの記事です。これ以下の記事はありません。