カンボジア内戦

アメリカとベトナムに振り回されて

東南アジアの小国、カンボジア――。
この小さな国は、西側で資本主義国家タイ、東側で共産主義国家ベトナムと隣り合う国です。時代は、ベトナム戦争の頃までさかのぼります――。

1965年から始まったベトナム戦争の時代のカンボジアの指導者は、国王シアヌークでした。このひとは国王の地位に就任したり退位したりしますので、「殿下」の称号がよくつきますよね。
シアヌーク国王は、ベトナム戦争には中立の立場をとりながら、同時に国内でのベトナム解放戦線(ベトミン)の活動を黙認していました。カンボジアは小国ですから、ベトナム軍の活動を実力で阻止することはできなかったのですが、これがアメリカには気に入りません。カンボジア国内にあるベトナム軍基地を攻撃するためには、「中立」を国際社会に連発するシアヌークが邪魔でした。

1970年、シアヌークが外遊している間に、カンボジア軍のロン=ノル将軍がクーデターを起こしました。ロン=ノルはアメリカの全面的なバックアップを受けて首相に就任、国内にいるベトナム=ゲリラを取り締まりました。
黙っていられないのはシアヌークです。シアヌークは外遊先から中国を経て国内に戻り、誕生したばかりの共産主義勢力と結んでロン=ノル首相政府との内戦を起こしました(カンボジア内戦)

シアヌークは共産主義勢力クメール=ルージュを「知識人で、国を救う使命に燃えた若者たちだったが、彼らとは心が通じ合うことはなかった」と表現しています。

クメール=ルージュの軍司令官サロト=サル(王族出身)は、中国からの大量の武器援助、アメリカに支援されて腐敗したロン=ノル政府に対する人々の不満、シアヌークの強い人気を得て、内戦を有利にすすめました。
しかし、国内は戦乱で荒れ果て、50万人のカンボジア人が死亡、「東洋のベニス」と称された首都プノンペンは、戦乱から逃れた避難民でごったがえしました。


では、ややこしい人物名の整理。

シアヌーク アメリカによるクーデターで王位を追われた。狙いは「王政復古」。
ロン=ノル アメリカに支援された首相。カンボジアの資本主義化をすすめた。
サロト=サル 共産主義勢力クメール=ルージュのリーダー。もちろん狙いは共
産主義革命。

原始共産制の実験

アメリカがベトナム戦争に敗れると、もはやロン=ノルは何の利用価値もありません。50万のカンボジア人を殺した内戦は、プノンペン陥落(1975年)で幕を閉じました。

新しい政権は、クメール=ルージュの主導で作られ、首相にはサロト=サル――カンボジア人によくある名前に改名して、ポル=ポトと名乗った人物が就任しました。そう、このサロト=サルこそ、ナチス=ドイツが起こした惨劇ホロコーストをこえる惨劇を起こしたポル=ポトそのひとだったのです。

ポル=ポト政権は、「原始共産制」という政策を実施しました。

原始共産制 あらゆる生産手段を共有し、生産物を社会全体で平等に分け与える
制度のこと。この社会では、学校・病院はおろか貨幣すら必要ないと
され、完全な自給自足の体制が理想となる。
きわめて原始的な方法から、この名がある。

その結果、子どもは親から隔離されて労働所で働かされ、自由な恋愛は許されず、結婚相手は国家が決めるという、ムチャクチャな社会が生まれました。
都市は必要ないとして、政府高官以外の人々は首都プノンペンから追われ、荒れ果てた地方を立て直す肉体労働に従事させられました。また、知識人は労働に向かないとして一般の人々から分けられました。この「知識人」の基準もムチャクチャで、ある町ではメガネをかけた人間が「知識人」とされたそうです。


ベトナムのカンボジア侵攻

こんな世界に住みたいですか? カンボジア人のポル=ポト政権に対する不安は募る一方でした。
ポル=ポト首相にそむいて追放されたヘン=サムリン将軍のグループは隣国ベトナムに身を寄せ、政権への復帰を目指しました。

ポル=ポトの率いるカンボジアは、中国と仲がよく、「原始共産制」も中国の文化大革命を手本にしたものでした。隣国ベトナムは、ホーチミン以来のソビエト連邦びいき。そして中国とソ連は、「スターリン批判」以来、仲が悪い。

1978年、ベトナム戦争でアメリカを敗退させるほどの屈強さを誇るベトナム軍は、ヘン=サムリンをリーダーとする「カンプチア救国民族解放戦線」を支援する形でカンボジアに侵攻、ポル=ポト政府との戦争となりました。

ベトナム軍は、衝撃的なビデオ映像を世界に公表しました。何の変哲もない山の地面を掘り起こしてみると、額に銃の痕がある人骨が山のように出てきたのです。それも、カンボジア中の山から!
ポル=ポトが政権について以来、彼の「原始共産制」に疑問をさしはさんだ者は、こどことく処刑されました。民衆から分けられた知識人たち、都市から移住することを拒んだものは、全員銃殺されたのです。

ベトナム軍は、「ポル=ポト政府に殺された人数は、100万人に及ぶ」と発表、当時のカンボジア人の6人に1人が殺されたことになります。
これが、ポル=ポトによる大量虐殺事件です。


長引く内戦、日本とフランスの介入

ポル=ポトは政権の座を追われ、ゲリラとなってヘン=サムリン政権に対抗しました。奴隷のような暮らしに甘んじていたシアヌークも解放されましたが、カンボジアで戦火が耐えることはありませんでした。

ポル=ポト 政権の座を追われ、ゲリラ活動を通じて
政権復帰を目指す。
タイ、中国が支援
ヘン=サムリン 新しく首相に就任。精強なベトナム軍が
バックにある。
ベトナムが支援

1989年、5万人の死者を出してベトナム軍がカンボジアから撤退しました。この5万人という数字、皮肉なことにベトナム戦争でアメリカが払った犠牲と同じレベルでした。

これをキッカケに、ようやく和平への機会が訪れました。ベトナムを植民地支配していたフランスと、われらが日本が介入して、カンボジア人全員による総選挙を実施することになりました。
91年には、パリで和平協定が結ばれ、カンボジアを統治する権限は国連に移りました。「国連カンボジア暫定統治機構」のトップには、国連の事務次長・明石康が就任、93年にはいくつかのグループの妨害を乗り越えて総選挙が実施されました。

この選挙活動中、日本から派遣された高田晴行警部補と、ボランティアとして選挙の広報活動を行っていた中田厚仁青年が妨害派に襲われて死亡、日本の国際貢献の重さが改めて考えられました。

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