戦間期のドイツ――ヒトラーを中心に

日本でいわゆる明治憲法が公布された1889年、オーストリア・ハンガリー帝国のブラウナウという小さな町で、のちのドイツの指導者・ヒトラーは生を受けた。かれの父親は帝国の税務官吏で、実はその母の私生児であり、ヒトラー家は彼の育ちの家であった。ヒトラーにはユダヤ人の血が流れているという説の根拠となっている。

ヒトラーは父親の死後、興味を描いていた絵画を職業とするためにウィーンに上京。しかし美術学校には合格できず、ウィーンで浪人生活を送っていた。この時代に彼の絵を買ってくれていたのは主にユダヤ人だったといわれている。そのおかげで、ヒトラーは一応少ないながらも食事ができていた。

1914年、第一次世界大戦が勃発。この知らせを受けてヒトラーはオーストリアからドイツ帝国に移り、兵役を逃れた。のちに見つかって徴兵検査にかかるが、栄養失調で不適との結果を受けている。だが、ドイツも大戦に参加すると聞くや、彼はドイツ貴族に頼み込んでオーストリア国籍のままドイツ軍に入隊した。ヒトラーは情報兵として部隊と本部との伝令に従事し、その勇敢さをかわれて3度も勲章を授けられている。

だが、イギリス軍が使った毒ガスを浴びて一時的に失明、陸軍病院に担ぎ込まれて闘病生活を送った。そのときに、ドイツ降伏の知らせを聞いたのである。ヒトラーは、その多感な青年期に、自分が誇りとするドイツ帝国の崩壊を目の当たりにした。

その後ヒトラーは陸軍にとどまり、その仕事の一環として政党の調査にあたっていた。1919年、ヒトラーは運命の出会いをする。ドイツ労働者党。かのナチスの前進となった党だが、このときはまだ誕生したてのミニミニ政党にすぎなかった。ヒトラーは飛び入りで演台に上がり、その天才的な演説の才能が認められた。ヒトラーは軍を退いて労働者党に入党、政治家としての第一歩を踏み出した。

ワイマール憲法とドイツ

同じ年の1919年、ドイツでは終戦処理の締めくくりとしてワイマール憲法が成立した。憲法の柱は次のとおり。

ワイマール憲法は、世界最先端の思想を取り込んだ「すばらしい」憲法であった。しかし、ご存知のとおりワイマール憲法の体制はナチスの台頭を生み出し、世界最先端の民主主義は世界で最も有名な独裁者を放つ土壌となっている。これはどうしてだろうか。

従来、ワイマール憲法が崩壊した理由は、ヴェルサイユ条約でドイツにあまりに過酷な仕打ちを加えたこと、民主化がこれでも不徹底だったこと、ナチスや共産党が破壊的な政治活動を展開したこと、などだといわれてきた。

しかし、近年では新しい意見が登場している。それは、ヴェルサイユ条約がワイマール憲法を「いかした」という見方である。どういうことか。

ヴェルサイユ条約では、ドイツは海外植民地をすべて没収され、さらにドイツ本国の領地を削減された。さらに陸軍・海軍を削減され、空軍の保有を禁止された。最も有名なのが、天文学的な賠償金の要求である。この賠償金の支払いのためにドイツ政府が通貨を増産し、ハイパー・インフレが起こったとされている。バッグいっぱいの給料を受け取る労働者や、札束で遊ぶ子どもの写真を見たことがある方も多いだろう。

この時期のドイツがすさまじいインフレに見舞われ、貨幣経済を崩壊させていたのは事実である。しかしその原因は、帝政期に軍事費を払うために国民にばら撒いた国債のせいで、けっしてワイマール政府のせいではない。しかし、このインフレは政府の無能さの象徴であるかのように言われている。

このインフレも、悪いことばかりではなかった。賃金が紙切れ同然になって困ったのは、給料を受け取る労働者である。逆にいえば、農民などの生産者はぼろ儲けをしていた。労働者と生産者の損得はプラスマイナスゼロであるといわれ、インフレの悪の部分だけを強調することはできない、というのである。

何よりインフレで得をしたのは、政府であった。インフレで貨幣が有り余っていたからこそ、政府は簡単に賠償金を支払うことができたのである。インフラは借金を棒引きにし、戦後数年で国債の総量は大戦前の水準に戻ったといわれる。

ワイマール憲法が崩壊した原因は、ドイツ国民の心の中にあった帝政時代への憧れにあった。それを象徴する言葉がこちら。
「理性を働かさなければ(ワイマール憲法を)支持できず、感情に従えば支持できない」

ナチスの台頭

不安定なドイツでは、国民の不満は高まる一方であった。
そんなドイツで徐々に台頭し始めていたのが、1921年にヒトラーが党首となっていたナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)であった。ワイマール憲法にもとづく民主主義を無責任なものとして否定するナチスは、1923年にはミュンヘン一揆を起こし、政府を武力で転覆しようと試みた。ヒトラーの名が世界史の表舞台に登場した瞬間である。

しかし、一揆は失敗。ヒトラーは逮捕・投獄された。このとき、ヒトラーは方針を転換し、選挙による合法的な政権の掌握を目指すようになる。懲役5年の判決ながらヒトラーは9ヶ月で出獄し、ヒトラーは地道に選挙活動を開始した。

ナチスの特徴は、次のとおり。

 

最もナチスの残虐性を示すのが、党旗ハーケンクロイツ(かぎ十字)に象徴される反ユダヤ主義である。この時期、ユダヤ人は労働運動や資本の独占など非難すべき社会現象の黒幕と目され、非常に評判が悪かった。特に、終戦直後にはベルリンやウィーンで「帝国が崩壊して私たちがこんな苦難を味わうのは、革命を主導したユダヤ人のせいだ」という噂が流れていた。国家を持たないユダヤ人が、ドイツ人の不満のハケ口になっていたのは確かである。ナチスが、国民の支持を得るためにガスのようにドイツ人に広がっていた反ユダヤ主義を取り入れた、と考えるのは私一人の想像であるが。

世界恐慌とヒトラーの登場

1929年、世界経済で一人勝ちを続けてきたアメリカ・ニューヨークのウォール街で、株価が大暴落を起こした。アメリカの経済は大混乱をきたし、実に1000万人が失業し、失業率は25%を記録した。国民の4人に1人が働き口を失ったのである。
アメリカの大不況は日本やヨーロッパなど全世界に波及、これを世界恐慌と呼ぶ。恐慌はドイツをも捉え、失業者は700万人、3人に1人が確たる就職先を持たず、国民生活は激しく疲弊した。国民は、強力なリーダーを求めた。

世界恐慌の翌年の1930年、ドイツの総選挙でナチスは党勢を9倍に伸ばす大躍進を記録した。ナチスの強力なリーダーシップを求める国民の声を受けて、1933年、ヒトラーはついに首相の座を手に入れた。

ヒトラー政権下のドイツ

ここからは、タイムテーブル風にドイツとヒトラーの歴史を追っていくことにしよう。

1933年・・・ヒトラー政権樹立

ヒトラーは首相に就任するとすぐ、ドイツの高速道路網アウトバーンを整備するための公共投資を行った。このようなケインズ主義を取り入れた公共事業によって、700万人の失業者は見る見るうちに減少し、数年後には失業者は50万人弱にまで抑えられた。
また、ヒトラーは安価な国民車フォルクスワーゲン(国民のワゴン車、という意味)の製造開発をポルシェ社に依頼、多くの労働者にとって高嶺の花だった自動車を国民の手元に引き寄せてやることで、国民の購買意欲を高めようとしたのである。

同年・・・国会議事堂の放火事件

ベルリンにある国会議事堂が何者かによって放火された事件。犯人として元オランダ共産党の男が逮捕され、政府は共産党の仕業として大きく宣伝した。この事件が原因となって、ドイツ共産党は非合法化され、ドイツ国会をナチスと二分していた巨大政党・共産党は消滅した。

同年・・・全権委任法

国会議事堂の放火事件を契機に、今の言葉で「危機管理」が大きくクローズアップされ、政府により大きな権限を与えるべき、という議論が起こった。ヒトラーは議会に「民族と国家の困難を除去するため」に政府に5年間に限って立法権を与える法案を提出した。この法案は左派政党の反対を押し切って可決され、この法律を根拠にして政府は、ナチス以外のすべての政党を「合法的に」解散し、こうしてナチス独裁体制が成立した。

1934年・・・レーム事件

レームというのは、ヒトラーの私的な軍隊・突撃隊を率いたヒトラーの片腕である。レームはヒトラーの下で大きな力を持ち、正式なドイツ軍よりも権力をふるうようになっていた。ヒトラー首相の上位にあるヒンデンブルク大統領(軍隊出身)は彼を憎み、ヒトラーは首相の座にとどまるためにレーム一派の粛清に乗り出した。レームは暗殺され、他のナチス重役たちも殺された。
国民はヒトラーの断固たる処置を歓迎し、ナチス重役への不満がヒトラー個人には届かないシステムが意外なかたちで完成した。ヒンデンブルクはこの年の病没し、ヒトラーは選挙を経て大統領にも当選。ヒトラーはナチス党首・首相に加えて大統領を兼ね、事実上の最高権力を掌握した。こののちヒトラーは自らを「総統」と称するようになる。

1935年・・・ニュルンベルク法

ドイツ国内に住む8分の1の混血までを「ユダヤ人」と規定し、この規定にあたる人物を公職から追放、企業経営券をはく奪し、その財産を没収することを認めた法律。ドイツ人の純血を守ることを目指したナチスは、この法律でユダヤ人とドイツ人との結婚も禁止した。
意外にもこの法律に国民の多くは反対せず、かえって一般市民によるユダヤ人差別は激しくなった。ナチスによるユダヤ人迫害の特徴は、法律による上からのものと、こうした下からの嫌がらせの二本立てである。ドイツの共同体からのユダヤ人追放がすすんだ。
こうした迫害をきらって、作家トーマス=マン、物理学者アインシュタインなどがドイツ国外へ亡命した。更に激化する迫害の被害者の多くは、亡命する余力のない貧しいユダヤ人であった。こうしたユダヤ人は50万人を数えた。

同年・・・再軍備宣言

ヒトラー政権は、ヴェルサイユ条約で保有を禁止されていた空軍の復活と、国民の義務兵役制を再開すると世界に宣言。事実上、ヴェルサイユ条約をドイツに課したイギリス・フランスへの挑戦であった。
フランスはこれに大きく危機感をつのらせ、ソビエト連邦やチェコスロバキアと結んでドイツをけん制したが、肝心のヨーロッパ一の強国イギリスは宥和政策をとってドイツ再軍備を追認した。イギリスの弱腰振りを世界にさらしたのである。
こうしてドイツは対外膨張に乗り出す。

1936年・・・ラインラント進駐

ヴェルサイユ条約によって非武装地帯、すなわちいかなる国も軍隊を入れてはならない地域と定められたラインラント地方(ライン川東岸)に、ヴェルサイユ条約を破棄してドイツ軍が進駐した。
ラインラント地方をはさんでドイツと向かい合うフランスは激しく非難したが、内政に不安を抱えていたため武力介入するほどの実力はなかった。イギリスはこれをも黙認し、ヒトラーの自信は深まるばかりであった。

同年・・・スペイン市民戦争

スペインでは、アルフォンソ13世の王制が崩壊した後、共産党・社会党などが連立を組み、人民戦線内閣を組織した。この共産体制樹立を目指す政権に危機感を抱いた大資本家は、軍部の実力者フランコ将軍を支援して反乱を起こさせた。フランコはドイツとも結び、ドイツ軍をスペインに引き入れた。
政権側ではソ連主導の国債義勇軍がやってきて加勢したが、共産党や穏健派、無政府主義者の協力が乱れ、劣勢は否めなかった。スペインの小さな町ゲルニカでは、ドイツ兵器の実験台にされた市民が多く殺された。フランコは内戦に勝利、一党独裁体制を築いた。

1937年・・・三国防共協定

1933年には国際連盟を脱退し、国際的な孤立を深めていたドイツは、ムッソリーニ首相率いるイタリア、軍部の暴走が深刻化する日本との間で三国防共協定を結んだ。防共とは、反共産主義、反ソビエト連邦を意味する言葉であり、この一言のおかげで同盟はアメリカ・イギリス・フランスから一定の支持さえ得たのである。のちにはドイツの衛星国も加盟する。

1938年・・・オーストリア併合

ドイツ民族が組織していた旧オーストリア・ハンガリー帝国の本拠地・オーストリアは、ヒトラーの出生地であり、ドイツ民族の誇りでもあった。ドイツ民族による世界帝国を理想とするヒトラーは、まずこの地を手に入れようとしたのである。
ヒトラーはまず、オーストリアにナチス勢力を組織させ、それを拡大させることでオーストリア内での影響力を強めた。オーストリア国内でも急激に国力を伸ばしたドイツへの憧れがあった。ヒトラーはオーストリア首脳との話し合いで恫喝ともとれるやり取りをし、ついにはオーストリアでの主権を手に入れることに成功した。

同年・・・ミュンヘン会談

ヒトラーは次に旧オーストリア・ハンガリー帝国の一部だったチェコスロバキアに狙いをつけた。チェコスロバキアの中でドイツと国境を接するズデーテン地方を割譲するように、ドイツはチェコスロバキア政府に要求した。英仏独伊の4国による会談がドイツ・ミュンヘンで開かれたが、ドイツとの全面戦争だけは避けたかったイギリス首相チェンバレン、国内の政権基盤が確立していなかったフランス首相ダラディエは、これらの併合を承認せざるを得なかった。

同年・・・水晶の夜

ドイツはユダヤ人への迫害を徐々に強化させた。ドイツの親衛隊や秘密警察(ゲシュタポ)は、ユダヤ人の経営する商店を襲い、そのガラスを叩き割って通りにぶちまけ、さらにはユダヤ人の一部を虐殺した。そのぶちまけられたガラスが月の光に照らされて「水晶の夜」なんて皮肉的な名前がついているが、ドイツによる組織的なユダヤ虐殺のはじめとなっている。

1939年・・・独ソ不可侵条約

ドイツは、チェコスロバキアに次いでドイツ帝国の一部だったポーランドを手に入れようとした。ミュンヘン会談をキッカケにして、英仏両国への不信感をつのらせたソビエト連邦の指導者スターリンは、ドイツとの協力を考え始めていた。ドイツも、ポーランドをはさんだソ連との提携を模索していたため、ドイツとソ連との間で不可侵条約が結ばれた。反共のドイツと、共産主義を国是とするソ連との提携は、世界を驚愕させた。

そして……。

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