これでいいのか?「児童ポルノ処罰法案」
〜あいまいな処罰規定を検討する〜

中島 健

1、はじめに
 1998年3月30日、森山真弓衆議院議員(自由民主党)を座長とする旧連立与党(自由民主党・社会民主党・新党さきがけ)の「与党児童買春問題等プロジェクトチーム」は、「児童買春、児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童への保護等に関する法律案要綱(案)」(以下、「児童ポルノ処罰法案」と呼称)を発表し、議案として第142通常国会に提出した(現在、衆議院で継続審議中)。
 そもそもこの法案の作成は、我が国における「児童売春が野放しにされた状況」に対して他のOECD(経済協力開発機構)諸国等から強い批判があったことにその端を発している。1996年8月ストックホルムで開かれた「第一回児童の商業的性的搾取に反対する世界会議」において、我が国は児童買春放置・児童ポルノ発信の「加害国」として諸外国から非難を浴び、児童売春規制水準の国際化ということが急がれることとなった。そこで、当時「世界会議」に政府代表として出席していた清水澄子参議院議員(社会民主党、当時経済企画庁政務次官)の呼びかけによって、我が国としても他の先進諸国並に児童の基本的な権利を保護し、また日本人が海外(特に発展途上国)で行っていると指摘されている児童売春を国外犯として処罰するべく、旧連立与党の枠組みの中で「児童ポルノ処罰法案」の作成がはじまったのである。
 ところで、その「児童ポルノ処罰法案」第1条は、法案の目的について次のように規定している。

児童ポルノ処罰法案第1条
 この法律は、児童に対する性的搾取及び性的虐待が児童の権利及び利益を著しく侵害することの重大性にかんがみ、児童買春、児童ポルノに係る行為等を処罰するとともに、これらの行為等により心身に有害な影響を受けた児童の保護のための措置等を定め、もって児童の心身の健やかな成長を期し、あわせて児童の権利の擁護に資することを目的とする。

 つまりこの法案は、一連の国際会議で批判された「児童の商業的性的搾取・虐待」を禁止し、「被害児童の保護」を行うことよって「児童の健全な成長」と「児童の権利擁護」を達成しようとしているわけである。しかしながら、一見何の問題も無さそうな、実に結構に見えるこの法律案を詳細にわたって検討してゆくと、その内容の、法案作成者の立法能力を疑わざるを得ないほどの粗雑さ、あいまいさに大いに驚かされる。端的に言えば、本法案は憲法第21条で保障された「表現の自由」を規制する性質のものであるが、本来そのような法律は立法上慎重を期するべき点が多々あるのにも関わらず、法案を作成した「連立与党プロジェクトチーム」の女性議員らの偏見と知識不充分によって、違憲の可能性が濃厚な法案に仕上がってしまっているのである。
 そこで本稿では、既に国会に提出されたこの「児童ポルノ処罰法案」の法律上の問題点を明らかにすると共に、本法案の趣旨を実現するに相応しい児童保護法案の在り方について論じていきたい。

2、ポルノグラフィーの法的規制のあり方
 ところで、「児童ポルノ処罰法案」の是非を巡る議論を始めるにあたって、本稿ではまず、それが前提として立脚していると思われる「ポルノグラフィーの法的規制」のあり方について検討を加えることとする。というのも、根本的な問題としてポルノグラフィーの法的規制の是否を論じないままに「児童ポルノ処罰法案」の問題点を論じることはその論者の立脚点を曖昧にしてしまうからであり、また仮にポルノグラフィーが法的には規制されるべきものではないとすれば、この「児童ポルノ処罰法案」の問題点としては、単にそれが「大人」に対する「児童」の特殊性、そして法文の漠然性ということに絞られ、議論が整理されるからである(逆に、仮に成人のポルノグラフィーが法的に規制されるべきものであるとすれば、「児童ポルノ処罰法案」の意義は国外犯の処罰だけになる)。なお本稿では、「商品化された(男及び女)性」という意味で「ポルノ」乃至「ポルノ的表現」という表現を、また「猥褻な画像」という意味で「ポルノグラフィー」という表現を使っている。従って、単に「ポルノ」乃至「ポルノ的表現」と言う時は、ヘアヌード写真集や雑誌だけでなく、広くミスコンテストや男性アイドル等「性の商品化」の場合も広く含める(語源学的には、「ポルノグラフィー」とは「売春婦を描く」という意味であり、「ポルノ」は単に「売春婦」という意味だったので、この用語法は必ずしも適切ではないが)。
 言うまでも無いことだが、我が国では憲法上「表現の自由」が保障されており、日本国憲法第21条第1項は、「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」としている。これは、民主政国家として自由な政治的意思の形成のためには不可欠な保障であって、フランス人権宣言第11条バージニア権利章典第12条の例を見るまでも無く、全ての自由一般の基礎をなしている。それ故「自己実現の価値」と「自己統治の価値」という二つの価値によって支えられたこの「表現の自由」は、他の人権や権利、例えば社会的受益権や国家賠償請求権等とは異なり「優越的人権」として手厚く保障されている(この様に、司法審査の場においてある人権を他の人権より特別手厚く保障することを「二重の基準の理論」と呼ぶ)。従って、「表現の自由」(及びそれと表裏一体の関係をなす「知る権利」)を規制しようとする立法に対しては、法文に対する「明確性の原理」(漠然性のゆえに違憲の法理、過度に広汎性のゆえに違憲の法理)、表現の事前抑制(検閲等)の禁止、「明白かつ現在の危険」基準の適用、「LRAの基準」(less restrictive alternative、制限的でない他の手段)の適用等の他、訴訟手続き上も規制立法の合憲性推定の排除、挙証責任の転換、当事者適格の要件の緩和などが認められている。
 しかし、以上のように手厚く保障されている「表現の自由」ではあるが、それはあくまで「人権」という名の「権利」の一種である以上、当然に限界が存在する。憲法第12条後段は「又、国民は、これ(この憲法が国民に保障する自由及び権利を濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」と規定しており、「表現の自由」といえども「公共の福祉」に反しないことを要求し、それに反する権利の行使を「権利の濫用」と呼んでいる。「公共の福祉」による制限が各人権に対してどのような法的効果を持つのかについては複数の学説が存在するが、近年では、「個人間の人権の衝突」の調整と、自由国家にとって最小限の任務とされる社会秩序の維持や危険防止の必要性から、各人権にはその性質に応じた内在的な制約があるとする学説が有力である。
 ところで、以上のような性質を持つ「表現の自由」の保障は、性表現についても及ぶのであろうか。従来の説では、刑法上猥褻表現が自然犯として処罰されていることを考慮して、性表現は憲法第21条との関連で違憲性を問われず「表現の自由」の保障が及ばないとされていた。しかし、それでは「猥褻」概念の定義によって本来保障されるべき表現までもが規制されてしまうという危険性を拭い切れないがために、近年では、猥褻文書といえども基本的には「表現の自由」で保障される表現の一種であり、その規制についてはそれを「保障することの法益(法律で守るべき利益)」と「規制することの法益」を比較衡量した上で、具体的な規制の範囲を決定すべきであるという、「定義づけ衡量論」と呼ばれる考え方が採用されている。つまり、「表現の自由」の保障は、基本的には性表現についても当然に及ぶものとされているのである。
 では、そのような通説に立った場合に、成人のポルノグラフィーを法的に規制した我が国刑法の規定は、果たして合憲といえるのであろうか。刑法(明治40年法律第45号)第175条は「わいせつな文書、図画その他の物を頒布し、販売し、又は公然と陳列した者は、2年以下の懲役又は250万円以下の罰金に処する」としており、性表現について「表現の自由」の例外をなしている。この条文で使用されている「わいせつ(猥褻)」という概念は人によって様々に定義されており、一般的に誰もが納得できるような定義付けは難しいが、最高裁判所の判例によれば、猥褻とは「徒らに性欲を興奮または刺激せしめ、かつ普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するもの」であるとしている(1957年「チャタレイ婦人の恋人」事件最高裁判決)。もっとも、その後の「悪徳の栄え」事件最高裁判決(1969年)、「四畳半襖の下張」事件最高裁判決(1980年)では、最高裁は上記の「猥褻の3要件」は維持したものの、「猥褻性の判断は文書全体と比較して決定されなければならない」とする立場をとるようになった。
 だが、このような曖昧な「猥褻」概念を以ってする刑法第175条の処罰規定は、「定義づけ衡量論」という観点からも、又憲法第31条で保障されている罪刑法定主義(国民は、事前に国会の議決によった法律の明確な規定に拠らなければ刑罰を科されない、ということ)という観点からも、無用な規制であって憲法に抵触する恐れがあると言わなければなるまい。
 そもそも刑法(ここでいう「刑法」とは、明治40年法律第45号だけではなく特別刑法も含む)とは、社会の中に存在する様々な利益や価値(生命の安全、生活の安全、道路交通等)の内、法によって保護されるべきであるほど「かけがえの無い」利益の内で、刑罰以外の制裁手段によってはその保護が不可能・不十分であるものを保護するためにある。言い方をかえると、刑法は特に重要な法益の保護のために存在しているのであって、道徳や倫理といった特定の価値観を保護している訳ではないのである。これは、憲法が個人主義の下で価値観の多元性を保障しており、個人が、他人に迷惑をかけない限り、つまり他者の法益を侵害しない限り多数派の国民と異なる価値観を持つことも許されるべきだからであり、また道徳や倫理といった一定の思想や価値観を、国家が法律や刑罰を用いて国民に等しく強制することは許されないとされているからである。例えば、刑法第199条に定められている殺人罪は、殺人が「非道徳的だから」処罰しているのではなく、殺人が他の国民の個人的法益である「生命」を奪う行為だから処罰している。また、例えその行為が生命、身体、自由、名誉、財産といった個人的な法益を侵害していなくとも、その犯罪の性質上、現実の法益侵害が発生するまで刑罰の発動を待つ事が適当ないものについては、個人の集合体であるところの「社会」の法益を保護するという観点から、処罰が行われることがある。例えば刑法第148条(通貨偽造罪)は、やはり偽札製造が社会道徳に反する行為であるから処罰しているのではなくて、偽札を製造することにより「通貨に対する信用」という社会的な法益が侵害されているからこそ処罰しているわけである。同様に、刑法第175条は決してある種の性道徳や倫理を保護している訳ではなく、「社会環境としての性風俗を清潔に保ち、抵抗力の弱い青少年を保護すること」、つまり社会の健全な性秩序を保つ、という社会的な法益を保護しているからこそその存在を認められるわけである。
 ところで、以上のように、社会的な法益は、個人の集合体としての社会の法的利益を守るために保護される法益であり、社会的法益の侵害に対する処罰は、あくまで個人的法益の侵害を予防するためにのみ認められている。従って、仮に社会的法益を保護するために刑罰を科したある条文が、個人的法益を保護する予防効果を客観的に証明できなければ、その条文の存在は過剰な処罰を規定した、問題のある刑罰であるということになる(特に、憲法上手厚く保護されている「表現の自由」を規制する条文については、憲法の最高法規性より違憲無効となろう)。つまり、もし刑法第175条には保護すべき社会的な法益(保護の客体)が見当たらず、個人的法益を保護する上で必要性の無いものであるということが客観的・合理的に証明されれば、それは「表現の自由」を規制する条文であることからしても、直ちに違憲無効であると言うことが出来るわけである。
 それでは、刑法第175条の保護する「健全な性秩序の維持」という社会的な法益は、果たして客観的、科学的に証明され得る合理的な規定なのであろうか。
 刑法第175条及び一連の性風俗を処罰する法律及び条例が正当化されるためには、その処罰によって個人的な法益が侵害される事態、つまり強姦や強制猥褻等の犯罪が抑制され「健全な性秩序」が維持されていることが客観的、科学的に証明されなければならない。ところが、実際の統計資料を注意深く検討すれば、そのような効果は全く認められないばかりか、むしろポルノ(つまり「性の商品化」)に対する規制を緩和したほうが、より性犯罪の発生件数を減らすことが出来るといえるのである。
 平成6年版『犯罪白書』によれば、1993年から過去10年間に我が国において検察が新規受理した性犯罪被疑者の人数は下図のような傾向を示しており、1984年には2308人いた強姦事件の被疑者は1993年には1412人に減少している。また、強姦には至らない強制猥褻事件については、1985年には1604人が送検されていたのが1987年には1305人にまで減少し、その後再び1500人台に戻ったものの、以後顕著な増加が見られるわけではない。

更に、過去30年間の強姦事件の検察認知件数を見ても、下図の通り、我が国における強姦事件は長期的な傾向として減少していることが見て取れる。1965年には6600件を超えていた強姦事件の認知件数は、1990年代には4分の1程度に迄減少しており、再び大幅に増加するような傾向は見られない。

 以上からわかるように、我が国においては、経済発展に伴って性犯罪の発生件数は着実に減少しているのであり、そして我が国経済が大幅に悪化しない限り、この傾向は今後とも続くであろうと推測することが出来るわけである。勿論、上図は単に検察が受理した犯罪件数であって、実際に発生している事件数を必ずしも正確に反映しているわけではないが(捜査機関によって受理されていない犯罪の発生件数を「暗数」と呼ぶ)、少なくとも時代が下って国民生活にゆとりが生まれ、性犯罪に対する国民の意識も高まるようになってからも認知件数・認知人数ともに減少し続けていることから、性犯罪の発生件数は全体として着実に減少していると推測することが出来るのである。
 一方、我が国の経済が戦後大幅に発展し、社会が情報化したことに伴って様々なメディアが発達する(例:1960年代の民間テレビ放送の開始等)と、社会の性に対する意識が変化したこともあって、性的表現や性に関する情報(ポルノ=女性を商品化した情報を含む)は戦後一貫して増加し続けてきている。例えば、週刊誌の売上高だが、出版科学研究所『出版指標年報』によると、1980年から93年にかけての我が国における週刊誌の売上高は下図の通り一貫して増加してきている。無論、全ての週刊誌がポルノ的表現やポルノグラフィーを掲載しているわけではないが、少なくとも大衆消費社会にあってその内容が最も大衆化・低俗化している週刊誌の売上高がこれだけ上昇してきているということからも、男性、女性を問わず性的表現や性に関する情報が着実に増加してきていることは否定できない。

 以上の2つの統計資料から言えることは、我が国においては、少なくとも戦後一貫してポルノ的情報(それが男性の視点からのものであろうと女性の視点からのものであろうと)が増加して来ているにも関わらず、それによって性犯罪は増加するどころかむしろ明らかに減少しているということである。無論、戦後半世紀全体を射程距離に入れてしまうと、性犯罪減少の原因は必ずしも性表現の増加によるものだけではない時期も含まれる。例えば、高度経済成長時代から1970年にかけての性犯罪の減少の原因は、経済発展による民心の安定と女性の地位向上の結果であるということも出来よう。しかし、こうした解釈では、経済成長もひと段落した1980年以後の我が国において、なお性犯罪が減少しつつあることを説明できない(さすがに、1990年代になるとその減少率は鈍くなるが)。少なくとも、高度経済成長以前と比較して格段に性的情報が流通するようになった1990年代において、その増加と性犯罪との間に、一定の合理的な関連性があることは説明できないだろう。以上の2つの統計資料からだけでは、「性情報の増加と性犯罪の発生件数は反比例する」ことを正確に証明するにはなお不十分であるが、少なくとも、これまで我が国の司法当局(最高裁判所)が判例の中で述べてきたような、ポルノグラフィーの規制には「性的秩序を守り、最小限度の性道徳を維持する」効果があるという主張(もっとも、刑法第175条の存在意義は、前述したように裁判官の信奉する特定の性道徳の保護ではなく社会的法益の保護であったことからすれば、刑法の処罰目的が「性道徳の維持」であるなどということを最高裁判所が述べること自体、おかしなことではある。)、あるいは、従来フェミニストらによって主張されてきた「ポルノ(女性を商品化した表現)は女性に対する偏見を助長する」あるいは「性犯罪を誘発する」等といった主張を打破するには十分である(現に、フェミニストの紙谷雅子は、「性の商品化は女性を社会の構成員であると見ていないことの証である」として性の商品化を批判するが、同時にそれを法的に規制することは、客観的に正当化できる基準が存在しない以上不可能であるとしている)。また、諸外国での「社会的な実験」の実例、例えば1950年代にポルノグラフィーを解禁したデンマークその他の北欧諸国において解禁後性犯罪が著明に減少したという事実を考慮すれば、「ポルノ解禁は性犯罪を助長する」といった主張は、いよいよその説得力を失うのである。
 以上より私は、客観的・科学的にその積極的な有効性が証明できない刑法第175条の規定は憲法に違反するのであって、(一個人の道徳感情として、それが許されるものなのかどうかは別として)ポルノグラフィーを法的に規制する客観的、合理的な理由はどこにもない以上、わいせつ物頒布等の罪は非犯罪化されるべきである、という立場をとる(なお、それを証明すべき責任は規制に賛成する立場の側にある)。


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