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戦争は続いた

「クリスマスまでに戦争は終わる」――。
この見通しが甘いことに人々が気づいたのは、1914年末のことだった。

しかし、戦争が終わるのは、1918年のことである――。


塹壕戦の始まり

フランス・ドイツがにらみ合う西部戦線。

そこに奇妙な穴が掘り出されたのは、戦争が始まってすぐのこと。機関銃の嵐から身を守るために、両軍は穴をほってそこに隠れることを思いついたのである。

この穴を塹壕という。この塹壕は、なんと300キロに及ぶ。ヨーロッパ大陸中央部から始まった塹壕は、戦場に沿って北へ北へ――北端は、北海に到達した。

塹壕の向こうに弾を打ち込むため、大砲が巨大化、製造所から戦場まで、列車は貨車の代わりに大砲を運んだ。


総力戦の思わぬ側面

総力戦は、平等思想に端を発している。
国民はみな平等――その思想がなければ、全員が戦争を支える総力戦はおこなえない。

平等思想は裏を返せば、敵国民はみな等しく敵、という恐ろしい戦争につながる。このことを忘れてはならない。

フランスの首都パリが史上初の空襲にあったのも第一次世界大戦である。ドイツの巨大飛行船ツェッペリンがパリを爆撃、空襲を避けるために学童疎開も行われた。


塹壕をはさんで

塹壕戦が定着すると、兵士たちは塹壕の間のわずか数メートルをめぐって手榴弾や鉄砲の飛び交う中を突進し、命を失っていった。

「このままでは戦争は膠着状態に陥り、イギリスもドイツもジリ貧になってしまう」
危機感をつのらせたのは、当時イギリスの海軍大臣を務めていたチャーチルだった。チャーチルは政府の総力を集めて塹壕戦に勝利する新兵器の開発に力を入れた。

チャーチルの努力が結したのは1916年のことである。
塹壕に張り巡らされた鉄条網を踏み潰し、大砲でデコボコになった大地を突き進む。敵側から放たれる鉄砲にも耐えなければならない――。

そう、戦車が登場したのだ。

世界最初の戦車タンクは、農業用トラクターに分厚い鉄板を張った、極めてシンプルなもの。しかし、この不思議な機械は、ドイツ軍の兵士たちを驚愕させた。
なにせ、鉄砲はおろか、手榴弾でさえ戦車には通用しない。鉄条網を踏み潰す重量は、人間をも踏み潰す。塹壕戦の勝負は決したかに思われた。

ドイツ軍も全力を挙げて戦車を開発した。

この戦争で新登場したのは戦車のほか、サリン・ソマンといった毒ガス、機関銃を搭載した戦闘機、そして潜水艦など。

最新兵器の投入は、各国の人々をさらに戦争に参加させた。総力戦体制は強化される一方だった――。


ロシア革命

持久戦になって最も生活が苦しくなったのは、後進大国ロシアであった。市場からは食べ物が消え、必需品が消え、国民のみならず兵士の間にまで不満が高まっていった。ドイツ=ロシア国境(東部戦線)では兵士の逃亡率が高くなって戦争の維持にそごが生じ、皇帝自らが戦争の陣頭指揮をとるほどだった。

ロシアを戦線から退けて協商側の一角を切り崩したいドイツは、ドイツのチューリヒに亡命していたロシア人の思想家レーニンをいわゆる「封印列車」に乗せてロシアに帰国させた。
「戦争は皇帝と貴族たちのみを太らせる」と戦争反対と停戦を求めるレーニンの要求に国民や軍隊が同調し、第一線で士気高揚に努めていたロシア皇帝ニコライ2世は急遽首都ペトログラード(現・サンクトペテルブルグ)に戻って反乱を鎮圧しようとした。

しかし、議会や閣僚までが停戦を求め、軍隊に造反されたニコライは捕らえられ退位を余儀なくされた。ニコライ一家はその後シベリアに送られて銃殺刑となり、こうして300年の歴史を誇ったロマノフ王朝は崩壊した(ロシア二月革命、1917年2月)。

この後成立したケレンスキー政権は、戦争を続けることを宣言したため、レーニンがこれをクーデターによって倒し、ボルシェビキ(ロシア共産党の前身)独裁政権が樹立された。レーニンは共産体制の確立に努め、こうして1922年、ソビエト社会主義共和国連邦、いわゆるソ連が誕生した。


シベリア出兵

資本主義体制を守りたい大英帝国やアメリカ、そしてシベリア地方に植民地を築きたい日本などの国々は、ロシア革命が他の国に波及するのを恐れて、革命政府に対して反旗を翻した勢力を手助けし、さらには自らの軍を進めた(シベリア出兵、1918年)。

日本は、出兵に参加した日本以外の国々の合計を上回る兵力をシベリアに進め、主要な都市を制圧した。ところが、革命軍と寒気に苦しめられて勢力を維持できず、西洋諸国の非難もあって、結局日本は何も得ずに撤兵した。

日本がシベリア出兵で費やした軍事費は日露戦争(1904年)に匹敵し、大戦景気に沸いた日本の好況に冷や水を浴びせた。また軍事用に必要だとして大量の米が買い占められたため米価が高騰し、ついに1918年の富山県での主婦たちの行動から米騒動が発生して軍人内閣が崩壊した。その後日本では原敬が本格的な政党内閣を組織した。


アメリカ参戦

ドイツは、イギリス・フランスによって経済封鎖をかけられた報復として、中立を称しながら協商側に物資を供給するアメリカの艦船を狙った潜水艦による無差別攻撃を開始した。その作戦によってアメリカの客船が撃沈されると、中立・不参戦で固まっていたアメリカ世論が一気に参戦に傾いた。ウィルソン大統領は協商側に立って宣戦を布告した(アメリカ参戦、1917年4月)。

アメリカの参戦は表向き「自由と平等、そしてアメリカ国民の保護のため」だったが、もちろん裏がある。もともとイギリスからの移民で建国されたアメリカは、その縁から大英帝国に親しく、大戦がはじまってからは帝国やフランスに多額の貸し付けを行っていた。もしドイツが勝って帝国が崩壊するようなことがあれば、その貸付金は回収できなくなってしまう。それを恐れたのが真の理由だとされている。

アメリカはそれまでヨーロッパ列強の干渉を嫌い、ヨーロッパとアメリカ大陸の相互不干渉を求めたモンロー宣言から、ヨーロッパ戦争へ兵力を送るのはこれが史上初めてのことであった。アメリカは徴兵制をしき、大量の軍隊を西部戦線に派遣した。


帝国の崩壊

アメリカ参戦によってドイツは一気に戦況が悪化した。ロシアと講和を結んだことで東部戦線が消滅したため、全軍を西部戦線に集中して戦局の挽回をはかったものの、巨大な物量を誇るアメリカ軍の前に無残に敗退した。

ドイツでは、国民に厭戦ムードが高まり、ついにキール軍港で兵士の反乱が起こった。レーニンを送り込んでロシア帝国を崩壊させたドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は、皮肉なことに自分も退位に追い込まれた。その他の貴族たちも国外に脱出し、共和制による臨時政権が成立した(ドイツ革命、1918年)。1918年11月、4年に及んだ第一次世界大戦は休戦状態に入り、再開されることはなかった。

休戦後、戦争に苦しんだオーストリア・ハンガリー帝国がついに滅び去った。最後の皇帝となったオットー1世は宮殿から自動車に乗ってひっそりとおちのび、600年の栄光を担ったハプスブルク王朝のあっけない幕引きとなった。
中央ヨーロッパを支配した大帝国の崩壊により、帝国は分裂、帝国内の主要民族が国家を組織してオーストリア、ハンガリー、ユーゴスラヴィア、チェコスロバキアの4国が成立した。

敗戦とそれにともなう領土割譲によって亡国の危機に追い込まれたトルコ帝国では、ケマル=アタトゥルクの率いる革命が発生、700年の歴史を誇った帝政が崩壊してケマルを首班とする共和政府が成立した(トルコ革命、1924年)。トルコ共和政府は政教分離と近代国家建設を国是とし、トルコの建て直しに努めた。

1919年、終戦処理が終わり、ヴェルサイユ条約が締結された。これによってドイツは海外の植民地を失い、ヨーロッパの一小国に転落した。

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