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開目抄講義200405200512 大白蓮華より 先生の講義

第一回 「開目」
第二回 主師親の三徳
第三回 文底
第四回 本因本果
第五回 五重の相対
第六回 請願
第七回 法華経の行者
第八回 法華の深恩
第九回 六難九易
第十回 提婆品の二箇の諌暁
第11回 三類の強敵(上)
第12回 三類の強敵(下)
第13回 なぜ大難に遭うのか
第14回 我日本の柱とならむ
第15回 転重軽受
第16回 我並びに我が弟子
第17回 折伏
第18回 末法下種の主師親(上)
第19回 末法下種の主師親(下)
第20回 生死不二の大功徳

第一回 「開目」top

大聖人に目を開け 民衆に目を開け
 宗教は人間の柱です。
 哲学は人生の骨格です。
 創価学会は「剣豪の修行」ともいうべき教学研鑽の力によって前進してきました。日蓮大聖人から直接、御指導を受けるべき思いで御書を開き、信行学を深め、勇気を奮い起して広宣流布の一切の闘争に勝利してきました。「御書根本」の前進に、行き詰まりは断じてありません。
 私の耳朶には、今も絶えず、戸田先生から受けた御書講義が響き渡っています。
 戸田先生の講義には、生命論あり、幸福論あり、国家論あり、文化論あり、平和論、人物論、組織論、師弟論ありで、闊達な展開を通して、大聖人の仏法を現代に、また、生活に、社会にと蘇らせる力がありました。
 そして、何よりも、御書を通して“地涌の菩薩の皆さん、一国を救う闘争に立ち上がろう”と呼びかけ、一人ひとりの生命の奥底から「使命感」と「勇気」を呼び覚ます慈愛の指導をされた。
 このように万人が「地涌の菩薩」であるとの御書の拝し方は、大聖人滅後700年間、絶えてなかった拝し方であったと確信します。戸田先生ご自身が、獄中の悟達に基づく深き地涌の使命の自覚から御書を講義されていたからです。
 私自身にとっても、戸田先生の講義が、人生を決定する機縁となったことは言うまでもありません。
 運命的な戸田先生との出会いも「立正安国論」の講義の時のことでした。そして、入信後、聴講した法華経講義、また折々の早朝講義でうかがった、深遠なる日蓮仏法の哲理。戸田先生は、まさに講義の達人でした。感銘のあまり、「講義に、無技術の講義、技術の講義、芸術の講義あり」と思った記憶があります。
 私も、戸田先生の弟子として、常に御書講義の最前線に立ち、多くの友に大聖人の仏法を訴えきってきました。
 大聖人の師子吼は、万人の生命に潜む魔性を打ち破る最大の力です。
 相次ぐ大難を乗り越えられた大聖人の大生命力の響きは、苦難と戦う人々に勇気と希望を、そして確信と歓喜を贈ってくださる。
 そしてまた、甚深の思索のお言葉は、私たちに広宣流布と人生の正しい軌道を示されております。
 ゆえに「御書根本」こそ、生活と人生においても、広宣流布の戦いにおいても、「勝利への正しい軌道」なのです。
 私どもの願いは、21世紀を「民衆の勝利「青年の勝利」そして「人間の勝利」の世紀にしたい。この一点にあります。世界はいよいよ人間主義の宗教を待望しています。その新時代を開く要として、また、大切な会員の糧として、大聖人の大師子吼であられる「開目抄」の講義を開始することにしました。
 「生命の世紀」「人間の世紀」を樹立するためにも、日蓮仏法の精髄と、その正統教団である創価学会の正義を語っておきたい。そして、創価学会の魂の根幹を残していきたい。
 哲学は勝利のための戦いの源泉であります。
 崇高にして深遠なる実践哲学である日蓮仏法を真剣に学び、生命に刻む皆様は、永遠の“哲学博士”となることは間違いありません。一人ひとりが、深まる現代社会の闇を、希望の経典、永遠の宝典の光明を照らし、人間世紀を創造する哲学の勇者に育ちゆくことを念願し講義を始めます。
「開目」。
 まさに「開目抄」の全編の主題は「開目」というこの題号に尽きているともいえます。
 本抄の御真筆は現存していませんが、本文を認められた65枚の和紙と、大聖人御自から表紙として「開目」と書かれた和紙1枚の計66枚から成っていたとの記録があります。
 「開目」とは、文字通り「目を開く」ことです。また「目を開け」という大聖人の呼びかけと拝することもできる。
 閉ざされた心の目を、どう開いていくか、無明の闇を、いかなる光明で照らしていくのか。その解決の道を開かれたのが、末法の御本仏・日蓮大聖人であられます。
 「一切衆生の救済」と、「立正安国の実現」を目指し、あらゆる魔性と戦う法華経の行者としての闘争の炎は、北国の佐渡に流されても、いやまして燃え盛っておられたと拝されます。
 その大聖人の御心境が示されているのが、「開目抄」のあまりにも有名な次の一節です。
 「
詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん(023201)
 「
大願を立てん日本国の位をゆづらむ、法華経をすてて観経等について後生をごせよ、父母の頚を刎ん念仏申さずば、なんどの種種の大難・出来すとも智者に我義やぶられずば用いじとなり、其の外の大難・風の前の塵なるべし、我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず(023203)
 社会的に見れば、大聖人は流人です。権力の弾圧による冤罪はあっても、死罪に次ぐ重罪の流刑を受け、いわば、天然の牢獄に入れられたに等しい。しかし、大聖人の心を縛りつけるいかなる鎖も存在するはずがなかった。
 古今東西の歴史で、迫害の受難に耐え抜いた賢人・聖人は少なからず存在します。しかし、迫害の地で、人類を救う宣言をなされたのは大聖人だけでしょう。
 「我日本の柱とならむ」
 いかなる迫害も、あらゆる魔性も、民衆救済の請願に立ち上がられた大聖人を阻むことはできなかった。
 そして「内なる生命の法」に目覚めた人間は、どれほど尊極な魂の巨人になれるとか。
 日蓮仏教は「人間宗」です。大乗仏教の精髄である法華経が開かれた「人間の宗教」の大道を確立され、全人類の幸福と平和実現の方途を未来に残してくださったのが日蓮大聖人です。
 まさに、この大聖人こそ、人類の「柱」であり「眼目」であり「大船」であられる。
 その「柱」を倒そうとしたのが、当時の日本の顛倒した宗教であり、諂曲にして畜生道の僧たちでありました。
佐渡の過酷な環境の中で御執筆
 
この「開目抄」を書かれた由来については、大聖人御自身が「種種御振舞御書」に詳しく記されています。
 「
さて皆帰りしかば去年の十一月より勘えたる開目抄と申す文二巻造りたり、頚切るるならば日蓮が不思議とどめんと思いて勘えたり、此の文の心は日蓮によりて日本国の有無はあるべし、譬へば宅に柱なければ・たもたず人に魂なければ死人なり、日蓮は日本の人の魂なり平左衛門既に 日本の柱をたをしぬ、只今世乱れてそれともなく・ゆめの如くに妄語出来して此の御一門どしうちして後には他国よりせめらるべし、例せば立正安国論に委しきが如し、かやうに書き付けて中務三郎左衛門尉が使にとらせぬ(091909)
 この一節は、文永9(1272)2月の「開目抄」御執筆の時点で大聖人の思いを後に回顧されている内容ですが、まず「去年の11月」つまり佐渡御到着後の文永811月から「開目抄」を構想されたと仰せです。
 大聖人が極寒の地・佐渡の塚原へ到着されたのが111日。
 佐渡の塚原三昧堂とは、墓所の「死人を捨つる所」にある堂のことです。
 一間四面の狭い堂で、祭るべき仏もなく、板間は合わず、壁は荒れ放題にまかせている廃屋当然の建物であった。
 冷たい風が容赦なく吹き抜け、雪が降り積もる環境のなかで、敷皮を敷き、蓑を着て昼夜を過ごされた。慣れない北国の寒さに加え、食料も乏しく、11月のうちには、お供してきた数人の弟子を帰している。
 「筆端に載せ難く候」筆舌に尽くせないほどの劣悪の環境のなかで、現身に餓鬼道を感じ八寒地獄に堕ちたと思わせるような状況であると、大聖人は記されています「
此の国にながされたり・なにとなくとも此の国へ流されたる人の始終いけらるる事なし、設ひいけらるるとも・かへる事なし、又打ちころしたりとも御とがめなし此の国にながされたり・なにとなくとも此の国へ流されたる人の始終いけらるる事なし、設ひいけらるるとも・かへる事なし、又打ちころしたりとも御とがめなし(091713)といわれていた。
 そうした劣悪の環境のなかで、日蓮大聖人は思索を深められ、人類を救う大著を書き綴られた。400字詰原稿用紙で言えば、100余枚に相当する著述を、約3ヵ月で構想され執筆されたことになります。
 大聖人は佐渡に到着されて直ちに、民衆救済の書の御執筆を開始されたのです。
 佐渡における大聖人の御境地について、戸田先生はこう語っておりました。
 「成仏の境涯とは絶対の幸福境である。なにものにも侵されず、なにものにもおそれず、瞬間瞬間の生命が澄みきった大海のごとく、雲一片なき虚空のごときものである。大聖人の佐渡流罪中のご境涯はこのようなご境涯であったと拝される。
 されば『
此の身を法華経にかうるは石に金をかへ糞に米をかうるなり』(091016)とも『日蓮が流罪は今生の小苦なれば・なげかしからず、後生には大楽を・うくべければ大に悦ばし』(023711)もおおせられているのは、御本仏の境涯なればと、つくづく思うのである。
 事実、日蓮大聖人は言語に絶する逆境のなかで、どうすれば全人類を仏にすることができるのかを思索され「開目抄」「観心本尊抄」を認められ、その方途を明確に築かれたのです。古来、大難を耐え忍んだ者はいたとしても、大聖人の偉大さは、その大難のなかで御自身のことよりも民衆救済、人類救済のため楔を打たれたということです。
発迹顕本と「開目抄」
 さて、大聖人の御文で「開目抄」御執筆の動機について『去年の十一月より勘えたる開目抄と申す文二巻造りたり、頚切るるならば日蓮が不思議とどめんと思いて勘えたり』(091902)と仰せられています。留められるべき「日蓮の不思議」とは、その最大のものが、竜の口の法難の時の「発迹顕本」であると拝察できます。
 この時、大聖人は「名字即の凡夫」という迹を開いて、内証に永遠の妙法と一体になった自在の御境地である久遠元初の「自受用報身如来」の本地を顕されました。
 大聖人が発迹顕本されたことによって、凡夫の姿のままで仏界の生命を現す「即身成仏の道」が開かれたのです。
 「開目抄」につぶさに示されているように、大聖人は相次ぐ大難を乗り越えられ、障魔を打ち破る激闘のなかで、発迹顕本という「生命根本の勝利」を勝ち取られたのです。
 私たちも、いかなる障魔も恐れず、勇気ある信心を貫けば、何があっても無明を破り、法性を顕す自分自身を確立することができる。それが私たちの発迹顕本です。そして、この「我発迹顕本」が一生成仏を決する根本になるのです。
 「
一人を手本として一切衆生平等なること是くの如し(056413)と仰せのとおり、日蓮大聖人の発迹顕本は、末代のあらゆる凡夫に通じる成仏の「根本原理」を示されている。また、その「証明」であり、「手本」なのです。
 妙法への揺るがぬ信があれば、万人が、自己の凡夫の肉身に、大宇宙の境涯を広げることができる。
 いわば、末法の全民衆の発迹顕本の最初の一人となられたのが日蓮大聖人であられる。そして、日蓮大聖人は、御自身の発迹顕本を証明されるために、また一切衆生が発迹顕本するための明鏡として、御本尊を御図顕なされた。
 まさに、大聖人は、全人類の柱です。一切衆生が仏性を開いていけるのは、日蓮大聖人の発迹顕本のおかげだからです。この点にこそ「
日蓮によりて日本国の有無はあるべし」(091903)「日蓮は日本の人の魂なり」(091904)との仰せの最も深い意義があると拝せられます。
 「開目」とは、このように「大聖人に目を開け」と呼びかけられているのです。
不惜身命の精神に目を開け
 「日蓮大聖人の開目」とは、すなわち「法華経の行者への開目」であり、したがって「法華経への開目」でもある。
 そのように、「開目」には重層的な意義があり、「開目抄」では、それを拝せる種々の御文が記されております。
 ここで「大聖人に目を開け」との呼びかけに当たる仰せをいくつか挙げてみたい。
 まず、先ほど述べた「大聖人の発迹顕本に目を開け」に当たる御文は有名です。
 「
日蓮といゐし者は去年九月十二日子丑の時に頚はねられぬ、此れは魂魄・佐土の国にいたりて返年の二月・雪中にしるして有縁の弟子へをくればをそろしくて・をそろしからず(022316)
 まさに「大聖人の魂魄に目を開け」と仰せの御文である。
 ここで大聖人は「竜の口の頸の座において凡夫・日蓮は頸をはねられた。今、佐渡で『開目抄』を書いているのは日蓮が魂魄そのものである」と言われている。この「魂魄」とは、発迹顕本された御内証である「久遠元初自受用身」にほかならない。
 ここで、「開目抄」の全編の構成から見た時に、この一節が、大聖人御自身が法華経身読、なかんずく勧持品第十三の身読を説く個所の冒頭に示されていることに着目したい。
 すなわち、この御文では、法華経勧持品で三類の強敵の迫害がいかに恐ろしいものとして説かれていても、魂魄である日蓮には何も恐ろしくはないと言われているのであり、何ものも恐れない久遠元初自受用身の偉大な御境涯の一端を示されているのです。
 三類の強敵は法華経の行者に対して権力を使って弾圧するなど、その恐ろしい迫害の相が勧持品には詳細に説かれている。
 その命にも及ぶ大難を受けた時に「不惜身命」の魂で戦うとの請願を八十万億那由陀の菩薩たちは立てるのであります。
 勧持品には「我は身命を愛せず、但だ無上道を惜しむ」とあります。
 万人を仏にする無上道を惜しんで何も恐れない「不惜身命」の精神を、菩薩の根本の要件として説いているのです。
 名聞名利の悪僧と、愚癡の悪臣が結託して、非道の権力によって法華経の行者へ襲いかかった時、不惜身命の「師子王の心」を持てる者が仏になる。大聖人は「開目抄」とほぼ同じ時期に書かれた「佐渡御書」でこのように明かされています。
 したがって、「開目」には「大聖人の不惜身命の精神に目を開け」との意義が含まれていると拝したい。

障魔と戦いきる人が末法の師
 次に、大聖人が遭われた大難の相と勧持品に説かれる三類の強敵の迫害の相とが一致することをつぶさに検討された末に結論された御文を拝したい。ここにも、「大聖人に目を開け」との意を拝察することができます。
 「
仏と提婆とは身と影とのごとし生生にはなれず聖徳太子と守屋とは蓮華の花菓・同時なるがごとし、法華経の行者あらば必ず三類の怨敵あるべし、三類はすでにあり法華経の行者は誰なるらむ、求めて師とすべし一眼の亀の浮木に値うなるべし(023005)
 「求めて師とすべし」 三類の強敵と戦いぬく法華経の行者こそ、末法の人々を救う真正の「師」であるとの結論です。障魔と戦える人のみが「末法の師」なのです。
 「
魔競はずは正法と知るべからず(108716)とも仰せのように、末法で正法を正しく持ち、実践する人には、必ず障魔が競い起こる。
 万人に具わる仏性を、一人ひとりの生命に、そして社会に現す方途を確立することが、末法の人々を救う唯一の道である。その大道は、万人に具わる元品の無明を打ち破る、深く強き「信」を確立できる人のみが、開くことができる。なぜならば、あらゆる障魔の正体は、まさに元品の無明にあるからです。元品の無明との戦いを示さない教えでは、決して「末法の正法」でもなければ「末法の師」とも言えない。
 元品の無明は、本来は修行の最終段階に進んだ菩薩があう、妙法に対する根本的な迷いであり、等覚の菩薩ですらも、この迷いに道を失うことがあるという。
 末法は「白法隠没」と言われるように、正法が隠没し、邪智が深まる時代です。この末法に正法を行ずるには、元品の無明との対決が不可欠なのです。
 そのために大聖人は「開目抄」の中で二つの点を強調された。
 その第一は、「五重の相対」によって、何が末法の正法かを明確にされたことである。
 それは「文底の一念三千」であり、法華経本門寿量品で説かれる久遠の「本因本果」である。簡単に言えば、純粋で強い信によって元品の無明を破ることにより、今の九界で自分と永遠の仏界の生命との互具を実現する「真の十界互具」である。これこそが、九界の自分に仏界を涌現させて即身成仏・一生成仏を実現させてく法であり、これのみが「末法の正法」なのです。
 第二には「請願」を強調されています。
 法華経本門寿量品の文底に秘沈されている末法の正法は、難信難解である。しかし、万人の成仏という仏の大願をわが願いとして、広宣流布の戦いを不退転で戦い抜くことを誓うことにより、「信」を鍛え、強化していけるのです。そして、発迹顕本を遂げられ、末法救済の大法を確立された大聖人こそ「末法の師」であり、「末法の御本仏」なのです。
 大聖人の請願を示されている御文については、すでに冒頭にも引用したが、もう一度、掲げておきたい。
 「
詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん、身子が六十劫の菩薩の行を退せし乞眼の婆羅門の責を堪えざるゆへ、久遠大通の者の三五の塵をふる悪知識に値うゆへなり、善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし、大願を立てん日本国の位をゆづらむ、法華経をすてて観経等について後生をごせよ、父母の頚を刎ん念仏申さずば、なんどの種種の大難・出来すとも智者に我義やぶられずば用いじとなり、其の外の大難・風の前の塵なるべし、我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず(023201)
 以上の二点は、「開目抄」の骨格を成す法理であり、後に本文の講義のなかでさらに詳しく考察していくことにします。
忍難・慈悲に目を開け
 関連して、御文をもう一つ拝したい。
 「
されば日蓮が法華経の智解は天台・伝教には千万が一分も及ぶ事なけれども難を忍び慈悲のすぐれたる事は・をそれをも・いだきぬべし(020208)
 多くの同志の心に刻まれているこの御文もまた、「大聖人に目を開け」と呼びかけられている御文であると拝することができます。
 ここで大聖人は法華経の智解については天台伝教よりも劣ると御謙遜されているが、先に述べたように、末法の一切衆生の成仏を実現する要法を把握されるという最高の智慧を本抄では示されている。
 しかし、この要法は衆生一人ひとりの一念において十界互具・仏界涌現を実現するための究極の法であり、説明することはもとより難しいが、衆生一人ひとりに弘め、実現していくことは、さらに困難なのです。
 それは前代未聞の戦いであり、時代は悪世、法は難信の要法、そして弘める人の姿は凡夫であるがゆえに、大難は必定なのです。そこで、大聖人は、相次ぐ大難に耐えながら、仏界の生命を凡夫の我が身に開き顕していかれた。その大聖人の生き方・実践を手本として提示し、万人に弘めゆく方途を確立されたのです。
 その戦いを貫き、完遂された原動力は「誓願」です。そして、そのさらなる根底には一切衆生の大慈悲があらわれた。
 この大慈悲こそ、私たちが大聖人を「末法の御本仏」と拝するゆえんなのです。
 大聖人自身も、末法の一人ひとりの人間を根底から救う折伏の戦いの本質は慈悲であるとして「
日蓮は日本国の諸人にしうし父母なり(023705)と仰せられています。これは「開目抄」の結論であり、「大聖人の慈悲に目を開け」との呼びかけであると拝することができます。
 戸田先生は、「開目抄」の御文を引きながら、万人の、全人類の境涯革命こそが「如来事」であるとして、その実践を同志に向かって呼びかけられています。
 「全人類を仏にする。全人類の人格を最高価値のものとする。これが『如来の事』を行ずることであります。
 大聖人が開目抄に『
日蓮が法華経の智解は天台・伝教には千万が一分も及ぶ事なけれども難を忍び慈悲のすぐれたる事は・ををも・いだきぬべし(020208)と仰せられた深意は、一切衆生をして仏の境涯を得させようと、一生をかけられた大聖人のご心中であります。
 これこそ目の前に見た『如来の事』であります。学会のみなさま、われわれも『如来の事』を行わなくてはなりませぬ。しからば、いかにして全人類に仏の境涯を把持いたさせましょうか」
 大聖人は万人の成仏、全人類の境涯革命を目指し、法体の確立・流布のために忍難・慈悲の力を現されました。学会は、これら大聖人の精神を受けて、牧口初代会長の時代より、大聖人の仏法を現実変革の法として受け止め、民衆救済の戦いに邁進していきたいのです。
根底は民衆への慈悲と信頼
 題名の「開目」の意義は、以上のように重層的に拝することができますが、「大聖人に目を開け」ということが基調になっているといえます。そして、その根底には、さらに民衆の慈悲と信頼がある。それは「民衆に目を開け」と、表現できるものです。
 大聖人の仏法は「師弟不二の仏法」です。大聖人はご自身が身をもって確立した末代凡夫の即身成仏の道を弟子たちにも勧められています。
 「
我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし、天の加護なき事を疑はざれ現世の安穏ならざる事をなげかざれ、我が弟子に朝夕教えしかども・疑いを・をこして皆すてけんつたなき者のならひは約束せし事を・まことの時はわするるなるべし(023407)
 ここでは、無疑曰信・不惜身命の「信」を同じくするころをもって、大聖人と弟子たちとの師弟不二の道とされています。この「信」には「疑い」を退けていることから明らかなように、生命にひそむ魔性や外からの悪縁となる障魔との闘争が含まれていることはいうまでもありません。
 そして、大聖人の戦いに連なっていけば「成仏」の果も間違いないと保証されております。いかなる人も、因行・果徳とともに大聖人と不二になれるからです。
 このことは、本抄に一貫して拝することができる「大聖人に目を開け」という呼びかけが、実は人間・民衆への深い信頼の上に成り立っていることを意味しているのです。
 そこで私は、本抄の「開目」の意義として「大聖人に目を開け」の呼びかけとともに、「人間に目を開け」「民衆に目を開け」との熱い呼び掛けであることを明言しておきたいと思います。
万人の仏性を開く「開目の連帯」
 結論して言えば、「開目抄」を拝することは、日蓮大聖人を末法の成仏の「手本」とし、成仏の道を確立した「末法の教主」として正しく拝することにほかならない。また、文底の民衆仏法の眼から拝せば、「開目抄」を拝することは、「人間への信頼」に立つことであると言えます。
 そう拝した時、「開目抄」を真に正しく拝読した者がいずこにいるか。あらためて、戸田先生の慧眼が光り放つといえるでしょう。講義の第一回を結ぶにあたって、恩師・戸田先生の次の一節を紹介しておきたい。
 「私が大聖人様の御書を拝読したてまつるにさいしては、大聖人様のおことばの語句をわかろうとするよりは、御仏の偉大なるご慈悲、偉大なる確信、熱烈たる大衆救護のご精神、ひたぶるな広宣流布への尊極なる意気にふれんことをねがうものである。
 私の胸には御書を拝読するたびに、真夏の昼の太陽のごとき赫々たるお心がつきささってくるのである。熱鉄の巨大なる鉄丸が胸いっぱいに押しつめられた感じがあり、ときには、熱湯のふき上がる思いをなし、大瀑布が地をゆるがして、自分の身の上にふりそそがれる思いがするのである」。
 この戸田先生の拝読の御精神こそが、創価学会の御書拝読の永遠の指針であると確信する。御書を拝することは、民衆救済の大慈悲の哲理に触れることであり、日蓮大聖人の広宣流布の御精神に浴することに通じます。
 私たちも、地涌の勇者として、全人類の無明の目を開き、万人の仏性を開く「開目の連帯」を築いていきたい。今、世界中で、日蓮大聖人の人間主義の仏法を待望しています。私たちの平和と文化と教育の大運動をみつめています。


第二回 主師親の三徳top

忍難と慈悲で民衆仏法開く

0186
開目抄上    文永九年二月    五十一歳御作   与門下一同    於佐渡塚原
01
   夫れ一切衆生の尊敬すべき者三あり所謂主師親これなり、又習学すべき物三あり、所謂儒外内これなり。  ・

 いったい、一切衆生の尊敬すべき者が三つある。それは主人と師匠と両親である。・また習学すべき物が三つあえる。それは儒教と外道と内道たる仏教である。

10   かくのごとく巧に立つといえども・いまだ過去・未来を一分もしらず玄とは黒なり幽なりかるがゆへに玄という
11
 但現在計りしれるににたり、(0186)
 
 このように巧妙に、その哲理を立てているとはいえ、まだ過去世・未来世については一分も知らず。玄とは闇黒で、さっぱり何かわからないということである。したがって、ただ現世のことのみは知っているようであるが、それも仏法のごとき実相はもちろん知るよしもない。
01                                       孔子が此の土に賢聖なし西方に
02
 仏図という者あり 此聖人なりといゐて外典を仏法の初門となせしこれなり、 礼楽等を教て内典わたらば戒定慧を
03
 しりやすからせんがため・王臣を教て尊卑をさだめ 父母を教て孝の高きをしらしめ 師匠を教て帰依をしらしむ

孔子が「この中国には賢人・聖人がおらない。西の方に仏図という者があり、これは真の聖人である」といって、外典の教えはすなわち仏教に入るための段階であるとなしたのは、この意味である。すなわち儒教においては礼楽等を教えて、後に仏教が伝来した時に、戒定慧を知りやすからしめんがため、王と臣の区別を立て、尊卑を定めて、もって主の徳をあらわし、父母を尊ぶことを教えて、もって親の徳をあらわし、師匠と弟子を明らかにして、もって師に帰依すべきことを知らしめたのである。

12     其の見の深きこと巧みなるさま儒家には.にるべくもなし、或は過去・二生・三生.乃至七生・八万劫を照見
13
 し又兼て未来・八万劫をしる、其の所説の法門の極理・或は因中有果・或は因中無果・或は因中亦有果・亦無果等云
14
 云、此れ外道の極理なり所謂善き外道は五戒・十善戒等を持つて有漏の禅定を修し上・色・無色をきわめ上界を涅槃
15
 と立て屈歩虫のごとく・せめのぼれども非想天より 返つて三悪道に堕つ 一人として天に留るものなし而れども天
16
 を極むる者は永くかへらずと・をもえり、各各・自師の義をうけて堅く執するゆへに 或は冬寒に一日に三度・恒河
17
 に浴し或は髪をぬき 或は巌に身をなげ或は身を火にあぶり或は五処をやく 或は裸形或は馬を多く殺せば福をう或
18
 は草木をやき或は一切の木を礼す、 此等の邪義其の数をしらず 師を恭敬する事・諸天の帝釈をうやまい諸臣の皇
0188
01
 帝を拝するがごとし、 しかれども外道の法・九十五種・善悪につけて一人も生死をはなれず 善師につかへては二
02
 生・三生等に悪道に堕ち 悪師につかへては順次生に悪道に堕つ、 外道の所詮は内道に入る即最要なり

その見の深く巧みなる様は儒教の遠く及ばないところである。あるいは過去世の二生・三生乃至七生・八万劫のかこまでも照見することができ、また未来八万劫を知ることができた者さえあり、その所説の法門の極理が、あるいは「因の中に有り」、あるいは「因の中に果無し」、あるいは「因の中に亦は果有り亦は果無し」等云云ということである。これが外道の極理である。
 いわゆる善き外道は五戒・十善戒等の戒律を持ち、有漏の禅定を修め、次第に修業を積んで色界の天・無色界の天をきわめ、上界を涅槃と立てて、尺取り虫のごとく一歩一歩修業し、のぼれども、非想天より、かえって三悪道に堕ちてしまい、一人として天界に留まる者がいなかった。けれども、外道を信ずる者は、その根本が邪見であるために、天界から三悪道へ堕ちたとは知らずに、天をきわめた者は長くかえらないのだと思っていた。おのおの自派の師匠の義を受けて、これに堅く執着するゆえに、あるいは寒い冬に一日に三度、恒河に浴し、あるいは髪の毛を抜き、あるいは巌に身を投げ、あるいは身を火にあぶり、あるいは手足と頭との五処を焼く。あるいは裸体になり、あるいは馬を多く殺せば幸福になれる、あるいは草木を焼き、あるいはいっさいの木を礼拝した。これらの邪義は数え切れないのである。その師を恭敬する様は諸天が帝釈を敬い、諸臣の皇帝を拝するごとくであった。
 しかれども、外道の九十五種の修業では、善につけ悪につけ、一人も煩悩。生死の根本を悟ることはできないで、善師に仕えては、その時には事がなくても、二生・三生等に悪道に堕ち、悪師に仕えては次の世で悪道に堕ちた。結局のところ、外道の所詮は、仏教に入るための経路である。

06   三には大覚世尊は此一切衆生の大導師.大眼目・大橋梁.大船師,大福田等なり、外典・外道の四聖.三仙其の名は
07
 聖なりといえども実には三惑未断の凡夫・其の名は賢なりといえども 実に因果を弁ざる事嬰児のごとし、 彼を船
08
 として生死の大海をわたるべしや彼を橋として六道の巷こゑがたし 我が大師は変易・猶を・わたり給へり況や分段
09
 の生死をや元品の無明の根本猶を・かたぶけ給へり 況や見思枝葉のソ惑をや、(0188)

 第三に大覚世尊・釈迦仏は一切衆生の大導師・大眼目・大橋梁・大船師・大福田等である。幸福になれる根本の道をしめしてくれた師匠である。儒教の師たる四人の聖人や、外道の三仙は、その名は聖人であるとはいえ、実には見思惑・塵沙惑・無明惑の一つさえも末だ絶ちきれない、迷いの凡夫であり、その名は賢人とはいえ実には因果の道理を弁えないことは赤児のごとき状態である。このような嘘の聖賢を師と仰いでも、これを船として生死の大海を渡れることがあろうか。これを橋として六道の迷いから抜け出られるであろうか、できないことである。しかし、釈迦仏は歴劫修業の菩薩行をすでに満じて、変易をさえわたらされた方である。いわんや六道凡夫の分段の生死に迷っているはずがない。元品の無明の根本をさえ断ち切られた方である。いわんや見惑・思惑の枝葉の迷いを断たれたことはいうまでもない。

真の主師親と真の成仏の因果
 「開目抄」全体を貫く主題は「主師親」の三徳である。それは本抄冒頭の一節に明確に示されています。
 「
夫れ一切衆生の尊敬すべき者三あり所謂主師親これなり、又習学すべき物三あり、所謂儒外内これなり」(018601)万人が尊敬すべきものとして「主の徳」「師の徳」「親の徳」という三徳を挙げられているのです。
 さらにまた、修学すべき思想・宗教として儒・外・内、すなわち儒教・道教などの中国の諸教、インドの外道つまり仏教以外の諸教、そして内道の三つを挙げられている。
 これらは、要するに、当時、日本に伝えられていた世界の主要な思想のすべてを挙げられているのです。
 全世界の主要な思想・宗教を検討して、一切衆生にとって真に尊敬すべき主師親の三徳を具備する存在は誰かを明らかにしていくいことが、本抄の骨格として貫かれている大テーマとなります。
 これらの思想・宗教に説かれる神々や仏・菩薩・聖人・賢人らは、何らかの形で主師親のいずれかの徳を具えたものとして説かれており、実際に、多くの人々から尊敬されていた。しかし、大聖人がここでテーマにされているのは、主師親の三徳はすべて兼ね備えた存在は誰かということです。三徳を「具備」していてこそ、「一切衆生」に尊敬されるにふさわしい存在だからです。
 大聖人は祈禱抄で、こう言われています。
 「
父母なれども賎き父母は主君の義をかねず、主君なれども父母ならざればおそろしき辺もあり、父母・主君なれども師匠なる事はなし・諸仏は又世尊にてましませば主君にては・ましませども・娑婆世界に出でさせ給はざれば師匠にあらず・又『其中衆生悉是吾子』とも名乗らせ給はず・釈迦仏独・主師親の三義をかね給へり(父母であっても、賎しい父母は主君の義を兼ねていない。主君であっても、父母でなければ、恐ろしい思いもする。父母や主君であっても、師匠であることはない。諸仏はまた世尊であるから、主君ではあるけれども、娑婆世界に出ることはないので、師匠ではない。また「其の中の衆生は、悉く是れ吾が子なり」とも名乗られていない。釈迦仏独りが主師親の三義を兼ねておられる)(130508)
 この仰せは、諸仏のなかで釈迦仏のみが主師親の三徳を具備していることを示されていますが、これは仏教以外の諸教に範囲を広げても同じです。
 「開目抄」に述べられておるように、古代インドの中国の思想・宗教においては、創造神の裁きの神、また理想的な皇帝、さらに教えを残す聖人・賢人などに主師親の三徳があるとされてきました。しかし、いずれも三徳具備とは言えない。
 尊貴され、威厳、力など、主の徳に当たるものは具えていても、父母の慈愛のような徳が見られない場合がある。逆に、慈愛の徳があっても、尊貴さがないものがある。さらに、尊貴さや慈愛があっても、衆生を導く法を説かないで師の徳が見られないものもある。このように三徳の一分しか具えていない場合がおおいのです。
 「開目抄」では儒外内の三徳を論ずるなかで、それぞれの教えがいかなる「法」を説いているか、また、その法に基づいて衆生がいかなる実践をしているかに焦点を当てて検討を進められていきます。
 三徳は、衆生との関係で表される仏・菩薩や諸尊の徳ですから、衆生に何を教え、いかなる実践を促すのが、三徳の真正さを知るうえで非常に重要であることはいうまでもありません。
 その観点から検討すると釈尊こそが一切衆生に対して三徳を具備しているのであり、中国の儒家やインドの外道の諸尊・諸師は「因果」を知らず、真の主師親は言えない、と結論されている。
 「
大覚世尊は此一切衆生の大導師・大眼目・大橋梁.大船師,大福田等なり、外典・外道の四聖・三仙其の名は聖なりといえども実には三惑未断の凡夫・其の名は賢なりといえども実に因果を弁ざる事嬰児のごとし、彼を船として生死の大海をわたるべしや彼を橋として六道の巷こゑがたし我が大師は変易・猶を・わたり給へり況や分段の生死をや元品の無明の根本猶を・かたぶけ給へり 況や見思枝葉の麤惑をや(018806)
 ここで仰せの「因果」とは、人間の幸不幸を決する「三世の因果」であり、本抄ではさらに「五重の相対」を通して、真の「成仏の因果」である「本因本果」が明かされていきます。これこそ、法華経本門寿量品の文底に秘沈されている真の十界互具・一念三千なのです。
 開目抄の前半では、これまで伝えられた儒・外・内の教えのなかでは、一往、釈尊が一切の衆生に対して三徳を具備していると結論されます。そのうえで、釈尊の教えのなかでも「文底の一念三千」こそが真の成仏の法であり、末法の衆生を救う大法であることを明かされています。釈尊こそが主師親の三徳を具備されているとされているのも、この真の「成仏の因果」を自ら悟り、体現し、法華経として説きあらわされたからなのです。
法華経の行者の実践に主師親が具わる
 本抄の後半では、この真の「成仏の因果」を悟り、それを末法の全民衆に開いていく大聖人の「法華経の行者」としての戦いが明かされていきます。
 大聖人は、ただお一人、法華経の文底に秘沈された成仏の大法を知らないとともに、この成仏の法を妨げる悪法が日本国に蔓延していることを知られている「
日本国に此れをしれる者は但日蓮一人なり(020009)と仰せです。しかし、その正法正義をひとたび説くや、想像を絶する末聞の嵐が吹き荒れます。「山に山をかさね波に波をたたみ難に難を加へ非に非をますべし(020202)
 そうした闘諍の時代、濁世の様相のなかで、それでも大聖人は、流罪、死罪の大難を越えて民衆救済の精神闘争を止められることはなかった。その御境涯を示されたのが、次の一節です。
 「
されば日蓮が法華経の智解は天台・伝教には千万が一分も及ぶ事なけれども難を忍び慈悲のすぐれたる事は・をそれをも・いだきぬべし(020208)
 この一節についての詳細な講義は後の機会に譲るとして、ここで結論だけを記せば釈尊以後の仏教史にあって、民衆救済の忍難と慈悲の次元において、日蓮大聖人の仏法指導者は存在しないとの大宣言であります。
 法華経の行者である大聖人に、なぜ法華経に説かれている通りに諸天善神の加護がないのか。また、なぜ迫害者たちに現罰がないのか、本抄後半は、この疑問をめぐって展開されます。この疑問は、本抄御執筆の背景の一つとして取り上げられる重要な疑難です。これは、世間から大聖人に浴びせられた中傷であると同時に、退転し、あまつさえ反逆した門下からも寄せられた
 この疑問は、本抄御執筆の背景の一つとして取り上げられる重要な疑難です。これは、世間から大聖人に浴びせられた中傷であると同時に、退転し、あまつさえ反逆した門下からも寄せられた避難で非難でした。
 大聖人は本抄で「
此の疑は此の書の肝心・一期の大事(020313)として、この疑難に正面から向き合い、人々の疑いを晴らしていかれた。
 そのなかで、次第に明らかになるのが、法華経で説かれる法華経の行者として弘教の振る舞いや、受ける迫害の相と、大聖人のお振る舞いとの完全なる一致です。
 特に、宝塔品第十一に説かれる菩薩との誓願の勧めと六難九易、提婆達多品第十二の凡夫成仏の奨励、そして勧持品第十三に説かれる三類の強敵による法華経の行者への大迫害。すべて大聖人こそが法華経の行者であることを証明するものとなっているのです。
 大聖人こそが、文底の大法を悟られ、それを末法の人々を救うために弘められている真の法華経の行者であられる。そのことが、大聖人のお振る舞いと法華経の経文との一致が確認されるにつれて、厳然と証明されていきます。
 法華経の経文による御自身のお振る舞いの精緻な検証が極まったとき、大聖人御自身の「民衆救済の誓願」が迸るように宣言されます。それが「
詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん(023201)以下の師子吼にほかなりません。
 精神の究極の頂上に立たれて、迫害者や退転者の蠢きをはるか下方に悠然と見下ろされている。無知や不信や迷いを突き抜けた青空から降り注ぐような慈悲の陽光の御境涯が拝されます。
 本抄ではさらに、弟子たちに、民衆救済に徹する仏法の実践こそ、転重軽受・宿命転換の直道であり、一生成仏の大道であることを示されていきます。
 そして最後に、折伏の本質は「慈悲」であることが示されています。どこまでも一切衆生を思う大慈悲のゆえに悪と戦い、難を忍ばれ、法を弘めていかれるのです。この「慈悲」に即して、大聖人は御自身こそが末法の主師親三徳であることを力強く宣言されます。
 「
日蓮は日本国の諸人にしうし父母なり」(023705)
 当時の日本国とは、法滅の国です。この日本国の諸人を救うのは、全人類の救済を可能にします。すなわち、日蓮大聖人こそが、日本国の諸人、再往は末法万年にわたる全人類の主師親の三徳具備の人本尊であれらることを宣言されている一節にほかなりません。
 このように、「開目抄」では、導入部で主師親の三徳を主示し、結論部において、法華経の行者として戦われる日蓮大聖人こそが、主師親三徳を現した方であられることを宣言されているのです。
末法下種の主師親
 以上、大聖人の主師親論として本抄の展開の大要を述べました。
 これに基づき、日蓮大聖人の主師親三徳、つまり「末法下種の主師親」について、さらに拝察していきたい。
 大聖人は成仏の種子である妙法蓮華経を悟られただけではない。末法に生きる一切衆生の異の苦、また同一苦を、御自身一人の苦として受けられながら、妙法蓮華経を受持し抜かれました。また、この大法を末法の全衆生のために身命を惜しまずに説き弘められた。この大聖人の偉大なる振る舞いに、末法の衆生を啓発して成仏を可能にする「末法下種の主師親」の徳を拝することができるのです。
 まず、妙法蓮華経は宇宙根源の法です。大聖人は、その法を悟られただけでなく、大難を越えながら妙法受持を貫かれた、このお振る舞いは、大聖人の御生命が妙法蓮華経と完全に一体化されたことを証明するものであり、宇宙全体と一体化した宇宙即我の御境地を示されていると拝察できます。
 この広大にして尊貴なる御境涯は「主徳」と拝することができます。釈尊の主徳は法華経譬喩品で「三界は我が有」と表現されていますが、これにならって大聖人の主徳を表現すれば「宇宙は我が世界」と言えるではないでしょうか。
 かなる大難があっても、師子王の心を取り出し、いささかも揺るぐことなく、請願のままに広宣流布に邁進されるお姿は、宇宙の中心に屹立する法華経の大宝塔さながらの荘厳さと威厳を拝することができます。
 次に、大聖人は御自身の御生命を事実として顕現された妙法蓮華経を、衆生のために実践化されました。
 すなわち明鏡たる御本尊と信・行の題目をもって衆生の成仏の道に導かれたことは、まさに「師徳」を現されていると拝することができます。
 そして、衆生を苦悩から救うために、末法の凡夫が己心に仏界を開くことができることを弛まず説き続けて励まされた。
 とともに、自他の内なる仏性を信じられない謗法の心を厳として戒め、謗法に引きずり込む悪縁の教えには、強く呵責された。
 そして、この謗法呵責のゆえに大難を受けられたが、それをすべて忍ばれた、これらは、すべて、大聖人の大慈悲によるのです。
 法華経譬喩品第三では「三界の中の衆生はみな我が子である」と親の徳が示されていますが、大聖人の忍難・弘教のお振る舞いに、末法の衆生に我が子のごとく育まれる「親徳」を拝することができます。
凡夫成仏の「先駆」「手本」
 大聖人は、末法広宣流布の「最初の人」「先駆の人」として、一切衆生を救うために大法を弘められ、そのた闘いに自ずと主師親三徳を具えられたのであります。
 また、大聖人の先駆の戦いを、それに続く弟子の立場から言うならば、末法における凡夫成仏の「模範」であり「手本」として拝することができます。
 大聖人は「一人を手本として一切衆生平等なること是くの如し」(056413)と言われています。なかんずく、凡夫成仏の手本は大聖人以外におられない。ゆえに私たちは大聖人を「人本尊」と拝するのです。
 この点について、牧口先生が、真理を発見して教える「聖賢」の立場と、その真理を信じて実践し価値創造する私たち「凡夫」の立場を区別されたことを思い起します。究極の真理を発見する「聖賢」は一人でよく、その他の人は真理を実践し証明することに果たすべき使命があると考えられたのです。
 すなわち次のように述べています。
 「先覚の聖賢が、吾々衆生の信用を確立せしめんがために、教えを開示された過程と、それを信じて導かれ、最大幸福の生活に精進せんとする吾々凡夫の生活過程とは、全く反対であるべきものである」
 すなわち“聖賢が出て、万人が信じ実践する根本法を確立した後は、私たち凡夫はその結論を実践し結果を体得してから、その法理を理解すればよい”と言われているのであります。それにもかかわらず、聖賢の教えを伝承する者が、聖賢が結論に至る過程までの追体験することを民衆に要求するのは「大なる錯誤」、「道草を喰ふ無益の浪費」であるとし、真理の価値の混同を厳しく批判されています。
 自他ともの幸福の実現こそが人間の最高の目的であると考える牧口先生にとっては、現実に苦悩を除き、幸福をもたらすことが目的であり、そのための手段にすぎなかった。
 さらにいえば、この実践の「規範」としては、凡夫、普通の人の方が望ましいと考えられていたのです。
 つまり「最高の具体的規範となる目標」はあっても、あまりにも「完全円満」な存在であれば、見習う人にとっては「崇拝するが及ばぬものとして近付き得ぬ目的」である。むしろ「最低級なる姿」すなわち凡夫の姿のままで「下種的利益」をなす人こそが「最大無上の人格」であるとされているのです。
 現実に苦悩にまみれて生きる人間にとって模範たりえる人こそ、最高に尊いのです。
 日蓮大聖人は、苦悩の渦巻く時代に一庶民として誕生され、現実に生きる人間に仏界を涌現させるという人間主義の実践を貫かれた。
 それ故に種々の難にあわれ、法華経を身読してこの教説を証明し、人間のもつ偉大な可能性をその身の上に示し顕してくださった。
 牧口先生はその点について「それが日蓮大聖人の出現によって地上に関係づけられ、しかもその御一生の法難などによって、一々因果の法則が証明されたとしたならば、理想だけの法華経が吾々の生活に現実に生きたことではないか」とのべています。さらに「これは単に日蓮大聖人御一人に限ったことでなく、仰せの通り、何人にでも妥当するものであることは、吾れ人の信行するものゝ容易に証明される所である」とし、忍難弘通された日蓮大聖人こそが私たちの模範と仰ぐべき末法の御本仏であることを訴えられております。
 以上、牧口先生の卓越した洞察を見てきましたが、牧口先生が徹底して、信じ実践する者の側に立った信仰観をもっておられていたことが窺えます。ここには、人間に平等な尊厳を見る「人間主義」の精神が示されていると言えます。
宗教観の転換
 最後に、大聖人の「主師親」観に拝することのできる「宗教観の転換」について述べておきたい。
 大聖人は「諸法実相抄」で仰せです。
 「
凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり、然れば釈迦仏は我れ等衆生のためには主師親の三徳を備へ給うと思ひしに、さにては候はず返つて仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり(135813)( 凡夫は体の三身にして本仏である。仏は用の三身であって迹仏である。したがって、釈迦仏が我ら衆生のために主師親の三徳をそなえられていると思っていたのであろうが、そうではなくかえって仏に三徳をこうむらせている凡夫なのである)
 旧来の神仏の考え方から言うと、釈迦仏が衆生のために主師親の三徳を具えた偉い仏かと思っていたのに、実は、そうではない。衆生が仏性をもち、仏の生命を現す可能性を具えているからこそ、釈迦仏は衆生の主師親としての徳を発揮しうるのであり、それゆえ衆生が釈迦仏に三徳を与えているのであると言われているのです。
 ここでは、主師親三徳の考え方、そして、宗教のあり方について、「革命的な転換」がなされています。旧来の考え方で言えば、主君は民衆を支配し、従える存在です。師匠は、弟子を導き、鍛える存在です。親は、子を産み、子に敬える存在です。このような関係だけで見ると、主・師・親は権威ある存在であり、そこから仏を主師親になぞらえても権威主義的な宗教しかうまれません。
 しかし、主君は民衆を幸せにしてこそ主君であり、師匠は弟子を一人前に成長させてこそ師匠であり、親は子を立派に育ててこそ親です。このような観点で主師親を見れば、主君は民衆が幸せになる可能性を持っているからこそ師匠としての徳を具えることができるのであり、親は子が一人前に育つ可能性を持っているからこそ親としての役割を果たせるのです。
 宗教も同じです。衆生が成仏できる可能性を持っているからこそ、仏は主師親の三徳を具えることができるのです。
 この大聖人の仰せには、神や仏に服従し、僧侶に拝んでもらう「権威主義の宗教」から、民衆が幸せになるための「人間主義の宗教」への転換が示されているのです。

第三回 文底top

全人類救う凡夫成仏の大法

01   但し此の経に二箇の大事あり倶舎宗.成実宗・律宗・法相宗.三論宗等は名をもしらず華厳宗と真言宗との二宗は
02
 偸に盗んで自宗の骨目とせり、 一念三千の法門は但法華経の本門・寿量品の文の底にしづめたり、竜樹・天親・知
03
 つてしかも・いまだ・ひろいいださず但我が天台智者のみこれをいだけり。

 ただし、この法華経に迹門理の一念三千と本門事の一念三千ろいう二つの大事な法門がある。倶舎宗・成実宗・律宗・法相宗・三論宗などは、一念三千の名さえ知らない。華厳宗と真言宗との二宗は、この法門をひそかに盗んで自宗の教義の骨格とし、眼目としている。この一念三千の法門は、釈尊一代仏教のなかでも、ただ法華経、法華経のなかでも、ただ本門寿量品、本門寿量品のなかでも、ただ文の底に秘し沈められたのである。竜樹や天親は、一念三千を知ってはいたが、それを拾い出して説くことはせず、ただ、わが天台智者大師だけが、これを心のなかに懐いていたのである。

文底の一念三千=凡夫成仏の要法
 この御文において日蓮大聖人は、「凡夫成仏」の鍵となる根源の法を「一念三千の法門」と呼ばれ、それが「但法華経の本門・寿量品の文の底」に秘沈されていると述べられています。
 「文の底」に秘沈されている一念三千とは、「一切衆生の成仏」を掲げる法華経の真髄というべき法理で、一言で言えば、「凡夫成仏の大法」として十界互具・一念三千であると言えます。
 大聖人は、この文底仏法を説かれることによって、末法という悪世における民衆一人ひとりの根源的な救済の大道を開かれたのです。
 日寛上人が、この「但」の字を三重に冠して拝され、三重秘伝の教判を立てられたことは、よく知られています。
 すなわち、釈尊一代の教えのなかでも「ただ法華経」と読めば権実相対して「迹門の理の一念三千」を顕し、法華経のなかでも「ただ本門寿量品」と読めば本迹相対して「本門文上の事の一念三千」を顕し、そして寿量品のなかでも「ただ文の底」と読めば種脱相対して「文底事行の一念三千」を顕すことになります。
 また、一念三千は、ともすると「三千」という法数に目を奪われがちですが、この原理の中核は、むしろ「十界互具」にあります。
 本抄では、この文底秘沈の御文に続く個所で「
一念三千は十界互具よりことはじまれり」と仰せです。そして、この後、成仏の要法としての「本因本果」「真の十界互具」が明かされていきます。
 さらに、文底事行の一念三千においては、十界互具といっても、九界即仏界・仏界即九界が重要となる。「撰時抄」には「一念三千は九界即仏界・仏界即九界と談ず」(025611)と仰せの通りです。
 すなわち九界即仏界・仏界即九界が焦点になるかといえば、そこに凡夫成仏の原理が示されているからです。
 すなわち、煩悩・業・苦に満ち、無常であると思われた凡夫の生命、すなわち「九界」の衆生の生命に、永遠の「仏界」の清浄にして自在な生命力が涌現し、躍動することを示す法理だからです。「毒を変じて薬と為す」がごとき生命の劇的な転換が起こるのです。
 大聖人は、九界の凡夫の身を捨てずに仏界の生命を現す凡夫成仏の道、つまり事実として十界互具を実現する道を、寿量品の久遠実成の根底に洞察されたのです。
 また、煩悩・業・苦に沈む九界の生命を仏界の生命へと転換することを可能にするのが、妙法への「信」であり、その信を根本とした「祈り」と「行動」です。
 法華経に説かれる不軽菩薩は、自他の仏性を信ずる不屈の信念と、人を敬い礼拝する行動を貫くことによって、ついに凡夫の身のままで宿業を転換し、六根清浄の功徳を得て、成仏しました。
 自他の仏性に対する「清浄で強い信」は元品の無明を打ち破る力であり、「深き祈り」は妙法と一体の仏界の生命力を涌現させる力があるのです。そして、妙法を唱え続ける「持続の題目」は仏界の力を絶えずわが身に顕現させ、一生成仏を可能にする力があります。
 このように大聖人は、十界互具が事実として実現する道を、「信」「祈り」「唱題」という身・口・意の三業にわたる「事行の南無妙法蓮華経」として確立してくださったのです。そして、いわば見えない自他の仏性への信を開くために、御自身の南無妙法蓮華経の生命を御本尊として顕され、私たちの信心の明鏡としてくださったのです。
文底は文・義・意の「意」にあたる
 ここで、寿量品の「文の底」と言われている意味を、文・義・意の三つの面から考えてみたい。
 寿量品には開近顕遠・久遠実成・方便現涅槃などの文・義が説かれ、それぞれを通して、釈尊の本地は、久遠の過去から永劫の未来にわたり、娑婆世界を含むあらゆる世界の一切衆生を救い続ける永遠の仏であることが明かされます。
 そして、この仏の永遠の生命が、久遠の昔における菩薩行によって得られたと説かれます。すなわち「我本行菩薩道」の文がそれです。この久遠の菩薩行に凡夫成仏の鍵がある。
 ただし、これら経文上の文・義にとらわれると、どうしても、本果の姿を示している教主釈尊に目が奪われます。
 そうすると、自分の外にいる本果の釈尊に“救済してもらう”という誤った信仰に陥ってしまい、絶対的な神仏に“すがる信仰”に終わり、自身の内に仏界を現すという真の成仏は得られない。
 寿量品文上の釈尊が永遠の妙法の力を本果の仏として示されたのに対して、文底の仏法は、久遠の菩薩行を修行している凡夫の釈尊を表に立てつつ、凡夫における本因の法と実践を明確に定めていくのです。
 寿量品の文上には凡夫成仏・十界互具が明確に説かれているわけではない。しかし、その「意」においては、凡夫成仏の要法が文底に厳然と拝されるのです。
宗教的精神を忘れるな
 さて、寿量品の「文底」に秘沈された、真の十界互具・一念三千による凡夫成仏は、「法華経の心」であり、「仏法の肝要」であり、また「宗教の根源」であるとも言えます。
 私はこれまで、識者との対談や海外講演で、折に触れて「宗教的精神」や「宗教的なるもの」の大切さを強調してきました。
 「宗教的精神」とは虚無から勇気を、絶望から希望を想像する精神の力であり、また、その力を自他の生命に、そして宇宙に万物に見ていただく精神です。
 どんな苦難や行き詰まりがあっても、自分のなかにそれらを乗り越えていく力があることを信じ、行動し、新しい価値を創造していく魂が宗教的精神です。
 あらゆる宗教は、人間のこの宗教的精神から生まれてきたのであり、宗教的精神はいわば宗教の原点であり、源泉といえる。
 大聖人は、人々が無常なものに執着し、貧・瞋・癡に翻弄されて、不信と憎悪で分断されていく末法の時代は、宗教もまた、原点の宗教的精神を忘れ、人間から遊離して、硬直化し形骸化し、細分化されたそれぞれの教義にとらわれ、争いあう時代であると捉えられました。
 そして、根源の宗教的精神を復活させなければ、人々も時代も救済できないと考えられたと拝されます。
 ゆえに、事実として人間生命に仏界を開いていく真の十界互具・一念三千を「文の底」にまで求めていかれたのです。
 だからこそ、人間の生命の永遠性を確かに把握し、人間が現実の行動のなかに永遠性を輝かせてゆくことができる事行の一念三千として、文底の一念三千を確立されるに至ったと拝することができます。
 御文では、倶舎宗・律宗・法相宗・三論宗などは一念三千について“名さえ知らない”または華厳宗と真言宗の二宗は“ひそかに盗み入れて自宗の教義にしている”と弾呵されています。
 一念三千を盗み入れたというのは、先ほどの文・義・意で言えば、文を盗み入れ、義に同じものがあるように装ったが、意には到底及ばなかった、ということです。
 このような一念三千に関する混乱の姿は、当時の既存の諸宗派が宗教的精神を忘れていることを如実にしめしています。
 永遠的なもの、絶対的なものを人間のなかに見て、人間生命を輝かせていくことを願う精神が宗教的精神です。
 大聖人の文底仏法は、その宗教的精神のままに立てられた教えなのです。
 戸田先生は言われました。
 「全人類を仏の境涯、すなわち、最高の人格価値の顕現においてならば、世界に戦争もなければ飢餓もありませぬ。疾病もなければ、貧困もありませぬ。全人類を仏にする。全人類の人格を最高価値のものとする。これが『如来の事』を行ずることであります」戸田先生のこの言葉の通り、学会は大聖人に直結し、宗教的精神を大きく発揮して、「民衆仏教」「人間主義の宗教」を全世界に広げてきたのです。
末法流布の大法
 この一節の結びとして、大聖人は「一念三千の法門」を竜樹や天親は“知ってはいたが、それを拾い出して説くことはなかった”、ただ、天台智者大師だけが“心のなかに懐いていた”、と仰せられています。
 「竜樹・天親・知って」とは、釈尊滅後正法の系譜を継承した竜樹・天親も法華経の極理を知っていたとの内鑑冷然の原理を示していると拝されます。
 例えば、竜樹は、他の諸教では不成仏とされた二乗の成仏を説く法華経の「変毒為薬」の力を賛嘆して、法華経こそが真の秘密の法であって、他経にはこの力がないと述べています。これは、九界の生命に仏界を涌現する凡夫成仏を可能にする法華経の極理を知っていることを意味します。
 しかし、「
知つてしかも・いまだ・ひろいいださず(0189)と仰せのように、「時」が末だ至らなかったために、一念三千を人々の前に提示することはなかったのです。
 そして、「
但我が天台智者のみこれをいだけり(0189)とは、像法時代の天台大師だけが、一念三千の観念観法を行じていたことを示されていると拝せます。
 しかし、天台大師の一念三千は実質上、自行にとどまっており、自他ともの凡夫成仏の法として広く弘めたわけではありません。
 一念三千を「知っていたが顕さなかった」「内に懐いていた」と正法・像法の正師たちについて言及されている元意は、その大聖人の法華経の行者としての弘教について述べられていきます。
 文底の一念三千は「事行」の法です。「法」は“ある”ものではなく、“弘める”べきものです。「法」を弘めることによって、万人の内なる仏性を照らし、その人自身を輝かせてこそ、初めて、法の価値は発揮される。言うなれば、価値を創造しなければ、法の存在の意義は生まれないとさえ、言えるのです。
 その意味から言えば、「一念三千の法門」なかんずく「文底の一念三千」を、いつ、だれが弘通するのか。その主題抜きに文底の法を論じても、画餅に過ぎない。
 真の一念三千の法門を末法に弘める者こそが、末法の主師親三徳であり、その教主とは日蓮大聖人にほかならない。それを明らかにしていくために、この文底秘沈の一節があるのです。

第四回 本因本果top

信心で開く永遠の仏界・無限の菩薩行

10   華厳・乃至般若・大日経等は二乗作仏を隠すのみならず久遠実成を説きかくさせ給へり、此等の経経に二つの失
11
 あり、一には行布を存するが故に 仍お未だ権を開せずとて迹門の一念三千をかくせり、 二には始成を言うが故に
12
 尚未だ迹を発せずとて 本門の久遠をかくせり、 此等の二つの大法は一代の綱骨・一切経の心髄なり、迹門方便品
13
 は一念三千・二乗作仏を説いて爾前二種の失・一つを脱れたり、しかりと・いえども・いまだ発迹顕本せざれば・ま
14
 ことの一念三千もあらはれず 二乗作仏も定まらず、 水中の月を見るがごとし・根なし草の波の上に浮べるににた
15
 り、本門にいたりて始成正覚をやぶれば四教の果をやぶる、 四教の果をやぶれば 四教の因やぶれぬ、爾前迹門の
16
 十界の因果を打ちやぶつて 本門の十界の因果をとき顕す、 此即ち本因本果の法門なり、九界も無始の仏界に具し
17
 仏界も無始の九界に備りて・真の十界互具・百界千如・一念三千なるべし、

 華厳経をはじめ般若経・大日経などの諸経は、二乗作仏を隠すだけでなく、久遠実成をも隠して説かなかった。これら爾前の諸経典に二つの欠点がある。一つには「差別観を残す故に、まだ方便の教えにとどまっている」といわれるように、 迹門の一念三千を隠している。この二つの偉大な法門は、釈尊一代の大綱・骨格であり、余経典の真髄である。
 迹門方便品は一念三千・二乗作仏を説いて、爾前経の二種の欠点免れた。しかしながら、迹門ではまだ仏が発迹顕本していないので、真の一念三千も、二乗作仏も定まらない。水に映った月を見ているようであり、根なし草の波の上に浮かんでいるに似ている。
 本門に至って、始成正覚をやぶったので、爾前・迹門における蔵・通・別・円の四教にとかれたすべての仏果が破られたので、四教のすべての仏因も破られたことになる。爾前・迹門に説かれた十界の因果を打ち破って、本門の十界の因果を説きあらわしたのである。これこそがまさしく本因本果の法門である。九界も無始無終の仏界に具わり。仏界も無始無終の九界にそなわって、真の十界互具・百界千如・一念三千なのである。

 この御文では、法華経本門寿量品第十六に説かれる成仏の法である「本因本果の法門」について明らかにされています。
 「本因本果」とは、法華経寿量品で説かれる「久遠の昔における成仏の因果」のことです。寿量品では、釈尊の真の成仏は五百塵点劫という計り知れない久遠の過去のことであると説かれます。この久遠の成仏を「久遠実成」といい、この時の成仏の原因を「本因」、成仏の結果を「本果」といいます。
 この本因本果による成仏は、寿量品の文の上では釈尊のこととして説かれています。しかし、文底の立場から見れば、釈尊の成仏だけに限られるわけではありません。本因本果は、釈尊の久遠の成仏であるとともに、最も根本的で普遍的な成仏の因果を示しているのです。したがって、万人の成仏の因果でもあるのです。
爾前二種の失
 御文では最初に妙楽大師の言葉を引かれながら、爾前経における法理上の二種の欠点を挙げられています。
 その第一は、法華経迹門で説かれる一念三千を爾前教では隠しているという欠点です。
 ここで言われている「行布を存する」とは、仏道修行に段階・差別を設ける考え方が爾前諸経にあるということです。この考え方の前提には、衆生の十界の違いを固定化する差別観があります
 特に、九界と仏界の間に超えがたい隔たりがあるとの差別観からは、九界の衆生が成仏するためには歴劫修行が必要であるとか、二乗は絶対に成仏できないなどと強調されるのです。
 このように十界の差別を固定化する方便の教えが説かれて、真実の教えが末だ明かされていないことが「権を開せず」というのです。
 法華経迹門では、この差別観を打ち破ります。すなわち二乗作仏を強調し、諸法実相を説いて、「九界の衆生に仏界が具わる」「あらゆる衆生に成仏の可能性がある」という「迹門の一念三千」が明確にされます。 
 「爾前二種の失」の第二は、法華経本門が説かれる「久遠実成」を爾前諸経は隠しているということです。
 爾前諸経では、釈尊が「始成正覚」で成仏したと説きます。始成正覚とは、今世ではじめて正覚を成就したのが釈尊であるということです。これは、過去世の長遠の歴劫修行を経て、今世ではじめて成仏したのが釈尊であるということです。つまり始成正覚は、歴劫修行を前提とした成仏観なのです。
 したがって、この成仏観は、九界と仏界は隔絶しているという考え方のうえに成り立っていると言えます。
 法華経迹門では、衆生について成仏の可能性があることが明かされて「爾前二種の失」のうちの一つは免れたとはいえ、仏についてはまだ始成正覚の成仏観がそのまま残っているのです。
 久遠実成を説かないという失を残している迹門の一念三千について、大聖人は「
いまだ発迹顕本せざれば・まことの一念三千もあらはれず二乗作仏も定まらず(019713)と仰せです
 発迹顕本とは、寿量品で仏の仮の姿である始成正覚を打ち破って、仏の真実の姿である久遠実成を顕したとのことです。
 仏の真実の姿を明かさずにいくら二乗作仏を説き、九界の衆生に仏界が具すという迹門の一念三千を説いても、それは真実の一念三千とは言えず、二乗作仏も確定しないと仰せです。そして、迹門の一念三千に根拠がなくて不確かであることを、「水中の月」「根なし草」に譬えられています。
発迹顕本と本因本果             
 次に、“寿量品の発迹顕本がなければ真実の一念三千が明らかにならない”と仰せの点について考察したい。
 寿量品で久遠実成を説いたことの意味は、始成正覚を打ち破ったことと、本因本果を顕したことにあります。
 大聖人は“始成正覚を打ち破ることによって、爾前迹門の四教にさまざまに説かれる果がすべて打ち破られた”と仰せです。また“成仏の果が破られたということは四教で説かれるすべての因もことごとく破られた”と言われています。
 こうして、「爾前迹門の十界因果」をことごとく打ち破るのが、発迹顕本の一つの意義です。「十界の因果」とは九界を因として、仏界を果とする成仏の因果のことです。
 そして寿量品では「本門の十界の因果」である「本因本果」が明かされています。つまり、真実の成仏の因果が説かれます。これが発迹顕本のもう一つの意義です。
 ここで、まず寿量品の文上で本因本果がどのように説かれるかを述べておきたい。
 寿量品では「我れは実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由陀劫なり」と説かれ、釈尊の久遠の成道は計り知れない久遠の昔のことであったと明かされています。されに、「我れは成仏してより已来、甚だ大いに久遠なり、寿命は無量阿僧祇劫にして、常住に滅せず」とも説かれ、久遠実成の仏は常住不滅であることが明かされている。この常住不滅の仏界の生命が、久遠における成仏の果、すなわち本果です。
 次に本因妙については、「我れは本と菩薩の道を行じて、成ぜし寿命は、今猶お末だ尽きず、復た上の数に倍せり」と説かれます。
 すなわち、本果の仏界の生命だけでなく、成仏の本因となった菩薩行を行ずる九界の生命も、成仏してから五百塵点劫の間、尽きることがなかったとされ、さらに、これから五百塵点劫の二倍の間も尽きることがないであろう、と述べられています。
 本果である仏界の生命が常住不滅であるとともに、本因である菩薩行を行ずる生命も尽きることがないのです。このように、九界の生命を断じて、仏界の生命を成就するという爾前諸経の成仏観とは、大きく異なるのが、本門の因果、本因本果です。
 事実寿量品では、久遠実成の仏は成仏してからも、九界の現実世界で衆生を救い続けるという菩薩行を絶やすことはないと説かれています。
 ここに寿量品の発迹顕本によって真実の仏の姿が明らかになるのです。いうなれば、それは、「無限の菩薩行を現す永遠の仏です。
 九界の現実のなかで無限の菩薩行を行ずる生命は、九界の生命です。しかし同時に、永遠の仏界の生命が、その無限の菩薩行を現する根源のエネルギーになっているのです。
 今世で初めて成仏したとされる始成正覚の仏は、入滅する別世界の浄土に入るなどとされ、現実世界で菩薩行を続けることはありません。それに対して、久遠実成の仏は、現実世界がそのまま浄土であり、寂光土なのです。
 そして、このような寿量品の仏にとって、九界の現実は、永遠の仏界の活力を自身の生命から現していくための機縁であり、仏界の智慧と慈悲を発揮するための舞台にほかなりません。また、九界の現実に苦しむ衆生は、いたわり救っていくべきわが子であり、仏界の自由を分かち持っていくべきわが友なのです。
 仏界という真の自由を得た仏は、仏界の力で心身をコントロールし、魔性に打ち勝ちゆく真実の「勝利者」「主体者」として一人立ちます。とともに、その仏は、他の衆生の生命にも現実世界の根底にも仏界の力が潜在することを認める。そして、それを顕在化させゆくために、世界と民衆に常に語りかけ「勇気ある行動」「自在の智慧」「大誠実の対話」を貫くのです。
 このように、始成正覚を破り、久遠実成の本因本果を明かす寿量品の発迹顕本は、それまでの仏陀観・成仏観を大きく転換するものでした。
 ただ、寿量品の文上では、久遠実成の仏の「本果」が中心的に説かれており、本因は先に挙げた「我れは本と菩薩の道を行じて」の経文にとどまっています。
無始の仏界と無始の九界
 久遠実成の仏の本因本果を説く寿量品の根底に、凡夫成仏の要法が秘沈されていることを洞察されたのが、大聖人であられる。
 大聖人は、本因本果について次のように仰せです。
 「
九界も無始の仏界に具し仏界も無始の九界に備りて・真の十界互具・百界千如・一念三千なるべし(019716)
 「無始の九界」とは、文上では、久遠実成の仏が成就した常住不滅の仏界の生命です。先に述べたとおり、常住不滅の仏界の生命を成就した」久遠実成の仏には九界の生命も具わっているのです。ゆえに「九界も無始の仏に具し」と仰せなのです。
 仏界の生命を成就していながら、九界の現実世界で衆生救済のために戦い抜いていく久遠実成の仏においては、苦悩や悲しみなどの九界の生命も衆生救済のために働いているのです。
 普通、苦悩や悲しみは、その人の生命を閉ざし、委縮させていくものです。それに対して、無始の仏界に具わる九界の生命としての苦悩や悲しみは、衆生を救うための同苦であり、大悲です。それは、仏界の活力がたゆみなく働き、生命が広々と開かれるゆえに起こる積極的な感情です。
 つぎに「仏界の無始も九界に備わりて」と仰せです。
 まず文上に即して考察を進めると、天台大師の『法華文句』巻九下には「初住に登ると時、已に常寿を得」とあります。久遠の菩薩行において、不退転の位である初住位に登った時に、すでに常住の菩薩戒を得たというのであります。
 すべての菩薩は最初に衆生無辺誓願度をはじめとする四つの広大な誓願を立てます。その菩薩の生き方が間違いないと確信し、永遠に菩薩の実践から退かないと不退転の誓いを新たに固めたことが、常住の菩薩戒を得たということではないでしょうか。釈尊はこの確たる誓いがあるゆえに、成仏してからも無限の菩薩行を続けていくのです。
 この『文句』の文を受けて日寛上人は『三重秘伝抄』で、「既に是れ本因常住なり、故に無始の九界と云う」とのべています。生命の「無限の菩薩行」を続ける側面を、大聖人は「無始の九界」と呼ばれていたということです。
 九界と仏界は、「無常」と「永遠常住」の違いがあるとされ、この隔たりを超える道として、爾前教では何回も生まれ変わって修行して成仏に近づいていくという歴劫修行を立てたのです。しかし、これでは結局、九界を捨てて仏界に至るという厭離断九の成仏観しか示せません。
 これに対して、法華経本門では、永遠の仏界の生命とその具体的実践である永遠の菩薩道を説いて「仏界即九界」「九界即仏界」を明かした。そして、釈尊の本因本果を通して一人の生命に十界が常住することを示し、それ以外の因果をすべて打ち破ったのです。
 法華経本門で本因・本果が明かされ、仏界と九界がともに生命に本有であり、常住であることが示されたので、名実ともに生命に十界が具足することになります。それゆえ、大聖人は“本門で本因本果が説かれて「真の十界互具・百界千如・一念三千」となった”と仰せなのです。
 しかし、これはあくまでも文上に即しての説明です。
 深く洞察すれば、釈尊一人にとどまらず、すべての生命は本来的に「永遠の仏界」を現し「無限の菩薩行」を続けることを求める存在であるといえます。自他ともの幸福を本来、願い求めるのが生命なのです。
 本因本果についての大聖人の仰せには、あらゆる凡夫の本因本果を明かすという文底の意が拝せます。
 日寛上人は『三重秘伝抄』で、文底の義として、「本因初住の文底」「久遠名字の妙法事の一念三千」が秘沈されていると示されています。
 「初住」とは、仏と成って万人の救済を実現しようと自身の生き方の根本目的が定まった境地であり、どのような困難があろうとも永遠に菩薩道を前進し続け、決して退かないと心が決まった境地です。釈尊が久遠において、永遠の菩薩道を実践し続けることに真に決意したときが、釈尊の久遠実成の「本因」です。しかし、その初住位に登った修行の原動力として、成仏の根源の法である「久遠名字の妙法・事の一念三千があると言われているのです。
 「名字」とは「名字即」のことで、妙法を初めて聞いて信ずる凡夫の位です「久遠名字の妙法」とは、凡夫が実践し成仏を実現する根源の法です。その法とは南無妙法蓮華経であると、直ちに説き示されたのが大聖人であられるのです。
 寿量品文上では、釈尊が成就した仏界の本果を表に立てて本因本果を示したといえます。これに対して、文底の仏法では、本因の菩薩行を行ずる菩薩を表に立てて、本因本果を論ずるのです。これは、九界の凡夫に即して成仏の真の因果である本因本果を明らかにしていくことを意味します。これが、大聖人の仏法における文底の本因本果です。
 すなわち、凡夫が初めて妙法を聞いて信受し、果てしない菩薩道の実践を決意するのが本因である。そして、その凡夫の生命に永遠の仏界の生命を涌現することをもって、本果とするのです。
 では、この大聖人の仏法において「無始の九界」とはどのようなことでしょうか。
 それは、九界の衆生が、その生命を支配していた無明を打ち破った時の生命だと拝せられます。その生命から仏界の働きが起こるので「仏界も無始の九界に備わりて」と仰せられているのです。
 その無明を破るのが「信」です。何に対する信かといえば、永遠の妙法への「信」です。万人が、その「信」を立てることを可能にするために大聖人が顕されたのが、御本尊と唱題です。
 大聖人は「義浄房御書」で、「
寿量品の自我偈に云く『一心に仏を見たてまつらんと欲して自ら身命を惜しまず』云云、日蓮が己心の仏界を此の文に依つて顕はすなり、其の故は寿量品の事の一念三千の三大秘法を成就せる事・此の経文なり秘す可し秘す可し、叡山の大師・渡唐して此の文の点を相伝し給う処なり、一とは一道清浄の義心とは諸法なり、されば天台大師心の字を釈して云く『一月三星・心果清浄』云云、日蓮云く一とは妙なり心とは法なり欲とは蓮なり見とは華なり仏とは経なり、此の五字を弘通せんには不自惜身命是なり、一心に仏を見る心を一にして仏を見る一心を見れば仏なり、無作の三身の仏果を成就せん事は恐くは天台伝教にも越へ竜樹・迦葉にも勝れたり(089207)( 如来寿量品第十六の自我偈「一心に仏を拝見しとうとして自ら身命を惜しまない」とある、日蓮が己心の仏の境界を、この文によって顕すのである。そのわけは寿量品に説かれている事の一念三千である三大秘法を成就しているのが、この経文だからである。このことは秘しておきなさい。比叡山の伝教大師が唐に渡って、この経文の注釈を相伝されたところによると「一心欲見仏」の「一」とは一道清浄の義であり「心」とは諸法である、という。だから、天台大師は「心」の字を解釈して「一月三星・心果清浄」といっている。日蓮が解釈していうには、「一」とは妙であり、「心」とは法であり、「欲」とは蓮であり、「見」とは華であり、「仏」とは経である。この妙法蓮華経の五字を弘通しようとするためには身命も惜しまないというのが不自惜身命」である。「一心欲見仏」とは「一心に仏を見る」「心を一にして仏を見る」「一心を見れば仏である」ということである。無作の三身という仏果を成就するということは、おそらくは天台大師・伝教大師にも越え、竜樹・迦葉にも勝れているのである)と、寿量品の「一心欲見仏・不自惜身命」の文によって御自身の仏果を成就されたと仰せです。
 そして、不自惜身命の信心とは妙法蓮華経への信であることを示されたうえで、「一心欲見仏」を「一心に仏を見る」心を一にして仏を見る」そして「一心を見ざれば仏なり」と三回、転読されて、御自身の仏界成就を説明されています。
 最初の二つは因で、信心の一心を表し、三つめの「一心を見ざれば仏なり」は果で、仏界成就の一心を表していると拝することができる。
 信心の一心に本因本果が成就するのです。
 以上のように「無始の仏界」「無始の九界」が明かされてこそ、無常の九界と永遠の仏界との断絶を乗り越え、両者が一致できるのです。そこに、本当の意味で十界互具が成り立つのです。十界互具が成り立てば、一念三千もなりたちます。ゆえに「真の十界互具・百界千如・一念三千」と言われているのです

第五回 五重の相対top

生命の因果と人生の根本指標

 「開目抄」の前半は、後に「五重の相対」と呼ばれる法理が述べられています。今回は、この「五重の相対」の意義について考察し、本抄前半のまとめにしたい。
 「開目抄」で、一切衆生が尊敬すべき主師親三徳がテーマとされたことについては既に考察しました。
 大聖人は、儒教等の中国における思想・宗教、インドの外道、そして内道である仏教の三つについて、それぞれ事実上、多くの人々から主師親として尊敬されている存在を挙げられています。そして、大聖人は、それら主師親への尊敬を通して、人々にいかなることが教えられ、また、いかなる生き方がもたらされているかを検討されていきます。人々に確かな生き方をもたらしてこそ、真の意味で優れた主師親といえるからです。
 こうして「開目抄」では、主師親をテーマにしながら、それぞれの思想・宗教が「いかなる法、いかなる生き方を教えるか」を鋭く問われている。そして、その「法」を問い、「生き方」を問う根本の視点が「生命の因果」なのです。
因果は思想・宗教の肝要
 「五重の相対」は、いかなる宗教・思想が現実に人々の苦悩を解決し、ゆるぎない幸福境涯へと至らせることができるかについて「生命の因果」をどのように説いているかという観点から判別したものであるといえます。
 「生命の因果」とは「幸・不幸の因果」であり、究極するところは前回に述べた「十界の因果」つまり「成仏の因果」と同じです。
 言い換えれば、「その教えが、どれだけ幸・不幸の原因と結果を根本までたどり、見極めているかによって、思想・宗教の高低・浅深を問うものです。
 医者が病気を治そうとする時には、病気の原因を見極めて治療に当たらなければ、かえって病気を悪化させることがある。同様に、苦難や不幸を解決するためには、その根本原因を見極め、解決に当たらなければ不幸を助長しかねない。
 原因と結果を明確にすることこそ、宗教・思想の肝要なのです。
 天台大師は、法華経の勝れた点を五つ挙げて、名・体・宗・用・教の五重玄にまとめました。そのうちの「宗」とは、教えの根本・肝要という意味であるが、これについてより具体的にいえば「因果」にほかならない、と指摘しています。
 ここで天台大師がいう因果とは、まさに生命の因果であり「苦悩する人間の生命が、内なる尊極の可能性を開いて苦悩を乗り越え、何ものにもゆるがない幸福境涯を確立する」ということです。
 また、究極的な悟りの法である「実相」は、それ自体としては不可思議で、言語道断・心行所滅と言わざるを得ないが、「成仏の因果」と不可分の関係にあることを示している。
 譬えていえば、実相は無限定で広大な空間そのもののようなものであり、因果は柱や梁のようなものである。柱や梁によって空間が部屋という形で表れてくるとともに、逆に部屋の空間を形づくっていかなければ柱や梁とはいえない。
 つまり、その教えが説く「因果」の深さは、その教えが前提とする「悟りの法」の深さに関係している。
 大聖人が弘められた南無妙法蓮華経は、究極の「妙法」とそれに基づく因果である「蓮華」から成っており、この一語で究極の成仏の因果の法を表していると拝することができます。ゆえに、南無妙法蓮華経を一遍でも唱えれば、その一念に成仏の因果を成就するのです。
 諸宗教・思想を見ると、生命の因果の立て方に種々の違いがあります。大聖人は本抄で、その浅深を「五重の相対」によって示され、究極の成仏の因果を末法の人々を救う要法として明かされていきます。
 では大聖人の仰せに基づき、五重相対の内容を述べておきたいと思います。
意志と行動で運命を切り開く仏教
    ①内外相対

 まず、「内外相対」です。これは内道である仏教と、仏教以外の諸経との相対です。
 仏教では、自身の幸・不幸の決定する主因が、自分の内にあり、自身が自らの運命の決定権を握る主体者であることを明かしています。それゆえに仏教を内道といいます。
 これに対して、仏教以外の諸宗教を検討すると、まず自身の幸・不幸に関する因果の法則を認めないものがあります。これにはすべてが偶然だとする偶然論、あるいは自身の努力など関係なく事前に決まっているとする決定論や宿命論、両者の折衷論がある。これらは、インドの外道の始祖とされる三仙の所説です。同様の議論は、現代の諸思想にもうかがえます。
 また、現世のなかに限って一定の因果の法則を認めるが、生前や死後は不可知であるとして探求を放棄するものもあります。その代表が、中国の儒教・道教などの諸思想です。近代科学に基づく合理主義もこれに入るでしょう。
 生まれながらにして境遇の差があるのはなぜか。また、今世で善悪の行いの結果が出ない場合はなぜか、といった疑問について、これでは納得のいく説明ができません.したがって“なぜ生まれてきたのか”“なんのために生きるのか”など、人間の実存的な問いかけには答えきれません。
 また、インドのバラモン教・六派哲学などは、三世わたる生命の因果について説きますが、それも決定論・運命論などに陥っていて、運命を司どる神や自然などの外の力に翻弄されるものです。そこには、人間の主体性が著しく制限されています。
 要するに、外典・外道は、因果を説かないが、説いたとしても部分的で偏った因果観にとどまっている。このように結論づけられています。ゆえに、日蓮大聖人は「開目抄」で、インド・中国における諸宗教の祖師たちについて「因果を弁ざる事嬰児のごとし」と指摘されているのです。
 これに対して仏教では、自身に起こってくるすべての出来事を自己責任でとらえます。
 いわゆる「自業自得」の思想です。
 このように、厳しき因果の理法を自分の問題として真正面から捉えることができるのは、人間の生命の内に仏性という偉大なる変革の可能性と力が本来的に具わっているという真実を知っているからです。幸福になる努力を続けるためには、自分が根源的に幸福になりうる存在であることを知らなければなりません。
 現在の自身の意志と行動によって自身の運命を切り拓くことができるという主体性と責任にめざめていくのが、仏教内道」なのです。
幸福の因を発現を目指す大乗
   ②大小相対

 次に「大聖相対」については、「開目抄」ではほとんど触れられていませんが、権実相対・権迹相対を論ずるなかで小乗教の実践者である二乗への弾呵にも言及されているので、意としては大小相対が含まれていると拝することができます。
 内道といっても仏教のなかには種々の教えがあります。そのうち小乗教では、戒を持ち瞑想に励むなどの修行を重ねて、苦悩の原因である煩悩を断じて、平安な境地である涅槃を得ることを目指します。
 しかし、小乗教の目指す幸福は、不幸の原因を取り除くという消極的なもので、積極的に幸福を開こうとするものではない。ましてや、他者に幸福を広げようとするものではありません。
 しかも、不幸の原因が自身の生命に本来的に具わっている九界の煩悩ですから、その煩悩を完全に断滅しようとすれば、生命そのものを断滅する以外にありません。これが、いわゆる「灰身滅智」です。ここに小乗教の限界があります。
 これに対して、大乗教では、小乗教のように煩悩を排除するものではなく、煩悩のある生命に悟りの智慧を開き現して、煩悩を正しくコントロールし、清浄で力強い主体的な生命を築くことを教えています。これが「煩悩即菩提」です。
 自身の生命における不幸の因を消滅させるに止まるのではなく、不幸の因を昇華させて幸福の因を発現させることを積極的に目指し、さらに他の人々をもすくっていくのが大乗仏教です。
万人に仏界が具わると明かす実教
   ③権実相対

 幸福の因の発現を目指す大乗教にも二種類があります。
 「実大乗教」の法華経では、あらゆる人々の生命に幸福の根本原因である仏果が本来的に具わっていると明かし、それを開き顕すことができるという生命の真実を明かしています。
 他方、法華経以外の大乗教である「権大乗教」では、自分の悟りのみを追求するとして嫌われていた二乗や、インドの人々からは幸福にはなれないと見なされていた悪人、女性などは、仏界がともに具わっていないと、幸福の因を制限している。これは真実の大乗教ではなく、人々の何らかの通念にあわせて説かれた方便の教え、すなわち「権教」にすぎない。これに対して、実教である法華経は、二乗や悪人・女性を含めて、あらゆる人々が平等に成仏できるという仏の真実の悟りを説き、その根拠となる法門をしめしています。
 万人の幸福こそ、仏の真意です。それを可能にする法理を説いた法華経にこそ仏の真実の悟りが明かされています。
厭離断九の欠点を超えきる本門
   ④本迹相対

 幸福の因である仏界が万人に具わっているとはいっても、それを現実に開き顕せるかどうかが問題です。
 三世の因果を考えれば、永遠の生命であるから、無数の過去のなかの行いによって現世の報いがあることになる。したがって、それを転換するためには、きわめて長期間にわたって、たゆみなく善行を行い、生命にその成果を積み重ねていかなければならない。いわゆる歴劫修行が必要となるのである。
 法華経迹門を含めてそれまでの経典では、そのような成仏観が説かれ、釈尊自身の成仏も歴劫修行の成果として今世で初めて得られたと説かれた。この成仏観である限り、因ある九界の生命が無くなって初めて、果である仏界の生命が現れるという「厭離断九」の欠点がのぞかれません。
 それに対して、法華経本門では、五百塵点劫というはるかな久遠において、実は成仏しており、それ以降にも菩薩としての寿命が続いているので、さまざまな姿を示し衆生を教化してきたという仏の真の姿が明かされる。すなわち、仏である釈尊の一身に九界も仏界も本来的に具わっており、常住しているのである。
 この事実が説かれたことによって、九界の生命のままで仏界を開き顕すことができることが明かされ、即身成仏の道が開かれたのです。
御本尊を明鏡とし大聖人を手本として
   ⑤種脱相対

 本門で即身成仏の道が開かれたといっても、文上では久遠実成以前に実践していた菩薩道の修行によって永遠の生命を得て、初めてそうなったのである。永遠の寿命を得るには不退転位である初住位にまでいたらなければならない。初住位にまで至って、確固たる信で無明を破り、智慧を得て、自身の生命に九界も仏界も常住することを覚知していたのである。
 ただし、初住位までの修行も困難なものであり、またそこから智慧を開いて、実際に己心の仏界を覚知することも困難です。凡夫が到底、為しうることではない。
 したがって、本門文上では、凡夫に即身成仏・一生成仏の道が直ちに開かれたわけではありません。
 これに対して、文底の仏法では、久遠の釈尊の初住位までの菩薩行の原動力となり、また、初住位で覚知された根本法された根本法そのものである南無妙法蓮華経を直ちに説き示された。その法を求め、それを信受すれば、凡夫が直ちに仏果を得ることができたのである。
 私たちは、大聖人が凡夫の身のままで、南無妙法蓮華経によって己心に成就された仏界の生命をそのまま顕された御本尊を明鏡とし、大聖人御自身を手本として、自身に仏界があると深く信ずることにより、直ちに自身の仏界を開き顕すことができるのです。
因果一念の宗
 したがって、因果の究極は、凡夫の深くて強い信心の一念に納まるのです。無明を打ち破る強い信があれば、九界の生命が永遠の生命と現れ、そこに仏界の生命がひらかれるのです。このことは、前回の最後に述べました。
 大聖人は「本因妙抄」において「因果」を基準とした仏教の高低浅深を簡潔に明かされています。そこで「因果一念」に極まる四つの因果観を示されています。
 すなわち方便権教は、因である九界を断滅してこそ果である仏界が得られるとする厭離断九を説くので「因果異性の宗」であるのに対して、法華経迹門は九界と仏界が同じ一つの生命に具わることを説くので「因果同性の宗」と呼ばれます。また、本門は、九界と仏界がともに三世にわたって常住するのが真の仏身であると明かすので「因果並常の宗」といわれる。
 これらに対して、大聖人の文底独一本門は、凡夫の一念に九界も仏界も納まり、真の一念によって、いつでも凡夫の身に仏が涌現し、即身成仏できるので「因果の一念の宗」と呼ばれるのです。
 大聖人の仏法においては、まさに一念が肝心です。「心こそ大切なれ」です。
人生の根本目的を体現する仏界
 さて、五重の相対によって因果観が深まると、尊敬されるべき主師親の意義も深まってくる。
 外典・外道では、明確な因果観のもとに立てられた主師親ではないから、尊敬されるべき存在としていかに荘厳され、また、その絶対性や権威が強調されたとしても、信ずる人に明確な目的観をもたらさず、暗中模索の生き方が、権威に従属する消極的な生き方しかもたらさない。
 次に、仏教のなかでも、小乗教と権大乗教は厭離断九の成仏観・因果観であり、仏は特別な存在として崇められている。他方、衆生は自分だけが煩悩を滅するという小目的で満足する生き方か、あるいは、万人を救済する偉大ではあるが、しかし架空でしかない仏の救済を待つという夢幻に生きる生き方にとどまる。
 いずれにしても、消極的な生き方を脱することはできない。
 これに対して、実教である法華経では、九界の衆生にも仏界が具わり、久遠実成の仏にも九界が具わるという真の十界互具が示され、人々は自らに仏界の偉大な生命を開くという、深い希望を持った生き方ができるようになる。
 しかし、久遠実成の仏は、完成された円満なる仏果を中心に説かれているために、凡夫にとっては、崇拝し、渇仰するだけの対象にとどまり、成仏の因果を実現する手本にはならない。
 これに対して、大聖人の仏法では、大聖人自身が一念の力による凡夫成仏の手本であられる。御書に示されている大聖人の戦い、大聖人の不惜身命の実践、大聖人の誓願、大聖人の師子王の心が、私たちに凡夫成仏のための一念を示してくださっているのです。
 それは「
例せば日蓮が如し」(095709)。「例には他を引くべからず」(122012)等の大聖人自身の仰せからも明らかです。五重の相対は、究極の因果を示すことで、人生を常に向上へ導く最高の指標を指し示す教えです。
 そして最終的には、末法の凡夫が一生成仏を遂げていくための最高の手本となる至高の主師親を示した法理なのです。
 「開目抄」は、末法の万人に向かって、凡夫成仏の手本である法華経の行者・日蓮大聖人を明らかにされた書である。それゆえに「人本尊開顕の書」と言われるのである。


第六回 請願top

大難を越える生命奥底の力

09                                         日本国に此れをしれる者は
10
 但日蓮一人なり。(0200

 日本国でこのことを知っている者は、ただ日蓮一人である。

11   これを一言も申し出すならば父母.兄弟・師匠に国主の王難必ず来るべし、いはずば・慈悲なきに.にたりと思惟
12
 するに法華経・涅槃経等に此の二辺を合せ見るに・いはずば今生は事なくとも後生は必ず無間地獄に堕べし、 いう
13
 ならば三障四魔必ず競い起るべしと・しりぬ、二辺の中には・いうべし、 王難等・出来の時は退転すべくは一度に
14
 思ひ止るべしと且くやすらいし程に 宝塔品の六難九易これなり、 我等程の小力の者・須弥山はなぐとも我等程の
15
 無通の者・乾草を負うて劫火には・やけずとも我等程の無智の者・恒沙の経経をば・よみをぼうとも法華経は一句一
16
 偈も末代に持ちがたしと・とかるるは・これなるべし、今度・強盛の菩提心を・をこして退転せじと願しぬ。

 これを一言でも言い出すならば、父母・兄弟・師匠からの難、さらには国主による難がくるであろう。いわなけれは、慈悲がないに等しい。このように考えていたが、言うか言わないかのふたつについて法華経・涅槃経等に照らして検討してみると、言わなければ今世には何事がなくても、来世は必ず無間地獄に堕ちる。言うならば、三障四魔が必ず競い起こる。ということがわかった。この両者のなかでは、言うをとるべきである。それでも、国主による難が起きた時に退転するぐらいならば、最初からおもいとどまるべきだと、少しの間おもいめぐらしていたところ、宝塔品の六難九易とはまさにこのことであった。「我々のような力のない者が須弥山を投げることはできたとして、我々のような通力のない者が枯れ草を背負って劫火のなかで焼けることはなかったとしても、また我々のような無智の者がガンジス河の沙の数ほどある諸経を読み覚えたとしても、たとえ一句一偈であっても、末法においてこの法華経を持つことは難しい」ととかれているのは、このことに違いない。私は、今度こそ、強い求道信をおこして、断じて退転すまいと、誓願したのである。

 人間を鍛え、強くし、豊かな人格をつくるのは、「精神の力」です。確固たる「哲学」と決定した「信念」こそが、偉大な人間の風格をつくっていく。
 「開目抄」は、いわば「最深の哲学」と「最強の信念」を説く書です。
 「最深の哲学」とは、全人類救済の極理たる凡夫成仏の大法が説き明かされているからです。
 日蓮大聖人は、無常と思える凡夫の生命に常住の妙法を洞察され、その妙法の力を一人ひとりの人間に現していく道を確立された。私たちはそこに、全人類に真に希望と勇気を与うる最も深き哲学を拝することができる。
 「最強の信念」とは、全人類を救いうるこの大法を、いかなる障魔が競っても弘めゆくことを誓う、広宣流布の偉大なる信念です。その根底には、大法を惜しむお心とともに、人間の苦悩に同苦されつつ、人間の限りなき可能性を慈しまれる大慈悲があれわれることは言うまでもありません。
 本抄の前半では、文底の大法である事の一念三千を、末法流布・民衆救済の法として明かされています。その大網は既に拝してきました。
 そして、本抄の後半では、その大法を弘めていく真の法華経の行者は誰かが明かされていきます。
 すなわち、成仏の根本の「法」を明かした後、その法を弘める「人」へと焦点が移っていきます。
 その後半部の冒頭にあたって、大聖人は、御自身が末法流布に立ち上がられた時、すなわち、いわゆる“立宗の時”に立てられた「誓願」について述べられています。これは末法流布にあって「誓願」がいかに重要であるかを示しています。
謗法=人間の成仏を信じられない無明
 末法の広宣流布はいかに困難であるか。その点について、大聖人は本抄で次のように指摘されています。
 「
仏涅槃経に記して云く「末法には正法の者は爪上の土・謗法の者は十方の土」とみへぬ、法滅尽経に云く「謗法の者は恒河沙・正法の者は一二の小石」と記しをき給う、千年・五百年に一人なんども正法の者ありがたからん、世間の罪に依つて悪道に堕る者は爪上の土・仏法によつて悪道に堕る者は十方の土・俗よりも僧・女より尼多く悪道に堕つべし。」(019916)(法滅尽経に「謗法の者が恒河の沙ほど多く、正法の者は一・二の小石ほど少数である」と予言している。千年に一人か五百年に一人ほども正法の者があることはむずかしいであろう。世間の罪により、強盗や殺人をして悪道に堕ちる者は、爪の上の土ほど少なく、仏法によって悪道に堕ちる者は十方の土ほど多いのである。俗人よりも出家の僧が、女よりも出家した尼の方が仏法を誤り謗法の罪によって多く悪道に堕ちるのである
 末法には、時代が濁り、人々の機根も劣るとされ、僧尼の堕落も極まる。そのような問題もさることながら、末法弘通の正像二時をはるかに超えて困難であることの本質については、「謗法」という問題を抜きに語ることはできません。
 「謗法」とは「正法を謗る」ことです。その根底には正法に対する「不信」があります。正法とは、万人の成仏を説く法華経です。万人が成仏できるとうことは自分も成仏できるということです。
 しかし、これが信じがたい。多くの人は、仏とは人間からかけ離れた存在であると思ってしまっているからです。そういう古い権威主義的な宗教観・信仰観を持っている人は、すべての人が仏になれるという法華経の正法を、とても信じることはできない。
 また、自分が仏になれるということは、現実の人生経験の上からも信じがたい。現実の人生において苦境にあるときは、そのように苦しむ自分が仏になれるとは、とてもおもえなくなる。
 反対に、順調なときは、こんなに幸せなら仏にならなくてもよいと思ってしまう。いずれにせよ、正法を信ずるようになることは稀である。このように、万人が成仏できるということは信じがたいので、ややもすると、人間からかけ離れた神仏を説き、神仏と人間との間に聖職者という媒介者をおく権威主義的な宗教の方に傾斜していく人が多い。
 そのような宗教観・信仰観が支配的な社会に、万人の成仏のために戦う法華経の行者が出現すると、多くの人は自らの既成の宗教観にかたくなに固執し、真実の仏法を実践する法華経の行者を憎み、迫害するのです。
 例えば、法華経勧持品には、三類の強敵が法華経の行者に対して「汝らはみな仏なのか」と揶揄する、ととかれている。このように、法華経の行者への迫害の根底には、万人成仏を説く正法への不信・誹謗が横たわっているのです。
 小乗教や権大乗教では、釈尊を特別化して人間は釈尊のようにはなれないと説いたり、あるいは阿弥陀仏や大日如来のような、人間からかけ離れた仏を説いています。これらの教えを依りどころとする宗派が正法・像法の時代に生まれ、人間からかけ離れた仏を説く分だけ権威主義化していった。
 末法に入ると、法華経の真義がわからなくなり、ますます権威主義的宗教が正しいとう考えに縛られ、人間からかけ離れた神仏の力にすがるという信仰観が支配的になります。故に自宗への執着心がいよいよ強盛になり「小乗をもって大乗を打ち、権教をもって実教の法華経を破る」という、顛倒した考え方が横行するのです。法華誹謗の仏教宗派の横行です。
 そして、ついには、これらの宗派が悪縁となって法華不信・法華誹謗の人を多く生み、「仏教によって悪道に堕ちる者は十方の土のように多い」という、由々しき事態が起こるのです。」仏法は本来、人々を救うための教えです。それが、誤った仏教を信ずることにより、人々は悪道に堕ちてゆく。これが末法の「法滅」の姿です。
 大聖人は、そのような末法・法滅の時代の人々を救うため、一人、立ち上られたのです。
 そのために、仏教諸派に潜む魔性を徹底的に見極められた。本抄では、法華経の行者として一人立ち上がる時の誓願を述べられる前に、謗法の教えと堕し、人々を悪道に堕とす諸宗の魔性の正体を「悪鬼入其身」であると見破り、厳しく打ち破っておられます。
悪鬼入其身の高僧が謗法の元凶
 本抄では、悪鬼は一見、仏法を悟り究めたかのように見える高僧に入り、民衆をたぶらかすと指摘されています。つまり、社会の中で、精神的影響力の強い者に悪鬼が入り、大勢の人々を惑わして悪道に堕とすというものです。
 釈尊の説いた爾前の教法それ自体が即、謗法ということではありません。問題なのは、その教法に執着し、悪用して、法華経を誹謗する悪人であり、それこそが、謗法の元凶なのです。さらに言えば、そうした謗法の僧を支持する民衆の無明をこそ、克服していかなければ、末法の弘通は成り立ちません。
 「
元品の無明は第六天の魔王と顕われたり」(099707)と仰せのように、第六天の魔王の本質は、すべての人の生命に巣くう元品の無明の闇を払うために、悪縁・悪知識には毅然たる態度で臨み、打ち破っていかないといけないのです。ゆえに悪縁・悪知識に対しては、“油断するな”“見破れ”“戦え”と説くのが仏教の正統な教えです。
 末法に入って200余年、悪鬼入其身の悪僧の本質を見抜いたのは、ただ日蓮大聖人お一人であられた。
 正義が見失われている時に真実を叫べば、民衆をたぶらかしている輩は、自分の正体を暴かれる恐怖から、その法華経の行者を迫害する。そして、彼らにたぶらかされている民衆は、だまされていた自分の愚を直視することができないために、正義の人を遠ざけ、悪口し怨嫉し、果ては迫害する。
 謗法が充満している社会は、真実を叫ぶ法華経の行者が弾圧される社会へと必然的になってしまうのです。
 日蓮大聖人は、そのこともまた知悉されていました。それでも、民衆のために一人、立ち上がる決意をされる。あの立宗宣言前の強靭な御思索と壮絶な精神闘争に、それが拝されます。その御思索の一端が、御自身の述壊として「開目抄」に綴られています。
 ここに拝することができる大聖人の崇高な魂の軌跡こそ、人類の精神史に刻まれるべき重要な一ページであると私は確信する。
誓願によって一人立つ
 「日本国に此れをしれる者は但日蓮一人なり」謗法の悪縁が国に充満していることを知るのは、ただ大聖人お一人であられた。
 法華経や涅槃経などの経文を照らして見るに、謗法充満の事実を人々に語れば三障四魔が競い起こるのは必然である。一方、言わなければ、無慈悲のゆえに後生には必ず無間地獄に堕ちることも、経文には明らかである。そこで大聖人は、言うか言わざるかの二つのうちでは「言うべきである」と経文に照らして結論されたと述べられています。
 波浪に真正面から向かっていく困難と、暗き深淵の底に沈んでいく苦悩とを比較するならば、前向きに敢然と困難に挑戦すべきであるとされたのです。
 もちろん、末法に正法を弘通することは、並大抵のことではない。権力の牙が剥いて大弾圧を加えてくる時の魔性の嵐は、想像を絶する精神的・肉体的な打撃をもたらします。
 万人の成仏を説く正法を知悉されていた大聖人は、人間の仏性を深く洞察されていたが故に、正法を妨げる魔性の恐ろしさもまた深く見抜かれていたと拝察できます。
 そこで「王難等・出来の時は退転すべくは一度に思ひ止るべしと且くやすらいし程に」と言われているのです。
 波濤さかまく航海の途中で引き返すぐらいなら、最初から船出すべきでない。魔性が荒れ狂って退転するかもしれないとわかったときは、思いとどまってもよいのではないか。こうも考えざるをえないほど、魔の働きは激しい。故に大聖人は、しばらくは、敢然たる行動に移る前に御思索を重ねられたのである。
 もちろん、ここで、退転するくらいなら思いとどまろうとされているのは、決して臆病や惰弱の心からではありません。たたかうべき魔性の本質を知悉されているが故に全宇宙に瀰漫する魔軍を完全に破ることの険しさに思いをめぐらした、真実の勇者ならではの真剣な思索であります。
 「やすらいし」という表現とは裏腹に、じっと黙考して微動だにせぬ大聖人の胸奥には、壮絶な魂の闘争が繰り広げられたと拝察されます。
 そのとき、魂の闘争を続けられていた若き大聖人のお心に浮かび上がってきたのが、法華経宝塔品の「六難九易」でありました。
 「六難九易」とは、釈尊が菩薩たちに対して、滅後弘通の誓いを勧めるために説かれたものです。
 「九易」として説かれている九つの“易しいこと”は、“須弥山をとって他方の無数の仏土に擲げ置く”とか“枯れ草を背負って大火に入っても焼けない”など、実際には実現することがほとんど不可能といってよい難事です。それ以上に難しい難事中の至難事が「六難」すなわち滅後における法華経の受持・弘通である。このように釈尊は明言したうえで、いかなる苦難も越えて滅後の法華弘通に邁進するとの「誓言」を述べなさいと菩薩たちに勧めているのです。
 後に「開目抄」では、この勧めを「宝塔品の三箇の鳳詔」の一つとしてあげられています。
 仏の滅後における法華弘通は、三世の諸仏の願いである。その困難をすべて知り尽くしたうえで、仏は後継の菩薩たちにあえて「挑戦すべし」と呼び掛けられているのです。
 六難九易は、いわば「仏意」を表現しているのです。仏は滅後における法華弘通の至難なることを明確に示しながら厳然と「誓言」を述べるように勧めているのです。
 それは“「誓い」を立てて法華経への信を確立すれば、乗り越えられない難はない”という末法の法華経の行者への厳然たるメッセージであると考えられる。
 ここで「九易」の例として大聖人が挙げられている三つの譬えに注目してみたい。そのなかで大聖人は、あえて「我等程の小力の者」「我等程の無通の者」「我等程の無智の者」との表現をとられ、凡夫であることを強調されています。
 ここには、肉体的な力がなかろうと、神通力がなかろうと、智慧がなかろうと、誰人であれ確固たる誓いをもって仏とともに歩めば、無限の力、無限の勇気、無限の智慧がわき、いかなる大難も乗り越えることができるという、無限の希望のメッセージが込められているのではないでしょうか。
 力なき凡夫でも、悪世において誓願をもって信を貫けば、自分の生命の奥底から仏界の力を涌現して、苦難を越え、自身を変革していける。
 反対にいえば、どんなに“大力”の者も“神通力”の者も“智慧”者であっても、成し遂げがたいのが、一人の人間の生命の変革なのです。
仏教における誓願の本義
 そこで、いよいよ大聖人の「誓願」がたてられます。
 「今度・強盛の菩提心を・をこして退転せじと願しぬ」
 「菩提心」とは、菩提を求める心です。したがって「強盛の菩提心」とは、なにがあっても成仏を求めていく心です。これは菩薩の誓願です。
 そもそも、大乗の菩薩は「四弘誓願」を立てることが菩薩である根本条件とされます。すなわち、「衆生無辺誓願度」「煩悩無量誓願断」「法門無尽誓願知」「仏道無上誓願成」という四つの広大な誓願です
 この「菩薩の誓願」の原形とも言うべき言葉が、法華経薬草喩品第五に「仏の誓願」として、説かれている。
 「末だ度せざる者は度せしめ、末だ解せざる者は解せしめ、末だ安んぜざるものは安んぜしめ、末だ涅槃せざる者は涅槃を得せしむ」
 この仏の請願は、総体としては「衆生無辺誓願度」を表現しています。仏が断じて万人を救わんとの誓いに立っていることが伝わってきます。また、四弘誓願の他の三つに通ずる表現も、この言葉の中に見られます。
 仏教において「誓願」は宿業の鉄鎖を切り、過去に縛られた自分を解放し、新しい未来に向かう自分をつくる力といえます。仏の教えで自分をみがきつつ、確立した心によって、未来の自分を方向つけ、それを実現していく努力を持続していけるのが「誓願の力」です。
 誓願とは、いわば「変革の原理」です。
 それは、自分自身の変革はもちろんのこと、薬草喩品の仏の誓願でみられるように、全民衆を変革していくための原理であると言えます。
妙法・仏性への信
 特に末法における万人成仏という誓願を成就するためにあたって、大聖人が強調されたのは「信の力」です。
 いわば、妙法の当体としての人間の無限の可能性を信ずることが、法華経の真髄です。それは、妙法の深い「信」であるとともに、人間への透徹した「信頼」があると言えます。
 法華経に説かれる末法の弘通の範となる不軽菩薩もそうです。不軽菩薩は、四衆から杖木瓦石の難を受けても礼拝を貫き通した。時には、瓦石が届かない位置まで離れながらも、再び相手の方を向いて、大声で叫ぶ。
 「それでも、私はあなたを礼拝する。あなたたちは皆、仏になるのです」
 自分に非難を浴びせ、暴力を加えてくれる人々をも礼拝し続ける。この不軽菩薩の実践は、すべての人間に一人ももれなく仏性があるという哲学に裏付けられています。何よりも不軽菩薩が、万人に仏性が内在することを「信じ抜いた」からだと考えられます。
 これと対極にあるが乞眼の婆羅門の責めに負け小乗に堕ちた舎利弗です。自分の善意が踏みにじられた時、舎利弗は思わず叫んでしまった。“この人は救い難い”と。言うなれば、舎利弗は、結果として、万人に内在する仏性に対する「信」を失ったと言えるのです。
 乞眼の婆羅門は、第六天の魔王の化身であった。万人の仏性の発現を否定するのが魔の本性です。
 「万人が皆、仏である」ことへの「信」を破ろうとするのが、魔の本質にほかなりません。
 自分が救済しようと思ったその相手自身から、憎まれ、迫害される。理不尽といえば理不尽ですが“「それでも」私は、あなたを礼拝する”と叫び続けた不軽菩薩のごとく、深き「信念」を貫くことこそ、末法の仏法者の振る舞いです。
 ある意味では、人間の善の本性に対する突き抜けた「信頼感」と、それに基づく深い「楽観主義」を支えるのが「誓願」の力です。
 日蓮大聖人は深き誓願によって、一人、法華経の行者として厳然と立ち上がられました。謗法の悪縁に迷うすべての人を救おうと、断固たる行動を貫かれていた。その結果は日蓮大聖人が予見された通り、日本中の人から憎まれ、嵐のような大弾圧を受けることになりました。
 しかし大聖人は、「
本より存知の旨なり」(091003)「然どもいまだこりず候」(105614)「日蓮一度もしりぞく心なし」(122405)「今に至るまで軍やむ事なし」(050205)との決然たる御心境が戦い続けられたのです。
 大聖人の生涯の壮絶な闘争を支えた原動力は、ひとえに誓願の力であったと拝することができる。誓願を貫くことによって仏と心と一体化し、生命の奥底から仏界の無限の力を涌現することを示し、教えてくださったのである。
 濁世にあって、人間不信を助長させる魔の策謀を打ち破ることができるのは、万人救済を誓う「誓願」の力以外にありません。

第七回 法華経の行者top

忍難の慈悲に勝れる正法の実践者

0202
01
                      夫れ小児に灸治を加れば必ず母をあだむ 重病の者に良薬をあたうれ
02
 ば定んで口に苦しとうれう、 在世猶をしかり乃至像末辺土をや、 山に山をかさね波に波をたたみ難に難を加へ非
03
 に非をますべし、
05
                                      今末法の始め二百余年なり況滅度
06
 後のしるしに闘諍の序となるべきゆへに 非理を前として 濁世のしるしに召し合せられずして流罪乃至寿にも・を
07
 よばんと・するなり。

 子どもに灸を据えれば必ず母を憎む。重病の人に良薬を与えれは決まって口に苦いと不平を言う。そのように釈尊でさえ、なお怨嫉が多かった。まして像法・末法において、また辺地においてはなおさらのことである。山に山を連ね、波に波を重ねるように、難に難を加え、非に非を増すであろう。
 今は末法が始まって二百年余りになる。「況滅度後」の前兆であり、闘諍の世の始まりであるがゆえに、理不尽なことがまかり通り、濁った世である証拠に、日蓮には正邪を決する場も与えられず、むしろ流罪になり、命まで奪われようとしている。

08   されば日蓮が法華経の智解は天台・伝教には千万が一分も及ぶ事なけれども難を忍び慈悲のすぐれたる事は・を
09
 それをも・いだきぬべし、 

 したがって、法華経を理解する日蓮の智恵は、天台・伝教の千万分の一にも及ばないけれども、難を忍び慈悲がすぐれていることは、だれもが恐れをいだくであろう。

06                                             経文に我が身・普
07
 合せり御勘気をかほれば・いよいよ悦びをますべし、 例せば小乗の菩薩の未断惑なるが願兼於業と申して・つくり
08
 たくなき罪なれども 父母等の地獄に堕ちて大苦を・うくるを見てかたのごとく 其の業を造つて願つて地獄に堕ち
09
 て苦に同じ苦に代れるを 悦びとするがごとし、 此れも又かくのごとし当時の責はたうべくも・なけれども未来の
10
 悪道を脱すらんと・をもえば悦びなり。

 経文の予言に、我が身が全く合致している。故に、難を被れば、いよいよ喜びを増すのである。例えば、小乗経の菩薩でまだ三惑を断じ尽くしていない者が「願兼於業」といって、つくりたくない罪であるけれども、父母等などが地獄に堕ちて大苦を受けているのを見て、型をとるように同じ業をつくり、自ら地獄に堕ちて苦しみ、そして父母たちの苦しみに代われることを喜びとするようなものである。日蓮もまたこの通りである。現在受けている迫害は耐えることができないほどであるが、未来に悪道から脱すると思うと喜びである。

 日蓮大聖人は立宗の時に、大難を予見されつつ、「今度・強盛の菩提心を・をこして退転でじと願しぬ」(020016)との深き誓願を立てられ、「法華経の行者」として立ち上がられました。このことは、前回に詳しく拝察しました。
 立宗後の闘争は、大聖人が予見されたごとく、また経文に説かれるがごとく、難また難の連続でありました。
 大聖人はこう仰せです。
 「
既に二十余年が間・此の法門を申すに日日・月月・年年に難かさなる、少少の難は・かずしらず大事の難・四度なり」(020017
激しく執拗な迫害は怨嫉から起こる
 「大事の大難・四度」大聖人ご自身に危害が及び、命も危うく、大聖人の教団そのものの存続も危ぶまれる大難が、立宗から20年ほどで4度もありました。言うまでもなく、松葉ヶ谷の法難、伊豆流罪、小松原の法難、そしてこの竜の口の法難・佐渡流罪です。
 竜の口の法難・佐渡流罪は、権力の手による最大規模の大難であり、大聖人御自身が処刑の座に臨まれた。さらに弟子・檀那も謀反人のように扱われ、たまたま大聖人の法門を聴聞しただけの人々も重罪に処せられるという徹底ぶりでした。
 これだけの大難は、大聖人を亡き者にしようとし、大聖人一門の壊滅を図る迫害者たちの「邪悪な意図」と「残酷さ」をあらわにしたものと言えます。
 その他の難について、大聖人は「少少の難は・かずしらず」と仰せです。悪口罵詈、讒言、嫌がらせ、そして門下に対する追放や罰金。それらの難が「かずしらず」打ち続いたのです。まさに、迫害者たちの「執拗さ」を示しています。
 大聖人は、これまでに御自身が遭われた難を概括されつつ、これらの迫害者の本質について、経・釈を引かれながら浮き彫りにされていきます。
 その性根は「怨嫉」です。怨嫉とは「敵視する感情」の意ですが、その文字のままに「怨み」と「嫉み」が入り混じった、まことに複雑な感情であると言えます。
 当時の仏教諸派の僧や檀那は、大聖人が法華経の行者として正法に生き抜かれている姿に対して、どす黒い「嫉み」を抱いていた。とともに、各派の信仰の誤りを、大聖人が厳格に破折されたことにたいして「怨み」をあらわにしていました。
 大聖人はここで、法華経から「如来現在猶多怨嫉・況滅度後」「軽賤憎嫉」「一切世間多怨難信」などの経文を引かれ、末法の迫害の根底に、法華経の行者への「怨嫉」があることをしめされています。
 また、悪口罵詈、讒言、追放、流罪などの離間策や直接的暴力など、「怨嫉」から起こる陰湿な迫害の様相を説く法華経・涅槃教の経文を挙げられています。
 さらに、天台・妙楽・伝教・東春などの多くの釈の文を引かれて、迫害は「怨嫉」から起こることを強調されています。
 末法における法華経の行者への迫害が激しく、執拗であるのは、まさしく迫害者たちの生命に「怨嫉」が渦巻いているからなありのです。
元品の無明が強く発動する時代
 この怨嫉の根本は、妙法に対する無知であり不信である「元品の無明」です。
 前回の講義でも述べましたが、末法とは正法への不信、謗法が渦巻く社会である。法華経の行者が正法を説けば、人々の元品の無明が悪鬼の働きを起こす。そういう「悪鬼入其身」の社会なのです。
 「元品の無明は第六天の魔王と顕われたり」と仰せの通り、無明の生命が発現し第六天の魔王の働きとなる。そして悪鬼は善人をあだむ」と仰せの通り、悪鬼入其身の人々は正法の人に迫害を加えていくのです。
 また大聖人は、「
日本.一同に日蓮をあだみて国国・郡郡・郷郷・村村・人ごとに上一人より下万民にいたるまで前代未聞の大瞋恚を起せり、見思未断の凡夫の元品の無明を起す事此れ始めなり」(099809)(日本一同が日蓮を怨んで、国々・郡々・郷々・村々・人ごとに、上一人から下万民にいたるまで前代未聞の大瞋恚を起こしているからである。見思惑を断じていない凡夫が、一切の迷いの根本である無明の煩悩を起こしたことは、これがはじめてである)もとも仰せです。
 謗法充満の末法では、三障四魔も、天台・伝教の時代よりも一段と激しく起こってくる。謗法が充満することで、無明の発動が盛んになり、貧瞋癡が強く現れてくるからです。故に、正法を説き弘める法華経の行者に対して、怨嫉が盛んになる。
 このことを「開目抄」では「
小児に灸治を加れば必ず母をあだむ重病の者に良薬をあたうれば定んで口に苦しとうれう」(020201)と示されています。
 正しく正法を弘める法華経の行者であればこそ、人々の正法不信の心が激しく反発するのです。
 ゆえに大聖人は、「
魔競はずは正法と知るべからず」(108716)と仰せられています。
小失なくも度々難に遭う人
 大慢の者が正義の人を陥れる方法は、「讒言」です。対話や言論戦を避け、なおかつ、己の虚飾を満たすために、讒言・ウソという卑劣な手段を選択する。それも、こともあろうに、正義の人に「悪人」のレッテルを張り、中傷するのです。
 法華経勧持品には、僭聖増上慢が、国王・大臣や社会の有力者に向かって、法華経の行者についてのデマを捏造すると説かれています。また涅槃経では外道が阿闍世王の所へ行き、釈尊が利益を貪り、呪術を用いたなど、およそ正反対のデマを作り、仏を「大悪人」呼ばわりしたことが記されています。
 賢明な社会であれば、当然、そうしたウソを見破る指導者が出てきます。大聖人は、天台、伝教の時代は像法時代で、いろいろな難はあったが、最後は国主が是非を判断したゆえに、それ以上の迫害はなかったと仰せです。
 しかし、末法では、悪鬼入其身の僧らによって正法を歪められた社会にあって、指導者には善悪を判断する能力も意思もなくなっていく、ゆえに大聖人に対して、国主らは「非理を前とし…召し合せられずして」道理に反した理不尽な政道を行い、公正な弁明の機会を与えることもなく、一方的に流罪・死罪に処して、迫害に及んだと言われています。
 民衆主義の現代で言えば、“真実を見極められない国主”とは、ウソを容認してしまう社会、デマを傍観してしまう社会の存在に通じるといえます。
 いかなるウソやデマも、そのまま放置すれば、結局は、人々の心の中に沈澱して残ります。ですから、ウソやデマと戦えない社会は、必ず精神が衰退し、歪んでしまう。それ故に、末法広宣流布は、人々の無明をはね返して、人々の精神の奥底を破壊する謗法を責め抜いていく、強く鋭い言論の戦いが絶対に重要となっていく、その戦いがあってこそ、社会に健全な精神を取り戻すことができるからです。
 デマ、讒言という一例をもって述べましたが、いずれにしても、転倒した社会にあって正義を叫ぶことは並大抵のことではありません。むしろ、真実を叫べば叫ぶほど、迫害の嵐は強まる。例えば、人々が天動説を信じきっている社会のなかで、ただ一人、地動説をとなえるようなものです。
 正義のひとは、執拗で理不尽な迫害を受ける、また、そこでこそ正義の人である。
 大聖人は、末法の法華経の行者の条件として、次のように述べられています。
 「
小失なくとも大難に度度値う人をこそ滅後の法華経の行者とはしり候はめ」(029716
 法華経の行者には、何一つ失がなくても、大難が押し寄せるのです。その様は、「開目抄」の「
山に山をかさね波に波をたたみ難に難を加へ非に非をますべし」(020202)との仰せに示されて余りあります。
 このように大難が起こる構図をもとより承知のうえで、大聖人は法華経の行者として一人立たれた。そして20年に及ぶ大闘争を経て、今、流罪地の佐渡にあっても正義を説かれ、師子吼されているのです。
忍難と慈悲の力で法を体現
 大聖人は、御自身の法華経の行者としての御境地を次のように述べられています。
 「
されば日蓮が法華経の智解は天台・伝教には千万が一分も及ぶ事なけれども難を忍び慈悲のすぐれたる事は・をそれをも・いだきぬべし」(020208
 法華経に対する智解の深さは、仮に、天台・伝教のほうが勝っていつとしても、「忍難」と「慈悲」においては、はるかに大聖人が勝っているとの仰せです。
 もちろん、末法の弘通にあっても、法華経に対する「智解」、すなわち道理を尽くして、理論整然たる教義の展開から語りゆくことは重要です。大聖人も、理論的解明の功績を天台・伝教に譲られることはあっても、その必要性を否定されているわけではありません。
 しかし、それ以上に重要なことがある。それは、悪世末法に現実に法を弘め、最も苦しんでいる人々を巣くい切っていく「忍難」と「慈悲」です。
 この「忍難」と「慈悲」は、表裏一体です。民衆救済の慈悲が深いからこそ、難を忍んで法を弘めていく力が勝れているのです。
 「難を忍び」とは決して一方的な受け身の姿ではありません。末法は「悪」が強い時代です。その悪を破り、人々を目覚めさせる使命を自覚した人は誰であれ、難と戦い続ける覚悟を必要とするからです。その根底には、末法の人々に謗法の道を歩ませてはならないという厳父の慈悲があります。その厳愛の心こそが末法の民衆救済に直結します。
願兼於業の悦びの信心
 慈悲は忍難の原動力であり、忍難は深き慈悲の証明です。そのことが示されるために、大聖人は「願兼於業」の法理について言及されています。
 大聖人はここで御自身が受けられている大難は、実は衆生を救う願いのために、あえて苦しみを受けていく菩薩の願兼於業と同じであるとされています。そして、菩薩が衆生の苦しみを代わりに受けていくことを喜びとするように、大聖人も今、大難という苦しみを受けることが、悪道を脱する未来を思えば喜びである、と言われている。
 願兼於業こそ悦びであるとのおおせは、本抄の一番最後の結論部分と一致します。
 「
日蓮が流罪は今生の小苦なれば・なげかしからず、後生には大楽を・うくべければ大に悦ばし」(123711
 願兼於業とは、仏法における宿命転換の結論です。端的にいえは、「宿命を使命に変える」生き方です。
 人生に起きたことには必ず意味がある。また意味を見いだし、見つけていく、それが仏法者の生き方です。意味のないことはあません。どんな宿命も必ず深い意味があります。
 それは、単なる心の在り方という次元ではない。一念の変革から世界の変革が始まる。これは仏法の方程式です。宿命をも使命と変えていく強き一念は、現実の世界を大きく転換していくのです。その一念の変革のよって、いかなる苦難も自身の生命を鍛え、作り上げていく悦びの源泉と変わっていく。悲哀をも想像の源泉としてゆくところに、仏法者の生き方があるのです。
 その真髄の生き方を身をもって教えられているのが、日蓮大聖人の「法華経の行者」としての振る舞いにほかならない。
 「戦う心」が即「幸福」への直道です。
 戦う中で、初めて生命は鍛えられ、真の創造的生命が築かれていきます。また、いかなる難があっても微動だにせぬ正法への信を貫いてこそ、三世永遠に幸福の軌道に乗ることができる。一生成仏とは、まさに、その軌道を今世の自分自身の人生の中で確立することにほかなりません。
 「戦い続ける正法の実践者」こそが、大聖人が法華経を通して教えられている究極の人間像と拝したい。
 その境地に立てば、難こそが人間形成の真の基盤となる。「
魔競はずは正法と知るべからず魔競はずは正法と知るべからず」(108716)と覚悟して忍難を貫く正法の実践者は、必ず妙法の体現者と現れるそして「大難来りなば強盛の信心弥弥悦びをなすべし」(144803)という大境涯に生きていくことができるのです。
 大聖人は、この「開目抄」で、その御境地を門下に、また日本中の人に厳然と示されることによって、万人の無明の眼を開こうとされた。そして、法華経の行者の真髄の悦びを語られていると拝することができます。


第八回 法華の深恩top

成仏の大法弘める法華経の行者を守れ!

11   但し世間の疑といゐ自心の疑と申しいかでか天扶け給わざるらん、 諸天等の守護神は仏前の御誓言あり法華経
12
 の行者には・さるになりとも 法華経の行者とがうして 早早に仏前の御誓言を・とげんとこそをぼすべきに其の義
13
 なきは我が身・法華経の行者にあらざるか、此の疑は此の書の肝心・一期の大事なれば処処にこれをかく上疑を強く
14
 して答をかまうべし。

 ただし世間が疑っていることであり、自分も心に疑っていることだが、どうして諸天は日蓮を助けないのか。諸天らの守護神は、仏の前での法華経の行者を守護すると誓言している。法華経の行者に対しては、たとえ猿であっても、法華経の行者と讃えて、速やかに仏の前で行った誓言を遂げようと思うべきなのに、それが果たされないのは、この私が法華経の行者ではないのであろうか。この疑いは、この開目抄の肝心であり、日蓮一生涯の重大事であるので、随所にこれを書き、そして、疑いをますます強くして答えを示していきたい。
          以下より「開目抄・下」にはいる。

18   されば諸経の諸仏・菩薩・人天等は彼彼の経経にして仏にならせ給うやうなれども実には法華経にして正覚なり
0217
01
 給へり、 釈迦諸仏の衆生無辺の総願は皆此の経にをいて満足す今者已満足の文これなり、 予事の由を・をし計る
02
 に華厳・観経.大日経等をよみ修行する人をば・その経経の仏・菩薩・天等.守護し給らん疑あるべからず、但し大日
03
 経・観経等をよむ行者等・法華経の行者に敵対をなさば彼の行者をすてて 法華経の行者を守護すべし、 
06
                                       日蓮案じて云く法華経の二処・
07
 三会の座にましましし、 日月等の諸天は法華経の行者出来せば磁石の鉄を吸うがごとく 月の水に遷るがごとく須
08
 臾に来つて行者に代り 仏前の御誓をはたさせ給べしとこそをぼへ候に いままで日蓮をとぶらひ給はぬは日蓮・法
09
 華経の行者にあらざるか、されば重ねて経文を勘えて我が身にあてて、身の失をしるべし。

 以上のことから諸経に説かれている諸仏や菩薩や人界・天界などの衆生は、それぞれの経において仏に成ったようであるが、実際には法華経によって真の悟りを得たのである。釈迦仏や諸仏が立てた、すべての衆生を苦しみから救おうとする総願は、すべて法華経において成就したのである。法華経方便品の「今、ついに満足した」との経文はこのことである。私がこうしたいきさつから考えると、華厳経や観無量寿経や大日経などを読み修行する人を、それぞれの経に説かれている仏や菩薩・諸天などが守護することは疑いない。大日経や観無量寿経などを読む行者が、法華経の行者に敵対したならば、仏菩薩たちはそれらの行者を捨てて、法華経の行者を守護するはずである。
 日蓮はこう思う。法華経の二処三会の場にいた日天・月天などの諸天は、法華経の行者が現れ、磁石が鉄を吸い寄せるように、月が水面に身を映すように、すぐやって来て、行者に代わって難を受け、守護するという仏の前での誓いを果たすはずであると思っていたが、今まで日蓮を訪ねてこないのは、日蓮が法華経の行者ではないということか。それならば重ねて経文を検討して我が身に引き当てて、自身の誤りを知ろうと思う。

法華経の行者の要件
 これまで、「末法の法華経の行者」として、日蓮大聖人の御境地を拝察してきました。
 それを要約すると、まず末法の法華経の行者である第一の要件として「誓願」を挙げられています。成仏の法として法華経を、自分も何があっても信じ抜き、また、他にも弘め抜いていくという誓願です。
 次に説かれている要件は「忍難」です。誓願を貫き、いかなる大難にも耐え抜いていってこそ法華経の行者です。ただし「難を忍ぶ」といっても、単に受け身で耐えるだけではなく、いかなる大難も乗り越え、勝ち越えていく戦いを貫くことです。
 さらに大聖人は、忍難とともに「慈悲」を挙げられています。忍難の力は慈悲から起こるからです。何があっても末法の全民衆を救済しようと立ち上がった法華経の行者の「慈悲」の前には、いかなる大難も「風の前の塵なるべし」です。
 そして、経文に説かれた通りの実践をしている法華経の行者は、悪世ゆえのあらゆる苦難を吹き飛ばして「悦び」の境地にあることを、願兼於業の例として示されています。
「世間の疑」と「自心の疑」
 「誓願」「忍難」「慈悲」「悦び」この大いなる御境地にあられた大聖人が、法華経の行者としての御確信に立たれていたことは言うまでもありません。
しかし大聖人は、このように末法の法華経の行者の御確信を示されたうえで、“大いなる疑い”を提示されていきます。
 「
但し世間の疑といゐ自心の疑と申しいかでか天扶け給わざるらん、諸天等の守護神は仏前の御誓言あり法華経の行者には・さるになりとも法華経の行者とがうして早早に仏前の御誓言を・とげんとこそをぼすべきに其の義なきは我が身・法華経の行者にあらざるか」(020311)(ただし世間が疑っていることであり、自分も心に疑っていることだが、どうして諸天は日蓮を助けないのか。諸天らの守護神は、仏の前での法華経の行者を守護すると誓言している。法華経の行者に対しては、たとえ猿であっても、法華経の行者と讃えて、速やかに仏の前で行った誓言を遂げようと思うべきなのに、それが果たされないのは、この私が法華経の行者ではないのであろうか)と。
 この「疑い」は、本抄御執筆の背景と深い関係があります。
 すなわち、文永8年(1271912日の竜の口の法難と、それに続く佐渡流罪は、幕府による大聖人の教団全体の大弾圧であったため、大聖人門下の多くの人々も迫害を受けています。所領没収や追放、罰金などの迫害を受けて、鎌倉の多くの門下たちが退転してしまう。
 「
弟子等・檀那等の中に臆病のもの大体或はをち或は退転の心あり」(122405
 「
御勘気の時・千が九百九十九人は堕ちて候」(090707
 そうした状況の中で、“大聖人が法華経の行者であるならば、なぜ諸天の加護がないのか”という非難が世間からあびせられます。あるいは、退転していった門下たちも同じ疑問を持っていたかもしれない。残った門下たちにしても、日蓮大聖人を最後まで信じ抜いて戦っていましたが、世間や退転者からの非難に対して反論する力を持っていません。悔しい思いをしながら、仏法の正しき法理の解答を待ち望んでいた弟子たちもいたかもしれない。
 こうした内外の疑問に対して明確に答えることは、万人の心の闇を晴らし、確信を与えるために不可欠なことでありました。その疑妄を晴らしていくことに本抄の大部分が割かれていきます。
 ここで大聖人は、「世間の疑」と並べて「自心の疑」とも言われています。これは、当然、大聖人御自身が迷いや不信に通じる疑いを持たれているということではありません。
 世間の人々や門下たちの疑いは、大聖人が法華経の行者ではないのではないか、というものでした。それに対して、大聖人の御胸中には、当然、御自身こそが法華経の行者であるとの御確信が赫々と燃え盛っておられた。
 であればこそ、そこに「答えるべき課題」がある。それは、諸天善神が加護の働きを起こさないのは何故か、とうい問題です。
 諸天善神による法華経守護の問題こそが、大聖人の「自心の疑」に当たると拝することができます。
 大聖人は法華経の行者ではないのではないかという「世間の疑」と、諸天善神が法華守護の働きを起こさないのは何故かという「自心の疑」。この二つは切り離せない一体の問題です。
「此の書の肝心・一期の大事
 大聖人は、この二つの面を持つ問題について「此の疑は此の書の肝心・一期の大事」と仰せです。すなわち、この疑いこそ「開目抄」の根幹であり、大聖人御生涯の闘争における最重要事であるとまで仰せです。
 この疑いの厚い雲を突き抜けば、雲海を見下ろし、赫々と太陽が照らしゆく、大確信の青空が広がります。この疑いの解決こそが、「人本尊開顕」に至るための道筋になるのです。それ故に、「疑いを強くして答をかまうべし」むしろ疑いをさらに強めて、答えを示そう。と言われています。問題を鮮明にすることによって、真の解決を目指されているのです。
 これ以降の本抄の展開を拝すると“大いなる疑い”を強めながら解決を示されていく論述は、二つの柱から構成されています。
 一つは、二乗や菩薩・天・人などが法華経において初めて成仏できるようになったという、「法華の深恩」を明かし、にもかかわらず彼らが大聖人を守護するために現れないのは、大聖人が法華経の行者ではないからかと、あえて、「世間の疑」を強めていきます。
 ここで疑いを強める形をとられていますが、実は「諸天善神の守護」の本質を論じられているのです。それは、「成仏の法」である法華経に対する「報恩」として法華経守護の力が発揮されるということです。また、これによって、法華経の行者とは「成仏の法を行ずる人」であるという本質が示されていきます
 二つは、菩薩に滅後の法華弘通の誓願を勧める宝塔品の三箇の鳳詔、凡夫成仏を説く提婆達多品の二箇の諌暁、三類の強敵を説く勧持品二十行の偈などを考察されていきます。これによって、大聖人御自身の実践が法華経に説かれている通りの実践であることが示されるとともに、成仏の法である法華経の弘通を妨げる謗法が今の日本国には満ちているという「謗法の醜面」が明かされていきます。
 これは、大聖人が法華経の行者であられるという御確信が法華経の経文に照らして確認され、にもかかわらず、なぜ諸天の守護がないのかという「自心の疑」を強められているのです。
 その上で「自心の疑」に対する答えがいくつかの観点から示されていますが、これについては改めて考察します。とりあえず、その要点を述べれば、諸天善神が謗法充満の国土全体を捨て去っているからこそ諸天の守護が働かないという点にある。
 しかし、このことはまだ一応の答えです。真の答えは「
詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん」(023201)から始まる大聖人の大願を貫き謗法の国土を救っていく戦いをやめない人こそ法華経の行者なのです。
 結局、この第二の論述を通して、法華経の行者とは「成仏の法に背く謗法の悪と戦う人」である故に大難があることが明らかになっていくのです。
 また、そのような真の法華経の行者にこそ、真の諸天の守護はあるのです。
 この点については、以上の二つの論述のうち、第一の点を少し詳しく拝察してから述べたいと思います。
二乗に対する法華経の深恩
 第一の論述において、大聖人は、最初に二乗、次いで菩薩・天・人らが、法華経に深恩があることを明確にされていきます。
 すなわち、彼らは、法華経に至ってはじめて成仏することができた。その法華経の大恩を報じるために、法華経を行ずる者を守護することを仏の前で誓っている。だから、末法の法華経の行者の前に出現するのは当然ではないか、という論点です。
 大聖人は、「報恩」の大切さから説き起こされています。
 恩を報ずることは、人間の最高の徳目です。反対に忘恩の者は、必ず人間としてのあるべき軌道を踏み外す、真の人間の輝きは恩を知り、恩を報ずる中にあります。
 まして、法華経の会座に連なった二乗・菩薩・天らが、法華経への深恩を忘れるはずがないのではないか、と論を進められていきます。
 最初に取り上げられているのは二乗です。ここでは、二乗は成仏できないと徹底的に弾呵された爾前権教と二乗の成仏を実現した法華経とを対比されています。
 法華経以前の経典で、釈尊が声聞たちを呵責する厳しさは容赦のないものでした。大聖人は分かりやすく、爾前経で成仏できないと責められた迦葉尊者の泣く声は三千世界に響きわたったと仰せられている、それは、「利他」を忘れ「自利」のみに生きる二乗の心の無明を断ち切るための仏の大慈悲の弾呵です
 そして、声聞たちは、法華経で「不死の良薬」を得ます。二乗の不成仏は仏道修行者としての死です。しかし、法華経において二乗は、灰身滅智を超えて妙法の智慧を得ます。ここに仏道修行者として蘇生するのです。故に法華経は「不死の良薬」なのです。
 法華経で成仏が許された四大声聞は誓います。「私たちは、真の声聞となった」と。すなわち、仏の声を表面的に浅く理解していた。これまでの二乗の立場を超えて、仏の真の智慧を深く聞き取り、その仏の声を一切衆生に聞かせて言いく真の声聞として戦っていくことを宣言します。これは菩薩として蘇ったことを意味します。
 まさに、自身の苦悩からの脱却にのみ汲々としていた狭い世界から、一切衆生の救済という大空を無限にはばたく世界へ師とともに戦う不二の誓いです。そして、経文では続けて、どれだけの報恩を尽くしても、この仏の大恩に報いることはできないと強調されています。十方の世界を見渡す仏眼・法眼を得た二乗が、娑婆世界の法華経の行者を見落とすわけがない。末法に法華経の行者がいるならば、これらの聖者は大火の中を通り抜けても必ず駆けつけ、法華経守護のために戦うはずである。そうでなければ、後五百歳広宣流布の経文は嘘になってしまうではないか。
 そうであるのに、なぜ、大難を受ける法華経の行者を守護しないのか。声聞たちは、謗法の者たちの味方なのか。このように鋭く糾弾しつつ、大聖人は、二乗の守護がないのはどうしてなのかと重ねて問われ「
大疑いよいよ・つもり候」(020709)と結ばれている。
菩薩・天・人に対する法華深恩
 次に、菩薩・天・人に対する法華経の深恩について論じられていきます。
 ここでも爾前教と法華経の相違を浮き彫りにされていますが、成仏の法として法華経の教法がより鮮明に明らかにされていきます。すなわち、方便品の「十界互具」、寿量品の「久遠実成」の法門を取り上げられ、これによって成仏できた菩薩・天・人たちが、いかに法華経に深恩があるかを示されていきます。
 まず大聖人は、爾前教において諸菩薩は釈尊の弟子ではなかったと言われます。
 例えば、華厳経の会座に集まった菩薩たちは、菩提樹下で初道場した釈尊を前に十方の仏土から現れた存在であり、釈尊の弟子ではありません。そして、彼らが説く法門以上の教えを、釈尊は爾前教で説くことはなかったと言われています。
 その菩薩たちが法華経では合掌して釈尊を敬い「具足の道」を聞きたいと請います。
 大聖人は、「具足の道」とは十界互具の法理であり、南無妙法蓮華経にほかならないことを明かされます。
 「
具とは十界互具・足と申すは一界に十界あれば当位に余界あり満足の義なり」(020911
 十界互具によって、十界各界に仏界を顕すことが実現し、万人平等に成仏が明確になります。方便品の「衆生をして仏知見を開か令めんと欲す」との「衆生」について、大聖人は、「
衆生と申すは舎利弗・衆生と申すは一闡提・衆生と申すは九法界」(020914)と仰せられ、具足の法によって成仏できたのは、二乗の舎利弗だけでなく、一闡堤も含めた九界の衆生のすべてであることを明確にされています。
 そして、この万人成仏の道が開かれたことで釈尊の「衆生無辺誓願度」が成就し、あらゆる菩薩・諸天たちは、法華経の一念三千という無上の法門を初めて聞いたと領解したことが示されています。
 この時点でも、十分、菩薩たちにとって法華経は無上の教えとなるわけですが、さらに寿量品の久遠実成の法門によって、法華経の深恩は決定的になります。
 すなわち、寿量品では久遠実成が説かれることによって、諸経と諸仏は皆、釈尊の分身として位置づけられることが示される。ここにおいて、諸仏の
衆生と申すは舎利弗・衆生と申すは一闡提・衆生と申すは九法界弟子である菩薩たちも釈尊の弟子となります。
 このように寿量品では、久遠実成の仏に諸仏が統合され、久遠実成の釈尊こそが成仏を目指す一切の菩薩の師となるべき仏であることが明かされたのです。
 この久遠実成の仏は、「永遠の妙法」と一体の「永遠の仏」を指しています。この仏こそが、実在の人間である釈尊の本地であると説かれているのは、宇宙根源の法である永遠の妙法の力を人間生命の上に開きうることを示しているのです。
 仏とは、生命に永遠の妙法の力が開花した存在、すなわち妙法蓮華経です。この妙法蓮華経こそ仏の本体であり、本仏です。
 ここに釈尊の説いたとされる一切経の中では初めて法華経寿量品という形で、永遠の妙法が「成仏の種子」として顕現したのです。
 寿量品の仏は、仏の本体である妙法蓮華経を指し示しています。そして、この妙法蓮華経は、万人に内在する生命の法であり、万人の成仏の種子となるのです。
 成仏の種子が寿量品の文底に秘沈されている故に、寿量品こそ一切衆生の頂点なのです。故に、大聖人は寿量品をこう讃えられています。
 「
一切経の中に此の寿量品ましまさずば天に日月の・国に大王の・山河に珠の・人に神のなからんが・ごとくして・あるべき」(021405
 ここに、成仏を目指す一切の菩薩が法華経に深恩を感じるべきゆえんがあるのです。
「才能ある畜生」と喝破
 大聖人御在世当時の諸宗は、一切経の中では寿量品の仏こそ成仏の修行の本尊とすべき仏であることを知りません。知らないどころか、事実を隠し、歪めている宗派さえある。
 末法は、悪比丘が出来し正法を隠します。その結果、法華経の真実が見失われます。やがて、諸宗は本尊に迷います。
 大聖人は、当時の諸宗の本尊観・成仏観について、寿量品に説かれた成仏の種子を持つ根本の仏に迷っていることをきびしく破折されています。それは、王子が、国主である自分の親に迷い、王をさげすんだり、他人を王と思うようなものであると、分かりやすく教えられています。そして、寿量品の仏を知らない諸宗の者は父を知らない子のように「不知恩」であり、仏法を知っているように見えて、その実は「才能ある畜生」であると鋭く喝破されている。
 ともあれ、法華経を聞いて成仏した菩薩たちは、法華経の行者を守るために、磁石が鉄を吸うように、月が水に映るように、たちまちのうちにやってきて仏の前で誓った守護の誓いを果たさなければならない。そうであるのに、なぜ、今まで大聖人を守るために出現しないのか。その結論として、「
日蓮・法華経の行者にあらざるか」(021708)と、疑いをさらに強められていくのです。
 そして「されば重ねて経文を勘えて我が身にあてて、身の失をしるべし(021709)とまで仰せられ“大いなる疑い”の第二の論述へと考察を引き継がれていきます。
本尊とは法華経の行者の一身の当体
 さて大聖人が第一の論述において、法華経で初めて成仏を知り、また成仏したとされる二乗、菩薩などの法華守護を論じられているのは、諸天善神の守護の働きは成仏の法である妙法の力によるからであると拝することができます。
 言い換えれば、元品の法性が諸天善神と現れるのです。であればこそ諸天善神は謗法が充満する国土を身捨てて去ると言われる。しかしまた謗法の悪世にあっても、妙法を守り、妙法を弘めていく法華経の行者がいれば諸天善神がこの人を守るのです。
 どんな悪世でも、諸天善神は、仏法のために戦う人を草の根を分けても探し出し、断じて守護する。仏法のために戦う人は、三世永遠に妙法に包まれ、妙法と一体の当体となるからです。
 二乗・菩薩などによる法華守護を論ずるなかで、大聖人は、「成仏の法である妙法を行ずる人」、また「妙法に背く謗法と戦う人」という「法華経の行者」観を提示されています。
 末法においては、法華経の行者の身においてのみ、妙法が現われているのです。方便品で明かされる「十界互具」も寿量品で久遠実成の仏が説かれることによって指し示される「種子の妙法」も法華経の行者の一身以外にあるものではありません。
 故に大聖人は、御義口伝に「
本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」(0760-第廿五建立御本尊等の事-02)と仰せです。
 成仏の修行の明鏡となり、指標となる本尊は、法華経の行者の一身に拝することができるのです。
 ここに諸天の守護と法華経の行者をめぐる問題が「
此の書の肝心・一期の大事」(020313)といわれるゆえんがあり、また、「開目抄」が「人本尊開顕の書」と言われるゆえんがあるのです。

第九回 六難九易top

浅きを去って深きに就くは丈夫の心なり

14                                        一渧をなめて大海のしををし
15
 り一華を見て春を推せよ、 万里をわたて宋に入らずとも三箇年を経て霊山にいたらずとも 竜樹のごとく竜宮に入
16
 らずとも無著菩薩のごとく弥勒菩薩にあはずとも 二所三会に値わずとも一代の勝劣はこれをしれるなるべし、 蛇
17
 は七日が内の洪水をしる竜の眷属なるゆへ 烏は年中の吉凶をしれり過去に 陰陽師なりしゆへ鳥はとぶ徳人にすぐ
18
 れたり。

 一渧の水をなめて大海の塩味を知り、一輪の花を見て春の訪れを察しなさい。万里を渡って宋の国に行かなくても、三年をかけて霊鷲山まで行き着かなくても、竜樹のように竜宮に行きつかなくても、無著菩薩のように弥勒菩薩に会わなくても、法華経の二所三会に連ならなくても、釈尊一代の経の勝劣は知ることができるのである。
 蛇は七日以内に洪水が起こることを知る。竜の眷属だからである。烏は年の吉凶を知る。過去世に陰陽師だったからである。鳥は飛ぶことにおいて人よりすぐれている。

0223
01
   日蓮は諸経の勝劣をしること華厳の澄観.三論の嘉祥・法相の慈恩.真言の弘法にすぐれたり、天台・伝教の跡を
02
 しのぶゆへなり、 彼の人人は天台・伝教に帰せさせ給はずば謗法の失脱れさせ給うべしや、 当世・日本国に第一
03
 に富める者は日蓮なるべし命は法華経にたてまつり名をば後代に留べし、 大海の主となれば諸の河神・皆したがう
04
 須弥山の王に諸の山神したがはざるべしや、法華経の六難九易を弁うれば一切経よまざるにしたがうべし。

 日蓮は諸経の勝劣を知ることにおいて、華厳宗の澄観・三論宗の嘉祥・法相宗の慈恩・真言宗の弘法すぐれている。天台・伝教の業績に思いをはせるからである。澄観らは天台・伝教に帰依しなかったならば、謗法のの罪を脱れ得たであろうか。 
 今の世において、日本国で第一に富める者は日蓮である。命は法華経に奉り、名は後世にとどめるのである。大海の主となれば、河の神たちは皆したがう。須弥山の王に山の神たちがしたがわないわけがあろうか。法華経の六難九易をきわめれば、一切経は読まなくとも、日蓮にしたがってくるのである。

仏意・仏勅を受けて起こす法戦
 「開目抄」では、日蓮大聖人こそが「末法の法華経の行者」であることを、法華経の経文に照らし証明されていきます。
 そのために大聖人は、法華経見宝塔品題十一の「三箇の勅宣」、提婆達多品第十二の「二箇の諌暁」、勧持品第十三の20行の偈に説かれる「三類の強敵」を順次、考察されています。
 宝塔品の「三箇の勅宣」とは、釈尊が法華経の会座に参集した菩薩たちに対して、釈尊滅後に法華経を弘通していくべきことを三つの観点から示し、3回にわたって滅後弘通を勧めたことをいいます。これについては、後で詳しく論じたいと思います。
 さらに、提婆達多品の「二箇の諌暁」とは、「悪人成仏」と「女人成仏」の二つの法門を説いていることを指しています。この二つを説いたことで、釈尊滅後において成仏の法である法華経を弘めて、悪世に生きるすべての人々を救済していくべきであることが明確にされたのです。
 大聖人は、以上の「三箇の勅宣」と「二箇の諌暁」を合わせて「五箇の鳳詔」とよばれています。「鳳詔」とは、もともと“王の言葉”“王の命令”の意ですが、ここで大聖人は、“仏の意を示した言葉”“王の命令”で用いられています。末法悪世の法華経弘通は「仏意」であり、「仏勅」なのです。
 この仏意・仏勅を受けて、勧持品では、法華経の会座に集った八十万億那由佗の菩薩が滅後の法華経弘通を誓います。周知の通り、この誓いの言葉の中で「三類の強敵」が説かれる。すなわち、菩薩たちは、「三類の強敵」による大迫害があっても、滅後の弘通に邁進することを誓います。
 大聖人は、これらの経文を照らして、御自身こそが末法の法華経の行者であることを証明されていきます。
 大聖人は、これらの経文に照らして、御自身こそが末法の法華経の行者にあられることを証明されていきます。
 これらの経文によって、謗法が渦巻く末法においては、謗法の悪と戦ってこそこそ法華経の行者といえることが明らかになっていきます。すなわち、法華経に説かれる仏意・仏勅を受け、大難を覚悟で法華経弘通に立ち上がり、戦い抜く人こそが法華経の行者なのです。
 このことを「如説修行抄」では次のように簡潔に示されています。
 「
かかる時刻に日蓮仏勅を蒙りて此の土に生れけるこそ時の不祥なれ、法王の宣旨背きがたければ経文に任せて権実二教のいくさを起し(050115)( このような悪世末法の時に、日蓮は仏意仏勅を受けて日本国に生まれてきたのであるから、たいへんな時に生まれてきたのである。だが法王釈尊の命令に背くわけにはいかないので、一身を経文に任せて、あえて権教と実教との戦いを起こしたのである。)
 「時の不詳」と言われているのは、当然、悪い時代に生まれた不運を嘆かれているわけではありまあせん。むしろ、時代の悪と戦う覚悟を示されているのです。
 諸天善神の加護もなく大難を受けている大聖人は、法華経の行者でないのではないか。これが、当時の世間の人々や門下から大聖人に対してなされた疑難でした。これに対して、大聖人は覚悟のうえで自ら「権実二教のいくさ」を起こすのが、法華経に説かれる通りの法華経の行者である。と大聖人は答えられているのです。
 受け身の苦難ではない。仏意を受けて自ら起こした戦いである。この生き方こそ、大聖人が「開目抄」では門下に教えてくださっている要諦です。
 学会は、まさしく仏意仏勅の広宣流布のために覚悟の戦いを起こした団体です。この戦いに連なる人は仏意に生きることになる。如来行を行ずることになったのです。故に、学会員には仏が悟った妙法の無限の功徳が現れるのです。
宝塔品の三箇の勅宣
 前述したように、大聖人は、本抄で、宝塔品の「三箇の勅宣」を引用されています。
 第一の勅宣は、釈尊が、滅後の娑婆世界において法華経を弘める者に対して「付嘱」をすることを宣言したうえで、菩薩たちに滅後弘通の誓いの言葉をのべるように呼びかけます。つまり、釈尊が“付属の意”を明らかにして滅後弘通を勧めているのです。
 第二の勅宣は、十方の諸仏、すなわち全宇宙のすべての仏の娑婆世界の法華経の会座に集ってきた目的は、娑婆世界における「令法久住」にあることを示し、滅後弘通の誓いの言葉を述べるように呼びかけます。
 つまり、娑婆世界の令法久住は“全宇宙の説く仏意”であり、それほど重要なことなのです。そでは、もし娑婆世界の衆生が成仏できないとすれば、万人の成仏を可能にする法を悟り、弘める戦いが成就しないことになるからです。
 第三の勅宣は「六難九易」を説き、滅後の弘通が難事中の難事であることを示したうえで、大願を起こし滅後弘通の誓いの言葉を述べよ、と菩薩たちに命ずるものです。
仏自信が立てた教判
 大聖人は、この「三箇の勅宣」のうち、第三の「六難九易」について最も詳しく言及され、諸経が滅後に弘めるべき「六難」に入るおしえのなか、「九易」に属する低い教えなのかを立て分ける「教判」として考察されています。
 すなわち、釈尊が六難九易を説いて、菩薩たちに法華経の滅後弘通を勧めたのは、法華経が滅後悪世の衆生をも救うことができる最も勝れた教えだからです。
 「開目抄」の前半に述べられているように、法華経寿量品の文底に凡夫成仏の要法である真の十界互具・一念三千の法門が秘沈されています。この故に、法華経は最も勝れた経典なのです。
 伝教大師は『法華秀句』で、六難九易の意義について「浅きは易く深きは難しとは釈迦の所判なり。浅きを去って深きに就くは丈夫の心なり」とのべています。
 すなわち、釈尊が六難九易を説いたのは、浅い教えを弘めるのは易しく、深い教えを弘めるのは難しいことを教えたのです。そこには、法華経は深く、諸経は浅いという釈尊自身による教えの浅深の判定、すなわち教判であります。このことを伝教大師は「浅きは易く深きは難しとは釈迦の所判なり」といっているのです。
 法華経以外の諸経は、仏が九界の衆生の意に合わせて説いた随他意の経であるが故に易信易解なのです。
 伝教大師はさらに「浅きを去って深きに就くは丈夫の心なり」とのべています。この一節が重要です。釈尊が六難九易を説いて滅後弘通を勧めたのは、「浅い教えを去って、深い法華経を弘めよ」という仏意を示しているのです。
 「丈夫」とは「調御丈夫」すなわち仏のことであり、「丈夫の心」とは「仏の心」「仏意」のことです。滅後の弘教においては、易信易解の浅き教えを捨てて、難信難解の深き法華経につくべきであるというのが仏意なのです。
 すなわち、法華経第一こそ、仏自信が立てた教判であり、釈尊滅後にはこの仏の教判に従い、諸経を去って第一の法華経を信受し、弘めるのが、仏意を体した菩薩の実践であるべきなのです。
所対を知らない諸宗の教判
 大聖人が「三箇の勅宣」の経文を引用した後、「此の経文の心は眼前なり」(021818)と仰せのように、「三箇の勅宣」に仏意は明々白々です。それは、青空に太陽が赫々と輝くことに似て、誰が見ても間違うものではない。しヵし、執着する心、歪んだ心を持った人には太陽が見えない。眼隠しをして空をみるようなものです。
 そこで大聖人は、代表的な教判を立てた華厳・法相・三論・真言の「四宗の開祖」たちが、いかに歪んだ眼で法華経をみていたかを明らかにされている。
 諸宗の元祖たちが、なぜ誤った教判を立てるのか。大聖人は、それは所対すなわち比較対象を知らないためであると指摘されています。
 すなわち、諸宗がそれぞれ依経とする経典で、自経が最高の教えであると説いているからといって、ただちに一切経すべての中で最勝とは言えない。なぜならば、それらはすべて、ある限定された範囲で、その経が最高であると言っているにすぎないからです。
 それに対して、法華経は、法師品に「已今当」とといているように、釈尊のといたあらゆる経の中で、最勝の教えであるとされている。
 「已今当」とは已に説き、今説き、未来にとくであろう一切の経典を指し、その中で法華経が最も難信難解であると、法師品で明確に説いていることをいいます。
 このように一切経に対して最高に難信難解であり、最も深き法である法華経であればこそ、六難九易が説かれるのです。
 このことを見失い、それぞれの経典で最勝と説いている部分を各宗は依処とし、結果的に仏の本意に背く体系を残した。
 まして、その諸宗の末裔の僧たちは、諸経の勝劣に惑い、理に迷っている。そうした愚かさに対して、大聖人は「
教の浅深をしらざれば理の浅深を弁うものなし(022208)と痛烈に破折されています。
 すなわち、仏が自ら判定した「六難九易」「已今当」に暗く、教の浅深が分からなければ、教に含まれている法理の浅深に迷うのは当然ともいえます。
「当世・日本国に第一に富める者」
 反対に言えば“六難九易を知ることで、教の浅深を知り、理の浅深を弁えること”ができる。それが日蓮大聖人のお立場です。
 したがって、大聖人は、御自身が諸経の勝劣を知ることは、華厳の澄観・三論の嘉祥・法相の慈恩・真言の弘法より遥かに勝れていると仰せです。
 六難九易を弁え、教の浅深が分かるということは、「六難」で示された法華経の受持・弘通に生きることです。実践なき教判など、観念の遊戯です。そして、大聖人は、法華経の心のままに不惜身命で戦うが故に名は後代にとどめるであろうと断言され、その大境涯から「
当世・日本国に第一に富める者は日蓮なるべし(022302)と仰せです。
 最勝の経である法華経を身で読む以上の精神的“富”はありません。
 日蓮大聖人の仏法を実践する創価学会員もまた、この大境涯に連なっていくのです。
 ここで、あらためて特筆すべきことは、日蓮大聖人が佐渡流罪に処せられている境遇にあって、このように“日本国で一番の富者”であると仰せられていることです。
 「
流人なれども身心共にうれしく候なり(134304)
 「
流人なれども喜悦はかりなし(136017)
 まさに、いかなる権力も、いかなる大難も、日蓮大聖人の大生命を抑えつけることなど絶対にできない。またどんな地獄のような境涯からであっても、仏の生命から見れば何も束縛するものとはならない、ということです。
 それを実現する要諦が「
命は法華経にたてまつり名をば後代に留べし(022302)とあるように、不惜身命の実践です。この法華経に帰依することで胸中の妙法蓮華経が開かれ、自身の生命に開花するのです。この六難九易を身で読む生き方を、大聖人は「大海の主」「須弥山の王」に譬えられています。
 つまり、「大海の主」に諸の河神が従うように、「須弥山の王」に諸の山神が従うように、六難九易を身で読んだ者は仏法の王者である、一切経の根源である寿量文底の妙法を体現し、南無妙法蓮華経とし弘める故に、仏法の極める存在となるのです。
深きに就く「勇者の心」
 「深きに就く」とは、何よりも自分自身が主体者として、勇敢に広宣流布に立ち上がる戦いです。
 現代において、この最も困難な戦いを貫いてきたのが、創価学会SGIです。
 草創期以来、同志の皆さまは、悪口を言われ、批判され中傷されながら、それでもこの人を救いたい、あの友に信心を教えたい、幸せになってほしいと、勇気を奮って信心の偉大さ、学会の正しさを語ってこられました。
 自分さえよければいい、他人のことはどうでもいいというエゴと無慈悲の時代のなかで、友の幸せを祈り、また地域・社会の繁栄を願い、ひたぶるに広宣流布に走ってこられました。
 まさに「六難」にある「悪世に法を説く」「少しでも法華経の意義を問う」という勇気と信念と求道の尊い行動を、来る日も、来る日も、実践してこられたのです。
 このように広宣流布に戦う「勇者の心」こそが、そのまま「丈夫の心」であり、仏の心となっていく、「仏の心」に通ずる尊き同志の皆さまの戦いがあれば、創価学会によって、未曾有の世界広宣流布の時代が開かれたのです。
 人間の生き方として拝すれば、「浅き」とは惰性であり、安逸であり、臆病です。この惰弱な心を勇敢に打ち破って、「深き信念」と「深き人間の偉大さ」につくのが「丈夫の心」です。
 「浅きに就くか」「深きに就くか」。この生命の攻防戦は、自分自身の心においても一日の中に何度もあることでしょう。
 人生も戦いです。弱い心に打ち勝ち、信心を根本として、「少しでも成長しよう!」「もう一歩、前進しよう!」「必ず勝利しよう!」と、勇敢に立ち上がっていく。この「深い生き方」を貫いてこそ、真の人生の勝利者になっていける。そのための私どもの日々の信心であり、学会活動なのです。

第十回 提婆品の二箇の諌暁top

変毒為薬・即身成仏の法で万人を救え!

05   宝塔品の三箇の勅宣の上に提婆品に二箇の諌暁あり、提婆達多は一闡提なり天王如来と記せらる、 涅槃経四十
06
 巻の現証は此の品にあり、 善星・阿闍世等の無量の五逆・謗法の者の一をあげ頭をあげ万ををさめ枝をしたがふ、
07
 一切の五逆・七逆・謗法・闡提・天王如来にあらはれ了んぬ毒薬変じて甘露となる衆味にすぐれたり、竜女が成仏此
08
 れ一人にはあらず一切の女人の成仏をあらはす、 法華已前の諸の小乗教には女人の成仏をゆるさず、 諸の大乗経
09
 には成仏・往生をゆるすやうなれども 或は改転の成仏にして 一念三千の成仏にあらざれば有名無実の成仏往生な
10
 り、挙一例諸と申して 竜女が成仏は末代の女人の成仏往生の道をふみあけたるなるべし、 

 法華経見宝塔品第十一の三箇の勅宣に加えて、提婆達多品第十二に二箇の諌暁がある。
 提婆達多は一闡提の者であったが、天王如来となることが約束された。涅槃経四十巻に説かれている一闡堤の成仏の現証はこの提婆品にある。善星比丘や阿闍世王ら、五逆罪・正法謗法を犯した無数の者の中から提婆達多一人を取り上げて、それを筆頭の一人とし、続くすべての者もそこにおさめて、枝葉の者を従えたのである。つまり、五逆罪や・七逆罪を犯した者、正法を謗法した者・一闡提の者、これらすべてのものの成仏が、提婆達多が天王如来となる例によって示されたのである。毒薬が変じて甘露となったのである。その味は、他のあらゆる味よりすぐれている。
 竜女の成仏は、竜女一人だけの成仏ではない。すべての女人の成仏を示している。法華経以前の小乗の諸経では女人の成仏を許していない。大乗の諸経では女人の成仏・往生を許しているように見えるが、ある場合は男性に生まれてから成仏できるという改転の成仏であって一念三千の成仏ではないので、有名無実の成仏・往生である。これも「一つを挙げてすべてに通じる例とする」と言って、竜女が成仏は末代の女人の成仏・往生の道を、踏み開けたものなのである。

10                                           儒家の孝養は今生にか
11
 ぎる未来の父母を扶けざれば 外家の聖賢は有名無実なり、 外道は過未をしれども父母を扶くる道なし仏道こそ父
12
 母の後世を扶くれば聖賢の名はあるべけれ、 しかれども法華経已前等の大小乗の経宗は 自身の得道猶かなひがた
13
 し何に況や父母をや但文のみあつて義なし、 今法華経の時こそ女人成仏の時・悲母の成仏も顕われ・達多の悪人成
14
 仏の時・慈父の成仏も顕わるれ、此の経は内典の孝経なり、二箇のいさめ了んぬ。

 中国の儒教等における孝養は、ただ今世に限られている。父母の未来を救わないのだから、儒教等で聖人・賢人と呼ばれる者は有名無実である。インドの外道は。過去世・未来世を知っているけれども、父母を救う道を説いていない。仏道こそが父母の未来世を救うのだから、聖人・賢人の名がありうるであろう。しかしながら、法華経以前の大乗・小乗の経典をよりどころとする諸宗派は、自分自身の成仏さえ叶えられない。ましてや父母を救うことができようか。ただ成仏の言葉があるだけで、その内実はない。
 今、法華経の時こそ女人成仏の時であり、悲母の成仏も顕われる。第婆達多の悪人成仏の時、慈父の成仏も顕わる。この法華経は内典の孝経である。以上で二箇の諌暁が終わる。

宝塔品・提婆品・勧持品の身読
 末法の広宣流布
 それは、釈尊一人だけでなく、多宝如来や三世十方のすべての仏・菩薩の総意として、法華経で示された大願です。
 法華経見宝塔品第十一の「三箇の勅宣」で、釈尊は大音声をもって、会座の大衆に向けて滅後の弘通を呼びかけます。
 “多宝如来もまた、大誓願をもって師子吼された。皆もまた大願を発し、この法華経を持ち、弘通していきなさい”
 その釈尊の呼びかけに応じて、諸仏・諸菩薩が立てた末法広宣流布の請願は、日蓮大聖人が出現されることによって成就していくのです。
 「開目抄」では、釈尊が滅後弘通を勧めた迹門流通分の諸品を宝塔品十一・提婆品十二・勧持品十三という連続して考察されていきます。これにより、この三品を身読し、如説修行されている大聖人御自身こそが末法の法華経の行者であることを証明されているからです。
 宝塔品の「三箇の勅宣」「六難九易」によって示されている仏意のままに、大聖人は難信難解の法華経を弘められました。
 これは、前回、テーマのところです。
 また大聖人は、提婆品の「二箇の諌暁」に示されるままに、末代悪世の民衆を救うために凡夫成仏・変毒為薬の大道をひらかれました。
 今回はこの点を拝察していきます。
 さらに大聖人は、勧持品の「二十行の偈」に説かれている通り、「三類の強敵」の迫害を受け、そのすべてを乗り越えていかれました。
宗教の本義を示す悪人成仏と女人成仏
 さて、提婆品の「二箇の諌暁」とは、提婆達多を代表とする悪人の成仏と、竜女を代表とする女人の成仏の二つの法門です。この二つの法門を説くことは、万人を救う末法広宣流布を必ず成就すべきである。菩薩たちに対して諌め暁すことになるので、「諌暁」と言われているのです。
 爾前権教では明らかにされていなかった悪人成仏と女人成仏が、明確に説き明かされたことは、法華経こそが、悪世末法に生きる万人の成仏を実現する唯一の大法であることを、あらためて宣言することになります。
 ここに「法華経の真価」があります。すなわち、今までの爾前権教で救済の対象とならなかった最も不幸な人たちを現実に救わずして、末法の民衆救済はありえない、ということです。
 この「法華経の真価」を光り輝かせていくことは、釈尊の呼びかけに呼応して、仏意を実現する末法の法華経の行者の証でもあると言えます。
 今、目の前にいる「現実の一人」をどうすくっていくか。その戦いがなければ、「民衆救済」という言葉をいかに叫んでも、何の価値もうまれません。
 生きる希望を失った、最も悲惨な人に、どう生きる喜びをわきたたせていくのか。この命題に答えられない宗教は、もはや「死せる宗教」と言わざるをえません。
 法華経、そして日蓮大聖人の仏法は「活の法門」と言われるように、すべてを生かしていく蘇生の宗教です。
 また、絶望の淵にいる人に対して、教から明日へ、新たな活力を、その人自身の内面から生み出していく希望の宗教です。
 その希望の宗教こそ、自分が今生きていることに感謝でき、自分を育んでくれた父母をはじめ自分にかかわる一切の人々の恩に報い、一切の人を幸福にしていく大道を説き明かした、真の「人間の宗教」にほかなりません。
 本抄に示されている法華経提婆品の悪人成仏と女人成仏とは、そいした「宗教の本義」に大きく関わるテーマといえるでしょう。
悪世の成仏の道を開く
 本抄で大聖人が「二箇の諌暁」について述べられているポイントとして、次の三点が挙げられます。
 第一に、爾前権教で成仏から最も遠いとされていた一闡堤である悪人・提婆に成仏の授記がなされました。そして、社会的にも宗教的にも差別されていた女人である竜女が真っ先に成仏の現証を示すことによって、法華経が「悪世に生きる一人ひとりの成仏の道を開く経典」であることが明らかになります。
 そして、この「万人救済の道を開く戦い」に先駆を切る人こそが、法華経の行者なのです。
 第二に、一切衆生の成仏を実現する法理的裏付けとして「一念三千の成仏」を挙げられています。「一念三千の成仏」は法華経にしか見られない法理です。その現実変革の力として、極悪をも極善に転換しうる「変毒為薬」の可能性が示され、凡夫の身を改めずに成仏する「即身成仏」の現証が明かされるのです。
 故に、法華経の行者とは、自らが「一念三千の成仏を体現した人」であるのです。
 第三に、悪世に生きる人々を一人も残さず成仏させていく「悪人成仏」と「女人成仏」が説かれることによって“すべての父母の成仏”の道が開かれるのであり、法華経こそが真に父母への報恩を可能にする「内典の孝教」であると仰せです。
 希望の哲学に裏付けられた報恩の心と実践は、人間社会の基盤であり、核心であり、真の絆になります。法華経の行者とは、社会の平和と繁栄を築くための根本を貫く「立正安国の実践者」なのです。
一闡堤をも救う「変毒為薬」
 提婆品に説かれる悪人成仏の意義を論じられるにあたって、大聖人はまず冒頭に「
提婆達多は一闡提なり天王如来と記せらる、涅槃経四十巻の現証は此の品にあり(023305)と仰せです。
 言うまでもなく、提婆達多は、釈尊に師敵対し、正法を誹謗し、破和合僧などの五逆罪を犯した極悪の悪人です。
 一切衆生の成仏の法理そのものは、法華経方便品第二の十如実相によって示されています。その意味で、理論的には、方便品で提婆達多の成仏も約束されているはずです。
 しかし、不信・謗法の一闡堤が成仏できるかどうかは、人々にとって重大な関心事になったことも間違いないでしょう。特に涅槃経においては、一闡堤の成仏は最も大きなテーマとして取り上げられ、一切衆生にことごとく仏性があり、一闡堤にも仏性があると仏はのべています。しかし、半面、仏性があるとしても、正法への不信・誹謗の心があるゆえに、現在には成仏できず、成仏は未来の可能性に過ぎないとも説かれています。
 まさにそうした一闡堤の代表とも言える提婆達多の成仏がいかにして実現したのか。だれしも疑問に思うことです。未来永劫に無間地獄に堕ち、無間大城を出ることができないとされた提婆達多に、なにゆえに法華経の会座で成仏の記別があたえられたのか。
 御書には、「
法華経の提婆品にして教主釈尊の昔の師・天王如来と記し給う事こそ不思議にをぼゆれ(094510)( 法華経の提婆品において「提婆達多は釈尊の昔の師匠・阿私仙人で、未来には成仏して天王如来となるであろう」と授記された事こそ全く不思議なことであった)と仰せです。
 まさに「不思議」です。結論を先に言えば、それが妙法の力です。大聖人は、提婆達多の成仏によって諸の悪人の得道も疑いなしとして、「
故に此の経をば妙と云ふ」(094513)と仰せです。
 「妙」には三義があります。「開」の義、「具足」の義、そして「蘇生」義です。大聖人は、二乗・闡堤・女人という爾前経で嫌われた人たちが、法華経によって成仏できることを、次のように仰せられえいます。
 「
妙とは蘇生の義なり蘇生と申すはよみがへる義なり(094702)
 「
法華経は死せる者をも治するが故に 妙と云ふ(094708)
 ここに「死せる者」とは、誤った思想・信念・宗教に執着することによって、仏性を枯渇させてしまった二乗や一闡堤のことです。法華経は、そうした生命さえも蘇生させる力を持っているのです。
 なぜならば、法華経は仏性を蘇生させ、活性化させる生命の究極の滋養となるからです。
 寿量品に「大良薬」と説かれているなは、そのことを意味しています。
 法華経においては、釈尊も、多宝如来も、他の全宇宙の諸仏も、そして菩薩たちも、悟りの妙法を讃嘆し、妙法の力による仏性の開花に歓喜します。
 そして、万人の成仏の誓願を立て、その大願成就のために、不惜身命の戦いをしてゆく、まさに法華経の全編が、仏性の触発のためにあるのです。仏性の讃歌ともいうべきこの法華経を聞き、妙法と仏・菩薩の生命の織り成す交響曲に触れると、いかなる悪や不幸の生命にも、仏性が呼び醒まされていくのです。
 法華経では、提婆達多のような極悪の生命も、その例外でないことがしめされています。
 大聖人は「開目抄」で法華経の提婆の成仏こそ一闡堤の成仏の現証であり、提婆一人の成仏は、悪世末法のあらゆる悪人の成仏を示していると仰せです。そして「
毒薬変じて甘露となる衆味にすぐれたり(022307)と結ばれています。まさに提婆の成仏は、法華経で示されている「変毒為薬」の現証にほかなりません。
末代女性の成仏の道を踏み開ける
 続いて竜女の成仏のポイントを確認してみたい。
 ここで大聖人が結論とされているのは、竜女の成仏は、竜女一人の成仏ではなく、すべての女性の成仏を示しているということです。
 「
竜女が成仏は末代の女人の成仏往生の道をふみあけたるなるべし(022310)との仰せは、「一人」の成仏こそ「万人」の成仏を約束するということです。
 まず、「一人」です。一は「万の母」です。どんな「一人」でも救っていくとの情熱なくして広宣流布はありません。
 さらに、大聖人は、権大乗経にも女性の成仏を一見認めているような教えがあることに対して、教義的な面からも破折を加えています。すなわち、爾前経で女性の成仏を認めているようであっても、それは「回転の成仏」、すなわち、女性が男性に生まれかわってからの成仏にすぎないと喝破されています。
 これに対して、竜女が示したのは「一念三千の成仏」すなわち、九界の身を改めることなく仏界の生命を開くことができる「即身成仏」です。要するに、竜王の八歳の娘である竜女の身を改めず、そのままの身において成就する成仏です。
 法華経提婆品では、この竜女の成仏を容認しない舎利弗の疑問が記されています。
 すなわち、竜女が成仏したと聞いた舎利弗は「是の事は信じ難し」として“どうして女性が速やかに成仏できることがあろうか”などと、実にぶしつけな質問を竜女に向かってなげかけます。
 法華経の会座で成仏の記別を与えられた舎利弗でさえ、無量劫の修行を経た後に成仏するという歴劫修行の考え方を捨てきれないために、即身成仏はにわかには信じられなかったのです。
 提婆や竜女の成仏が示しているのは、まさに「変毒為薬」「即身成仏」という妙法の功力にほかなりません。この功力によって、初めて末法濁世の万人救済が成り立つのです。妙法こそが、末法の全民衆を根源的に救う大良薬だからです。
「三道即三徳の「妙」を信ずる
 大聖人は即身成仏のことを「当位即妙・不改本位」とも仰せです。
 「
法華経の心は当位即妙・不改本位と申して罪業を捨てずして仏道を成ずるなり(137308)
 「当位即妙」とは、今の身が、その身のままで妙法の当体であるということです。そして、「不改本位」とは、成仏するために、その身から別の身に改める必要はいささかもない、ということです。
 凡夫の身を改めることなく、仏の生命を涌現して、現実の振る舞いのうえに仏の性分を発揮していく、この人間革命・即身成仏の道よりほかに、末法の民衆の救済は考えられません。
 また、末法は生命にも社会にも悪い因縁が絶えない時代です。先ほどの御文に「悪法を捨てずして」とありましたが、罪業を捨てなければ成仏できないということであれば、末法の人々の成仏はもはや不可能です。
 「変毒為薬」の法理は、悪から悪への因果が絶えない末法悪世に、根本的な希望をもたらし、絶望と無力感を乗り越える力を人々に与えるものです。
 大聖人の御書のなかで、幾度となく引用されている竜樹の言葉に「譬えば大薬師の能く毒を変じて薬と為すが如し」とあります。
 これは、まさに法華経の卓越性を表現したものであり、「
妙の一字の功徳(150601)を述べたものです。
 富木常忍に与えられた御消息「始聞仏乗義」で、大聖人は、変毒為薬の「毒」とは煩悩・業・苦の三道であり、「薬」は法身・般若・解脱の三徳であるとされています。そして、妙法の力により、三道の悪の因果を生きている生命も、その当体に三徳の善の功徳を現していけることが変毒為薬であると仰せです。
 煩悩・業・苦の三道とは、人間が営んでいる悪と、苦悩の因果の網の目を表現したものです。
 煩悩の貧瞋癡の三毒等であり、苦をもたらす原因である心の迷いです。
 業は、煩悩から起こり、苦へと至る身・口・意の行いであり、五逆・十悪・四重などが挙げられます。
 苦は、煩悩・業の結果として心身で受ける報いとしての苦悩で、四苦八苦等です。これによって、人間の生命は、迷いと苦悩に束縛されていくととかれます。
 法身・般若・解脱は、仏の生命に現れる偉大な功徳であり、「究極の真理」と「清浄な知恵」と「自在の境地」である。
 凡夫の煩悩・業・苦の三道は、迷いと苦悩でがんじがらめになった生活です、仏の法身・般若解脱の三徳は、究極の真理と智慧に適った、自由で喜びに満ちた生活です。全く正反対の生活です。
 しかし、妙法の不可思議な力で、三道から三徳へと、劇的な転換ができるのです。それが変毒為薬です。
 三毒の因果を営む凡夫の生命は、正反対に見える三徳の生命となっていく種子、つまり仏種なのです。
 この変毒為薬の鍵は、三道即三徳となる生命の「妙」を説く法華経をしんじていくことにあります。その「信」が、生命の妙を開くのです。
 牧口先生は、「いかなることがあっても、われわれはこれらのことを考えて生きていくことだ」と言われたうえで、変毒為薬について、次のように語られています。
 「妙法の生活とは“変毒為薬”である。社会で生活している以上、時には事故や災難、そして事業の失敗などにあう場合がある。(中略)だが、どんな場合でも妙法根本・信心根本として、御本尊を疑わず、信心に励めば、毒を変じて薬となしていけるのである。
 たとえば、病気をした。これは罰だと悩んでいるだけでは解決しない。そこで、“この病気を、必ず変毒為薬してみせるぞ、健康という大福運、大功徳を開くのだ”と確信し、決意して信心をつづけていくことが大事だ。
 そのとき、病気が治るだけでなく、全快したときには、以前よりも健康になるのが、変毒為薬の妙法である」
 変毒為薬の法理は、悪世に前向きに生きていることを可能にする「希望の源泉」であるといえます。
法華経は「内典の孝経」
 「開目抄」では、すべての母、すべての父の成仏の道を開いた法華経は、「内典の孝経」にほかならないことを強調され「二箇の諌暁」の結びとされています。
 「
今法華経の時こそ女人成仏の時・悲母の成仏も顕われ・達多の悪人成仏の時・慈父の成仏も顕わるれ、此の経は内典の孝経なり」(022313
 先ほど拝察した富木常忍宛ての「始聞仏乗義」で変毒為薬の法理を説かれているのも、富木常忍の三回忌のときに、母子一体の成仏を説くためであられた。同抄の結びで大聖人はこう仰せです。
 「
末代の凡夫此の法門を聞かば唯我一人のみ成仏するに非ず父母も又即身成仏せん此れ第一の孝養なり」(098415
 この一節の中で、末代の凡夫が聞く「此の法門」とあるのは、変毒為薬・即身成仏の法にほかなりません。
 大聖人が出家された動機の一つには、御自身を育まれた父母の成仏を願われた孝養の心がありました。
 末法の一切衆生の成仏を願うことと、自分の父母を救うことは深い関係があります。大聖人は「
自身仏にならずしては父母をだにもすくいがたし・いわうや他人をや」(142905)と仰せです。
 父母への恩に報いるためにも、自分が成仏すべきであると大聖人は幾度も強調されています。また、自分の父母を救えずして、万人を救うことはできない。大聖人は門下にも、真の孝養は法華経によってのみ成り立つことを訴えられています。
 まさに、変毒為薬・即身成仏の妙法こそが、末法の全人類を救済する大法であり、あらゆる父母を救う真の孝養の大道となるのです。

第11回 三類の強敵(上)top

元品の無明から現れる迫害の構造

15   已上五箇の鳳詔にをどろきて勧持品の弘経あり、明鏡の経文を出して当世の禅.律・念仏者.並びに諸檀那の謗法
16
 をしらしめん、 日蓮といゐし者は去年九月十二日子丑の時に頚はねられぬ、 此れは魂魄・佐土の国にいたりて返
17
 年の二月・雪中にしるして有縁の弟子へをくればをそろしくて・をそろしからず・みん人いかに・をぢぬらむ、此れ
18
 は釈迦・多宝・十方の諸仏の未来日本国・当世をうつし給う明鏡なりかたみともみるべし。

 以上、五つの仏勅によって目覚めた菩薩たちは、勧持品において法華経を弘めることを誓ったのである。明鏡である勧持品の経文を出して、当の世の禅宗・律宗・念仏宗の僧侶および、それらを支える有力な者たちの謗法を示そう。
 日蓮と名乗った者は、去年の九月十二日の深夜、子丑の時に頸をはねられた。これは、魂魄が佐渡の国に至って、明けて二月、雪の中で記し、縁ある弟子に送るのであるから、ここに明かす勧持品に説かれる難は恐ろしいようであるが、真の法華経の行者にとっては恐ろしいものではない。しかし、これをわからず経文を見る人は、どれほどおじけづくだろうか。この勧持品は釈迦・多宝・十方の諸仏が、未来の日本国の今の世を映された明鏡である。形見と見るべきである。

0224
18
   勧持品に云く「唯願くは慮したもうべからず 仏滅度の後恐怖悪世の中に於て我等当に広く説くべし、 諸の無
02
 智の人の悪口罵詈等し及び刀杖を加うる者有らん 我等皆当に忍ぶべし、 悪世の中の比丘は邪智にして心諂曲に未
03
 だ得ざるを為れ得たりと謂い 我慢の心充満せん、 或は阿練若に納衣にして空閑に在つて自ら真の道を行ずと謂つ
04
 て人間を軽賎する者有らん利養に貪著するが故に 白衣の与に法を説いて世に 恭敬せらるることを為ること六通の
05
 羅漢の如くならん、 是の人悪心を懐き常に世俗の事を念い名を阿練若に仮て好んで 我等が過を出さん、常に大衆
06
 の中に在つて我等を毀らんと欲するが故に 国王・大臣・婆羅門・居士及び余の比丘衆に向つて誹謗して我が悪を説
07
 いて是れ邪見の人・外道の論議を説くと謂わん、 濁劫悪世の中には多く諸の恐怖有らん 悪鬼其身に入つて我を罵
08
 詈毀辱せん、 濁世の悪比丘は仏の方便随宜の所説の法を知らず 悪口し顰蹙し数数擯出せられん」等云云、

 勧持品では次のように菩薩たちが誓う。
 「どうか、心配なさらないでください。御入滅の後、恐怖の悪世に、私たちは必ず法華経を弘めます。仏教を知らない多くの人々が私たちを非難しののしり、刀や棒で打つものがあるでしょう。私たちは皆それを耐え忍びます。
 悪世の僧は邪智にたけて、媚びへつらいの心があり、また悟りを得ていないのに悟ったと思い違いをして、慢心に満ち満ちているでしょう。
 あるいは、人里離れた所で、粗末な衣を身にまとい、静かな修行の場にあって、自分は真実の道を行じていると思い、俗世間を軽蔑する者がいるでしょう。自分の利益にのみ執着しているため、在家の人々のために法を説いて、世間から厚く敬われるさまは、まるで六種の神通力を得た聖者のようです。この人は邪悪な心を懐いて、常に世俗のことばかり考え山林で修行している立場を表に出して私たちの過失を挙げへつらうことに余念がないのです。
 常に大衆の中にあって、私たちを非難しようとして、国王や大臣、高僧や社会の有力者およびその他の僧たちに向かって、わたしたちを誹謗し、悪人であると説き、邪義を唱える人であり、外道の論を説いていると訴えるでしょう。
 濁った時代、悪い世には、多くのさまざまな恐ろしいことがあるでしょう。邪悪な魔が人の身に入って、私たちをののしり恥をかかせるでしょう。
 濁った世の悪僧は、法華経以外の教えが、仏の方便の教えであり、機根に合わせた教であることを知らないで、私たちを悪しざまにののしり、顔をしかめるでしょう。そして、わたしたちはたびたび追放されるでしょう」。

障魔に勝ち切ってこそ法華経の行者
 悪世末法に、万人のために法華経を弘めるのが「広宣流布」の戦いです。この戦いに立ち上がる「法華経の行者」には、あらゆる障魔が競い起こってくることは必至です。魔性の具体的発見として、必ず「三類の強敵」が出来します。その三類の強敵と戦い、勝利してこそ、一生成仏と広宣流布が実現のものとなるのです。
 日蓮大聖人の御生涯にあって、三類の強敵が最大の規模で襲いかかってきた極限の法難が、竜の口の法難と佐渡流罪です。しかし、結局は、いかなる魔軍も大聖人のお命をうばうことができなかった。
 大聖人は「竜口までもかちぬ」と仰せです。あらゆる法難を乗り越えた末に、ついに権力による処刑という絶体絶命の法難にも「勝った!」と大勝利の宣言をされているのです。
 元品の無明を正体とする第六天の魔王が、僭聖増上慢、道門増上慢、俗衆増上慢という悪鬼入其身の軍勢を総動員して、日蓮大聖人の御生命を奪い、広宣流布を破壊しようとしても、敵わなかったのです。あらゆる魔性の跳梁を打ち破られ大聖人の生命こそが、久遠元初自受用報身如来という御本仏の本地の生命にほかなりません。
 「開目抄」では、大聖人が末法の法華経の行者であることを論述するために、宝塔品第十一と提婆品第十二が考察されたのに続いて、勧持品第十三の「二十行の偈」に光が当てられていきます。それによって「三類の強敵」という障魔と戦われ、勝ち切った御自身こそが法華経の行者であることを結論づけられていくのです。
 勧持品では、宝塔品・提婆品の「五箇の鳳詔」を受けて、八十万億那由佗の諸の菩薩が滅後の弘教を誓う品であり、その誓いの言葉の中に「三類の強敵」が説かれます。いわば、宝塔・提婆両品は“師匠の勅命”であり、勧持品は“弟子の誓い”となります。
 ともあれ、障魔に打ち勝ってこそが、末法の広宣流布を担う真の師弟の道なのです。
 今回からは、本書の急所ともいうべき勧持品の「三類の強敵」の意義を学びます。
「開目抄」は全編が勝利の凱歌
 大聖人は、勧持品の「二十行の偈」を検証される段の冒頭で、御自身の「竜の口の法難」の意義を述べられています。まさに、大聖人御自身が勧持品に説かれる三類の強敵と戦い、魔を打ち破った御境地を示されるところから説き起こされているのです。
 いわば「魂の勝利宣言」ともいうべきこの御文は、「開目抄」全編が勝利の凱歌であることをしめす重要な個所であると拝されます。
 「
日蓮といゐし者は去年九月十二日子丑の時に頚はねられぬ、此れは魂魄・佐土の国にいたりて返年の二月・雪中にしるして有縁の弟子へをくればをそろしくて・をそろしからず・みん人いかに・をぢぬらむ(022316)
 ここで「頸を刎ねられた」と仰せられているのは、それまでの大聖人のお立場、即ち凡夫として振る舞われたお立場は竜の口で終えられた、との御断言です。
 すでに本講義の第一回において考察しましたが、ここでは、大聖人が竜の口で発迹顕本されたことを示されています。「魂魄」とは、発迹顕本された大聖人の本地の御生命、即ち久遠元初自受用報身如来のご生命を意味します。この魂魄が佐渡の国に至り、まさに、この地から御本仏として末法広宣流布の指揮を執られていくという御境地を、今「開目抄」に認められていることを宣言されているのです。
 「
返年の二月・雪中にしるして有縁の弟子へをくれば(022316)文永8(1271)11月の初めに、佐渡・塚原に到着されてから直ちに構想された「開目抄」が、文永9(1272)2月に完成させ、有縁の弟子に送られます「有縁の弟子」とは、直接には、竜の口の法難で不惜身命の心で大聖人にお供した四条金吾ですが、広くは、これまで日蓮大聖人に随順して戦ってきた全門下を指します。
 続けて大聖人は「
をそろしくて・をそろしからず・みん人いかに・をぢぬらむ(022314)と仰せせす。「をそろしくて・をそろしからず」とは“恐ろしいように見えるが、本当は何もおそれることはない”との励ましです。
 確かに、勧持品に説かれる三類の強敵による迫害は恐ろしい。経文に示されている大難の相の恐ろしさもさることながら、その根底にある魔の本質を知れば、まさしく戦慄すべき魔性の恐ろしさに突き当らざるをえません。

 しかし、どんなに恐ろしい障魔による大難であっても、不惜身命の覚悟で広宣流布に立ち上がれ、今、すべての障魔に勝ち切られた日蓮大聖人御御境地からみれば、何も恐れる必要はないとの仰せです。
 強敵と戦う心こそ師子王の心です。戦う覚悟と勇気があれば、その師子王の心に仏界の生命が涌現する。そこに勝利への闘志も智慧も生命力も湧き出ずる。それゆえ、もはや何も恐ろしくはない。
 ゆえに、師子王たる大聖人、および師子王の子たる不惜身命の共戦の弟子にとってみれな「をそろしからず」です。
 しかし、不惜身命の覚悟に立てず、臆病で退転してしかねない弟子たちにとってみれば、「みん人いかに・をぢぬらむ」となる。
 すなわち、この勧持品の三類の強敵の経文を覚悟もなく見れば、どれだけ怖じてしまうだろうかと御心配されているのです。
 臆病はそれ自体が、魔に食い破られた姿です。さらには、いつしか生命が深く食い破られて生命力も智慧も失ってしまい。ついには人生全体が敗北の坂を転げ落ちていくしかなくなる。ゆえに、大聖人は、そうであってはならないと戒められているのです。
 結局は、師匠と同じ覚悟に立たなければ、魔に敗れます。
 ゆえに、「開目抄」では“師弟不二の誓願に立て”と弟子への呼びかけが、全編に響きわたっているのです。
「当世をうつし給う明鏡」
 次に大聖人は、三類の強敵を説く勧持品の「二十行の偈」の大要を引用されます。
 「二十行の偈」の冒頭は、菩薩たちが力強い決意を釈尊に誓うところから始まります。
 “釈尊よ、何も心配なされないでください。どんなに恐怖に満ちた悪世の中でも私たちは厳然と法を説いていきます”
 そして迫害者の具体的な様相や、迫害の内容が次々と説かれていきます。後に妙楽大師が、この内容を三つに分類して「三類の強敵」と表現しなした。
 すなわち、第一に「俗衆増上慢」です。仏法に「無智」の在家の人々で、悪口罵詈・刀杖など、言葉や暴力の迫害を加えます。
 第二の「道門増上慢」は悪世中の比丘です。「邪智」にしてこころの諂い曲がった比丘たちは、まだ、悟りを得ていないのに得たと思いこみ、自義に執着する慢心が充満しています。
 第三が「僭聖増上慢」です。「僭聖」とは“聖者を装う”という意味です。
 この僭聖増上慢の特徴として、次の諸点が挙げられています。
    ①人里離れた場所に住み、衣を着て、宗教的権威を装う。
    ②自分は真の仏道を行じていると言って、人々をバカにする。経文の言葉でいえば人間を軽賤する。
    ③利欲に執着し、それを貪るために在家に法を説く
    ④世間の人々から六神通を持った阿羅漢のように崇められる。
    ⑤法華経の行者に「悪心」を懐いて、種々の迫害を起こす。
    ⑥自分の宗教的権威を用いて法華経の行者を貶める。
    ⑦権力者や社会的有力者などに讒言する。
    ⑧“法華経の行者は邪見の人であり、外道の教えを説く”と非難する。
 大聖人は、これら三類の強敵を全部、現実に呼び起こし、すべてを乗り越えられました。その勝利宣言が、先ほど拝した「竜口でもかちぬ」との御断言です。
 では、大聖人御在世の時代に出現した三類の強敵とは、具体的に誰か。それについて「開目抄」では詳細について論じられていきますが、今は結論だけを挙げておきます。
 まず俗衆増上慢については“道門増上慢と僭聖増上慢の悪僧たちを支える「大檀那」たち”であると言われています。これは、鎌倉の大寺院の高僧に供養する幕府の要人たちを指します。
 次に、道門増上慢については「
法然等の無戒・邪見の者」(022705)であると言われている。これは、法然の系統にある多くの念仏宗の僧たちを指します。
 次に道門増上慢については、ある面から言えば「法然等の無戒・邪見の者(022705)であると言われている。これは、法然の系統にある多くの念仏宗の僧たちを指します。
 そして、僭聖増上慢については、ある面から見れば「
華洛には聖一等・鎌倉には良観等(022810)であり、別の面から言えば「良観・念阿(022909)であると名指しされています。これを通して、結局は、「良観」の名が浮き彫りにされ、僭聖増上慢に当たる“一人”を明確にされていると拝察できます。
 まさに、僭聖増上慢の良観を中心として、平左衛門尉をはじめとする権力者たちと、念阿らをはじめとする念仏者たちが結託して、大聖人を亡き者にし、大聖人の教団を壊滅させるために企てた大弾圧が、竜の口の法難と佐渡流罪だったのです。
 「開目抄」では、三類の強敵が具体的に出現したことをもって、大聖人御自身が末法の法華経の行者であることは疑いがない、と考察を結ばれていきます。
 まさに、勧持品の明鏡こそ、悪世末法の迫害者を映し出すとともに、末法の法華経の行者が誰人であるかを指ししめしているといえます。それゆえに「当世をうつし給う明鏡」であり、「仏の未来記」であると仰せなのです。
「無智」「邪智」「悪心」から起こる迫害
 さて、改めて考えてみれば、不思議な明鏡であり未来記ではないでしょうか。
 法華経においては、悪世では俗衆・道門・僭聖増上慢という形で迫害が起こるという具体的な姿まで予見した。しかも、大聖人におかれては、事実として、経文に完璧に符合する迫害を受けられました。
 経文と大聖人の実践の一致の意義については次回に述べますが、どうしてこのような一致が起こりうるのでしょうか。
 それは、一つには、法華経において、生命の無明が引き起こす第六天の魔王の働きが克明に洞察されているからです。二つには、大聖人が法華経に説かれた通りに、末法の悪世に万人の成仏の法を不惜身命の覚悟で弘められたからであると拝察できます。
 末法は、本抄に仰せのように、まさに“世の衰え、人の智は浅く”“聖人・賢人が隠れ、迷者が多く”なる時代です。未来の危機の本質は、人々が権威主義化した宗教や思想に囚われ、従属してしまうために、法華経のような“深き”宗教・思想を退けるようになり、生命の歪みが増大していくことにあります。
 人間同士がいがみあい、相互に不信を募らせる末法の人々にとって、一切衆生の平等と尊敬を説く万人の成仏の教えである法華経は、一層、受け入れがたいものとなるのです。自分が理解し難いものとして、万人の成仏の法を疎んじるのです。
 そしてさらに、勇んで“深き法”を弘めて真実の民衆救済のために努力する法華経の行者に対しては、憎みすら抱くようになるのです。
 それは、暗闇に慣れた者が太陽の光を直視できないようなものであり、また、夜盗が光を憎むようなものである。それゆえ、怨嫉の者は、万人に無限の可能性を説く法華経、および、その法華経を弘通する者を軽賤し憎嫉するのです。ここに“謗法の生命”の恐ろしさがあります。
 勧持品の経文に、俗衆増上慢は「無智」ゆえに、道門増上慢は「邪智」ゆえに、そして僭聖増上慢は「悪心」ゆえに迫害を起こすとあります。これは、無明の発動に「無智」「邪智」「悪心」の三つの段階があることを示していると見ることも可能です。
 すなわち、仏法に「無智」の者は、「邪智」「悪心」の者たちの扇動に乗りやすい。ゆえに、往々にして在家の者たちが、法華経の行者に対して直接に悪口を言ったり、暴力を振るうのです。
 次に、無明を「邪智」として現す敵対者です。ひとたびは出家して仏道を求めますが、自身の理解した教えを絶対化し、それのみが正しいという邪智を起こすのです。
 特に、万人が成仏できるという法華経は、自分が信ずる仏の絶対性を損なうように見えて容認せきない。そのために、さまざまな形で法華経の意義を低めていこうとします。そうした出家者たちが、万人の成仏の法を正しく弘める法華経の行者に対して、強い憎しみを抱くようになります。
 最後は、無明を「悪心」として発動させる敵対者です。この悪心は「権力の魔性」に近い。それは、自分の欲望を満たすために宗教的権威を利用しようとする「大慢心」であるといってよい。
 経文に、僭聖増上慢は自分の権威を誇って「人間を軽賤する」とある。この心こそ、万人を尊敬する法華経と対極の生命です。それゆえに、法華経の行者に対する憎しみは強く、ありもしない過失を捏造し、中傷する。
 悪心の究極は、権力をも自在に動かし、法華経の行者への大弾圧をはかることに現れます。
 無明が深いゆえに、悪心の者は手段を選ばない魔性の権化と化す。ゆえに、僭聖増上慢は迫害の元凶になるのです。
 万人の成仏の法を正しく弘める法華経の行者が、仏法の精神を根本的に歪める魔性の勢力に対して退くことなく戦う局面を洞察すれば、そこには、おのずと、正法に対する無明が俗衆・道門、そして僭聖増上慢の出現という形で発動してくることを、ありありと予記できるのです。

第12回 三類の強敵(下)top

迫害の元凶・僭聖増上慢を見破れ

05                  六巻の般泥洹経に云く「究竟の処を見ずとは彼の一闡提の輩の究竟の悪業を見
06
 ざるなり」等云云、妙楽云く「第三最も甚だし転識り難きが故に」等、無眼の者・一眼の者・邪見の者は末法の始の
07
 三類を見るべからず 一分の仏眼を得るもの此れをしるべし、 向国王大臣婆羅門居士等云云、東春に云く「公処に
08
 向い法を毀り人を謗ず」等云云、 夫れ昔像法の末には護命・修円等・奏状をささげて伝教大師を讒奏す、今末法の
09
 始には良観・念阿等偽書を注して将軍家にささぐ・あに三類の怨敵にあらずや。

 六巻本の般泥洹経には「究竟のところを見ないとは、かの一闡提の者の究竟の悪業を見ないということである」とある。妙楽は「第三の者が一番悪質である。より一層、正体を見抜きにくいからである」と述べている。目を閉ざしている者や片目で見る者、邪な目で見る者は末法の初めに出現する三類の強敵を見抜くことができない。わずかでも仏眼を持った者がこれをしることができるのである。法華経に「国王や大臣、高僧や社会の有力者たちに向かって」とあり、法華文句東春には「権力者に向かって正法を誹り、その行者を誹謗する」とある。むかし像法時代の末には護命や修円らが書状を朝廷にささげ、伝教大師を無実の罪で訴えた。今末法の初めには、良観や念阿が偽書を作って将軍にささげている。これこそまさに三類の仏敵ではないのか。

0230
01
   仏語むなしからざれば三類の怨敵すでに国中に充満せり、 金言のやぶるべきかのゆへに法華経の行者なし・い
02
 かがせん・いかがせん、 抑たれやの人か衆俗に悪口罵詈せらるる 誰の僧か刀杖を加へらるる、 誰の僧をか法華
03
 経のゆへに公家・武家に奏する・誰の僧か数数見擯出と度度ながさるる、 日蓮より外に日本国に取り出さんとする
04
 に人なし、 日蓮は法華経の行者にあらず天これを・すて給うゆへに、 誰をか当世の法華経の行者として仏語を実
05
 語とせん、 仏と提婆とは身と影とのごとし生生にはなれず 聖徳太子と守屋とは蓮華の花菓・同時なるがごとし、
06
 法華経の行者あらば必ず三類の怨敵あるべし、 三類はすでにあり法華経の行者は誰なるらむ、 求めて師とすべし
07
 一眼の亀の浮木に値うなるべし。

 仏の言葉にいつわりはなく、三類の仏敵はすでに国中に満ちあふれている。しかし、仏の言葉が破られようとしているのか、法華経の行者はいない。いったい、どうすればよいのか。そもそも、いったい誰人が、仏教を知らない人々から中傷され、悪しざまにののしられているというのか。いったいどの僧が刀や棒で打たれているというのか。どの僧が公家や武家に訴えられたというのか。どの僧が「たびたび追放される」とあるように、何度も流されたというのか。日蓮のほかには日本国でさがし出そうとしても、誰もいない。
 ところが、日蓮は法華経の行者ではない。天が日蓮を捨てられているからである。それでは、いったい誰を今の世の法華経の行者であるとして、仏の言葉を真実としたらよいのか。仏と提婆とは身と影のようである。三世永遠に離れない。聖徳太子の時には物部守屋がいた。蓮華が花と実を同時にそなえるようなものである。法華経の行者がいれば必ず三類の仏敵が現れる。三類はすでに現れた。法華経の行者は誰なのか。求めて師とすべきせある。一眼の亀が浮き木に巡り合うようなことである。

 本抄には、「法華経の行者あらば必ず三類の怨敵あるべし」(023006)と仰せであります。
 まさしく、三類の強敵による迫害は、法華経の行者の弘教に伴って起こってきます。法華経の行者が妙法を弘めようとするとき、それに対して、人々の生命に具わる元品の無明が反発し、種々の魔性となって現れ、襲いかかってくるのです。
 それでも、法華経の行者が退くことなく妙法を弘めぬくとき、無明はついに極悪の僭聖増上慢となって現れます。逆に言えば、僭聖増上慢を呼び現し、それに勝ってこそ、真の法華経の行者となるのです。
 今回は、三類の強敵のうち、特に僭聖増上慢に焦点をあてて、「開目抄」の仰せを拝察していきます。
俗衆・道門増上慢の悪
 さて、「開目抄」では、日蓮大聖人の御在世において、具体的に誰が三類の強敵に当たるのかを明らかにされ、そして結論として、第三類の僭聖増上慢が最も甚だしい悪であることが示されている。
 本抄では、妙楽大師の「
第三最も甚だし後後の者は転識り難きを以ての故に」(022409)という言葉が、3回にわたって引かれています。これは、第一類よりも第二類、第二類よりも第三類と、次第に悪の正体が分かりにくくなってくるので、第三類の僭聖増上慢が最も甚だしい敵であるという意味です。
 大聖人は、俗衆増上慢については、道門・僭聖増上慢の僧らの大檀那たちであると指摘されるのみで、どのような悪かは詳細に示されていません。彼らの悪は余りにも明白であるとともに、人々を迷わし法を破壊するという面では、道門・僭聖増上慢のほうがはるかに悪質だからです。
 次に、道門増上慢については、具体的には「
法然等の無戒・邪見の者」(022705)であると明かされ、少し詳しくその悪たるゆえんを明らかにされています。
 法然の流れをくむ念仏宗が、理深解微、捨閉閣抛等と説き、法華経の妙法による真の救済から人々を離れさせていくのは謗法に当たる。ゆえに、法然およびその流れをくむ念仏宗の僧らを「邪見の者」と破折されているのです。
 また、彼らを「無戒」の者と言われています。これは、当時の念仏者たちが、法然の教義に基づき死後の救済のみを願うあまり、“所詮、すでに多くの悪を積んでいる身であるから、現地で身を律して善を行うこともない”と開き直っていたため、彼らの間には堕落した行いがはびこっていたからでした。
 しかし、この道門増上慢の謗法・悪行は、まだわかりやすい悪です。聖者を装う僭聖増上慢の悪こそが最も見破り難く、また、最も悪質なのです。
仏眼でのみ見破りうる「究極の悪業」
 「開目抄」では、多数の経・釈を引かれ、僭聖増上慢の悪の本質を明らかにしていかれます。その主なものを、ここに挙げておきます。
    ①
「羅漢に似たる一闡提」(022717)般泥洹経
    ②「持律に似像して少かに経典を読誦し飲食を貪嗜して其の身を長養せん」(022803)涅槃経
    ③「外には賢善を現し内には貪嫉を懐く」(022804)涅槃経
    ④「実には沙門に非ずして沙門の像を現じ 邪見熾盛にして正法を誹謗せん」(022805)涅槃経
    ⑤「出家の処に一切の悪人を摂す」(022807)東春
    ⑥「一種の禅師は唯観心の一意のみ有り或は浅く或は偽る余の九は全く此無し」(022814)摩訶止観
    ⑦「文字法師とは内に観解無くして唯法相を構う事相の禅師とは境智を閑わず鼻膈に心を止む」(022816)弘決
    ⑧「臨終に皆悔ゆ」(022903)摩訶止観
    ⑨「究竟の処を見ずとは彼の一闡提の輩の究竟の悪業を見ざるなり」(022905)般泥洹経
 ①~④の涅槃経、般泥洹経からの引用は、いずれも聖者を装う外見と内面の本当の境涯と著しい食い違いを表現しています。
 ①
「羅漢に似たる一闡提」とは、小乗の最高位の聖者である阿羅漢に似ているが、本質は欲望と不信に支配された「一闡堤」に過ぎないということです。②~④の3つも、ほぼ同じことが言われています。
 「一闡堤」は、僭聖増上慢の本質を示す言葉です。サンスクリットの「イッチャンティカ」の音写で、もともとは「欲望する」という意味があり、欲望にまみれているために自他の仏性を信ずることができず、不信に支配されて正法を誹謗していく人間を指します。
 勧持品には、僭聖増上慢
が「悪心」から法華経の行者を迫害すると説かれています。この「悪心」とは、まさに一闡堤の生命です。
 ⑤の「出家の処に一切の悪人を摂す」とは、俗衆・道門増上慢となる一切の悪人が、僭聖増上慢のところに集まり、結託して法華経の行者を迫害するようになるということです。つまり、迫害の「元凶」になるのです。この点については、大聖人の迫害の元凶になった極楽寺良観に即して、後でさらに詳しく考察してみたい。
 68は天台の「摩訶止観」や妙楽の「弘決」などの文です。天台大師の当時、中国には禅定の修行をする禅師や経論の研究をする法師が多数いましたが、ほとんどが中途半端な修行や研究で終わり、仏教を会得したものではなかった。それでも在家から尊敬を集める者がいて、彼らに従った人々は何の利益も得られず、結局のところ、臨終の時には皆、後悔をしたというのです。
 つまり、僭聖増上慢のような欺瞞的な宗教者は、民衆に取り返しのつかない不幸をもたらすのであり、これこそが「最大の悪」なのです。
 しかし、この悪はなかなか見破ることができない。そのことを示すために⑨の「
彼の一闡提の輩の究竟の悪業を見ざるなり」の一節を引かれている。
 まさに僭聖増上慢の悪は「究竟の悪業」なのです。聖者のように振る舞いながら、内心は欲望と不信に満ち満ちており、自らの立場を守り、欲望を満たすためには仏法を利用することも、また、人々を不幸におとすことも辞さない顛倒の悪人である。仏法者を装った反仏法者、また慈悲を装った人間の敵こそ、僭聖増上慢です。
 大聖人は、この僭聖増上慢の極悪は「一分の仏眼を得るもの」(022907)にしか分からないと仰せです。元品の無明の発現である僭聖増上慢の悪は、元品の無明を断ち切って仏界の生命を現したにしか見破れない。そして、その人でなければ戦いきっていけないからです。
一切の悪人を摂する極楽寺良観
 それでは、大聖人御在世当時、僭聖増上慢が、いかに狡猾に社会の中に尊崇の対象となり通していったか。当時の宗教事情に簡単に触れておきましょう。
 「開目抄」の仰せに、勧持品の二十行の偈について「
当世の諸宗・並に国中の禅律・念仏者が醜面を浮べたるに一分もくもりなし」(022507)とあります。
 当世の諸宗とは、南都六宗に天台・真言を加えた八宗であり、当時における既成仏教を指します。
 これらの諸宗は、朝廷や貴族に保護され、膨大な領地の寄贈を受けて、荘園領主としても社会に大きな影響力をもっていました。各宗の諸寺の支配層は民衆救済を忘れ、腐敗し堕落していきました。延暦寺や園城寺の僧兵の姿などに、人々は仏法の荒廃を感じ、天災や戦乱にあいつぐ中で、末法の到来をより強く意識しはじめるようになりました。
 鎌倉時代に入り、振興の宗教として隆盛をしてきたのが「禅・律・念仏」です。とりわけ、従来の腐敗した宗教界に倦んだ人たちにとってみれば、生活規律と修行の厳格化を尊重する「戒律」が新鮮に感じとられました。「律」というと、六宗の一宗派としての律宗が想、この時代はそうではなく、宗派を超えて戒律復興運動が起こっていくのです。
 それを推進したのが、京都の禅僧・聖一であり、また、奈良西大寺の叡尊とその弟子の良観です。
 また、そうした復興の流行に乗って、鎌倉の念仏者たちからも、戒律を重視する動きが出てきます。それが北条一族の帰依を背景に活動していた道阿道教・念阿良忠らです。
 そこで、良観が、師匠の叡尊を鎌倉に迎え、幕府要人ならびに念仏ら各宗の僧たちに受戒させます。それによって、良観は、幕府要人や念仏者を傘下に置くことに成功し、鎌倉において自らの権威の支配体制を確立していったのです。その意味で、まさに勧持品の三類の強敵を釈し東春の言葉の通り、「出家の処に一切の悪人を摂す」という状態になっていきました。
 良観は、外見上はどこまでも戒律復興の立役者として振る舞っていましたが、その内面おいては、誰よりも俗事のことに執着し、慈善事業・土木事業を進め「布絹・財宝」をたくわえていたのです。
 人々は、そうした良観の本質を知らずに、「
極楽寺の生仏」(141616)と崇め、救済を求めて布施を重ねます。
 まさしく良観の姿は、先に見た「実には沙門に非ずして沙門の像を現じ」(022805)とある通りです。どんなに袈裟衣をまとい僧形の姿を現じていても、その仮面を剥げば到底、沙門などとは言えない。
 しかし、それでも、人々は容易に僧衣に幻惑されてしまう。また、巧妙にそう見せていくのです。それが僭聖増上慢の特徴として、妙楽大師の「転識り難き」ということです。その正体を見破ることができたのは、ただ大聖人のみであられた。故に大聖人お一人で、厳然とその欺瞞に挑んでいかれたのです。
 大聖人は、文永5年(1268)の「十一通御書」の中の「極楽寺良観への御状」でも、勧持品の経文を引いて、良観こそ「
僣聖増上慢にして今生は国賊」(017405)でと痛烈に破折されています。
 そして、その正体を幕府の要人たちに明らかにしようとされ、速やかに公場対決しようと呼び掛けられます。
 しかし、対話に応じることもなく卑劣に逃げ回った良観は、文永8年(1271)に祈雨に失敗し、大聖人との勝負に敗れるや、いよいよ僭聖増上慢の魔性の正体を露わにします。これが
「公処に向い法を毀り人を謗ず」022907)ということです。公処とは、権力者や社会的有力者です。讒奏によって大聖人を陥れようとしたのです。
 具体的には、念阿の弟子・行敏という僧が、大聖人を仏教界と幕府の秩序を破壊する者として訴訟していきます。その訴状に対する反論書の冒頭に大聖人は、良観・念阿・道阿の三人の名前を挙げ、黒幕の正体を明確に喝破されています。この訴訟に失敗した良観は、いよいよ幕府の要人、またその女房たちに讒言を強め、それがために、竜の口法難・佐渡流罪と弾圧が引き起こされていきます。
 まさに良観は、嫉妬と瞋恚の念から大聖人を迫害しようと画策し、謀議を練り、権力者らに讒言して法華経の行者への大弾圧を図った。結果として、大聖人の正義の言論にあぶりだされるようにして、良観は経文に説かれる僭聖増上慢と寸分も違わない所行をとっていくのです。
勧持品二十行の偈の身読
 「
仏語むなしからざれば三類の怨敵すでに国中に充満せり、金言のやぶるべきかのゆへに法華経の行者なし・いかがせん・いかがせん」(023001
 大聖人当時の日本に、経文通りの三類の強敵が出現していることが確認できた。では、果たして、それと戦う法華経の行者は誰なのだろうか、との仰せです。当然、三類の強敵と戦い抜いた法華経の行者は大聖人以外にはおられません。
 そのことを論証されるために、大聖人は、次の勧持品の四つの経文を提示され、これらが大聖人の実践に全く一致していることを明かされています。
 「
衆俗に悪口罵詈せらるる」(023002
 「
刀杖を加へらるる」(023002
 「法華経のゆへに公家・武家に奏する」(023002
 「
数数見擯出と度度ながさるる」(023003
 この四つの迫害の様相は、一つ一つに深い意味があります。
 例えば、最初に無智の人から「悪口罵詈」とされていますが、大聖人は、日本中の衆俗から、しかも20年以上にわたって悪口され続けたのです。大聖人が受けたれた難は、どれ一つとっても尋常な規模ではありあせん。
 「
みるものは目をひき・きく人はあだむ」(144507
 「
犯僧の名四海に満ち」(093612
 「
日蓮程・人に悪まれたる者はなし」(151403
 万人の意識を変革することの困難さが、この俗衆増上慢からの迫害の様相に示されています。しかし大聖人は、そうした非難中傷の嵐を覚悟のうえで、民衆救済に立ち上がられたのです。なんという崇高な魂であられることでしょうか。この一事を見ても、誰人が真実の法華経の行者かが明確に浮かびあがります。
 第二の「刀杖を加へらるる」については、「刀杖難事御書」に詳しく示されています。
 そこでは「二十行の偈は日蓮一人よめり」(155702)とされて、「刀杖の二字」、すなわち「刀の難」と「杖の難」の両方にあわれたのは、日蓮大聖人以外に存在しないことを記されています。
 刀の難は、小松原の法難、竜の口の法難です。杖の難として大聖人が特筆されているのは、竜の口の法難の時、松葉ヶ谷の草案を平左衛門尉頼綱を襲撃した際、少輔房が大聖人の懐中にあった法華経の第五の巻を奪い取り、その第五の巻で大聖人の顔を打ったということです。
 法華経の第五の巻の中に勧持品があります。法華経の行者が杖の難にあうと記されている第五の巻、打つ杖も第五の巻、本当に不思議な未来記である。一つ一つが大聖人の身読を証明するように事が運んでいるとしか、拝しようがありません。
 第三に僭聖増上慢からの迫害とは、具体的には権力者への讒奏です。竜の口の法難・佐渡流罪が、讒言によって仕組まれたものであったことは先に述べた通りです。
 言い換えれば、正義の人を陥れようとした悪人が卑劣な画策をすれば、それは讒言しか方法がないということです。僭聖増上慢は、宗教的な確たる裏づけなど、もっていません。故に、真実の法華経の実践者に対して、卑劣な手段をとるしか、なす術がないのです。
 良観について言えば、戒律を固く持ち不妄語を守らなければならない立場なのに、嘘で人を陥れようとする。その一点だけでも、良観が「両舌」つまり二重舌の聖職者失格であることは明らかです。
 最後は流罪です。権力からの迫害です。経文には、「擯出」処を追い出すことであると明確に示されています。
 大聖人は、とりわけ勧持品の一節が「数数見擯出」とあることから「数数」、すなわち数度にわたる流罪ということを重要視されています。
 「開目抄」ではすでに、この主題を論じられています。
 そこでは、「
日蓮・法華経のゆへに度度ながされずば数数の二字いかんがせん、此の二字は天台・伝教もいまだ・よみ給はず況や余人をや」(020217)と仰せです。
 「数数の二字いかんがせん」一度ならず二度の流罪。大聖人が身延に入られてから、三度目の流罪の噂もありました。
 赦免されて、再び流罪となることは、本来考えられないことです。なぜならば、流罪ということ自体、当時では生きて帰ることが通常考えられなかったからです。
 言い換えれば、それはど、魔性は執拗であるということです。その執拗な魔性と戦い抜き、断固として勝ちきってこそ、法華経の行者と言えるのです。
 大事なことは、執拗な魔性をも圧倒する執念で、「戦い続ける心」を貫き通すことです。「
仏と提婆とは身と影とのごとし生生にはなれず」(023005)です。
 法華経の行者と実践を契機として、それを妨げようと元品の無明が発動した働きが、三類の強敵にほかなりません。「身」が行動している限り、「影」はつきまといます。
 悪が盛んになり善が敗れれば、法性の働きは消滅してしまう。その反対に、善が盛んになり悪を打ち破れば、無明の働きは消滅します。
 常に、瞬間瞬間、生命の中で善と悪の闘争があるのです。「
蓮華の花菓・同時なるがごとし」(023005)です。したがって、善を強くするためには、悪と戦い続けるしかありません。
 仏法といっても、「法」は目に見えません。善なる法は、法華経の行者の戦う実践の振る舞いの中に顕現するのです。
 しかしながら、三類の強敵と戦い勝利する法華経の行者に出会うことは稀です。真の仏法の指導者には会いがたいのです。
 ゆえに「
求めて師とすべし一眼の亀の浮木に値うなるべし」(023006)と仰せです。
 「求めて師とすべし」です。
 師弟は、どこまでも弟子が師を求め抜く実践の中にしかありません。
 自身が求め抜いた時に、戦う師匠の偉大な姿が明瞭に浮かび上がってきます。その意味で、本抄の「開目」とは“元品の無明・僭聖増上慢と戦う真の法華経の行者の姿に目覚めよ”という意味であるとともに、「開目」の真意は“師を求め、師とともに魔性と戦い抜く自分自身に目覚めよ”と、弟子の闘争を呼び掛けられていることにあると拝することができるのです。

第13回 なぜ大難に遭うのかtop

根源悪「謗法」と戦う法華経の行者

08   有る人云く当世の三類はほぼ有るににたり、 但し法華経の行者なし汝を法華経の行者といはんとすれば大なる
09
 相違あり、 此の経に云く「天の諸の童子以て給使を為さん、刀杖も加えず、 毒も害すること能わざらん」又云く
10
 「若し人悪罵すれば口則閉塞す」等、 又云く「現世には安穏にして後・善処に生れん」等云云、又「頭破れて七分
11
 と作ること 阿梨樹の枝の如くならん」又云く「亦現世に於て其の福報を得ん」等又云く「若し復 是の経典を受持
12
 する者を見て其の過悪を出せば 若しは実にもあれ若しは不実にもあれ此の人現世に白癩の病を得ん」等云云、 答
13
 えて云く汝が疑い大に吉しついでに不審を晴さん、 

 ある人が次のように言った。
 今の世の三類の強敵は、ほぼ現れたと言ってよい。ただし法華経の行者はいない。あなたを法華経の行者であるといおうとすれば、経文と大きな違いがある。この経には「法華経を持つ者には、天の童たちが来て、仕えるであろう。また、刀や杖で打つこともできないし、毒をもって害することもできないであろう」また、「もしある人が法華経を持つ者を憎み、罵声をあびせれば、その人の口は塞がってしまう」と、安楽行品にあり、また薬草喩品には「法華経を持つ者は現世で安穏であり、未来世は善きところに生まれるであろう」とあり、陀羅尼品には「法華経を説く者を悩まし、その心を乱す者は、頭が七つに割れて阿梨樹の枝のようになるであろう」とあり、また普賢品には「また、法華経を持つ者は、その報いとして、この一生のうちに幸福になる」とあり、さらに「また、この経典を受持する者を見て、悪口を言う者は、そのことが事実であろうとなかろうと、この一生のうちに重病にくるしむであろう」などととかれている。
 答えて言う。あなたの疑いは実にもっともである。この機会にその不審を晴らそう

0231
01
                事の心を案ずるに前生に法華経・誹謗の罪なきもの 今生に法華経を行ずこれを世
02
 間の失によせ或は罪なきをあだすれば 忽に現罰あるか・修羅が帝釈をいる 金翅鳥の阿耨池に入る等必ず返つて一
03
 時に損するがごとし、 天台云く「今我が疾苦は皆過去に由る今生の修福は報・将来に在り」等云云、心地観経に曰
04
 く「過去の因を知らんと欲せば 其の現在の果を見よ未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ」等云云、 不
05
 軽品に云く「其の罪畢已」等云云、 不軽菩薩は過去に法華経を謗じ給う罪・身に有るゆへに 瓦石をかほるとみへ
06
 たり、又順次生に必ず地獄に堕つべき者は 重罪を造るとも現罰なし一闡提人これなり、
14
              詮ずるところ上品の一闡提人になりぬれば順次生に必ず無間獄に堕つべきゆへに現罰な
15
 し例せば夏の桀・殷の紂の世には 天変なし重科有て必ず世ほろぶべきゆへか、 又守護神此国をすつるゆへに現罰
16
 なきか謗法の世をば守護神すて去り 諸天まほるべからずかるがゆへに正法を行ずるものにしるしなし 還つて大難
17
 に値うべし 金光明経に云く「善業を修する者は日日に衰減す」等云云、 悪国・悪時これなり具さには立正安国論
18
 にかんがへたるがごとし。

 この問題の根本を考えてみよう。過去世に法華経誹謗の罪がない者が、今生に法華経を行ずる。この人に対して、世間の罪に事寄せたり、あるいは何の罪もないのに迫害するならば、たちまちに現罰があるということか。これは、修羅が帝釈を射たり、金翅鳥が竜を食おうとして阿耨池に入ったりすれば、必ずその報いを自身に受けて、たちまち身を損なうようなものである。
 天台は「現在の自身の苦脳は、みな自身の過去の行為による。現世で積んだ福徳はその報いが将来に現れる」と言っている。心地観経には「過去の因を知りたいと思うならば、現在の果を見よ。未来の果を知りたいと思うならば、現在の因を見よ」とある。不軽品には「自分の身の罪の報いを受けおわって」とある。不軽菩薩は過去に法華経を誹謗した罪が自身にあるため瓦礫や石を投げつけられた、という意味である。
 また、次の生に必ず地獄に堕ちると決まっている者は、今生で重罪を造っても現罰はない。一闡提の者がこれである。
 所詮、極悪の一闡提のものになってしまえば、次の生で必ず無間獄に堕ちることになっているために現罰はない。例えば、中国の夏の桀王・殷の紂王の時代には予兆となる天変がなかったが、重罪があって必ず世が滅ぶことが定まっていたためであろうか。
 また、守護神がこの国を捨てたために現罰がないのであろうか。謗法の世は、守護神が捨て去ってしまい、諸天も守ることはない。このために、正法を行ずる者に、はっきりとした守護のあかしがない。かえって大難に遭うのである。金光明経には「善法を修する人は日に日に減少する」とある。悪国・悪時とはこのことである。
 具体的には立正安国論で考察した通りである。

 「開目抄」は、「日蓮大聖人の宗教」の確立を告げられた書です。
 「主師親の三徳」を主題としつつ、本抄前半では末法の世を救う「法」が、後半では、その法を弘める「末法の師」が明かされていきます。
 特に後半では、法華経見宝塔品、提婆達多品、勧持品の経文に照らして、大聖人の弘教および受けられた迫害が経文と一致することをしめされ、大聖人こそが末法の法華経の行者であられることを明かされます。
 これは「文証」をもって、大聖人が末法の師であられることを示されたと拝することができます。この部分は、これまで詳しく拝察してきました。
 残る問題は、何故に法華経の行者に難があるのか。また、難が起こったときに諸天善神の加護がないのは何故か。という問題です。これは、本抄で大聖人が「
此の書の肝心・一期の大事」(020313)と言われた問題です。
 この疑問に対して、大聖人は、道理をもって答えられておきます。故に、ここは「理証」をもって、大聖人が末法の法華経の行者であられることを示されたところと拝察できます。今回はこの部分を拝していきます。
 なお、このあとの「
詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん」(023201)で始まる一節では、不退転で「日本の柱」として戦い続けることを誓われた大聖人の「大誓願」が述べられ、「末法の師」として屹立する大聖人の御境涯を示されています。
 そして、この一節以後は大聖人が確立された末法救済の宗教の「信心」「功徳」「実践」が明かされていきます。 いわば、大聖人自身の御胸中を明かされ、師弟不二の信心と実践を門下に勧められているのです。
 その意味で、大聖人の御生命に実現された「現証」をもって、「末法の師」を明かされているところと拝することができます。
大難と戦い抜く中に真の安穏が
 さて、大聖人が末法の法華経の行者であることを「理証」をもって示されるところではまず、日蓮大聖人が法華経の行者であるというならば、経文と矛盾が生じているのではないか、という問いを挙げられています。
 「
有る人云く当世の三類はほぼ有るににたり、但し法華経の行者なし汝を法華経の行者といはんとすれば大なる相違あり」(023008
 「大なる相違あり」として、この後に法華経の経文を6ヵ所引用されています。
 これらの経文を大別すると、
    ①末法に法華経を弘通する者には諸天善神の加護が必ずあり、行者は現世安穏・後生善処となる。
    ②法華経の行者に対する迫害者は必ず現罰を受ける。
 という二種類があると言うことができます。
 大聖人は、この問いの直前に、勧持品の経文を文証とされて、経文に説かれた通りの迫害を受けている御自身こそが真の法華経の行者であり、求めて師とすべきであると仰せです。これに対して、経文を挙げて反論しているのが、この質問です。
 これに対して大聖人は、まず論議の前提として、大難を受けてこそ法華経の行者であることを、過去の事例を挙げて改めて確認されます。
 すなわち、九横の大難に遭った釈尊、杖木瓦石の難に遭った不軽菩薩、殺された目連、提婆菩薩、師子尊者らを挙げて、命に及ぶような難に遭い、諸天善神の加護がないからといって、法華経の行者ではないとは言えないのではないかと仰せです。
 「御義口伝に」は「
妙法蓮華経を修行するに難来るを以て安楽と意得可きなり」(0750第一安楽行品の事)と仰せのように、法華経の行者が安穏といっても、それは大難と戦い抜く境涯の確立の中に真の安穏があるのです。
 このように過去の事例を示されたうえで「
事の心を案ずるに」(023101)と述べられて、法華経の行者自身が大難を被り、諸天善神の加護がない理由、あるいは迫害者に現罰が現れない理由を三点にわたって説明されていきます。
 三点を要約すれば次のようになります。
 第一に、法華経の行者が難を受けているのに諸天の加護がないのは、法華経の行者自身の過去世に謗法の罪業があった場合であって、法華経の行者に過去世の罪業がない場合は、迫害者に直ちに現罰がある。
 第二に、来世には必ず堕獄すると定まっている一闡堤人は、今生で重罪を犯しても現罰としては現れない。
 第三に、一国謗法のゆえに諸天善神が国を去ってしまっているため、諸天善神の加護が現れない。
 それぞれの点について、御書の仰せに基づいて考察していくことにします。
法華経の行者自身の宿業
 「法華経の行者を迫害する者には現罰がある」と法華経に説かれていると言っても、それは法華経の行者の過去世に法華誹謗の罪がない場合があると仰せです。
 法華経の行者であっても、過去世に法華経誹謗があれば、その罪の報いとして迫害を受ける。
 不軽菩薩も自身の罪業のゆえに大難を受けたのであり、事実経文では不軽菩薩自身が「其罪畢已」するまでは、不軽菩薩を迫害した四衆に現罰があったと経文には説かれていません。
 仏法は因果の理法です。
 「
心地観経に曰く『過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ』(023103
 現在の果報は過去の業因による。しかし、現在の因によって未来の果報がある。大事なのは、どこまでも「現在」です。
 いまを決定づけたのは過去世の因ですが、同時に、未来を決定づけるのは今この瞬間です。過去の業因が未来をも決定するものではありません。むしろ、過去にどのような業因があろうとも、現在の因によって輝かしい未来の果報を得ていくことができることを強調しているのが、日蓮大聖人の真骨頂です。大聖人が宿業を説くのは、あくまでも宿業は必ず転換できることを示すためのものです。
 大聖人の宿業論については、別の機会に詳しく拝察したと思いますが、ここで確認しておきたいのは、大難の因を自分自身の中に見いだしていくという考え方をしめされている点です。これは、宿命転換を可能にするためには、どうしても必要な考え方なのです。
 法華経誹謗の罪業は、実は元品の無明から起こる根源的な悪業です。万人に内在する根源の仏性を否定し、仏性を現していくための教えである法華経や、法華経を弘める人に対して誹謗することこそ、人間としての最大の悪となります。
 この謗法を生む元品の無明こそ、諸々の悪業の根源となるのです。そして、今の人生で元品の無明を妙法の信によって打ち破ってこそ、これまでの悪から悪への生命の流転を止め、妙法を根本とした善から善への流転に転換していくことができるのです。これが宿命転換です。
 大聖人はここで、罰の問題についても、罪なき者を迫害すれば現罰があるとされています。神のような、自分の外の存在が罰をあたえるのではない。罰は本人の行為の結果であり、因果の法則に則っているのです。いわば法罰が仏法で説かれる罰なのです。
 ただし、過去の罪がある法華経の行者を迫害する者に現罰があるといっても、全く罰がないということではない。即座に現れる現罰がないだけであって、見えない冥罰は厳としてある。それを明かされているのが、次の一闡堤人の問題です。
堕獄が必定の一闡堤
 ここで、順次生に堕獄することが必然となっている一闡堤人の場合には現罰が現れないと仰せです。
 すなわち「
順次生に必ず地獄に堕つべき者は重罪を造るとも現罰なし一闡提人これなり」(023106)と仰せのように、迫害者自身が、必ず無間地獄に堕ちることが決まっている場合、目に見えて現れる現罰はないのです。
 「法蓮抄」では「
獄に入つて死罪に定まる者は 獄の中にて何なる僻事あれども死罪を行うまでにて別の失なし、ゆりぬべき者は獄中にて僻事あれば・これをいましむるが如し」(105415)(牢獄に入って死罪に定まっている者は、牢獄の中でどのような悪事があっても死罪を行うまで別の咎はない赦される予定の者は獄中で悪事があれば、これを戒めるようなものである
 本抄では、涅槃経の文を引かれつつ、相当な悪人でも、さまざまなことを縁として心をひるがえして悔いることがあるが、一闡堤人の場合では、それが全くないことを指摘しています。
 一闡堤人は、不信・謗法に染まりきっている悔いる心がないものを指します。もちろん一闡堤人といえども、正因仏性はあります。
 しかし、それを現していくために必要な「信」を持っていない。だから仏性を覆う無明を打ち破れない。ゆえに仏性がないに等しく、悪心を抱き、悪行に走るのです。
 空に太陽があっても、暗雲がおおっているために、太陽の光に浴することができず、暗闇をさまよっているようなものです。
 無明に覆われた生命は、自他の仏性を信ずることができず、自分が犯している謗法にも麻痺し、取り返しのつかない堕獄の淵に向かっていかざるをえません。
 また、現罰がないといっても、心の中では仏性を信じられないことによる根本的な不安にさいなまれています。その心の不安によって、生命は蝕まれていくのです。したがって、現罰が現れない段階でも、厳然たる冥罰をうけているのです。
 故に大聖人は「
末法の法華経の行者を軽賎する王臣万民始めは事なきやうにて終にほろびざるは候はず」(119002)(法華経の行者を軽蔑したり、賎しんだりする国王や臣や万民は、はじめは何事もないようであるが、必ず最後には滅亡の悲運に堕ちないものはない)と断言されているのです。
③諸天善神が国を捨て去る
 第三は、諸天善神辞去の問題です。
 「
守護神すて去り諸天まほるべからずかるがゆへに正法を行ずるものにしるしなし 還つて大難に値うべし」(023116)と仰せです。
 これは「立正安国論」でも示されている「神天上の法門」です。
 「
世皆正に背き人悉く悪に帰す、故に善神は国を捨てて相去り聖人は所を辞して還りたまわず、是れを以て魔来り鬼来り災起り難起る」(001712
 すなわち、国中の人々が謗法に陥っているために、諸天善神は法味を失い、その国を捨て去ります。
 諸天善神がいないために、法華経の行者を守護し、法華経を誹謗した者を治罰する働きがなくなるので、迫害者に現罰が出ないのです。
法華弘通に生き抜く誓願と実践
 以上のように、本抄では、三つの観点から、法華経の行者が難に遭い、しかも迫害者に現罰がない理由を説明されています。
 過去世の法華誹謗の罪業、一闡堤人、そして一国謗法に伴う善神捨国、この三点に共通するのは「法華経誹謗」即ち「謗法」の問題です。
 なぜならば、法華経の行者をめぐって起こる諸悪は、すべて「謗法」という根源悪に深く関係しているのです。
 なぜならば、法華経の行者は「正法」を行ずる人だからです。法華経の行者が「正法」を行じて「謗法」を責めるが故に、一闡堤人の「元品の無明」を激発し、一闡堤人たちは三類の強敵となって現れ、大迫害が起こるのです。
 法華経の行者の戦いは、謗法の悪を滅していくための「宗教改革」の戦いです。だからこそ、必然的に競い起こる迫害によって、苦難を受けざるを得ない。
 しかし、その苦難は、過去世の法華誹謗の罪業をたたき出す生命鍛錬のためのものであり、悪世に生きる人間の生命に仏界を確立する戦いの意味があるのです。この戦いのゆえに「
難来るを以て安楽」(0750第一安楽行品の事)の大境地があるのです。
 他方、一闡堤人は、法華経の行者を迫害することによって、元品の無明をますます強く
起こし、法華経への不信・謗法に染まりきって堕地獄への冥罰を受けます。
 また、一闡堤人の影響で国土全体に不信・謗法が広がれば、国土を守る「諸天善神」の働きが失われてしまう。
 こうした中で、法華経の行者が難を乗り越えて正法弘通の戦いを貫くとき、一人ひとりの生命に仏界が涌現していきます。
 この法華経の行者の妙法弘通の戦いは、個人の「宿命転換・一生成仏」のための戦いであるだけでなく、諸天善神の働きを蘇生させて国土の安穏をはかる「立正安国」の戦いとなって現れるのです。
「戦う人間の魂」を創る日蓮仏法
 「法華経の行者であるなら諸天善神の守護がないのは何故か」また、「迫害者に現罰がないのは何故か」という人々の疑いは、諸天善神の加護を、ただ待ち焦がれ、頼みにするような信仰が前提となった疑問です。
 これに対し大聖人は、一応、道理をもってこたえられつつも、法味を失って去った諸天善神をも蘇生させてゆく「宿命転換」「立正安国」の妙法を宣言されます。
 その御文が「
詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん」(023201)で始まる「大誓願」の一節なのです。
 ここで示されている末法の主師親としての日蓮大聖人の御境地に照らせば、大聖人の仏法は、諸天の加護がないことを嘆くような宗教ではない。現実に立正安国の実践をすることによって、国土全体に諸天善神の力強い働きを再び起こし、理想郷の実現を目指す仏法であると拝することができます。
 私の胸中には大聖人の大音声が響いてきます。
 今、戦わずしていつ戦うのか。わが門下よ、勇気を持って立ち上がれ!
 師子王の心を持って戦えば、いかなる罪障も消滅し、宿命転換すうことができる!
 我らを迫害する一闡堤をも救い、人類の無明を断ち切るのだ!
 そして、立正安国を実現し、平和の楽土を築いていくのだ!
 「戦う人間の魂」を創るのが、大聖人の仏法であり「開目抄」の真髄ともいえます。
 したがって本質的な意味で、諸天の加護の有無、法華経の行者に対する大難への疑難を乗り越えていくには「大難」「誓願」にたち、不惜身命・死身弘法で自ら法華弘通に生き抜く以外にはない。
 「開目抄」は、「誓願」を持ち、「法」に生き抜く真の宗教のあり方、真の人間の生き方に万人がめざめてゆく「開目」の本義を示されているのです。

第14回 我日本の柱とならむtop

立て!不二の誓願に生きよ!

0232
01
   詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん、 身子が六十劫の菩薩の行を退せし乞眼の婆羅門の
02
 責を堪えざるゆへ、 久遠大通の者の三五の塵をふる悪知識に値うゆへなり、 善に付け悪につけ法華経をすつるは
03
 地獄の業なるべし、 大願を立てん日本国の位をゆづらむ、 法華経をすてて観経等について後生をごせよ、父母の
04
 頚を刎ん念仏申さずば、 なんどの種種の大難・出来すとも智者に我義やぶられずば用いじとなり、 其の外の大難
05
 ・風の前の塵なるべし、 我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべ
06
 からず。

 決局のところは、天も私を捨てるがよい。いかなる難にも遭おう。身命をなげうつ覚悟である。
 舎利弗が過去世に六十劫の菩薩行を積み重ねたのに途中で退転してしまったのは、眼を乞い求めたバラモンの責めに堪えられなかったからである。久遠の昔に下種を受けた者、あるいは大通智勝仏の者に法華経に血縁した者が退転して五百塵点劫・三千塵点劫という長遠の時間を経なければならなかったのも、悪知識に惑わされたからである。善につけ、悪につけ、法華経を捨てるのは地獄に堕ちる業なのである。
 「大願を立てよう。『法華経を捨てて観無量寿経などを信じて後生を期すならば、日本国の王位を譲ろう』『念仏を称えなければ父母の首をはねるぞ』などと種々の大難が起こってこようとも、智者に私の正義は破られない限り、そのような言い訳に決して動かされることはない。その他のどんな大難も風の前の塵に過ぎない。私は日本の柱となろう。私は日本の眼目となろう。私は日本の大船となろう」と誓った誓願は断じて破るまい。

 一人立ち上がり、正義を貫きゆく勝利の人生には、一点の迷いも悔いもない。
 それは、あたかも一片の雲さえない清澄なる青空の如き境涯です。
 「
詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん」(023201
 私は、「開目抄」の白眉ともいうべきこの一節を拝するたびに、御本仏・日蓮大聖人の崇高なる魂の響きに全生命が共鳴し、大いなる勇気と歓喜に打ち振える思いがします。
 昭和35年(1960)の53日、私の第三代会長の就任の折、深く拝した後聖訓でもあります。
 今回も、この御文に始まる一段を拝していきたいと思います。
 その主題は、「一人立つ精神」です。
 広宣流布は、常に「一人立つ」勇者から始まります 
 思えば、仏教の歴史も、人間の内なる尊極の生命に目覚めた釈尊が「一人立った」瞬間から始まったということができる。
 そして、御本仏であられる日蓮大聖人が、濁世を生きる人間が尊極の生命に立脚して生きていける道を示され、その実現のために大難を覚悟で「一人立たれた」からこそ、末法万年の広宣流布が開幕したのです。
 この大聖人のお心に連なって、わが創価学会は、先師・牧口先生、恩師・戸田先生が、現代における宗教革命と人間革命の道に一人立ち上がられた。
 私も不二の弟子として一人立ち上がり、末聞の世界広宣流布の道を、切り開いてきました。
 真正の「一人立つ」闘争には、必ず「二人」「三人」と、勇者が続きます。学会においても、一人また一人と無名の気高き庶民が立ち上がって、今日、地球を包みこむ善と正義のネットワークが築かれてきたのです。
門下の根源の迷いを払拭
 「詮ずるところは」から始まる「開目抄」の一段は、ある意味で、今日の世界広布の広がりの一つの光源と拝することができる。
 この一段は、日蓮大聖人こそが末法の法華経の行者であられることを結論づける段にほかなりません。
 まず、この一段が綴られるまでの「開目抄」の流れを確認しておきましょう。
 本抄全体の構成で言えば、この段は、迫害を受け、諸天善神の加護が見られない日蓮大聖人が真の法華経の行者であるかどうかという「世間の疑い」への回答を、御書全集で約30ページにわたり展開してきた結論部分に当たります。この間、緻密な経文を検証され、大聖人御自身のお振る舞いが法華経の経文通りであることを詳細に確認されてきました。
 そして、とりわけ勧持品の経文を踏まえて、三類の強敵を招き起こされた日蓮大聖人こそが、経文に説かれている通りの法華経の行者にほかならないと結論されました。
 さらに、法華経の行者が迫害を受けているのに、何故に諸天善神の加護がないのか、その理由を三点にわたって道理を尽くして説明された。
 このように、「経文」と「道理」に基づく精緻な論証という意味では、疑いに対して完全に答えられたと拝することができる。しかし、大聖人はそこで終えられなかった。
 なぜならば、世間や門下の人々たちが大聖人に対して疑いを起こす根源の迷いが、まだ完全には払拭されていなかったからです。
 その根源の迷いとは「謗法」に対する無智です。法華経の行者に難があることに疑いを抱く根には、この無智があるのです。前回考察したように、「謗法」という根本悪と戦うのが末法の法華経の行者です。無知の者には、この戦いの意味がわからない。
 いかに末法の法華経の行者は大難を受けると法華経に予言されていても、また、どれほど大聖人が諸天の加護が現れない理由を理を尽くして示されても、大聖人があえて、「謗法」と戦われて苦難を受けなければならない理由がわからない。
 そこで大聖人は、御自身の「誓願」という形で、謗法と戦う法華経の行者としての御境地を示されていくのです。
 前段までは、人々の疑難に対する文証と理証を尽くした「論証」でした。それに対して、この一段は、大聖人のゆるがぬ「誓願」の生き方を示されて、人々の生命の奥底に潜む根源的な迷いを、現実に打ち破っていかれるのです。これは、ある意味で、「慈悲」に基づいて、万人の生命を磨き高めていく師子吼と拝することができます。
 そして、この一段を通して、誓願を貫かれる大聖人の“戦う魂”こそが、法華経の行者の真髄であることが示されていきます。文証や理証を通して論証される法華経の行者にとどまるのではなく、大聖人自身が生きていられる法華経の行者の魂そのものが、ここに躍動しているのです。
 御文ではまず「詮ずるところは」と切り出されています。これまでさまざまに法華経の行者の難について説明してきましたが、最も大事なことをこれから述べよう、という意味です。
 そして最初に「天もすて給へ」諸天善神が私を捨てるのであればすてるがよい。と喝破されています。
 さらに「諸難にもあえ」多くの難に遭わなければならないのであれば遭ってもかまわない。続けられます。
 そして「身命を期とせん」わが身をなげうって戦うのみである。と言い切られています。
 世間・門下の疑難を突き抜けた、大聖人の御境涯を示された御文です“諸天の加護がほしい”とか“難に遭いたくない”というような人々の思惑を超えて、大聖人御自身の御境地である法華経の行者としての覚悟が示されているのです。
 大聖人の御境地からすれば、諸天の加護の有無を超えて大切なことがある。いかなる大難があろうと、身命を賭して成し遂げねばならない。
 それは、仏が自らの大願として法華経を説いた。最高善である万人の成仏である。そして、その実現である広宣流布にほかなりません。
 これこそ、世間や門人の人々がこだわり、執着するものを超えて、大聖人が戦い取ろうとされたものなのです。
 法華経の行者とは、仏の大願をわが誓願として、仏の滅後の悪世にあらゆる困難を超えて実現していく「戦う人」の謂です。
 特に、悪世の末法においては、法華経の肝心であり、凡夫成仏のあらゆる妙法蓮華経を弘めなければ、その大願は成就できません。
 妙法蓮華経は「心の法」です。人々に妙法蓮華経への不信をもたらす法華誹謗は、まさに人々を成仏から遠ざける悪縁であり、仏の大願を妨げる大敵なのです。ゆえに、末法の法華経の行者は、必然的に謗法と戦う人にならざるを得ないのです。
 誓願とは、法華経の行者の「戦う魂」です。それゆえに、大聖人は、この一段において、法華経の行者としての誓願が説かれるのです。
「不退」こそが信仰の真髄
 どれでは、この誓願の人生を歩むうえで最も不可欠な要件は一体何でしょうか。
 それは「不退の心」です。誓願は、貫き果たしてこそ、真の誓願です、そのためにこそ、不退転の心が肝要となります。それをおしえられているのが次の一節です。
 「
身子が六十劫の菩薩の行を退せし乞眼の婆羅門の責を堪えざるゆへ、久遠大通の者の三五の塵をふる悪知識に値うゆへなり、善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし(023201)
 信仰で最も大切なことは「不退の心」です。それは身・口・意にわたる不退でなければなりません。生涯、戦い続ける魂を失わない。それが日蓮仏法の精髄です。創価の心です。
 大聖人御自身、本抄で立宗の時の誓願を振り返られ、覚悟の法戦を開始されゆく「不退の誓い」を示されています。
 「
今度・強盛の菩提心を・をこして退転せじと願しぬ(020016)と。
 何があっても動揺しない「強き心」まっすぐに誓いの道を貫き通す「清き心」を確立しなければ、魔性の風に仏道修行の灯はまたたく間に消されてしまう。
 その心を強くすることが「不退」の原点です。深き覚悟がなければ、悪知識の障魔を破ることはできません。
 大聖人は、この悪知識の恐ろしさを示すために、大乗の修行を退転した舎利弗の例、そして三千塵点劫の昔の大通結縁以来の退転者、また久遠五百塵点劫以来の退転者の例を取り上げられています。
 舎利弗の退転について言えば、乞眼の婆羅門は、舎利弗を退転させようと近づいてきた魔です。舎利弗は、この婆羅門の責めに敗れたのではありません。自身の心に敗れてしまったのです。
 舎利弗の眼をふみにじって婆羅門が去った後、残された舎利弗の胸中に起こった無明の生命、それが「度し難し」こんな人々を救うことなどできない、との心でした。それゆえに、大乗菩薩道を退転して小乗の修行に堕してしまったのです。
 もちろん舎利弗の事例は百劫にわたる爾前経の菩薩行であり、歴劫修行ですから、私たちの修行にそのままあてはめる必要はありません。仏法の修行は「時によるべし」だからです。
 しかし一面から言えば、それ以上の精神の労苦を、私たち学会員は悪世末法の弘通にあたって日常的に経験しています。
 無智、悪心、邪智のゆえ反発を受け、罵詈中傷されるなかで、わが魂をすりへらす思いで、人々のために尽くそうとしていく、それが、どれほど尊い菩薩の行動の真髄であるのか。
 学会員の皆さま方は、何があろうとも、柔和忍辱の心で、御本尊に真剣に祈りきっていく。そして唱題を重ねるなかで“あの人にも仏性がある”“あの人の仏界に届け”とさらなる対話と行動に雄々しく進んでいく、そして、結果として、自己の境涯を大きく拡大していくことができるのです。
 結局、退転した舎利弗に欠けていたのは「法華経の心」です。万人に仏性があることを確信していけば、いかなる婆羅門の責めをも撥ね返すことができたことでしょう。
 本来であれば、眼をふみにじられた舎利弗のほうが魂の王者であり哀れむべきは人の善性を信じられない婆羅門のほうです。そうした無明の生命を救うための万人成仏の法を、舎利弗は究極のところで信じることができなかった。そこに根本の問題があったといえます。
 三千塵点劫・五百塵点劫の退転の例もまた、悪知識に敗れて、法華経への不信が芽生えたからであると拝察できます。
 真実の釈尊の仏法、また、日蓮大聖人の仏法が立脚するのは、万人成仏の法華経の思想です。この思想の対極であるのが無明にほかならない。すなわち、万人に等しく尊極の生命があることを認められない暗き生命です。
 法華経の違背は、坂道を転げ落ちるように最後は無明の淵である無間地獄に辿りついています。
 それゆえに「
法華経をすつるは地獄の業なるべし」(023202)なのです。
 法華経こそ、万人の尊厳を集める宗教であります。法華経こそ、法性を開く宗教であります。そして法華経こそ、価値を創造する宗教であります。
 この法華経が弘められた時は必ず、そこから転落しようとする悪知識が働きます。悪知識は私たちの生命を無明に陥れ、権威に従属させようとします。その悪知識に紛動されてはならない。そのためには、実教の敵である謗法の悪と戦いきるしかないのです。言い換えれば「戦う心」こそ「不退の心」である。戦いを忘れてしまったならば、悪知識の磁力に打ち勝つことはできません。
 ここに、生命勝利の重要な方程式があることを忘れてはならない。
誓願に生きる人こそ無上道の人生
 さて、ここで大聖人は「善に付け悪につけ」と仰せです。悪知識は善悪両面から責めてくるということです。その原理を知悉されているからこそ、大聖人は次のように不退の誓願を立てられます。
 「
大願を立てん日本国の位をゆづらむ、法華経をすてて観経等について後生をごせよ、父母の頚を刎ん念仏申さずば、なんどの種種の大難・出来すとも智者に我義やぶられずば用いじとなり、其の外の大難・風の前の塵なるべし、我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず(023203)
 「日本国の位を譲ろう」との誘惑があろうとも「父母の頸を刎ねる」との脅迫があろうとも、そうした大難には絶対に屈することはない。どんなに身命におよぶような大難であっても、風の前の塵のように吹き払っていくことができるとの御断言です。
 また「わが義はやぶられることはない」との御確信を示されています。
 事実、大聖人は立宗以来、四度の大難・無数の小難を超えつつ、堂々たる師子吼の言論戦を貫かれました。そして、竜の口の法難では発迹顕本を勝ち取られ、南無妙法蓮華経が末法万年塵未来際の一切衆生を救済しゆく凡夫成仏の大法であられることを証明されたのです。大聖人の正義がやぶられることは全くありませんでした。
 そして不退転の誓いとともに大聖人が貫かれてきた偉大なる大願をしめされています。
 「我
日本の柱とならむ」
 「我日本の眼目とならむ」
 「我日本の大船とならむ」

「日本の柱」「日本の眼目」「日本の大船」と仰せです。
 言うまでもなく、「日本の」とは日本中心主義ではなく、一国謗法という末法の典型とも言うべき、深い悪世の様相を呈した国土だからです。最も苦しんでいる衆生と国土を救えば全人類を救えます。
 大聖人御在世の日本は、精神の支柱を失って崩壊寸前の状況でした。謗法の毒を弘める悪僧が充満し、民衆は苦悩の海に漂っていたのです。
 柱がなければ家は倒壊します。精神の柱なき社会、悪知識が充満する社会、目的なき漂流の社会その精神の荒野に、日蓮大聖人は、ただ一人立ち上がられたのです。
 私が、倒壊した国の精神の柱となろう。
 私が、混迷した思想の正邪を見分ける眼目となろう。
 私が、漂流した民衆の大船となろう。
 この偉大なる誓願は、大聖人の御生涯にわたって貫かれたものです。 大聖人を亡き者にしようと弾圧を加えてきた平左衛門尉の暴挙に対しても、こう厳然と師子吼されます。
 「
日蓮は日本国の棟梁なり予を失なうは日本国の柱橦を倒すなり(028711)
 また、「種種御振舞御書」には、「開目抄」の御執筆を次のように綴られています。
 「
日蓮によりて日本国の有無はあるべし、譬へば宅に柱なければ・たもたず人に魂なければ死人なり、日蓮は日本の人の魂なり平左衛門既に日本の柱をたをしぬ(091903)
 まさに、「日本の柱」とは、いかなる権力の魔性にも倒されない、万人救済者の正義の信念に生き抜く覚悟と不惜の闘争にあればこそ、表現できる言葉です。
 この御本仏の魂を受け継いだのが創価学会にほかなりません。いな、創価学会しかありません。
 私の脳裏には、会長就任直前の戸田先生の言葉が刻まれています。
 「私には広宣流布しかない。
 私は立つぞ!誰がなんと言おうが、恐れるものか!もう、何ものにも邪魔させるものか!」
 「私は、一人立つぞ!」と。
 いつの時代にあっても、いずれの国土にあっても広宣流布は、常に「一人立つ精神」からはじまります。「一人立つ」こころがあれば、妙法の力用は自在に発揮されます。
 私も戸田先生の弟子として、世界広宣流布という末聞の道に「一人」立ち上がりました。
 「一人立つ精神」こそ三世永遠に変わらぬ妙法弘通の根本法則です。
 そして、「誓願の心」こそ、法華経の魂であり、大聖人の宗教の根幹です。
 この根幹を、明かされてから以後の「開目抄」では「転重軽受」「不求自得の成仏」「慈悲の折伏精神」など、師弟不二の誓願に生きゆく師子の根幹の道を、大瀑布の下るが如き勢いで、教えられていきます。
 それについては、次回以降に拝察していきましょう。

第15回 転重軽受top

全人類救う宿命転換の仏法

07   疑つて云くいかにとして汝が流罪・死罪等を過去の宿習としらむ、答えて云く銅鏡は色形を顕わす秦王・験偽の
08
 鏡は現在の罪を顕わす 仏法の鏡は過去の業因を現ず、般泥オン経に云く「善男子過去に曾て無量の諸罪種種の悪業
09
 を作るに是の諸の罪報は或は軽易せられ・或は形状醜陋・衣服足らず・飲食ソ疎・財を求むるに利あらず・貧賎の家
10
 邪見の家に生れ・或は王難に遭い・及び余の 種種の人間の苦報あらん 現世に軽く受るは斯れ護法の功徳力に由る
11
 が故なり」云云、此の経文・日蓮が身に宛も符契のごとし 狐疑の氷とけぬ千万の難も由なし 一一の句を我が身に
12
 あわせん、或被軽易等云云、法華経に云く「軽賎憎嫉」等云云・二十余年が間の軽慢せらる、或は形状醜陋・又云く
13
 衣服不足は予が身なり 飲食ソ疎は予が身なり求財不利は予が身なり生貧賎家は予が身なり、 或遭王難等・此の経
14
 文疑うべしや、法華経に云く「数数擯出せられん」此の経文に云く「種種」等云云、斯由護法功徳力故等とは摩訶止
15
 観の第五に云く「散善微弱なるは動せしむること能わず 今止観を修して健病虧ざれば 生死の輪を動ず」等云云、
16
 又云く「三障四魔紛然として競い起る」等云云 

 疑って言う。どうしてあなたの流罪や死罪などが過去世の宿習であると分かるのか。
 答えて云う。銅鏡は姿形を映す。秦の始皇帝が用いた験偽の鏡は現在の罪を映し出す。仏法の鏡は過去世の宿業を現し出す。
 般泥洹経には次のように説かれている。
 「善き弟子たちよ、過去世に無量の罪や種種の悪業を作ったとする。その罪の報いは、あるいは人々に軽蔑される。あるいは醜い容姿となる、衣服も不足し、食べるものは粗末で、財を求めても得られず、貧しく賎しい邪見の家に生まれる。あるいは国王による難に遭う。そして、その他のさまざまな苦しみの報いを受けるであろう。現世において、苦しみの報いを軽く受けるのは、正法を護持する功徳の力によるのである。
 この経文は、日蓮が身に全く符合している。これによってなぜ難に遭うのかという深い疑いがとけた。千万、批判も無意味である。経文の一つ一つを、我が身に引き会わせてみよう。
 「人々に軽蔑される」とあるが、法華経譬喩品には「軽んじ、卑しめ、憎み、嫉んで」と説かれている。私は二十余年の間、軽蔑されてきた。「あるいは醜い容姿となる」、また「衣服も不足し」とは自身のことである。「食べるものは粗末で」とは私自身のことである。「財を求めても得られず」とは私自身のことである。「貧しく賤しい家に生まれる」とは私自身のことである。「あるいは国主による難に遭う」との経文をどうして疑うことができるだろうか。
 法華経勧持品には「たびたび追放されるであろう」と説かれている。この般泥洹経には「その他さまざまな苦しみ」と説かれている。「正法を護持する功徳の力によるのである」とは、摩訶止観第五の巻の「心が定まらない状態で善を修める修行の力は微弱であり、宿業を転換することはできない。今、止観を修行すれば、自分の普通の状態の心身の病について、その両方をいずれも欠けずに観察し把握することになるので、生死流転の輪を動かし宿業を転換することができる」の文にあたり、また、摩訶止観の「行学に懸命に励めば三障四が紛然として競い起こる」の文にあたる。

16                       我れ無始よりこのかた悪王と生れて 法華経の行者の衣食・田畠等
17
 を奪いとりせしこと・かずしらず、 当世・日本国の諸人の法華経の山寺をたうすがごとし、又法華経の行者の頚を
18
 刎こと其の数をしらず此等の重罪はたせるもあり・いまだ・はたさざるも・あるらん、果すも余残いまだ・つきず生
0233
01
 死を離るる時は必ず此の重罪をけしはてて出離すべし、 功徳は浅軽なり此等の罪は深重なり、 権経を行ぜしには
02
 此の重罪いまだ・をこらず 鉄を熱にいたう・きたわざればきず隠れてみえず、 度度せむれば・きずあらはる、麻
03
 子を・しぼるに・つよくせめざれば油少きがごとし、 今ま日蓮・強盛に国土の謗法を責むれば此の大難の来るは過
04
 去の重罪の今生の護法に 招き出だせるなるべし、 鉄は火に値わざれば黒し火と合いぬれば赤し 木をもつて急流
05
 をかけば波山のごとし睡れる師子に手をつくれば大に吼ゆ。

 私は計り知れない昔からこれまでの間、悪王と生まれて、法華経の行者の衣食や田畑などを奪いとってきたことは数えいきれない。今の日本国の人々が法華経の諸寺を壊滅させているようなものである。また法華経の行者の首をはねたことも数しれない。これらの重罪には、報いを受け終わったものもあれば、まだ、終わっていないものもあるだろう。終わったようでも残りの罪がまだ尽きていない。生死の苦悩から離れる時には、必ずこの重罪を消し終わってこそ離れることができるのである。
 今まで積んできた功徳は浅く軽く、これらの罪はい。爾前経を修行していた時には、この重罪はまだ現れなかった。鉄を焼く時に、強く鍛えなければ中の傷は隠れたまま見えない。何度も強く鍛えれば傷が現れる。また、麻の種子を搾る時に、強く搾らなければ採れる油が少ないようなものである。
 今、日蓮が強盛に国中の謗法を責めたので、この大難が起こった。それは、過去の重罪を今生の護法の実践によって招き出したのである。鉄は火にあわなければ黒い。火にあえば赤くなる木を。急流に差し入れて水をかけば、山のような波が起こる。眠っている獅子に手をふれれば大いに吼える。

 今回から、「開目抄」において「法華経の行者の功徳」を明かされている御文を拝読していきます。
 この功徳こそが、濁悪の末法の人々を根底から救う力を持っているのです。この功徳に向かって万人が歩める道を、日蓮大聖人は開いてくださったのです。
法華経の行者の功徳
 本抄で明かされている法華経の功徳とは、「転重軽受」すなわち宿命転換と、「不求自得の成仏」すなわち一生成仏です。この二つは、法華経の行者の「行」そのものにこそ、具わる大功徳です。
 大聖人は幾多の大難を乗り越えられ、法華経の行者として勝ち抜かれた御自身のお姿によって、この功徳を実証されました。その実証の真髄は、権力による処刑という竜の口の法難をも乗り越えられたことに拝することができます。
 また、この功徳は、大聖人が確立された末法の仏法を、大聖人の仰せの通りに実践する人であれば、必ず現していけるのです。
 これまで詳しく拝察してきたように、本抄で大聖人は「難を受けるのは法華経の行者ではないからだ」という世間および門下の人々の批判に対して、文証と理証を尽くして答えられました。その答えとは「真の法華経の行者とは、末法の人々を救うために謗法の根源悪と戦い、大難を受け、勝ち抜いていく人である」という趣旨でありました。
 謗法という根源悪と戦うのですから、難があるのは当然と言わざるをえません。そして、その難を乗り越えていく原動力として、「誓願」が大切になるのです。
 大聖人は「
詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん(023201)で始まる一節において、いかなる大難を受けても法華経の行者としての実践を貫き、末法の人々を救っていくとの大誓願を述べられています。この誓願こそが、法華経の行者の精神と核心であることは、前回、確認した通りです。
 法華経の行者の功徳とは何か。それは、根源悪である謗法と戦い続けるゆえに、その実践、その生命に具わる功徳なのです。
 「御義口伝」には「
悪を滅するを功と云い善を生ずるを徳と云うなり(0762第一法師功徳の事03)と仰せです。内外の謗法と戦い、根源悪を滅するがゆえに、根本善である妙法の無限の力が生命に開かれ、無量の功徳が生ずるのです。
 謗法を滅する深く強い信によって、妙法の無限の力が、わが生命に開花する。まさに南無妙法蓮華経という根源的な仏界の生命が涌現するのです。
宿業を直視し宿命転換に向かう
 大聖人は法華経の行者の功徳として、最初に「転重軽受」の功徳を説かれます。これは、法華経の行者が受ける「苦難」の意味を明らかにされるためです。
 まず大聖人は、仏法の鏡に照らせば、御自身が流罪・死罪等に遭われたことは過去の宿業があったからであるとされて、般泥洹経の文を引かれています。
 この経文では、過去世の宿業の報いとして今世に受ける苦難の代表的なものとして、8種類の苦難が説かれています。すなわち「軽んじられる」「姿かたちが醜い」「衣服が不足する」「食べるものが粗末である」「財を求めても得られない」「貧しくて身分の低い家に生まれる」「邪見の家に生まれる」「王から迫害を受ける」の8種です。
 大聖人は、これらが、20年にわたって難を受けてきた御自身のお姿と一致することを強調されている。「
此の経文・日蓮が身に宛も符契のごとし狐疑の氷とけぬ千万の難も由なし一一の句を我が身にあわせん(023211)と言われ、8種の報いの一つ一つを挙げながら「予が身なり」「予が身なり」と確認されている。
 まさに、ヒマラヤのごとき雄大な御境涯であられるからこそ、“すべてを受けきってきた”“すべてを乗り越えてきた”と、宿業と苦難の山々を悠然と見下されているのです。
 大聖人が経典に説かれる宿業の報いをすべて受けてこられたと強調されているのは、当然のことながら、御自身の御境地を示されていると拝せます。
 大聖人は、今世の苦難・不幸をもたらす過去世のあらゆる悪業の根本には、法華誹謗つまり妙法に背く謗法の重罪があることを見抜かれていた。したがって、今世において謗法という根本悪を乗り越えれば、あらゆる悪業を乗り越えることができることも、明快に御存じであられたのである。
 ゆえに、過去において無数の法華誹謗の悪業があったことを強調されているのです。
 「
我れ無始よりこのかた悪王と生れて法華経の行者の衣食・田畠等を奪いとりせしこと・かずしらず、当世・日本国の諸人の法華経の山寺をたうすがごとし、又法華経の行者の頚を刎こと其の数をしらず(023216)
 過去の無数の流転の中で、必ず、このような謗法をおかしているであろう。今生において、謗法と戦う法華経の行者としての実践によって、この罪業を責めだしていくがゆえに、迫害という形で苦難を受けるのであると言われています。
「常の因果」と「大いなる因果」
 あらゆる悪業の根源は、妙法に対する不信・謗法に帰着します。この重病によって、悪から悪への生命の流転が起こり、続き、収まることがないのです。この根源的な悪の影響力が残っている限り、悪業を重ねることになり、結局、地獄の苦しみの報いを免れることができない。これが謗法罪障の恐ろしさにほかなりません。
 さらに本質を言えば、法華経に対する不信・謗法とは、元品の無明の発動です。万人の中に仏の生命があり、それを開くことによって、その身のままで仏になれるという十界互具の仏性を信じきれず、それどころか、万人の仏性を開く行動を続ける法華経の行者を嫉み、憎み、敵視し、軽蔑するのが、無明の生命の本質です。
 その意味で、最大の悪業である謗法を見つめることは、生命における悪の根源である無明の生命を深く捉え直すことに通じます。根源の悪を洞察し、その悪をもたらす元凶の因を断ち切ることによって、宿命転換の道を開いていくのが、日蓮仏法です。
 これは、老苦・死苦の根底に無明を発見し、無明を滅することによって苦を消滅させることができるとする釈尊の縁起観にも通ずる、仏教正統の思想であります。
 しかし、日本に伝わってきた仏教における通常の罪障消滅観は、般泥洹経の“八種の苦報”に見られたように、過去の悪業の果報を現世で一つ一つ受けて消していくという受動的な因果の考え方です。これを大聖人は、「常の因果」と表現されました。
 しかし、大聖人仏法における宿命転換は、この「常の因果」によるのではありません。
 今、述べたように、悪業の根本原因は妙法への不信・謗法です。この不信・謗法を打ち破る修行を因として、妙法の太陽が胸中に現れて仏界が涌現することを果とする因果、つまり「成仏の因果」なのです。
 妙法を根幹とした根源の成仏の因果は、あらゆる悪の因果を打ち破り、また、すべての部分的な善の因果を包み込む、いわば「大なる因果」ともいうべき因果です。
転重軽受・罪障消滅・宿業転換
 この「大いなる因果」による、日蓮仏法の宿命転換の原理には、より委細に見れば「転重軽受」「罪障消滅」「宿業転換」の三つの側面があると言えます。
 「転重軽受」とは、重きを転じて軽く受け、すなわち、過去世の重い罪業によって長くうけるはずの重い苦の報いを転じて軽く受けて消していけることです。これは、受ける苦報の軽重に焦点を当てて宿命転換を表現した法理です。
 「罪障消滅」とは、過去世の重い罪業の影響力そのものを消滅させることです。
 「宿業転換」とは、過去世の謗法の重罪による悪から悪への果てしない流転そのものを、善から善への流転に転換していくこと、といえるでしょう。いわば、三世の生命という大きな次元での“コース転換”と言えるものです。
 この宿命転換の三つの面を含んだ御文が、次の「転重軽受法門」の一節です。
 「
涅槃経に転重軽受と申す法門あり、先業の重き今生につきずして未来に地獄の苦を受くべきが今生にかかる重苦に値い候へば地獄の苦みぱつときへて死に候へば人天・三乗・一乗の益をうる事の候(100003)( 涅槃経に転重軽受という法門がある。過去世の宿業が重く、現世に一生尽きないので、未来世に地獄の苦しみを受けるところが、現世の一生にこのような重い苦しみにあうと、地獄の苦みがさっと消えて、死ぬならば人・天や声聞・縁覚・菩薩の三乗あるいは一仏乗を得ることができるのである。)
 ここで「地獄の苦みばつときへて」と仰せです。「開目抄」でも、「重罪をけしはてて」(023301)と仰せられています。「消し尽くす」のです。これらは「罪障消滅」の面を表していると拝することができます。
 譬えて言えば、朝、太陽が昇れば、夜中にきらめいていた星の輝きは太陽の光に包まれて、直ちに地上の私たちが肉眼で見ることができなくなります。
 同じように、謗法を打ち破る深い信によって妙法の太陽が赫々と昇れば、私たちの生命には仏界が涌現します。すると、これまで私を苦しめていた地獄の苦しみも、直ちに消えるのです。まさに、晴れやかな大晴天の輝きの前に、一切の重罪は消え果てていくのです。
 宿業の苦しみは断じて消える!
 不幸の闇を払い、勝利の太陽が昇る!
 これが日蓮大聖人の大確信であられます。まさに、宿命転換の仏法とは、希望の宗教であり、幸福革命の宗教の異名にほかなりません。
 また、これまでの悪から悪への六道輪廻をとどめて、生々世々、人界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界そして仏界の利益を得ていけると仰せです。つまり、今世の転換を起点にして、善から善への流転に入ることができるのです。これは「宿命転換」の面と言うことができるでしょう。
 そして、謗法を責める戦いで、果てしなく続くはずの重苦を転じて、今生でとどめることが「転重軽受」です。
護法の功徳力
 苦悩を「ばっ」と消す宿命転換を実現する力について、日蓮大聖人は般泥洹経の「護法の功徳力」という表現に注目されています。
 「護法」とは、文字通り「法」を護ること、すなわち、仏法を実践することです。「謗法」が悪から悪への流転の根本の因であるがゆえに、「護法」の実践によって、その流転をとどめることができるのです。
 護法の目的は、人間の幸福です。その意味で、人間の中にある成仏の法を守っていくことによって護法の功徳力が現れてくるのです。
 すなわち、法華経の行者として戦い抜くなかで、法に背く悪の生命がたたき出され、無明を破ることができるのです。その具体的実践が「悪と戦う」こと、すなわち折伏の実践に他なりません。人々の無明を助長し、法性を覆い隠そうとする悪縁、悪知識と戦うことは、自身に内在する無明を打ち破る戦いでもあります。
 大聖人は開目抄で御自身の闘争を力強く仰せです。
 「
今ま日蓮・強盛に国土の謗法を責むれば此の大難の来るは過去の重罪の今生の護法に招き出だせるなるべし(023303)
 ここに日蓮仏法の宿命転換の大道があります。強盛に国中の謗法を責めたがゆえに、大難が競い起こった。それは過去の重罪が現れたことに他ならないのだから、今それを消し果てることで苦脳の生死流転を脱却することができる、という結論です。
 あえて謗法を「責めいだす」という強い戦いこそが、宿命転換の直道です。そのためには「勇気」が必要です。反対に、臆病に囚われた弱い戦いでは、生死の苦悩を転換することはできません。
 そのことを裏付けるために大聖人は、天台の『摩訶止観』から二つの文を引かれています。
 すなわち最初の文では、「散善微弱」、あまりにも善の行いが弱すぎれば、到底、生死流転の苦悩の輪を動かすことはできないと述べられています。
 次の文では、反対に、正法を正しく行ずるからこそ「三障四魔」が紛然として競い起こるとあります。
苦難とは「生命の鍛錬」
 以上のことから、謗法を責めることによって起こった大難は「苦難」というよりも「生命の鍛錬」の意味を持つのです。大聖人は本抄で「
鉄を熱にいたう・きたわざればきず隠れてみえず、度度せむれば・きずあらはる、麻子を・しぼるに・つよくせめざれば油少きがごとし(023302)とおおせです。
 また他の御書においても「
宿業はかりがたし鉄は炎打てば剣となる賢聖は罵詈して試みるなるべし(095814)( 宿業はかりがたい。鉄は炎に入れて焼いて打つことにより剣となる。賢人・聖人は罵詈して試みるものである。)、「各各・随分に法華経を信ぜられつる・ゆへに過去の重罪をせめいだし給いて候、たとへばくろがねをよくよくきたへばきずのあらわるるがごとし(108311)( あなたがた兄弟は、かなり法華経(御本尊)を信じてきたので、過去世の重罪の果報を現世に責め出しているのである。それは例えば鉄を念入りに鍛えて打てば内部の疵が表面にあらわれてくるようなものでる。)と仰せです。
 護法の実践で鍛え上げられた生命は、謗法の悪業という不純物をたたき出し、三世永遠に不滅となります。無始以来の生死の繰り返しのなか、この一生で日蓮大聖人の仏法に巡り合い、謗法を責め、自身の生命を鍛え上げることで宿命転換が実現し、永遠に崩れない仏界の境涯を胸中に確立することができる。それが「一生成仏」です。
 もはや、苦難は避けて通るべきマイナス要因ではなく、それに打ち勝つことで自分自身の成仏へと向かっていく積極的な要素ともなるのです。もちろん、苦難の渦中にいるひとにとってみれば、苦難と戦うことは楽なことではありません。辛いこと、苦しいことを待ち望んでいる人などはいません。なければないほうがいいと考えるのが人情です。
 しかし、たとえ現実に苦難に直面したとしても、大転換の秘法を知って、「悪と戦ったからこそ、今、自分は苦難にあってうる」と理解し、「この苦難を乗り越えた先には、大いなる成仏の境涯が開かれている」と確信していく人は、根本的に強い人生を生き抜くことができる。
 この究極の仏法の真実を、生命の奥底に体得しているのが、わが創価学会の同志であると確信します。
 その証に、わが同志は、苦難に直面した時に「強い」。そしてなにより「明るい」。それは、宿命転換という生命のリズムを、すでに体験的に知っているからです。また、自分は経験していなくても、会得した他の同志の姿に日常的に接しているからです。
 宿命と戦いながら広宣流布の信心に立つ人の姿には、すでに願兼於業という仏法の究極の真実が映し出されています。
 どんな苦難も恐れない。どんな困難も嘆かない。雄々しく立ち向かっていく、この師子王の心を取り出して「宿命」を「使命」に変え、偉大なる人間革命の勝利の劇を演じているのが、わが久遠の同志の大境涯といえます。
 したがって、仏法者にとっての敗北とは、苦難が起こることではなく、その苦難と戦わないことです。戦わないで逃げたとき、苦難は本当の宿命になってしまう。
 生ある限り戦い続ける、生きて生きて生き抜いて、戦って戦って戦い抜いていく。この人生の真髄を教える大聖人の宿命転換の哲学は、従来の宗教の苦難に対する捉え方を一変する偉大な宗教革命でもあるのです。
 “大変な時ほど宿命転換ができる”“苦しい時ほど人間革命ができる”“いかなる苦難があろうとも必ず最後は転換できる”この大確信に生き抜いていくのが、日蓮仏法の信心であります。そして、日蓮大聖人に直結して、この宿命転換の道を現実に歩み、宗教革命の大道を世界に開いていくのが、わが創価学会であります。その誇りと喜びをもって、さらに前進していきましょう。

第16回 我並びに我が弟子top

「まことの時」に戦う人が仏に

07               我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし、天の加護な
08
 き事を疑はざれ現世の安穏ならざる事をなげかざれ、 我が弟子に朝夕教えしかども・疑いを・をこして皆すてけん
09
 つたなき者のならひは約束せし事を・まことの時はわするるなるべし、 妻子を不便と・をもうゆへ現身にわかれん
10
 事を・なげくらん、 多生曠劫に・したしみし妻子には心とはなれしか仏道のために・はなれしか、いつも同じわか
11
 れなるべし、我法華経の信心をやぶらずして霊山にまいりて返てみちびけかし。

 私も、そして私の弟子も、いかなる難があっても疑う心がなければ、必ず仏界に至るのである。天の加護がないからと信仰を疑ってはならない。現世が安穏でないからといって嘆いてはならない。私の弟子に朝に夕に教えてきたけれども、疑いを起こして、みな、法華経を捨ててしまったようで。弱い者の常として、約束したことを大事な時に忘れてしまうのである。妻子をかわいそうだと思うから、現世における別れを嘆くであろう。生死を多く繰り返すなかで、そのつど親しんだ妻子と、自らすすんで嘆かずにわかれたことがあっただろうか。仏道のために離れたことがあっただろうか。どの時も同じ嘆きの別れなのである。まず、自ら法華経の信心をやぶることなく霊鷲山へ行き、そこから妻子を導きなさい。

 苦難は、人間を強くします。
 大難は、信心を鍛えます。
 難に挑戦して信心を鍛え抜けば、我が己心に「仏界」を現していくことができる。
 大難が襲ってきても「師子王の心」で戦い続ける人は、必ず「仏」になれる。
 日蓮大聖人の仏法の真髄は「信」即「成仏」です。
 その「信」は、自身と万人の仏性を信ずる「深き信」であることが肝要です。また、何があっても貫いていく「持続する信」でなければなりません。そして、いかなる魔性にも負けたくない「強靭な信」であることこそ成仏を決定づける。
 この「信」即「成仏」の深義を説く「開目抄」の次の一節は、あまりにも有名です。
 「
我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし、天の加護なき事を疑はざれ現世の安穏ならざる事をなげかざれ、我が弟子に朝夕教えしかども・疑いを・をこして皆すてけんつたなき者のならひは約束せし事を・まことの時はわするるなるべし(023407)
 いかなる苦難に直面しても「疑う心」を起こしてはならない。諸天の加護がなく、現世の安穏がなくても、「嘆きの心」にとらわれてはならない。不退の心で信心を貫く人が真の勝利者である。信心の極意を示した根本中の根本の御指導であり、永遠の指針です。今回は、この一節を中心に、日蓮仏法における信心の本質を学んでいきます。
師弟の精髄を明かした一節
 この御文の冒頭に「我並びに我が弟子」と呼びかけられています。
 開目抄では、日蓮大聖人御自身について、根源悪である謗法と戦う「真実の法華経の行者」であり、日本を法滅と亡国の危機から救う「日本の柱」であり、凡夫成仏の大法を顕して長く末法の闇を照らす「末法の御本仏」であることが明かされます。
 そして大聖人は、「
詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん(023201)と御覚悟され、「我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ(023205)との大誓願を師子吼されて、御自身の御精神の核心を示されたのです。
 この御文と対照すれば、「我並びに我が弟子」の呼びかけで始まる一節は、まさに、師である大聖人の御精神と呼応する信心を、弟子たちに教えることは明らかです。
 “我が弟子たちよ、師と同じように立ち上がれ!”
 “まことの時に信心を忘れる愚者になってはならない!”
 「大聖人とともに」と、師と同じ決意で立ち上がり、広宣流布に邁進してこそ真の弟子です。誰人であろうと、大聖人と同じ心で立ち「日蓮が一門」となった時、実は、すでに成仏の道は広々と開かれているのです。後は、その大道を歩み通せば、「自然に」成仏に至るのです。
 仏が説いた法は、万人の生命の中に仏の生命があることを明かしております。万人の胸中に眠っていた「仏知見」を開き、示し、悟らせ、入らしめる。万人を仏にしてこそ仏の出世の本懐が成就することは、法華経にも明確に説かれています。
 自分と同じく万人を「偉大な人間」にする。それが仏の本質です。ゆえに仏教は、「師弟の宗教にほかならないのです。
 「
天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん」(023201)と仰せられている日蓮大聖人の赫々たる魂の炎が、全門下の胸中に灯されてこそ、「師弟不二の宗教」は完成するのです。
 その意味で「我並びに我が弟子」との呼びかけに、「全門下よ、二陣、三陣と続きゆけ」との思いが込められていると拝することができます。
不惜身命が師弟の絆
 「我並びに我が弟子」との仰せは、拝するごとに、金文字にように鮮烈に浮かび上がってきます。
 普通の宗教者であれば、「我が弟子たちよ」と一方的に呼びかけるにとどまっています。ところが大聖人は「我並びに」と仰せです。「私もそうだ」と語りかけるお心に、師弟一体の仏法の精神が込められています。
 そして、その師弟を貫く強靭な核が「不惜身命」です。師である日蓮大聖人御自身もまた法に対して「不惜身命」であられるがゆえに、仏法を万人に開く民衆の指導者たりえるのです。弟子もまた、弟子の次元で法を弘通するために、師と同じ「不惜身命」の実践で戦い抜いていかなければなりません。
 そのことを教えられているのが「
妻子を不便と・をもうゆへ現身にわかれん事を・なげくらん、多生曠劫に・したしみし妻子には心とはなれしか仏道のために・はなれしか、いつも同じわかれなるべし、我法華経の信心をやぶらずして霊山にまいりて返てみちびけかし(023409)の一節です。
 もちろん、命をも奪われようとする大難の渦中でこその仰せです。私たちにとってみれば、戦前の軍部権力による創価教育学会の弾圧の際に、牧口先生、戸田先生とともに投獄された幹部たちがこの後聖訓に背いて退転し権力に屈してしまった事実を忘れてはならない。
 その獄中で戸田先生は、書簡にこう綴られました。
 「決して、諸天、仏、神の加護がないということを疑ってはなりませぬ。絶対に加護があります。現世が安穏でないと嘆いてはなりませぬ」
 まさに、「開目抄」の精髄を込めた内容です。
 一個の人間として、また、一人の信仰者として、どう生き抜くのか、最極の法に生き抜き、不惜身命で戦い抜く信心のなかにこそ、生命が鍛えられ、金剛不滅の成仏の境涯を確立できることを忘れてはならないのです。
不求自得の成仏
 御文では、多くの難があっても、それに耐えて信心を貫きさえすれば、求めなくても自ずから成仏の利益があると仰せです。いいわば「不求自得」の成仏です。
 なぜ、求めなくても成仏できるのか。
 それは、衆生の生命が本来、妙法蓮華経の当体だからです。そして、「強き信」によって、本来具わっている妙法蓮華経の自在の働きが何の妨げもなく現れてくるからです。
 人間の生命の上に、この妙法蓮華経が自在に働き出した時、その生命を仏界の生命といいます。妙法の無限の力が、何の妨げもなく働き出し、種々の人間の力として発揮されていきます。
 例えば“一人立つ勇気”例えば“耐える力”例えば“苦境を切り開く智慧”例えば“人を思う慈しみの心”そういう、いわゆる仏の生命として説かれる種々のものが、必要な時に適切な形で現れてくる。何の妨げもなく、妙法の力を人間の力として呼び現すことができる。
 ここで大事なのは、妙法の力が現れ出てくるのを妨げているものが、実は私たちの心の中の根本的な迷い、すなわち「無明」であるという点です。
 「無明」とは、妙法がわからないという根本的な無智です。また、妙法がわからないために、生命がさまよった状態となり、暗い衝動的なものに支配される。これが不幸をもたらしていきます。諸々の不幸・苦しみの根に、この無明がある。
 したがって、妙法がわかれば、この無明はたちどころに消えてしまう。これを譬えて言うと、妙法が太陽で、無明は、それを覆う暗国の雲みたいなものです。暗雲が晴れると、太陽の光がサーッと差し込んでくる。根本的な迷いを打ち破れば、直ちに妙法の力が生命に働き出し、さまざまな功徳、価値創造となって現れてくる。そのさまざまな形で功徳、価値が開花してくることが「蓮華の法」です。
 ですから、「衆生は妙法の当体であり、仏界の生命をもともと具えている」といっても、無明の暗雲を晴らす戦いをしなければ、仏界は実際には現れてこない。単に、形ばかりの題目を唱えていればいいかというと、そうではない。もちろん、僧侶に唱えてもらうなどというのは論外です。
 唱える人が無明を晴らす戦いをしなければならない。無明は心の中の迷いですから、これはやはり、自分の心の中で戦わなければならない。その戦いとは、一言でいうと「信」を貫くことです。
 仏の悟りを表明した法華経に基づいて、大聖人が御自身の内に発見され、そしてまた、それを御自身の戦いの中で確かめ、実証されてきた妙法蓮華経という根本の法の働きを我が生命に自在に現すには、大聖人と同じ意味での「唱える」ということが必要になる。つまり、その根本に「無明と戦う心」である「信」がなければならない。
 大聖人の弘められた題目は、いわば「戦う題目」です。
 疑い、不安、煩悩などの種々の形で無明は現れてくる。しかし、それを打ち破っていく力は「信」以外にない。大聖人も「無疑曰信」と仰せです。
 また「
元品の無明を対治する利剣は信の一字なり」(075115)とも言われている。鋭い剣です。魔と戦うということも、根本的には無明と鋭く戦うのでなければならない。私たちは、広宣流布を妨げる魔の勢力と戦っています。この魔との戦いも、根本的には無明との戦いです。また、人生に起こってくるいろいろな困難と戦うのも、本質は無明との戦いです。
 妙法への「信」、言いかえれば「必ず成仏できる」「必ず幸せになれる」「必ず広宣流布を実現していく」という一念が失せたならば、人生の困難にも、公布の途上の困難にも、負けてしまいます。
 本抄で「疑う心」に負けてはいけない、「嘆きの心」にとらわれてはいけないといわれているが、その疑いや嘆きこそ、まさに無明の表れなのです。
 無明を打ち破る「信」の意義を端的におしえられているのが、本抄で述べれれている涅槃経の貧女の譬喩です。そこでは、子を守るために、命を捨てた母の話がとかれています。
涅槃経の貧女の譬え
 涅槃経には大要、次のようにあります。
 住むべき家もなく、救護してくれるひともいない貧女が、ある宿で子どもを産んだ。しかし、その宿を追い出されてしまい、貧女は子どもを抱いたまま他国へいこうとする。その間、激しい風雨にあい、飢えと寒さと苦しみに襲われ、また蚊・虻・蜂・毒虫に食われる。やがて、河を渡ろうとした時に、流れが速く、子供を手放すことがなかったために、ついに母子ともに没してしまった。しかし、この女人は、子どもを思う慈愛の心の功徳によって、死んで後、梵天に生まれた。
 という話です。
 すなわち、貧女がわが命をなげうって子を守ろうとしたその強き慈愛の心こそ、境涯革命の力があることを教えられているのです。
 現代人にとってみれば、暗く悲しい物語という印象が残ってしまう内容かもしれない。第一、すべての母と子が幸福になるために仏法はある。まして妙法を持った私たちからみれば、今生のうちに成仏し、絶対的幸福を確立することができます。その意味で、一生成仏を説く日蓮仏法とは異なる考え方も含まれている。そのうえで、あえて大聖人が本抄で引かれたのは、なにゆえか。
 それは、この経文の最後に、釈尊が呼びかけた内容が重要なメッセージであるからだと拝されます。
 すなわち、釈尊は善男子たちに“この母が子どもを守りきったように、法を守り抜きなさい”と指導します。
 法を守り抜く信心、それが成仏への道であるというメッセージです。いわゆる「不惜身命」「我不愛身命」の信心です。
 私たちの実践でいえば、不惜身命とは、いたずらに命を犠牲にすることではない。どこまでも自身が法に生き抜くことにほかなりません。
一念三千の珠
 本抄では、貧女の譬えを通して成仏の原理を端的に「一念三千の玉」と表現されています。
 簡潔に本抄の筋道を追いましょう。大聖人は、涅槃経の貧女の譬えが示す本質を次のように結論されています。
 「
詮ずるところは子を念う慈念より外の事なし、念を一境にする、定に似たり専子を思う又慈悲にも・にたり、かるがゆへに他事なけれども天に生るるか」(023402)(結局子をおもう慈悲心よりほかのことではない。ただひたすら子をおもう一念は定善に似ているし、また慈悲にも似ている。このゆえに他の善因はなくても天界に生れるのであろう。
 すなわち、貧女がなにゆえに不求自得で梵天に生まれることができたのか。その理由として大聖人は禅定に通ずる「念を一境にする」ことと、慈悲に通ずる「専子を思う」心の二つを挙げられている。
 「念を一境にする」とは、一つのことに集中することです。つまり「一念を定める」ことです。その究極は「一念に億劫の辛労を尽くす」実践です。その実践があるところに、無作三身の仏の大生命が厳然と現れます。
 その後、大聖人は、諸経・諸宗で説く唯心法界、八不中道、唯識、五輪観などの成仏論は「玉」ではなく「黄石」に過ぎないとされ、これらでは仏になることはできないと言われています。そして、法華経の「一念三千の玉」こそが「仏になる道」であると仰せられています。
 この「一念三千の玉」の一つの解釈として、一人の人間の一念において実現しうる“九界の因と仏界の果が同時に具わる因果倶時の状態”を指して「玉」と表現されていると拝することができます。十界・三千のすべてが一まとまりとなって具わり、しかも、宝石のように輝いてる心を「玉」に譬えられたのです。これこそが、妙法蓮華経への「強き信」です。「信」の一念が仏界を含んだ宝玉と現れるのです。
 諸経・諸宗の成仏論は、ある場合は単なる世界観に過ぎないので、安易な自己肯定で終わってしまう。また、ある場合は、無明を滅することを説くが、煩悩を断滅する小乗教の灰身滅智に似たものに陥ってしまう。どれも「一念三千の玉」とは似て非なるものです。
 大聖人は再び般若経を取り上げられ、「不求自得・解脱自至」の一節をもって貧女の譬えを結ばれています。解脱を求めなくても、解脱におのずから至るのである、という意味です。
「まことの時」に無明との戦いを忘れるな
 「疑う心なくば自然に仏界に至るべし」とおおせのように、「信」の一念のみが、疑いや嘆きなどの無明の生命を打ち破って、妙法蓮華経の力用を生命に現す力を持っています。
 しかし、「無明」の力もまことに執拗であり、根深い。本当に無明と戦っていかなければならない時に、私たちの心に忍び寄り、生命を侵していくのが無明です。その愚かさを「つたなき者のならひは約束せし事を・まことの時はわするるなるべし」と戒められています。
 強盛な「信心」を起こすべき時に、反対に、不信を抱き、疑いを起こして退転してしまうならば、あまりにも愚かなことだ。“今が「成仏の時」ではないか!この大難を突破すれば、永遠の幸福を成就することができる!”との大聖人の魂の叫びが伝わってきます。
 何があっても疑わない。何が起ころうとも嘆かない。その強靭な魂を持った人は、何も恐れるものはない。
 創価学会の歴史においても、戦前に牧口先生が投獄された時、戦後の再建期に戸田先生の事業が大変だった時、そして、宗門が三類の強敵としての牙をむき出してきた時など、これまでの大難に直面した時は幾たびもあった。この時に、何をしたのか、どうしたのか。そこに弟子として、仏法者としての本質があらわになっていくのです。
 「まことの時」に戦う信心にこそ、仏界が輝くことを、断じて忘れてはならない。これが本抄の一つの結論であると拝することができます。

第17回 折伏top

善を広げ悪を責める大慈悲の師子吼

12   疑つて云く念仏者と禅宗等を無間と申すは諍う心あり修羅道にや堕つべかるらむ、 又法華経の安楽行品に云く
13
 「楽つて人及び経典の過を説かざれ 亦諸余の法師を軽慢せざれ」等云云、 汝此の経文に相違するゆへに天にすて
14
 られたるか、 
07
                          汝が不審をば世間の学者・多分・道理とをもう、いかに諌暁
08
 すれども 日蓮が弟子等も此のをもひをすてず一闡提人の・ごとくなるゆへに先づ天台・妙楽等の釈をいだして・か
09
 れが邪難をふせぐ、 夫れ摂受・折伏と申す法門は水火のごとし火は水をいとう水は火をにくむ、 摂受の者は折伏
10
 をわらう折伏の者は摂受をかなしむ、 無智・悪人の国土に充満の時は摂受を前とす安楽行品のごとし、邪智・謗法
11
 の者の多き時は折伏を前とす常不軽品のごとし、 譬へば熱き時に寒水を用い寒き時に火をこのむがごとし、 草木
12
 は日輪の眷属・寒月に苦をう諸水は月輪の所従・熱時に本性を失う、末法に摂受・折伏あるべし所謂悪国・破法の両
13
 国あるべきゆへなり、日本国の当世は悪国か破法の国かと・しるべし。

 疑つて言う。念仏者と禅宗などを「無間地獄に堕ちる」と言うのは、争う心がある。きっと修羅道に堕ちてしまうであろう。また法華経の安楽行品には「好んで人の経典の誤りを説いてはならない。また、他の法師を軽んじ侮ってはならない」と説かれている。あなたはこの経文に反しているために天に捨てられたのではないか。
 あなたの疑いを、世間の学者の大半は道理だと思っている。日蓮がどんなに諌暁しても、わが弟子さえこの疑いを捨てない。一闡提のような者なので、まず天台・妙楽らの解釈を示して、その誤った批判をふさぎとめるのである。
 摂受・折伏という法門は水と火のようである。火は水を嫌い、水は火を憎む。摂受を行ずる者は折伏を笑い、折伏を行ずる者は摂受を悲しむ。
 無智の者、悪人が国土に充満している時は摂受を第一とする。安楽行品に説かれている通りである。邪智の者・謗法の者が多い時は、折伏を第一とする。常不軽品に説かれている通りである。譬えて言えば、暑い時には冷たい水を使い、寒い時には火を求めるようなものである。草木は太陽の一族であり、寒い月夜には苦しみを受ける。また水は月の従者であり、暑い時にはその本来の性質を失ってしまう。
 末法には摂受・折伏の両面がある。いわゆる悪国と謗法の国の両方が必ずあるからである。現在の日本国は悪国なのか謗法の国なのかを見分けなければならない。

11   問うて云く念仏者・禅宗等を責めて彼等に.あだまれたる.いかなる利益かあるや、答えて云く涅槃経に云く「若
12
 し善比丘法を壊る者を見て置いて呵責し駈遣し挙処せずんば 当に知るべし是の人は仏法の中の怨なり、 若し能く
13
 駈遣し呵責し挙処せば 是れ我が弟子真の声聞なり」等云云、 「仏法を壊乱するは仏法中の怨なり慈無くして詐り
14
 親しむは是れ彼が怨なり 能く糾治せんは是れ護法の声聞真の我が弟子なり 彼が為に悪を除くは即ち是れ彼が親な
15
 り能く呵責する者は是れ我が弟子駈遣せざらん者は仏法中の怨なり」等云云。

 問うて言う。念仏者や禅宗などを責めて彼らに憎まれることは、どんな利益があるのか。
 答えて言う。涅槃経に説かれている。
 「、もし、善比丘が仏法を破壊者を見て、放置して、厳しく責めず、追い出しもせず、罪を挙げて処罰しないならば、よく覚えておきなさい、この人は仏法者の中にいる敵であることを。もし、すすんで追い出し、きびしく責め、罪を挙げるならば、この人こそ真の声聞である」
 また、章安大師は涅槃経疏のなかで次のように言っている。
 「仏法を破壊し乱す者は仏法者の中にいる敵である。慈悲もなく、偽って親しくする者は、その人にとって敵である。すすんで悪を糾す者は護法の声聞であり、真の我が弟子である。人のために悪を除く者は、まさにその人にとっての親である。すすんで悪を厳しく責める者こそ、我が弟子である。悪を追い出そうとしない者は仏法者の中にいる敵である」

 仏法の根幹は慈悲です。
 慈悲は、仏の悟りの証であるとともに、菩薩の実践の根本です。
 「
難を忍び慈悲のすぐれたる事は・をそれをも・いだきぬべし」(020208)この御文を通して既に拝察してきたように、日蓮大聖人は本抄において「忍難」と「慈悲」に勝れている人が真の法華経の行者であると明かされました。
法華経の厳愛
 「悪」が根強くはびこる末法の時代において、人々を悪から目覚めさせる使命を自覚した人は、誰であれ、悪と戦い続ける覚悟を必要とします。まして、万人の成仏のために戦うことが、法華経の行者の使命です。その忍難の根底には、末法の人々に謗法の道を歩ませてはならないという“厳父の慈悲”があります。
 本抄では、法華経の「厳愛」が強調されています。すなわち「仏種の一念三千」こそが末法の衆生を救うことができる唯一の凡夫成仏の法であり、この仏種を衆生に下種する仏の慈悲は、民衆を深く慈しむとともに、謗法を厳しく戒める厳愛でもあるのです。なぜならば、法を謗る無明・不信の心があるかぎり、衆生は即身成仏できないからです。
 大聖人は本抄で、伝教大師の「他宗所依の経は一分仏母の義有りと雖も然も但愛のみ有って厳の義を闕く、天台法華宗は厳愛の義を具す」の文を引き、下種の本尊を論じられています。
 「仏母の義」とは、母のような無限の優しさです。そのような仏の慈悲の一分は、法華経以外の諸経典にもうかがうことができます。しかし、それらは「但愛のみ有って厳の義を闕く」であり、法華経にのみ「厳愛の義を具す」のです。
 すなわち、法華経の慈悲には、母のような無限の優しさも当然、具わっていますが、成仏の法について方便を交えない厳格さで明らかにしていく経典が法華経ですから、おのずと“法に対する厳格さ”が具わっているのです。これが、法華経の慈悲のもう一つの面なのです。
 それは、凡夫の成仏を可能にする「仏種」としての妙法を明らかにしていく厳格さです。この厳格さは、凡夫成仏のための厳格さであり、万人に法を開いていく慈悲の現れなのです。
 本抄で「主師親の三徳」を論じられているのは、この厳愛を具える慈悲の担い手は誰かを明かすためです。その方こそ、末法の衆生の成仏のために謗法と戦い、仏種の妙法を弘める法華経の行者、すなわち日蓮大聖人であられるのです。
 末法下種の主師親すなわち末法の御本仏については、次回に詳しく拝察していきたいと思います。今回は、その前提として論じられている「開目抄」の最後の主題ともいうべき「折伏」論について考察しておきたいと思います。
「貧女の譬え」再考
 前回考察したように、大聖人は涅槃経の「貧女の譬え」を通して、法華経の行者における成仏を明かされました。すなわち、諸難があっても疑う心がない「強き信」を貫けば、自然に成仏の境涯に至ることができると弟子たちに呼びかけられた。
 ここで貧女が求めずして大利益を得ることができた原因を思い起こしてみたい。それは、ひたすら、子を思う一念にあった。その一念が、心を一つのものに集中する「禅定」の修行の意味をもつとともに、子に対する貧女の無償の慈愛は「慈悲」の意味をもつと、大聖人は言われています。
 貧女が何があってもわが子を守り抜くことは、諸難があっても疑う心を起こさずに、万人の成仏を説く法華経への信を貫くことを譬えています。貧女が梵天に生まれたことは、信を貫いて成仏することを譬えています。
 そして、万人の成仏を信じてやまない姿にこそ慈悲があるのです。
 この信に伴う「慈悲」の面を代表する修行が「折伏」であると拝することができます。言い換えれば、「折伏」は成仏に至るための不可欠な実践なのです。
「争う心」か「戦う心」か、「修羅道」か「菩薩道」か
 「開目抄」では、当時の念仏宗や禅宗の教義は人々に法華経を捨てさせる悪縁となる謗法の教えであり、無間地獄の因となると破折されたことに対して、その主張は「争う心」があり、大聖人こそ「修羅道」に堕ちいるのではないか、との問いを立て、折伏論を開始されています。
 法華経安楽行品の中に「楽って人、及び経典の過を説かざれ、亦た諸余の法師を軽慢せざれ」と説かれている。にもかかわらず大聖人はこの法華経の経文に違背して折伏を行ったのであるから、諸天善神が大聖人を捨てたのだとの非難が挙げられています。
 これらの非難は、おそらく実際に大聖人に寄せられたものだったのでしょう。
 他宗を責めることは仏教らしくない。他宗批判は和の精神とは違う。多くの人々は、そうした考えにとらわれていた。また、他宗からの非難だけでなく、大聖人の門下の中にも、大聖人の行動を理解しいれていなかった者がいたことが本抄に示されています。
 「
汝が不審をば世間の学者・多分・道理とをもう、いかに諌暁すれども日蓮が弟子等も此のをもひをすてず」(023507
 世間の学者らに同調し、大聖人に違背していった門下たちに対して大聖人は「佐渡御書」でも「
疑ををこして法華経をすつるのみならずかへりて日蓮を教訓して我賢しと思はん僻人」(096017)であると痛烈に破折されています。
 ここに潜む本質的な問題は、仏教に対する誤った認識が根強く横たわっていることにあるといいわざるを得ません。
 一般に仏教と言うと、涅槃という完全なる静寂の境涯の獲得であると理解されがちです。だから修行は人里離れた山に籠り、現実世界から逃避する傾向が生まれる。あえて言えば現実の苦悩の世界から離れて、理想郷を求めていく思想です。
 しかしそう捉えている限り、仏の真の精神闘争は理解できません。真の仏教とは、架空の天地に理想郷を求めるのではなく、この現実の苦悩渦巻く娑婆世界の中で理想を実現する、現実変革の思想である。現実との闘争の中で、いかなる嵐をも乗り越えていく強靭な生命を獲得するのが、仏法の目的である。
 いわば、波一つ立たない小さな池のような平穏を求めるのではく、怒濤渦巻く大海にあっても崩れることのない幸福境涯を確立するのが、仏法の教えの真髄です。事を荒立てないような小さな幸福を願っても、ひとたび嵐が吹けば必ず波は生じます。むしろ,無明と宿命の嵐の中を毅然と前進する根源的な力を発揮してこそ、初めて幸福を得ることができる。その意味で、戦う中にしか幸福の実現はありません。
 自他ともの幸福を築くためには、人々の悪縁となる誤った思想・宗教と戦っていくしかない。それが「折伏」行です。
 折伏には「争う心」があって「修羅道」に堕ちるのではないかとの批判に対して、大聖人は、折伏は「慈悲」であり「悪と戦う心」であると答えられていきます。それは、「仏の心」にほかならないのですから、折伏と仏は不二の心で実践する修行であり、末法の「菩薩道」なのです。
摂受と折伏
 折伏には「争う心」があるのではないかとの非難に答えるにあたり、大聖人はまず、仏法の修行に「摂受」と「折伏」の二義があることを説かれています。これによって、折伏が正当な仏道修行であることを示されているのです。
 この二つは実践形態としては、正反対であることから、往々にして、どちらかを実践する者は他を実践する者に反発します。摂受を行う者は折伏を笑い、折伏を行う者は摂受の実践を悲しむ、と仰せられています。
 互いに反発し、自分の修行に執着し、他者を排除する。そこに人間の持つ我執という根本の迷いがあります。
 大聖人の結論は、摂受と折伏はどちらとも正当な仏道修行であり、どちらを実践すべきかは「時による」ということです。そして、大聖人は両者を選ぶ基準を次のように示されていきます。
 「
無智・悪人の国土に充満の時は摂受を前とす安楽行品のごとし、邪智・謗法の者の多き時は折伏を前とす常不軽品のごとし」(023510
 質問者は法華経の安楽行品をもって、大聖人の諸宗破折は法華経にことなるのではないかと言ってきましたが、それは一方を見て他方を見ない拙い非難であることが分かります。
 他宗教や他宗の人の咎を言わないという安楽行品の実践の場合は、無智・悪人が多い時における実践です。それに対して、邪智・謗法の者が充満している時は、不軽菩薩が杖木瓦石の迫害の中で礼拝行を続けたように折伏行が表となる、ということです。
 不軽菩薩の礼拝行は万人に仏性があるとの法華経の精髄にあたる思想を表現した「二十四文字の法華経」を唱え、反発する上慢の四衆の迫害にも信念を曲げませんでした。このように不退転で真実言い切っていくことが、結局は相手の過ちを折伏していることになるので、不軽品は折伏を説いているのです。
末法の邪智の国は折伏を第一とする
 このように摂受・折伏を選ぶ根本の基準は「時」です。
 もちろん、「時」とは、単なる歴史学上の時代区分とは別なものですが、その国にいかなる思想・宗教が広まっているかとう思想状況と、その国を構成する衆生の生命状況や衆生を取り巻く社会状況・自然環境などが密接に絡み合って形成される全体的な傾向、総合的な時代状況といってもよいでしょう。
 具体的に言えば、大聖人御在世の末法の様相は、法華経の一念三千の言葉や観念のみ盗み入れた真言・華厳などの諸宗や、法華経に敵対する教えを説く念仏・禅などの諸宗が入り乱れ、権実が雑乱し、凡夫成仏の実義が見失われていた時代です。
 更に、それに加えて重大な問題であることを大聖人は指摘されています。それは、本来、法華経の真義を守るべき立場の者たちが仏教破壊に加担しているという事態です。
 すなわち、天台・真言の学者らが、この念仏・禅の檀那に諂い、怖じてしまっている。その様は「
犬の主にををふり・ねづみの猫ををそるるがごとし」(023607)であると喝破されています。そればかりか、国主・為政者に対して、破仏法の因縁・破国の因縁が説かれている。一国の思想の混乱こそ一国衰亡の根源であり、それこそ民衆の苦悩をもたらす元凶にほかなりません。
 そうした状況の中で、もし、手をこまねいて正義を叫ばなければ、それは仏教者の精神の敗北であり、宗教者としての魂の死を意味します。大聖人は、現実を離れた山林にまじわって修行をする輩に対して、立ち上がるべき時に戦わないのは、「摂受・折伏時によるべし」との原理に背く姿であるがゆえに、今生には餓鬼道に堕ち、後生は阿鼻地獄である。どうして、生死の苦悩を離れることができようか、と痛烈に破折されています。
 言うなれば、法華経に敵対する宗教者。その信奉者、そして法華経の敵を見ておきながら放置して戦わない法華経の修行者、この三者が織り成して毒が充満し、一国が毒気に染まるのが「邪智・謗法」の国です。
 この時に立ち上がらずして、護法の実践をすべき時はありません。民衆を救済することはできません。仏の諌暁を貫くことはできません。
民衆を救う智慧こそ真の寛容
 そして、この「法華経」の思想自体は、普遍的な価値を持つものです。法華経は、万人の尊厳性を説く思想であり、平等を謳い上げる経典です。
 また法華経以前の爾前経も、本来は人間の尊貴を示す思想・実践の一分を説かれている経典であり、法華経の立場から存分に用いていくことができる。法華経は、開会の思想に見られるように、あらゆる仏教の教義を包みこむことのできる寛容的な経典です。
 それゆえに、現代にあっても、人間主義の旗を掲げる最高峰の経典として聳え立つのです。
 しかし、ひとたび、反人間主義の勢力が生まれ、そうした勢力が法華経の精神をゆがめるならば、そうした邪義とは徹底的に戦う、それもまた法華経の思想です。
 法華経には、そうした悪世の中では、法華経の行者を迫害する勢力との闘争になることが説かれています。法師品の「猶多怨嫉況滅度後」も、宝塔品の「六難九易」も、勧持品の「三類の強敵」も、すべて、そうした無明・慢心との闘争を宣言しています。
 日蓮仏法の折伏の実践も同じです。民衆を苦しめる一切の勢力とは徹して戦う、その一方で、民衆を根本とする思想であれば、仏教と相通じる精神をそこに見いだそうとする広さを持ちます。
 中国に仏教が伝来する以前に、民衆を救った為政者の存在にたいしては「此等は仏法已前なれども教主釈尊の御使として民をたすけしなり」(146616)と評価されたうえで、「彼等の人人の智慧は内心には仏法の智慧をさしはさみたりしなり」(146617)と、民衆を救う智慧こそが仏法の智慧であると言及されています。
 折伏は、どこまでも仏の慈悲行の実践です。最も開かれた万人尊敬の念が根幹にあるからこそ、折伏行が成り立ちます。相手への尊敬がなければ折伏は進展しない。このことは、折伏を実践しぬいた人ほど強く実感していることではないでしょうか。
 このように、折伏には徹頭徹尾、「争う心」などないのです。したがって、折伏とは、排他主義・独善主義とは根本的に異なります。
 折伏の根幹はどこまでも「慈悲」です。また、慈悲を勇気に代えて悪と戦い抜く「破折精神」です。
 人間の最も基となる宗教そのものが混乱している時に、人間の精神を破壊しようとする誤った思想・宗教の横行に対して、何も行動しなければ、それは仏法の慈悲とかけ離れた姿以外のなにものでもありません。
 「人間のための宗教」「民衆を救済する宗教」という原点を忘れた誤った宗教を放置していれば、結果としてますます民衆を苦悩に沈ませてしまう。
 それは、一見「争う心」のない穏やかな姿に映るかもしれないが、その重罪は余りにも大きいといわざるをえない。
「慈なくして詐り親しむは彼が怨」
 本抄では、悪と戦う折伏精神がいかに重要であるかを、次の問答を通してあらためて説明されています。
 「問うて言う。念仏者や禅宗などを責めて彼らに憎まれることはどんな利益があるのか」
 この問いに対して大聖人は、涅槃経を引いて答えます。
 釈尊は弟子たちに呼び掛ける。仏法の破壊者に対して、呵責・駈遣・挙処という毅然たる闘争を挑まない者はたとえ仏弟子であっても仏法の敵となる。戦う者が真の仏弟子、護法の声聞となる、と。
 これを『涅槃経疏』では、仏法破壊者に対して「慈無くして詐り親しむ」ことは、かえって「彼が怨」になってしまうと説いています。
 ここに、折伏は慈悲の行為であることが明確にされているといえます。相手の生命を破壊する無明を断ち、その人を根底から救うことが真の慈悲です。
 信心と慈悲から起こるやむにやまれぬ行動が折伏です。大聖人は「開目抄」で次のように仰せです。
 「
我が父母を人の殺さんに父母につげざるべしや、悪子の酔狂して父母を殺すをせいせざるべしや、悪人・寺塔に火を放たんにせいせざるべしや、一子の重病を炙せざるべしや」(023701)(わが父母を、人が殺そうとするのを知って父母に告げないでいられようか。悪子が酔い狂って、父母を殺そうとするのを見て止めないでいられようか。悪人が寺塔に火を放って焼いてしまおうとするのを、とめないで放っておかれようか。一子の子供が重病の時にいやがるからといって炙をすえないではおかれないであろう
 慈悲の対極にあるのが「詐りの心」です。相手の悪を知っておきながら放置する「詐りの心」が社会を覆ってしまえば、欺瞞が当たり前になり、人々が真実を語らなくなり、やがて社会は根っこから腐っていきます。
 思想の柱が倒れれば、社会も崩壊します。
 宗教は社会の柱です。その宗教界にあって、「人間を隷属させる宗教」「人間を手段化させる宗教」が横行することは、言うなれば、人々の魂に毒を流すことです。ゆえに、大聖人は「法華経の敵」と断固、たたかい抜けと仰せなのです。
 「信心ふかきものも法華経のかたきをばせめず、いかなる大善をつくり法華経を千万部読み書写し一念三千の観道を得たる人なりとも法華経の敵をだにも・せめざれば得道ありがたし、」(149416)です。
 慈悲の折伏は、人々の心に善を蘇生させ、社会に活力と想像力を広げていくための師子吼にほかなりません。
 それは、魔を破り、無明を断破し、どこまでも民衆の幸福を実現していく高貴な精神闘争である。これこそ、師子王の「戦う心」そのものです。その戦いの中に、金剛不滅の生命が鍛えあげられていくのです。
 大聖人は、折伏行の利益として、涅槃経をあげ、「金剛身を成就すること」であると示されています。折伏を行ずる人は、誰人も破壊することのできないダイヤモンドのごとき生命をつくり上げることができるのです。
 慈悲の戦いを起こすことで、私たちは自分自身に潜む惰性・油断・臆病などの生命の錆を落とすことができる。一人を救おうとする智慧の闘争を貫く人は、人間を束縛する固定観念、人間を疎外する不信の無明を破ることができる。
 悪と戦う人は、精神の腐敗を破る清冽な水流で自己の生命も磨きあげ、万人の幸福を願う広々とした境涯をどこまでも開いていくことができる。
 そして、戦う心を失わない人は、今生人界の無上の思い出を生命に刻むことができる。
 戦い抜くなかに、広宣流布の人生の栄光があります。広布のため、いかなる法戦にも断じて勝ち取った自身の金剛不壊の生命こそ、今世だけでなく、三世永遠に自分自身を飾りゆくことができるのです。

第18回 末法下種の主師親(上)top

濁世に慈悲の薫風を

16  夫れ法華経の宝塔品を拝見するに釈迦・多宝・十方分身の諸仏の来集はなに心ぞ「令法久住・故来至此」等云云、
17
 三仏の未来に法華経を弘めて 未来の一切の仏子にあたえんと・おぼしめす御心の中をすいするに 父母の一子の大
18
 苦に値うを見るよりも 強盛にこそ・みへたるを法然いたはしとも・おもはで末法には法華経の門を堅く閉じて人を
0237
01
 入れじとせき狂児をたぼらかして 宝をすてさするやうに法華経を抛させける心こそ 無慚に見へ候へ、 我が父母
02
 を人の殺さんに父母につげざるべしや、 悪子の酔狂して父母を殺すをせいせざるべしや、 悪人・寺塔に火を放た
03
 んにせいせざるべしや、 一子の重病を炙せざるべしや、日本の禅と念仏者とを・みて制せざる者は・かくのごとし
04
 「慈無くして詐り親しむは即ち是れ彼が怨なり」等云云。

 法華経の宝塔品を拝見すると、釈迦・多宝・十方分身の諸仏が集まってきている。それは、いかなる心によるかといえば、「法を永遠に存続させるため、ここに来たのだ」と説かれている。この三仏が未来に法華経を弘めて、未来の仏子たる一切衆生に与えようとする心の中を推しはかると、わが子が大きな苦しみにあっているのを見た父母の心よりもはるかに強いことがうかがえる。ところが法然は、仏の思いをくみもせず、末法に法華経の門をかたく閉じて人を入れさせまいとした。生気を失った子どもをたぶらかして宝を捨てさせるように、法華経を投げすてさせた心こそ、あまりにも恥知らずに思われる。自分の父母を人が殺そうとしているのに、父母に知らせないでいられようか。悪逆な息子が酔い狂って父母を殺そうとするのを止めないでいられようか。悪人が寺院に火を放とうとしているのを、止めないでいられようか。わが子が重病の時に治療しないでいられようか。日本の禅と念仏者とを止めない者はこれと同じである。「慈悲もなく、偽って近づくものは、その人にとって敵である」とはこのことである。

05   日蓮は日本国の諸人にしうし父母なり 一切天台宗の人は彼等が大怨敵なり「彼が為に悪を除くは即ち是れ彼が
06
 親」等云云、 

 日蓮は日本国のあらゆる人にとって、主であり、師であり、父母である。
 天台宗の者はすべて、人々の最大の敵である。涅槃経疏には「人のために悪を取り除くことは、まさにその人の親である」とある。

 いよいよ、「開目抄」全編の結論ともいうべき「末法下種の三徳」について語っていきます。
 大聖人は仰せです。
 「
日蓮は日本国の諸人にしうし父母なり」(023705
 日蓮大聖人こそが末法の主師親の三徳を具備されていると宣言されている一節であり、本抄が「人本尊開顕の書」と言われる根拠もここにあります。
 この一節からは、幾重にも深い意義を拝していくことができますが、今回は、主師親三徳の本質とは「慈悲」の行動にほかならない、という点に焦点をあてて講義することにします。
慈悲は真の悟りの証
 慈悲は仏法の根幹であり、法華経の真髄です。
 反対に、無慈悲は仏法の精神の全否定であるといっても過言ではない。
 仏法の源流である釈尊は、慈悲は悟りの証であると説かれました。
 すなわち「究極の理想」に通じ、「平穏の境地」に達した人は次のような心を起こすという。
 「一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ」
 「目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くにすむものでも、すでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ」
 「あたかも、母が己が独り子を命を賭けて護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量のこころを起こすべし」
 「また全世界に対して無量の慈しみの意を起こすべし」
 真の悟りを得たものは「一切の生きとし生けるもの」に対して、また「全世界」に対して「無量の慈しみ」を起こすと述べています。「慈悲の心」を起こさなければ、真の悟りとは言えない。真の悟りは慈悲の心を無量に起こす源泉であり、慈悲の真の悟りの証なのです。
 この「慈悲の心」を、末法という濁悪の時代に広げるために戦われたのが日蓮大聖人です。
 末法は、他者の苦しみを顧みることができず、眼前に修羅道に堕ち、互いに争い、上慢の心が強くなる時代です。その濁劫悪世にあって、逆風にも怯まず、慈悲の薫風を広げゆく精神開拓の勇者が「法華経の行者」という尊き存在なのです。
限りない励ましと厳しい訶責
 仏の本領は慈悲にあります。
 自身の生命の内に、全宇宙を貫く究極の法を覚知した仏は、同時にその法が万人の生命の中にあることをも覚知します。
 あらゆる人々が、本来は、この根源の法の当体である。したがって、万人が仏界の生命を現す可能性を持っている。しかし、人々は、無明に迷い、そのことに気づかない。ゆえに、さまざまな現象に翻弄され、苦しんでいる。
 万人が妙法の当体であり、仏になる可能性を持った仏子であると覚知した仏は、ありとあらゆる衆生に対して、母がわが子に対するような「慈しみの心」を起こします。そして、自身の尊厳に気づかず、苦しんでいる衆生を見れば「悲しみの心」が芽生える。そして、わが子の苦悩を自身の苦悩と感じるような「同苦」の思いにみちあふれるのです。
 嘆きの涙も、笑顔も、哀しみも、悦びも、すべて分かちあえる、人間そのものに絶対の信頼を置き、可能性を信ずる。どこまでも人間が好きで、人間を愛する。そうした仏の慈しみは一切に差別なく、万人に及ぶものです。したがって、仏の慈しみの心は宇宙大に広がります。目の前に触れるすべての人はもとより、想像出来るかぎりの未知の人たち、さらには人類全体、そしてありとあらゆる有情・非情にまで慈悲の念が広がることが、仏の一念三千なのです。
 要するに、自身の根源の力に目覚めただけでなく、すべての衆生の可能性を知って、その現実のために戦い続けるのが仏です。
 “人間よ、真の人間たれ!”
 “汝自身の可能性を知れ!”
 限りない人間の讃歌、生命の礼拝こそ、仏の慈悲の励ましの行動です。
 また、だからこそ仏は、人間を蔑視し、生命の可能性を信じようとしない増上慢の驕りの生命に対しては、どこまでもその無明を打ち破ろうと厳しい呵責を重ねていく。
 慈しみと同苦、与楽と抜苦、励ましと呵責、この慈悲と勇気の行動が、仏の振る舞いのすべてです。
法華経に説かれる三徳
 釈尊の仏法の真髄である仏法は、万人を成仏させようとした仏の究極の慈悲が説かれている経典です。大聖人は法華経を「慈悲の極理」であると仰せです。
 そして法華経では、この仏の究極の慈悲を「主師親の三徳」として説きます。
 法華経迹門譬喩品第三には、有名な「三界は安きこと無し、猶お家宅の如し」との一節があります。
 私たちの住むこの現実世界は、家宅のようであり、苦悩が充満している。この世界に住む民衆を、どこまでも救ってこうとするのが仏であると説かれています。この言葉が「三徳」に当たることは明らかです。
 すなわち、まず「今、この三界は、皆な是れ我が有なり」、と述べている。これは「主の徳」に当たります。
 そして「其の中の衆生は、悉く是れ吾が子なり」と続く。「親の徳」です。
 最後に「唯だ我れ一人のみ、能く救護を為す」とある。「師の徳」です。
 また、本門如来寿量品第十六では、久遠以来、慈悲の働きを起こして衆生救済の戦いを続けている久遠実成の釈尊が明かされている。「御義口伝」では、久遠実成の釈尊の三徳を示す寿量品自我偈の文が挙げられています。
 すなわち「我が此の土は安穏なり=我此土安穏」は「主の徳」、「常に法を説いて教化す=常説法教化」は「師の徳」、「我れも亦為れ世の父=我亦為世父」が「親の徳」です。
 本門・迹門ともに「三徳」の意義はほぼ共通していますが、その要点をのべておきます。
 すなわち「主の徳」の文において、仏は、苦悩に満ちた現実世界は「我が国土」であり、本来は「安穏な国土」であると言っています。これは、国土とそこに住む衆生の安穏について、仏が自ら責任をもち、守っていく一念を示していると拝察できます。
 また、「親の徳」の文において、「衆生は我が子」であると言われています。これは、既に述べた通り、全衆生への慈しみの心、そして衆生への苦しみへの同苦の心を表しています。
 そして、「師の徳」の文では、具体的に「説法教化」して、衆生を「救護」する実践が示されています。法を説いて民衆を成仏に導いてこそ、真の救済があるのです。
「法華経の行者」に具わる三徳
 「日蓮は日本国の諸人のしうし父母なり」の御文は「法華経の行者」としての大聖人の実践に、法華経で説かれた仏の慈悲の表れとしての三徳が具わっていることを明かされております。
 日蓮大聖人の実践においては、国土の安穏を実現するために、立正安国の実践が「主の徳」に当たると拝することができます。
 また、大聖人が一閻浮提広宣流布と仏法西還の展望を示されたことは、全世界を守り救う「主の徳」を具えられていることを表しているとはいすることができます。
 次に、末法の苦悩の謗法の根源悪に由来します。ゆえに謗法を呵責する折伏行は、民衆に同苦し、その苦を抜いていく抜苦の戦いであり、「親の徳」に当たります。
 折伏は「争う心」ではなく、悪に対して「戦う心」であり、したがって、修羅道ではなく、民衆を救う菩薩道にほかならないことは、前回に確認した通りです。
 そして、「師の徳」は、凡夫の成仏の大法たる南無妙法蓮華経を末法万年の民衆のために顕し、残されたことであると拝することができます。
 折伏が抜苦の戦いであるとすれば、南無妙法蓮華経の弘通の抜苦与楽の戦いに当たるといえます。
 このように、法華経の行者としての大聖人のお振る舞いそのものが、三徳の慈悲の行動に他なりません。
万人が慈悲の実践を
 また、極めて重要なことは、大聖人自らが慈悲の三徳を顕して悪世末法の衆生を救済されただけでなく、万人が慈悲に生きる具体的な実践として、折伏行と唱題行という道を開かれたことです。
 自ら慈悲に生き抜かれただけでなく、万人も慈悲に生き抜く道を示された。それが、末法の御本仏たる真のゆえんであると拝することができるのです。
 戸田先生は、大聖人が出現された意義を次のように語られています。
 「われわれは、自覚した慈悲の生活には、なかなかはいれないのが普通である。ここに、大聖人出現の意義があるのです。すなわち、末法という時代には悪人が多く、絶対に慈悲の行業が必要な時代であるが、現実には無慈悲きわまりない(中略)本然の実相は慈悲でありながら、人間としては仏の智慧の発展がなければ幸福がないのである。」
 すなわち人間は、仏の智慧を啓発して真の慈悲にいきるのが、いっさいの幸福を獲得する根本であり、その智慧は信心によってのみえられることを深く銘記すべきである。
 悪世末法の凡夫が慈悲に生きる。これは簡単なものではありません。しかし、そのことが実現しなければ、仏法の本来の目的は永久に成就しません。
 そうでなければ、末法の救済といっても、時折、慈悲に優れた仏が出現し、疲弊し病んだ衆生に手を差し伸べる形でしか実現しません。
 しかし、そうした経済の方途では、やがてまた、その仏の恩恵を忘れた次の時代の衆生が病み始めます。そこに、再び仏が出現し、救済の手を差し伸べる。あるいは、衆生は、どこか別の国土に住む仏の存在を渇仰し、浄土に生まれることだけを願う。そのようなことを繰り返しているのでは、末法の国土を変革することはできません。
 その根本的な誤りは、仏一人だけが慈悲の救済主であるとする考え方にある。それでは、釈尊が末法の広宣流布を地涌の菩薩に付嘱した真意を理解することはできません。すなわち、絶対の救済者と救われる信徒たち。この固定した関係をつくりあげてしまえば、仏法の目的である慈しみの世界を広げていくことはできません。
 無慈悲の末法万年の真の意味で救いきるためには、仏の三徳を継承した法華経の行者が出現し、その法華経の行者を軸として無数の慈悲の体現者である法華経の行者、慈悲の実践者が誕生していくしかないのです。
 「開目抄」では、大聖人が末法の「主師親の三徳」を宣伝される直前に、邪智謗法の国の修行の在り方として折伏行を明示し、大聖人に連なる者が皆、折伏の実践を行いゆくよう示されています。
 その本意は、折伏行に生きゆく一人ひとりが慈悲の体現者となり、慈悲を世界に弘めていくことを教えられていると拝されます。
 凡夫が慈悲の働きを通して、他者と善の関係を結んでいくことが示されているのです。
 確かに、凡夫にとっては慈悲は直ちに出るものではありません。しかし、凡夫は慈悲の代わりに勇気を出すことはできます。そして、慈悲の法を実践し弘通すれば、その行為は、まさに慈悲の振る舞いを行じたことに等しいのです。そして、凡夫から凡夫へ、慈悲の振る舞いを行じたことに等しいのです。そして、凡夫から凡夫へ、慈悲の善のかかわりが無数に広がっていきます。
 慈悲が暖流で無明の世界を包み込み、慈悲の縁起の世界を勇敢に広げることこそ、釈尊を源とする真の仏教の系譜を継ぎ、発展させることになるのです。
「慈悲の世界」破壊者との闘争
 この法華経の「慈悲の世界」を断絶しようとする悪人が出現するのが末法です。直接の破壊者が出現するだけでなく、末法の病根は、本来であれば法華経を継承すべき者たちがその破壊に対して放置して傍観の態度をとることです。
 無責任の傍観者が破壊者を生み出す温床となる。その意味で、本来の役割のうえから、傍観者のほうが罪が大きいといえます。
 したがって、大聖人は「開目抄」の結びにあたって、先に挙げた主師親三徳の御文の次下に、大聖人自身と対比する形で「
一切天台宗の人は彼等が大怨敵なり」(023705)と仰せられ、日本の天台宗を痛烈に破折されています。
 民衆のために法華経を宣揚し、法然らの邪義を打ち破って立ち上がらなければならなかったのに、既成権力に媚びる生き方を選んだ。大聖人は、そうした天台宗の輩こそ、日本国の諸人にとって「大怨敵」であると呵責されているのです。この破折こそ、大聖人の宗教革命です。
 現代でいえば、まさに、本来立ち上がるべき時に立ち上がらず、かえって謗法の軍門にくだり、果ては、仏法の正義に立ち上がった牧口先生を切り捨てようとした戦時中の宗門こそ、この「大怨敵」の末流であると呵責しておきたい。そして、この保身の傍観者から、今日、広宣流布破壊しょうとする極悪・謗法の日顕宗がうまれたのです。
 謗法を責め抜いてこそ、宗教革命は成就する。戦えば、必ず変革を拒む者たちから中傷されます。しかし、そうした輩に中傷されることこそ、牧口先生、戸田先生は誉れとされました。
 永遠の指導者、牧口先生・戸田先生の両先生が創価の旗を掲げて75周年。地涌の闘将に呼び出された無数の尊き庶民が、全世界で慈悲の光輝を放っています。悲惨と不幸に苦しむ人々に希望を灯し、すべての母と子が安穏に生きる平和の社会を築く潮流は、全世界で確固たる大河となりました。
 全世界の同志の皆さまの勇気ある慈悲の行動を、必ずや牧口先生も戸田先生も喜ばれていると確信します。また世界中の地涌の勇者の慈悲行を、日蓮大聖人が賞讃なされていることは間違いありません。
 創価学会は仏の慈悲の団体です。創価学会こそ、濁流と化しつつある世界の宿命を転換する主師親の本流であるとの誇りも高く、私たちは、2030年の創立100周年を目指して、創価の世紀を築いていこうではありませんか。

第19回 末法下種の主師親(下)top

人間革命の宗教の確立

 前回は、開目抄の結論である「日蓮は日本国の諸人にしうし父母なり」(023705)の一節を通し、「末法下種の主師親」の深義を「慈悲」に焦点を当てて拝察しました。
 その要諦は、末法に法華経を弘める「末法の法華経の行者」はその慈悲の実践に三徳を具えられているということです。
 すなわち、民衆の苦悩に同苦し、民衆の可能性を慈しむがゆえに末法弘通に立ち上がられ、大難を忍び抜かれた実践に「親徳」を拝することができます。 さらに、南無妙法蓮華経を顕し、弘められたことにより、人々の無明謗法を打ち破り、妙法への信を目覚めさせ、成仏へと導いていかれる戦いに「師徳」を拝することができます。
 そしてまた、一閻浮提広宣流布と立正安国を展望され、全民衆の安穏に対して深い責任感を示されたことに「主徳」を拝することができるのです。
普遍的な法を万年に流通させる深き戦い
 「報恩抄」のあまりにも有名な次の一節には、今述べた末法の法華経の行者における三徳、すなわち日蓮大聖人における三徳が明瞭に表現されています。
 「
日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもながるべし、日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり、無間地獄の道をふさぎぬ」(032903
 大聖人は、妙法への無明謗法という重病に侵された当時の日本国の一切衆生を救うために、万人の仏性を呼び顕す力をもった根源の法である南無妙法蓮華経を弘められました。
 根源の法を顕されたことといい、それを弘めるために身命を惜しまぬ戦いをされたことといい、大聖人の渾身の実践は、末法の全民衆を根底から救わんとされる広大なる慈悲の発露であられました。
 この「広大なる慈悲」はまさに「親徳」であり、無明謗法に閉ざされた「一切衆生の目を開く」戦いには「師徳」を拝することができます。
 そして、万人に仏性を開く南無妙法蓮華経を弘めることによって、当時の日本国の人々、さらには末法の全民衆を「無間地獄の道」から守れられたとの仰せは「主徳」を現している。
 このように、大聖人における主師親の三徳は、万人に具わる「仏性」を触発する「仏種」として南無妙法蓮華経を顕し、弘められた戦いに具わる徳であられると拝することができる。ゆえに「下種三徳」を表現されるのです。
 この意味から、大聖人御自身の三徳具備を宣言なされた「開目抄」「報恩抄」の御文は、末法万年の一切衆生の救済の道を可能にする「下種仏法の確立」を示された御文であるとも拝されます。
なぜ下種仏法に力があるのか
 大聖人は、末法濁世の救済という課題に臨まれて、衆生の一人ひとりに内在する仏性の開発を促していくことで、時代と衆生を根本的に「変革」していく道を開かれたのです。
 あらゆる不幸のもとは、自分を支えている宇宙根源の妙法がわからず、また、教えられても信じることができない根本的な迷い。無明にあります。
 この無明を智慧に転換するのが仏の悟りです。煩悩を滅していくのではありません。煩悩の根源である無明を、真によって打ち破るのです。そこに智慧が輝き、仏の生命へと転換していくのです。
 仏のように無明を直ちに智慧へと転換できる可能性が仏性です。この仏性は、あらゆる生命に本来、具わっています。
 大聖人はこの衆生本有の仏性を南無妙法蓮華経と名づけられました。そして、南無妙法蓮華経の信と唱題行によって無明を明へと転換し、煩悩を即菩提へと変革して、功徳に満ちた仏の生命を実現する一生成仏の方途を確立されました。これが日蓮仏法の骨格です。
 大聖人は、立宗宣言以来、この唱題行を末法の衆生救済の根幹にすえて、妙法弘通の大道を歩んでこられました。
 ここで看破してならないのは、信によって無明を打ち破るという心の戦いがあってこそ、仏界を涌現することになるというのです。ゆえに大聖人は、唱題行を強調されるとともに、南無妙法蓮華経といっても己心の外に法があると思ってはもはや妙法ではなくなると強く戒められています。
 無明から信へ。この「一念の変革」こそ、日蓮仏法の画竜点睛です。
 衆生一人ひとりが胸中の確固たる信を確立した時に、自身に内在する仏性が薫発され、仏の生命力も力強く涌現するのです。反対に「不信の心」があれば、仏性は冥伏し、生命は一瞬にして無明に覆われてしまう。
 下種とは、この仏性の触発を譬喩的に表現したものです。下種について大聖人が分かりやすく教えられたのが、「曾谷殿御返事」の「
法華経は種の如く仏はうへての如く衆生は田の如くなり」(105614)との一節せす。
 衆生は、植え手に種を植えられた後、自身の心田にやがて大きな実りをもたらします。すなわち衆生自身が成仏という実りを得るのです。
 しかし、この譬喩から、仏種は衆生にはなく、仏に下種されてはじめて衆生の生命に存在すると考えれば誤解となります。
 本当は、衆生自身の中に、もともと仏性があるのです。ただ、それが仏の教法によって初めて触発され、仏界の生命へと育っていくので、仏によって仏種が植えられるように見えるのです。
 したがって、仏種というと、衆生の仏性を指す場合と、仏性を触発する力をもった仏の教法を指す場合とがあります。
 大聖人は「仏種は縁に従つて起る是の故に一乗を説くなるべし」(146705)と仰せです。
 一切衆生の生命には、もともと仏性という成仏の因がある。その仏性を発動させていく縁となるのが一乗なのです。
末法の凡夫成仏を可能にする下種
 いずれにしても、下種の実態は、教法としての仏種によって妙法への信が促され、無明を打ち破って智慧の光が生命に差し込むことです。この一念の転換が仏性の触発であり、衆生の内面に出現した仏種なのです。
 大聖人は仰せです。
 「
衆生の心けがるれば土もけがれ心清ければ土も清しとて浄土と云ひ穢土と云うも土に二の隔なし只我等が心の善悪によると見えたり、衆生と云うも仏と云うも亦此くの如し迷う時は衆生と名け悟る時をば仏と名けたり」(038402
 下種によって瞬時に「迷」から「悟」へ、衆生の心の中で転換がなされるのです。
 譬えば、厚い雲が光を遮っていれば大地は暗い、しかし、ひとたび雲が晴れ光が差し込めば、大地はまたたくまに明るくなる。その時、大地そのものが変化するわけではありません。しかし、闇の淵に沈んでいた太陽が希望の天地へと大きく変化するのです。
 「
百千万年くらき所にも燈を入れぬればあかくなる」(140310)と仰せのように、どんなに長遠な間、真っ暗だった洞窟も瞬時に明るくなる。それが妙法の下種の力です。
 無明の闇に火をともせば、闇はたちまち消えます。瞬時に転換する。それが、日蓮大聖人の下種仏法です。
  この下種の教法たる南無妙法蓮華経と唱えられる教主が、日蓮大聖人であられる。それゆえに、日蓮大聖人を末法下種の三徳、すなわち末法の御本仏と拝するのです。これ大聖人の下種仏法でなければ、末法の凡夫の成仏は実現しません。
下種三徳の永続性、普遍性
 さて、先の「報恩抄」の御文では、万年を超える南無妙法蓮華経の流通の中で、大聖人の三徳が輝いていくことが示唆されています。
 この永続性は、もちろん南無妙法蓮華経の普遍性によるものですが、「法」の普遍性だけでは万年流布の永続性は得られません。もう一つの要素として「人」の戦いが必要なのです。法を弘める人の深くて強靭な戦いであればこそ、法の普遍性も輝き、広まるのです。
 「
法自ら弘まらず人法を弘むる故に人法ともに尊し」(085603)と仰せの通りです。
 民衆への大慈悲を根底に、普遍的な法を長く流通させていく偉大な戦いをなされた大聖人であればこそ、そのお振る舞いにおのずから三徳が輝きわたるのです。
 また大聖人御入滅後においては、弟子が大聖人の説かれた通りの不惜身命の信心に立って弘教を実践してこそ「人法ともに尊し」といえるのです。
 末法濁世における、この師弟不二の戦いによって、弘通する人の生命にも大聖人の三徳が輝く。とともに、弘められる南無妙法蓮華経も、人々の胸中の仏性を触発する本来の力が発揮されるのです。またそれゆえに、信受した人には一生成仏の無量の功徳が現れます。
 さらに、この「人法ともに尊し」の弘教とともに広宣流布の水かさが増すとき、仏性を触発する南無妙法蓮華経の力が国土に満ち、世界に広がり、時代を変革することができる。
 要するに、真実の法である南無妙法蓮華経と、南無妙法蓮華経への真剣な信を貫く実践者の戦いがあれば、大聖人の三徳は万年を超えて濁世を潤していくのです。
大聖人の三徳は学会に脈打つ
 創価学会は、初代会長、牧口常三郎先生の時以来、下種仏法の可能性を深く信じ、また実践し、そして弘めてきました。それは、日本の仏教が総じて葬式仏教や観念論に陥って限界と無力をさらけ出していく中で、希有なあり方をとったと見ることができるでしょう。
 例えば牧口先生は、民衆一人ひとりが正しい仏法を、生活法・価値創造の法として生き生きと実践し、そして他の人にも弘めていくべきであることを強調された。次の先生の言葉は、下種仏法の本質を鋭く洞察されています。
 「最大のそれは自分に意識しながらも、無限の時空に亘る大宇宙の法則を信じて、之れに合致することを生活の目的とするのである。無上最大の目的観によって指導された最高価値の生活、即ち最大幸福の生活は、総ての人類が受けると同様の利益を自分も均霑せんとするのが、その最大たる所以である(中略)この最大の目的観は法華経に逢い奉るにあらざれば、到底でないようで、仏の開眼又は開目とは之を意味する者であらう」
 このように、人間が宇宙根本の妙法に合致することにより、生活に最高の価値創造をしていくことを目的とする経法が法華経であることを、牧口先生は示されているのです。
 また、第二代会長・戸田城聖先生は、獄中の体験で「仏とは生命なり」と悟り、「われ地涌の菩薩なり」と自覚された。そして「人間革命」の理念を高く標榜し、75万所帯の折伏を誓って広宣流布の激闘に立ち上がられた。戸田先生もまた、下種仏法の本質を深く体得された方でした。
 日蓮仏法こそ最高にして究極の「人間主義の宗教」です。そして、下種仏法で説く「人間の根本的な変革可能性」を根拠とする「人間主義」こそ、これからの人類が必要とする真のヒューマニズムであると、私はいやまして確信を深めてまいります。
 私たちが進めてきた文化・平和・教育の運動も、この仏法の「人間主義」の表現であるといっても過言ではありません。
 私が世界の知性の方々と本格的に文明間対話を開始して30幾星霜が過ぎました。文化や宗教や思想の壁を超え、根本的な共通点を「人間」という一点に見据えて対話を繰り広げてきました。そして、日蓮仏法の人間主義の理念を「人間革命」と表現し、相互理解を深めていきました。
 一切は人間で決まる。そして人間自身の希望の変革は、世界をも変えていく、ここに、下種仏法の要諦があります。
 それを私は「一人の人間における偉大な人間革命は、やがて一国の宿命の転換も成し遂げ、さらに全人類の宿命の転換をも可能にする」との「人間革命」の思想に託して語ってきました。
 これに対して、大歴史学者のアーノルド・トインビー博士も、高名のルネ・ユイグ氏も、“ヨーロッパ統合の父”クーデンホーフ・カレルギー伯も、世界の知性はみな、深き理解と賛同の声を寄せてくださった。
 なかでもファシズムと戦った闘士であったアウレリオ・ベッチェイ博士は、かねてからの自説であった「人間性革命」を私との対談を経て「人間革命」と表現を変えられて、次のように語っておられました。
 「われわれはいまこそ初めて、長期にわたる全地球的な責務を担い、そこからの各世代に、より生きがいのある地球と、より統治可能な社会を残さなければなりません。このことを私たちが理解するのを助けてくれるのは、人間革命以外にはないのです」
 人間主義の仏法を、世界中が待望する時代を迎えました。まさしく、人類全体の仏性を触発する壮大な下種の三徳の力を発揮する時代が到来しています。
 その創価の陣列が世界中に揃いました。皆さま方の荘厳な下種三徳の前進を世界が見つめているのです。

第20回 生死不二の大功徳top

戦う人生に大いなる歓喜あり

05   日蓮は日本国の諸人にしうし父母なり 一切天台宗の人は彼等が大怨敵なり「彼が為に悪を除くは即ち是れ彼が
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 親」等云云、 無道心の者生死をはなるる事はなきなり、 教主釈尊の一切の外道に大悪人と罵詈せられさせ給い天
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 台大師の南北・並びに得一に三寸の舌もつて五尺の身をたつと 伝教大師の南京の諸人に「最澄未だ唐都を見ず」等
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 といはれさせ給いし皆 法華経のゆへなればはぢならず愚人にほめられたるは第一のはぢなり、 日蓮が御勘気を・
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 かほれば天台・真言の法師等・悦ばしくや・をもうらんかつはむざんなり・かつはきくわいなり、夫れ釈尊は娑婆に
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 入り羅什は秦に入り 伝教は尸那に入り提婆師子は身をすつ 薬王は臂をやく上宮は手の皮をはぐ釈迦菩薩は肉をう
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 る楽法は骨を筆とす、 天台の云く「適時而已」等云云、 仏法は時によるべし日蓮が流罪は今生の小苦なれば・な
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 げかしからず、後生には大楽を・うくべければ大に悦ばし。

 日蓮は日本国のあらゆる人にとって、主であり、師であり、し父母である。
 天台宗の者はすべて、人々の最大の敵である。涅槃経疏「人のために悪を取り除くことは、まさにその人の親である」とある。
 仏道を求める心のない者は、生死の苦悩から離れることはできないのである。教主釈尊は、あらゆる外道から大悪人と罵られた。天台大師は中国の南三北七の諸宗に非難され、また後の世に日本の得一から「三寸の舌で釈尊を謗り、五尺の仏身を断つ」と非難された、そして伝教大師は奈良の諸宗の人々に「最澄は、まだ唐の都を見ていない」といわれた。これらはすべて法華経のゆえであるから恥ではない。愚人にほめられることは第一の恥である。日蓮が幕府の処罰をうけたことで、天台宗や真言宗の僧らはさぞかし悦んでいるであろう。恥しらずでもあり、常軌を逸したことでもある。
 釈尊は娑婆世界に入り、鳩摩羅什は中国に入り、伝教は中国へ渡った。提婆菩薩や師子尊者は法のために命を捧げた。薬王菩薩は自身の腕を燃やして供養した。聖徳太子は身の皮をはいで経を写した。釈尊は過去世の菩薩行で自身の肉を売って供養した。楽法梵志は仏の教えを書きとめるために骨を筆とした。天台は法華文句に「時に適った実践を示している」と言っている。仏法は時によるべし日蓮が流罪は今生の小苦なれば嘆くことはない、未来には大楽をうけるのだから、大いに悦ばしい。

 真の功徳とは何か。
 それは、三世永遠に崩れることのない「幸福の軌道」を歩むことです。生死を貫く正しき「生命の大道」を、今世において築くことです。
 その大道は、内外の悪と戦い、勝ち抜く「勝利の王道」でもあります。
 戦わなければ、永遠の幸福を築くことはできません。
 逃げるだけでは、永久に無明の闇をさまようだけです。
 恐れていては、障魔はますます増長する。
 臆すれば、生命は悪に蝕まれてしまう。
 無明を超え、障魔を打ち破っていく「戦う心」としての信心を燃え上がらせていくことです。これこそが、今世における変毒為薬だけでなく、三世にわたって“無明による流転”から“法性に基づく流転”へと、生命を大転換してゆく原動力になるのです。
 ゆえに「戦う心」が定まったときに、「大難」は「大楽」へと転換していきます。
 今回は「開目抄」の最後の一段を拝します、特にその末尾の、次の御文は、大難の渦中にある門下たちに向かって、大聖人の大歓喜の御境涯を明かされています。
 「
日蓮が流罪は今生の小苦なれば・なげかしからず、後生には大楽を・うくべければ大に悦ばし」(023711
 大聖人が法華経の行者として「大難」と戦う中で成就された大境涯は、生死を超えた「大楽」であることが示されています。
 鎌倉で大難にあっている門下たちに対して「生死不二の大功徳」をどうしても教えておきたい。との大聖人のお心が拝されてならない御文です。
 私たちは、幸福になるために、そして人間としてより良く生きていくために信心をしました。そして、「広宣流布」という自他共の幸福と平和を実現していく道を学びました。この信心の目的の究極として、大聖人は御自身が身をもって大難を超えられ。証明なされた。生死不二の「大楽」を示してくださっているのです。
無道心の者は生死の苦に沈む
 謗法とういう仏法上の大悪を呵責する折伏は、大難ばかりがあって、何の利益もないではないか。
 この疑問と非難に答えるために、「開目抄」において大聖人は「
彼が為に悪を除くは即ち是れ彼が親なり」(023614)との章安大師の言葉に即し、悪を破折する法華経の行者の根本精神が慈悲であることを明かされます。そして、その慈悲のうえから、大聖人こそが末法下種の主師親であられることを宣言されます。このことについては、すでに詳しく拝察してきました。
 この大聖人の御境地とは対照的に、法華経を宗旨としながら法華誹謗の悪を放置する当時の天台宗の人々に対して、痛烈な破折をされています。
 すなわち「
無道心の者生死をはなるる事はなきなり」(0237-06)仏法を求める心のない者は、生死の苦悩から離れることはできないのである。と断言されている。
 要するに、当時の天台宗の僧たちは「悪との戦い」を忘れてしまった。戦うべき時に戦わなかった。その天台宗の人々の本質を、大聖人は「無道心」と喝破されているのです。「無道心」とは、仏道を求める心がないことであり、似非宗教者、似非信仰者ということができます。
 当時、天台宗は大聖人御自身も修学された。日本仏教の中心といってよい伝統的な仏教宗派です。
 しかし、いかに大伽藍があっても、また、いかに学問や儀式・祈禱が盛んであったとしても、民衆に成仏への信を促す力を持たないようでは、真実の仏法とはいえない。
 しかも、天台宗は、全民衆の成仏を願う経典である法華経を信奉するにもかかわらず、民衆の成仏を阻む法悪と戦わないだけでなく、法華経を弘める大聖人をも嘲笑し、迫害する側にまわる者たちもいた。
 ゆえに大聖人は、当時の一切の天台宗の人々こそ日本国の一切衆生にとって「大怨敵」であるとまで呵責されています。
 このような「無道心」の者たちが、生死の苦をはなれることなどできないはずがないと仰せなのです。
 それに対して、大聖人は大難をうけているが、それは今生の小苦にすぎず、生死不二の大楽を感得されているので大歓喜であると宣言なされました。
 この大楽を感得するとき、「生老病死の四苦」は「常楽我浄の四徳」と薫るのです。
 大聖人は次のようにも仰せです。
 「
法華経の行者として.かかる大難にあひ候は・くやしくおもひ候はず、いかほど生をうけ死にあひ候とも是ほどの果報の生死は候はじ、又三悪・四趣にこそ候いつらめ、今は生死切断し仏果をうべき身となれば・よろこばしく候」(111601)(法華経の行者として、このような大難にあったことは悔しくは思わない。どれほど多くこの世に生を受け、死に遭遇したとしても、これほどの果報の生死はないであろう。また三悪道・四悪趣に堕ちたであろうこの身が、今は生死の苦縛を切断し、仏果を得べき身となったので大変悦ばしいことである。
闘争即歓喜の成仏の境涯
 真の闘争には歓喜があります。戦い抜いた人は生命を鍛え、大境涯を得ることができる。仏法のために戦い続けた人は「金剛身」を成就できると涅槃経にあります。
 第1回でも取り上げましたが、佐渡期における日蓮大聖人の御本仏としての御境涯を、かつて戸田先生は、つぎのように表現されたことがあります。
 「成仏の境涯とは絶対の幸福境である。なにものにも侵されず、なにものもおそれず、瞬間瞬間の生命が澄みきった大海のごとく、雲一片なき虚空のごときものである。大聖人の佐渡後流罪中のご境涯はこのようなご境涯であったと拝される」
 この絶対の幸福境涯にあれば「衆生所有楽」のままに、あらゆる闘争が歓喜の中にあります。事実、佐渡で認められた諸御抄を拝しても「
万が一も脱がれ難き身命なり」(050903)という大難の中で、大聖人は経文を身で読まれた悦び、仏の果報を得られた喜びを繰り返し綴られています。
 「
只今仏果に叶いて寂光の本土に居住して自受法楽せん時」(050416
 「
幸なるかな一生の内に無始の謗法を消滅せんことを悦ばしいかな」(050904
 「
悦ばしいかな悦ばしいかな」(096310
 「
身心共にうれしく候なり」(134304)「余りにうれしく候」(134311
 「
喜悦はかりなし」(136017
 まさに「
無作の三身の仏果を成就」(089212)すること。それが真の成仏の功徳です。
 仏法は、三世の生命観を説いています。一応福徳があれば、それなりに今世を飾ることができるかもしれません。しかし、生死の苦から解放されることはできない。三世永遠の安穏を実現することは真の力は宗教にしかできません。
 私たちの生命には、無始以来、「無明」と「法性」が備わっています。そして、無明に支配された冥きから冥きへと流転し、ついには三悪道に堕してしまう。この輪廻の呪縛を破るのが、今世にあって仏法に巡り合った最大の意味です。
 南無妙法蓮華経の唱題は、信心によって心を法性の妙法蓮華経に合わせていく生命の作業でありいわば無明を転換して法性を現していく「戦い」です。そして、日々、唱題を重ね、広宣流布に邁進していくことは「生命の根本的な戦い」を定着させ、妙法を生命に染め抜く作業であり、「生命の鍛錬」にほかなりません。
 それは「一生成仏性」における次の有名な御文にも明らかです。
 「
只今も一念無明の迷心は磨かざる鏡なり是を磨かば必ず法性真如の明鏡と成るべし、深く信心を発して日夜朝暮に又懈らず磨くべし何様にしてか磨くべき只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを是をみがくとは云うなり」(038403)(今の私たちの一念が、無明におおわれて迷いのこころである時は磨いていない鏡であり、これを磨けば必ず法性真如の明鏡となるのである。強く信心を起こして、日夜朝暮に怠ることなく磨いていきなさい。ではどのようにして磨くのか。ただ南無妙法蓮華経と唱えること、これが磨くということである。)
 地位や名誉、財産は今生限りのものです。しかし、妙法によって鍛え抜いた鋼のような生命は最高の「心の財」であり、妙法蓮華経の永遠性を現します。いつ、いかなる時も、また何があっても、悠然と戦い続けている生命境涯を確立することができます。
 「戦い続ける」境地を確立した者は、本有の生死に生ききることができます。三世を知るといっても、私たち凡夫の次元では、望遠鏡をのぞくように過去世・未来世の愚謡的な場面を一つ一つ見ることはできません。
 しかし、戦い続ける人は、自分自身の本有の生命は不滅であることを、生命の奥底で既に覚知しているのです。今世で勇気を出して慈悲の闘争をした人は、来世も慈悲の闘争に連なることが自得しているのです。
 同志の幸福のために、社会の安穏のために長年にわたって尊き闘争を続けてこられた学会員の一人ひとりの胸中には、すでにそうした本有の生命が確立していることは、実感としてつかんでおられるからです。
 すなわち、何があっても南無妙法蓮華経と唱えて「一人立つ」ことができる。また事が起きたときには御本尊を根本のよりどころとして不安がなく、しかも勇気と智慧を奮い起して挑戦していける。そして、縁する人々への感謝の念が深く、皆を安心させる力に秀でている。
 病苦・老苦・死苦をも悠然と乗り越え、次の生もまた、学会の庭に生まれ、広布にいきぬくことを誓願しつつ、わが使命ある生涯を「大いに喜ばしい」と総括できる。このような同志の総仕上げの姿に、三世に戦い抜く仏の生命境涯を見る思いがするのは、私だけではないでしょう。
 その広宣の地涌の勇者は、妙法の大生命に基づいて、「
法性の大地を生死生死と転ぐり行くなり」(0724第八唯有一門の事04)という、三世永遠に自由自在の境地を確立しているのです。
 それが真の永遠の仏の寿命であり、文字通り、寿量すなわち「仏の無量の功徳を量る」ことにほかなりません。
 結論として、「戦い抜く心」なくして、この生死不二の「大楽」の功徳を得ることはできません。
 そしてまた、そうした無数の庶民の仏を誕生させたのが、わが創価学会75年の黄金の歴史であります。これこそ、仏教史に燦然と輝きわたる不滅の勝利の歴史であることを確信していただきたいのであります。
愚人に誉められたるは第一の恥
 「開目抄」の結びでは、そうした大境涯に照らして、諸宗の輩からの誹謗など何の意味もないことを仰せられています。
 法華経を実践すれば必ず「悪口罵詈」されます。しかし、法華経ゆえの悪口罵詈こそ無上の栄誉です。
 「
愚人にほめられたるは第一のはぢなり」(023708)とおおせのように、世間の毀誉褒貶に左右される愚人に称賛されることは最大の恥です。その大確信で、初代・牧口先生、二代・戸田先生も歩んできました。三代の私も、同じ道を貫いてきました。
 仏法者にとって一番大事なことは世評の批判ではありません。常に自分が、その時代にあって、最も時に適った正法流布の闘争を繰り広げられるかどうかです。
 大聖人は、娑婆世界で法を説き始めた釈尊、西域から中国に入って経典を訳した鳩摩羅什、中国へ法を求めた伝教大師、命をかけて仏法を守った提婆菩薩や師子尊者、肘を焼いて灯明を供養した薬王菩薩、手の皮をはいで教えを書きとどめた聖徳太子、経を供養するためにわが身の肉を売った釈迦菩薩、骨を筆として教えを残した楽法梵志の名を挙げられています。
 これらの実践の形は違いますが、すべて正法を惜しむための「時に適った行動」です。こうした行動を起こした根底には、正法を護り抜いていこうという心の戦いがあるのです。そして、心の戦いに勝って、時に適った行動を成し遂げたとき、これらの仏法者たちの生命は大いなる歓喜が広がっていたのです。
 ゆえに大聖人は、魔性との戦いのうえで生じた大難は「今生の小苦」にすぎず、末法の時に適った実践を成し遂げた永遠の「大楽」こそが、法華経の行者としての戦いから得られた大功徳であると仰せなのです。
「開目」の大波を幾重にも
 この広大なる大境涯を、大聖人は、今、現実に鎌倉で難にあっている門下たちに教えようと拝されます。
 御自身の悠然たる境涯を教えることで、「心配することなど、何一つない」「私たちは永遠の勝利者になれるのだ」「門下よ、この日蓮に続け」と、生命の根底から励まされているのです。
 そこに、全門下の無明を晴らし、迷いの目を開く「開目」の真義があります。
 戦う精神は、共鳴して「一人立つ」心を生み、次から次へと伝播していきます。一人また一人と「戦う勇者」が広がれば、日本の人々が「開目」していきます。
 そして今、日蓮仏法は、世界で「開目」の大波を起こしています。この「戦う心」を伝える以上の慈悲はありません。
 「
しばらくの苦こそ候とも.ついには・たのしかるべし」(156512
 闘争即大歓喜の「戦う心」を今、門下に教えずして、いつ教えるのか。現実に大弾圧を受けている今こそ、仏になる「時」であると呼ばれ、大聖人は本抄を結ばれていると拝察できます。
 私もそのお心を深く拝して、75周年の峰を登攀した全会員、全世界のメンバーに呼び掛けたい
 世界広宣流布の草創期ともいうべき今、深き縁によって、世界中に戦う地涌の勇者の陣列が揃いました。「戦う心」に目覚めたこの陣列こそが「開目抄」の真髄を表現しているとの大確信で、一人ひとりが三世不滅の大功徳をわが胸中に確立しながら、それぞれの使命の舞台で、自らが太陽となって輝いていっていただきたい。
 まさに「戦う」時は、「今」です。