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本名: | アルフレッド・ジョセフ・ヒッチコック | ![]() |
愛称: | ヒッチ / サスペンスの神様 | |
職業: | 監督、製作者、脚本家、編集者、美術監督 | |
生年: | 1899年8月13日 | |
出身国: | イギリス | |
出身地: | ロンドン レイトンストーン | |
没年: | 1980年4月28日 | |
代表作: | 『汚名』(46) 『めまい』(58) 『サイコ』(60) | |
鶏肉や青果を卸し業を営む敬虔なカトリック教徒の家庭の3人兄弟の末っ子として生まれる。
少年時代、厳格な父親は命令に背いた罰としてヒッチコックを留置場にいれたが、この時の恐怖がトラウマとなって以後警察と監獄嫌いになってしまう。
学生時代を厳格なカトリック系の学校で過ごし、その後ロンドン大学の夜学で電気技師の勉強をしていたが、家計を助けるために大学を中退してケーブル製造会社に就職。
最初は技師として働いていたが、広告部門に移ると美術の才能を開花させて広告のレイアウトを担当。その後、ロンドンの百貨店の広告デザイナーのアシスタントとして雇われた。
1919年にパラマウント社の前身であるフェイマス・プレイヤーズ=ラスキー・スタジオに字幕デザイナーとして雇われ、その後字幕製作班の主任に昇格。約3年間で12本の字幕デザインを手掛けた。
22年には『第十三番』を監督する機会に恵まれるものの、制作費を工面できずに撮影は中断。23年にはイズリントン撮影所のシナリオ・ライターとなり、
『女対女』(23)、『白い影』(23)、『淑女の転落』(24)などの作品で助監督、脚本家、美術監督として活躍し、ドイツのミュンヘンで撮影された『快楽の園』(25)で念願の監督デビューを果たした。
翌26年には記録係兼編集者のアルマ・レヴィルと結婚。
同年には切り裂きジャック事件を下敷きにしたヒッチコック初のサスペンス映画『下宿人』を発表。天井をガラス張りにして階下の人々の不安を表現するなど、『下宿人』はその後のアイディア溢れるヒッチコック映画のはしりとなった。
また、この作品でヒッチコックは制作費を抑えるために初めてエキストラとして出演。遊びで始めた自作へのカメオ出演は、後に彼の作品の見所の一つとなった。
27年にはブリティッシュ・インターナショナル・ピクチャーズ社に移り、29年に初のトーキー『恐喝(ゆすり)』を発表。
『ジュノーと孔雀』(29)や『リッチ・アンド・ストレンジ』(32)などを手掛けた後、独立を望むヒッチコックはゴーモン・ブリティッシュ社に移籍。
34年の『暗殺者の家』は手に汗握るスリルに満ちた傑作サスペンスとして絶賛を浴び、翌35年に公開された『三十九夜』は前作以上の評価と成功を獲得した。
以後、ヒッチコックは『間諜最後の日』(36)、『サボタージュ』(36)、『第三逃亡者』(37)、『バルカン超特急』(38)などの良質のサスペンス映画を立て続けに発表してイギリス映画界での確固たる名声を獲得。
ヒッチコックの才能はハリウッドからも注目を集め、『風と共に去りぬ』(39)の敏腕製作者デビッド・O・セルズニックは80万ドルという破格の報酬で4本の映画を製作する契約を交わす。
ハリウッド入りしたヒッチコックは、ダフネ・デュ・モーリア原作の『レベッカ』(40)を演出。映画は大きな成功を収めてその年のアカデミー作品賞を獲得し、ヒッチコックも監督賞に初ノミネートされた。
『レベッカ』の成功によってハリウッドでの確固たる地位を築いたヒッチコックは、『海外特派員』(40)、『断崖』(41)、『疑惑の影』(43)などの傑作サスペンスを送り出して「サスペンスの巨匠」の名を欲しいままにする。
第二次世界大戦が激化していた44年には祖国のイギリスに戻り、イギリス情報省の依頼で自由フランス軍の戦意高揚を目的とした『ボン・ヴォヤージュ』(44)と『マダガスカルの冒険』(44)の2本のフランス語の短編プロパガンダ映画を製作。
イングリッド・バーグマンをヒロインに起用したニューロティック・スリラー『白い恐怖』(45)とスパイ・サスペンス『汚名』(46)は大きな成功を収め、
46年の『パラダイン夫人の恋』を最後にセルズニックとの契約が終了したヒッチコックは、旧友のシドニー・バーンスタインと共に独立プラダクション「トランス・アトランティック・ピクチャーズ」を設立。
最初の作品として、カット割りを一切しない「テン・ミニッツ・テイク」で撮影した実験作『ロープ』(48)を発表。
しかし、お気に入りの女優バーグマンとの3度目の顔合わせとなった大作『山羊座のものに』(49)は赤字に終わって、トランス・アトランティック・ピクチャーズは破産に追い込まれた。
続く『舞台恐怖症』(50)や『私は告白する』(53)などの意欲作も失敗に終り、ヒッチコックはスランプに陥るが、
54年の『ダイヤルMを廻せ』では当時流行していた3-D技術を駆使して斬新な殺人シーンを披露。
グレース・ケリーをヒロインに起用した『裏窓』(54)と『泥棒成金』(55)は、批評家と観客の両方から好評を博して興行的に大きな成功を収めた。
ヒッチコックは当時映画と敵対関係にあったテレビにも積極的に参入。55年には自身がホストと総合プロデューサーを務めた『ヒッチコック劇場』の放映が始まり、彼独特のブラック・ユーモアがふんだんに盛り込まれた番組は絶大な人気を獲得。
番組は62年まで続き、8年間で265話が作られて、その内17話をヒッチコック自身が監督した。
最盛期を迎えたヒッチコックは、自身のお気に入りの映画『ハリーの災難』(56)、34年の『暗殺者の家』のリメイク『知りすぎていた男』(56)を発表。
58年の『めまい』は初公開時の評価は二つに分かれたものの、今では彼の最高傑作の一本となり、旧友のケーリー・グラントを主演に迎えた『北北西に進路を取れ』は彼の集大成とも言える娯楽サスペンスで、興行的に大きな成功を収めた。
60年にはテレビの撮影クルーを使って低予算で製作した『サイコ』を発表。今までにないショッキングかつ斬新な内容は好評を博し、
63年の『鳥』では人畜無害な鳥が突然人を襲いだす恐怖を描いて興行的な成功を収める。
しかし、『鳥』でヒロインを演じたティッピ・ヘドレンを再び起用したサスペンス『マーニー』(64)は失敗に終り、続く2本のスパイ映画『引き裂かれたカーテン』(66)と『トパーズ』(69)も往年の冴えを失った凡庸な作品となった。
祖国のイギリスで撮影した『フレンジー』'72)はそのサスペンス性が高く評価されたが、76年の『ファミリー・プロット』を最後にこの世を去った。
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