超大国がゆらぎはじめた

ダラスの銃声

アメリカでは、黒人差別の撤廃闘争が大きく盛り上がり、首都ワシントンでは黒人差別の撲滅を定めた公民権法の立法化を求める民衆の集会が開かれた(ワシントン大集会)。その集会で黒人運動の指導者キング牧師は“I have a dream.”演説を行い、集まった人々の心を打った。アメリカのケネディ大統領はそれに応えて黒人差別のひどい南部諸州への遊説を行い、国民の総意として公民権法をつくる決心だった。

1963年11月、ケネディはテキサス州ダラスを訪れ自動車パレードを行っていた。夫人と並んでオープンカーに乗っていたケネディを、3発の銃弾が襲った。大統領は即死、憲法の規定に従いジョンソン副大統領が大統領職を受け継いだ。ジョンソンは飛行場に到着したばかりの政府専用機(エアフォース・ワン)内で、血まみれのケネディ夫人が立ち会うなか、聖書に手をついて大統領に就任した。このとき、ケネディ暗殺の90分後であった。


南ベトナムの惨状

1955年、旧宗主国フランスが去ったベトナム南部に、アメリカの強力な支援を受けたベトナム共和国(南ベトナム)が樹立された。南の首班はゴ=ディンジェム大統領。彼はアメリカの学校で学んだキリスト教徒で、アメリカ的価値観をもっているとしてアメリカに気に入られた人物である。大統領の弟ゴ=ディンニュー内務大臣は秘密警察を使って国内の政府に逆らう人々を容赦なく弾圧、またキリスト教徒が中心のゴ政権は、反政府勢力であるとして上座部仏教の僧侶たちも苦しめた。

ゴ政権の恐怖政治はかえって国民を反政府に押しやり、60年には南ベトナム解放民族戦線(ベトミン)が結成された。ベトミンはベトナム民主共和国(北ベトナム)の援助を受けて政府軍と戦い、互角の力を見せた。ケネディはゴ政権の腐敗に反政府闘争の原因があると考え、軍部をたきつけてクーデターを起こさせた。
その結果、ゴ大統領兄弟は殺され軍事政府が成立した。ケネディは、軍事政府を援助することによって、ホーチミンの率いる共産体制の北ベトナムの防波堤としての役割を、南ベトナム単独で担わせるつもりだった。しかし、クーデター成功は軍部の将軍たちを元気づけ、実力者がクーデターで政権を握る方法が定着し、政変が頻発して南の政情は不安定だった。


トンキン湾事件

ケネディ暗殺はベトナム情勢にも大きな影響を与えた。

ケネディの後任のジョンソン大統領は公民権法の成立を目標とする「偉大な社会」政策を打ち出し、黒人の貧困を撲滅することを世界に宣言した。ところが、ジョンソン政権はベトナムの泥沼に足をとられることになる。
1965年、北ベトナムをいただくトンキン湾で、アメリカ軍の駆逐艦が北ベトナムから攻撃を受けた。アメリカはこれを非難、その翌日にも攻撃を受けるに及んでジョンソンは報復を命令、空母から飛び立った爆撃機が始めて北ベトナム領を爆撃した。

しかし、トンキン湾事件の真相はアメリカの発表とは異なっている。トンキン湾にいた駆逐艦は、実は北ベトナムの領海を侵犯しており、しかも南ベトナムの軍艦とともに北の行動をスパイする秘密行動に従事していた。北ももちろん国際舞台でアメリカの行動を非難したが、世界は北の言うことに耳を傾けなかったのである。

この後、アメリカ議会はほぼ全会一致で大統領に戦争指揮の全権を与える決議(トンキン湾決議)を行い、ジョンソンに戦争についての「白紙委任状」を与えた。ジョンソンは早速、アメリカ軍による北の爆撃を繰り返すよう指令し、北の国土荒廃を狙った。
「北を石器時代に戻してやる」アメリカ軍の高官の言葉である。


ベトナム戦争

65年、アメリカ海兵隊が南ベトナムのダナンに上陸、ついにアメリカ軍が直接戦争に介入することになった。この後海兵隊は次々と増強され、一番多いときには50万人を超えるアメリカの若者が南で戦争に参加した。ところが南では、ゴ大統領が殺されたクーデター以来、将軍たちが政権の座をめぐって武力闘争を繰り広げ、南の精鋭部隊は戦場には投入されず、大統領を護衛する親衛隊に配置されるありさまだった。

アメリカの国内も不安定だった。黒人は生活の改善を求めて暴動を起こし、黒人指導者のマルコムX(エックス)やカーマイケルが登場し、白人との共存を求めるキング牧師とは異なり彼らは黒人社会の自立をかかげて行動した。これを受けて黒人は黒豹(ブラック・パンサー)党を組織し、白人の暴力には暴力でこたえるという運動を展開した。

黒人の改革運動がひろがると、白人の若者たちも現状に対する不満を行動に移し始めた。カリフォルニア大学バークレー校では、大学当局の偽善性と官僚主義を糾弾した学生運動が盛り上がり、ついには大学本部が学生によって占拠された。運動は警察に鎮圧されたが、この運動は世界中の大学にも波及、日本でも東京大学・安田講堂占拠事件がおこった。
アメリカ社会は多くの問題を抱え、ベトナム戦争の推進について、第一次・第二次の両世界大戦や朝鮮戦争のように国内の絶大な支持を得られなくなっていたのである。

ベトミンと北ベトナム軍は、南の軍隊と激戦を繰り広げた。ベトナム戦争の大きな特徴は、「戦場」がなかったことである。軍隊同士が対峙する戦場がなく、ベトナム国土を覆うジャングルが主な戦争の舞台だった。南軍とアメリカは戦車や戦闘機での敵の殲滅を目指した(Search and Destroy)が、北とベトミンはこれらをジャングルの中で粉砕した。

ベトナム戦争に従軍した兵士の証言

「ジャングルに入っていくのは、冷たい海に飛び込んでいくみたいで、なんだか怖かった。ドアが開いて、叫びながら走ってヘリから下りる。小さな宇宙船みたいな弾が、ひゅうひゅう飛んでくる。腕を伸ばせば、取れるんじゃないかという気がする。自分がどこにいて、これからどこに行くのかという現実が、初めて見えてくる。これは戦争なんだ、僕は本当にこんなところで死んでしまうかもしれない。悪夢のようだった、とにかくショックだった」

「確かに、俺たちは攻撃されている。不注意に頭を上げれば、弾がヒュッと耳をかすめる。だけど、敵が見えない。やつらはどこかにいて、俺たちを見ている。やつらは、俺たちがどこに行くのかさえも、ちゃんとわかっている。俺たちは常に敵の仕掛けた罠で犠牲を払っていた。作戦に出るときは、長い列になって歩いていくんだが、自分の足が踏もうとする地面を見つめながら、今日は誰が罠にかかるだろうか、やられるのは誰だ、と思っている。精神が、本当、くたくたになる」

「誰が敵で、誰が味方なのか、見分けられない。みんな同じように見えた、着るものも同じだ、みんなベトナム人だ。そのなかに、ベトコン(注:ベトナム共産軍の蔑称)がいた。村人は、地雷が埋まっていることを知っていても、注意もしてくれない。地雷を埋めたのは、彼ら自身だったかもしれない。フットボールの試合と違って、敵と味方が区別できないのだ。まわりは敵だらけだった」

ベトナム解放戦線の兵士の証言

「われわれは敵ほど武器を持っていなかったから、アタマを使う必要があった。罠を仕掛け、待ち伏せし、単純だが必殺の武器を使った。アメリカ兵はのろまで不器用だった。ジャングルを通るときは特に、象のように動きが鈍かった。われわれは三人一組で行動したから、武器も簡単で、物音を立てずにすばやく動けた。アメリカ兵を一人でも負傷させるか殺すかして、また一日戦えるなら、それが勝利だった。水滴が石に穴をうがつように、アメリカの軍隊を磨耗させるつもりだった」

(映像の世紀・「ベトナムの衝撃」より引用)

(補足)「アメリカは中国軍の全面介入を恐れて北ベトナムに陸軍部隊を侵攻させなかった」という指摘をいただきました。
                                                                        (2006.3.21)


反戦運動と、テト攻勢

アメリカ軍は行動のPRのためにマスコミを同行させたから、ベトナム戦争の現実はアメリカの家庭に直接伝えられた。やがて大学生を中心とする人々は戦争に対して疑問の声を上げ始めた。軍がジャングルでのゲリラに苦しんだ末にジャングルに毒を撒く「枯葉剤作戦」を展開すると、枯葉剤によってベトナム人に奇形児が誕生するようになり、その状況がアメリカで報道されたため、反戦運動はさらに盛り上がった。黒人勢力も反戦運動に合流、人種を超えた政府を批判する声がジョンソン政権をゆるがせるようになった。

また、マスコミが北ベトナムに潜入取材した特集を報道すると、軍事拠点に限られているとされた北爆(北ベトナム爆撃)が実は民家・病院・発電所にまで及ぶもので、北の国民がひどく苦しめられていることが明らかとなった。

ジョンソン政権に対する決定打となったのは、テト攻勢とソンミの虐殺である。1968年1月、テト(ベトナムの旧正月)にベトミンによる一斉蜂起が起こった。ベトミンは地方の主要都市と南の首都・サイゴン市で蜂起、サイゴン市では大統領官邸・軍中枢・アメリカ大使館を襲った。このうち大使館は占拠され、この模様は世界に生放送された(テト攻勢)。大使館は「アメリカの要塞」と呼ばれる堅固なもので、これをわずか20名が襲撃、占拠に成功したのである。
また、同じ日、逮捕されたベトミン兵士が路上で政府軍によって処刑されたのがアメリカに報道されると、世界は計り知れない衝撃を受けた。
「アメリカが支援する南の政府は、はたしてそれに見合う『善い』国なのか」
その疑問が世界を走ったのだ。

68年3月、アメリカの海兵隊が南のソンミ村を襲い、無抵抗の農民160人が虐殺された(ソンミの虐殺)。この事件もアメリカに報道され、アメリカ軍に対する信用が大きく揺らいだ。
「アメリカ軍はベトナムに何をしに行っているのか。ベトナムに行って、共産主義の手先と戦っているはずのアメリカ軍が、実は罪もないベトナムの農民を苦しめ、あげくのはてには命まで奪っているのではないか」
深い失望がアメリカを包んだ。

この1968年は大統領選挙の年だった。ジョンソン大統領は演説を行って北爆の全面的凍結とアメリカ軍の順次撤退を表明した。ジョンソンは賢明にもアメリカの失望を読み取り、自らの再選が不可能なことを悟り、ベトナム戦争を次期政権にゆだねたのである。
ジョンソンの出身・民主党では暗殺された前大統領の弟、ケネディ元司法長官が停戦を訴えて大統領選挙に立候補、民主党は分裂し混乱した。この混乱のなかで、黒人運動の草分けだったキング牧師が白人男性に狙撃・暗殺された。キング牧師は白人も黒人もその他の人々も「アメリカ人」として生きようととなえていた。その彼の暗殺は、後にくるアメリカの分裂を暗示するものだった。

シカゴでの民主党大会の直前、地方選挙で着実に勢力を伸ばしていたケネディ元司法長官もまた、なんと選挙事務所において暗殺された。「ケネディ家はのろわれている」というのは本当なのか。このことは民主党の混乱に拍車をかけた。民主党大会の行われたシカゴには反戦団体を中心に1万人の若者が集結し、大会本部を守ろうとするシカゴ市警察と武力衝突を繰り広げた(シカゴの流血)
結局、大統領選挙は「法と秩序の回復」をスローガンとするニクソン元副大統領(共和党)が当選、ケネディ・ジョンソンと続いた民主党政権は終わりを告げた。ニクソン大統領はアメリカ軍の撤退をすすめたため、アメリカ本土には軍役を終えた大量の失業者を抱え込んだ。


アメリカ帝国主義の崩壊

長引く戦争で経済は疲弊し、さらに戦場で精神不安、あるいは麻薬にむしばまれた若者を抱えたアメリカは、すでに往時の勢いを失っていた。世界通貨として西側経済を支えたドルの価値が大きく低下し、ドルの権威は揺らぎ始めていた(ドル危機)
ニクソン大統領は「名誉ある撤退」のため、解放勢力の本拠地になっているといわれたカンボジア攻撃のため、カンボジアに政変を起こしてアメリカの味方に引き入れた。
さらに“Great silent majority(沈黙している大多数のアメリカの皆さん)”のフレーズで始まる演説を行って国民の支持を得ようとし、かえって戦争を支持する保守労働者層と反戦をかかげる若者との対立を招き、アメリカの国論は分裂、双方のデモ隊による小競り合いが頻発した。

この間もアメリカ経済は傾く一方だったため、ニクソンはついに決断を下した。アメリカ資本の世界独占を支えたブレトン・ウッズ体制を放棄し、金とドルの交換を停止したのである(ニクソン・ショック、1971年12月)。世界の経済は驚愕した。アメリカは西側の盟主を辞め、ドル防衛のためには経済の秩序はどうでもいいのか。今度は西側世界が失望した。

もうひとつのニクソン・ショックは、米中国交回復である。キッシンジャー大統領補佐官がお膳立てした電撃的なニクソン訪中とニクソン・毛沢東会談は、文字通りショックだった。今まで中華人民共和国政府を認めていなかったアメリカの大統領が、大陸に渡ったのだ。
この裏には、悪化した中ソ関係があった。毛沢東主席による文化大革命(中国独自の社会主義)は、社会主義の盟主を任じていたソ連の心象を当然ながら悪くした。また、スターリン批判に始まるソ連の改革は、中国には気に入らなかった。中ソはついに領土をめぐって衝突するほど仲が悪くなっていたのである。アメリカは中国に接近して、実は北ベトナムをおすソ連を孤立させようとしたのである。

1973年にはアメリカ軍が全員ベトナムから撤退、アメリカは南ベトナムを支援するものの軍事協力は行わなかった。南北ベトナムだけの戦争では、北が士気も勢いもまさっていた。南の支配地域はだんだんせばまっていき、南ベトナムに最後のときが迫っていた。

1974年、アメリカの国力を守ろうとしたニクソン大統領は、72年の大統領に再選されたときのスキャンダルがもとで苦境に陥っていた。民主党本部に盗聴器を仕掛けた、いわゆるウォーターゲート事件が露見し、議会による弾劾審理が始まろうとしていたのである。もはや地位にとどまれないと考えたニクソンは、「国のために私は去る」と言い残し、ヘリコプターに乗って大統領官邸ホワイトハウスをあとにした。

1975年4月末、北ベトナム軍・解放勢力は、南ベトナムの首都サイゴン市への総攻撃を開始、アメリカに支援された近代的な南ベトナム軍は総崩れとなった。南ベトナムでは「北がくると皆殺しにあう」という流言蜚語が流れ、多くのベトナム市民が難民となって周辺地域に流出、アメリカの保護を求めて大使館に難民が殺到した。が、すでに大使館は撤収され、アメリカ人たちは国外に脱出していたのである。
1975年4月30日、南ベトナム政府は崩壊。北の戦車部隊が大統領官邸に突入し、大統領ら高官は無条件降伏した。この瞬間、すでに死去していたホーチミン以来の悲願・ベトナム人による民族統一が達成されたのである。サイゴン市の中心で、南ベトナム軍人の像が引き倒された。50万人の兵隊、5万人の死者、帝国主義の崩壊という犠牲を払ってアメリカが得たのは、今世紀初の敗戦という挫折であった。超大国アメリカは、大きく揺らぎ始めたのである。

・本文の中で、南ベトナムの崩壊に際して引き倒されたのは「アメリカ軍人の像」だと記述していましたが、
正しくは南ベトナム軍の海兵隊員の像である、との指摘をいただきました。
ありがとうございました。    (2006.3.11)


アフガニスタン戦争

ベトナム戦争が終結した4年後の1979年12月、今度はソ連がアフガニスタン紛争に介入した。アフガニスタンでは政治が混乱し、ソ連が支援していた社会主義政権がたおれ、イスラム勢力がイスラム教にのっとった国家を樹立しようと動いたのである。アフガニスタンのウランを手放したくないソ連は軍事介入に踏み切り、あたらしい親ソ連政権を打ちたてようとした。
ソ連軍の大量介入は、当然ながら普通に暮らしていたアフガン国民を怒らせ、反ソ運動が弾圧されると、強権政治をきらったより多くの若者が反ソ運動に身を投じるようになった。なんということはない、ベトナム戦争と同じ構図である。

このころソ連は、ポスト・フルシチョフを勝ち取ったブレジネフ書記長が最高権力を握っていたが、技術開発と経済振興をめざしたフルシチョフ時代の反動からか、ソ連経済はながい停滞期に入っていた。そこへきてアフガニスタンに戦争を起こしたものだから、その影響はベトナム戦争下のアメリカよりも大きかった。ソ連は地続きということもあって70万もの兵を派遣したが、戦争はソ連に不利になる一方だった。

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