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湧出品一箇の大事0750~0751

0750~0751 涌出品一箇の大事
0751    第一 唱導之師の事

0750~0751 涌出品一箇の大事top
0751    第一 唱導之師の事top

0751
01   第一唱導之師の事
02    御義口伝に云く涌出の一品は悉く本化の菩薩の事なり、本化の菩薩の所作としては南無妙法蓮華経なり此れを
03    唱と云うなり導とは日本国の一切衆生を霊山浄土へ引導する事なり、末法の導師とは本化に限ると云うを師と
04    云うなり、此の四大菩薩の事を釈する時、疏の九を受けて輔正記の九に云く「経に四導師有りとは今四徳を表
05    す上行は我を表し無辺行は常を表し浄行は浄を表し安立行は楽を表す、有る時には一人に此の四義を具す二死
06    の表に出づるを上行と名け断常の際を踰ゆるを無辺行と称し五住の垢累を超ゆる故に浄行と名け道樹にして徳
07    円かなり故に安立行と曰うなり」と今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱え奉る者は皆地涌の流類なり、又云く火
08    は物を焼くを以て行とし水は物を浄むるを以て行とし風は塵垢を払うを以て行とし大地は草木を長ずるを以て
09    行とするなり四菩薩の利益是なり、四菩薩の行は不同なりと雖も、倶に妙法蓮華経の修行なり、此の四菩薩は
10    下方に住する故に釈に「法性之淵底玄宗之極地」と云えり,下方を以て住処とす下方とは真理なり,輔正記に云
11    く「下方とは生公の云く住して理に在るなり」と云云、此の理の住処より顕れ出づるを事と云うなり、又云く
12    千草万木・地涌の菩薩に非ずと云う事なし、されば地涌の菩薩を本化と云えり本とは過去久遠五百塵点よりの
13    利益として無始無終の利益なり、此の菩薩は本法所持の人なり本法とは南無妙法蓮華経なり、此の題目は必ず
14    地涌の所持の物にして迹化の菩薩の所持に非ず、此の本法の体より用を出して止観と弘め一念三千と云う、惣
15    じて大師人師の所釈も此の妙法の用を弘め給うなり、此の本法を受持するは信の一字なり、元品の無明を対治
16    する利剣は信の一字なり無疑曰信の釈之を思ふ可し云云。
――――――
 涌出品に「是の四菩薩、其の中に於いて、最も為れ上首唱導の師なり」とあるところについて、御義口伝には、次のように仰せである。
 涌出品の一品は、すべて、本化の菩薩である地涌の菩薩のことについて説いているのである。その地涌の菩薩のふるまいは南無妙法蓮華経を根本としているのである。これを唱というのである。唱導之師の導とは日本国の一切衆生に大御本尊をたもたせ、平和で幸福な生活へ指導することをいうのである。末法の導師、指導者とは地涌の菩薩、すなわち別しては日蓮大聖人、総じてはその弟子に限ることを師というのである。
 この涌出品に出現する上行・無辺行・浄行・安立行を釈する時、天台の文句の九を受けて道暹の輔正記の九には「涌出品に四導師があるということは常楽我浄の四徳を表わしていうのである。上行は我を表わし、無辺行は常を表わし、浄行は浄を表わし、安立行は楽を表わしている。ある時は、ひとりの生命にこの四菩薩の義を具しているのである。分段の生死、変易の生死を出ることを上行と名づけ、断見、常見の生命観を越えて永遠の生命観を会得することを無辺行と名づけ、三界の見惑、欲界の思惑、無色界の思惑、根本無明惑等、の五住の惑いを超えることを浄行と名づけ、そして菩提樹のように真実正しい道を歩み、円満な人徳をもつことを安立行と名づけるのである」とある。
 今、日蓮大聖人およびその門下が、南無妙法蓮華経と唱えるのは、すべて地涌の菩薩の眷属なのである。
 また、火は物を焼くのがその使命であり上行である。水は物を浄めるのが使命であり浄行である。風は塵や垢などを吹き払うのが使命であり、無辺行である。大地は草木を育成するのが使命であって、安立行である。四菩薩の行は不同であっても、ともに南無妙法蓮華経の修行なのである。この四菩薩は下方に住するゆえに天台は法華文句で「生命の奥底であり、究極である」といったのである。下方が地涌の菩薩の住所なのである。そして下方とは真理なのである。道暹の輔正記には「下方とは竺の道生のいうには妙法蓮華経の道理にかなっていることである」と説いている。この理の住処から出現するのを事というのである。また、いっさいの草木といえども、地涌の菩薩でないものはない。それゆえ、地涌の菩薩を本化というのである。本とは教相からいえば五百塵点劫、観心からいえば無始無終の久遠元初からの利益なのである。
 この地涌の菩薩は根本の法をもっているのである。本法とは、南無妙法蓮華経である。この南無妙法蓮華経の題目は、地涌の菩薩のたもつところであって、迹化の菩薩のたもち得ないものである。この南無妙法蓮華経の体から用、働きを出して、天台は、摩呵止観、一念三千を弘めているのである。この本法を受持するのは信の一字によるのである。成仏を疑い、御本尊を疑うという根本の迷いを、対治する利剣は、信の一字なのである。文句の九の「疑い無きを信と曰う」という釈をよくよく思うべきである。

唱導之師
 涌出品に「是の菩薩衆の中に、四導師有り。一を上行と名づけ、二を無辺行と名づけ、三を浄行と名うけ、四を安立行と名づく。是の四菩薩、其の衆中に於いて、最も為れ上首唱導の師なり」とある。
―――
涌出品
 涌出品は地涌の菩薩の品である。この品より本門となり、前半では他方の八千恒河沙の菩薩が、仏滅後、娑婆世界において妙法蓮華経を流布もらいたいという要請をするが、仏は絶対に許さない。「止みね善男子、汝等が此の経を護持せんことを須いじ」といい、あくまでも本眷属の上行など四菩薩を上首とした六万恒河沙の大菩薩を召して、末法における妙法蓮華経の流布を許す重要な品である。涌出品は、なお略開近顕遠を説き、動執生疑させたのである。
―――
本化の菩薩
 迹化の菩薩に対する語。法華経本門にいたって出現した菩薩で、釈尊の久遠の弟子である地涌の菩薩をいう。一重立ち入って言えば本化の本とは久遠元初の独一本門のことであり、久遠元初以来の日蓮大聖人の本眷属をいう。
―――
所作
 ふるまい。
―――
引導
 導くこと。案内すること。
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輔正記
 法華文句記の注釈書。道邃の著
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四徳
 常楽我浄のこと。
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二死
 二種の生死分段の生死と変易の生死のこと。分段の生死とは、三界六道の生死でいわゆる迷いの生死であり、不善業・煩悩・業の因縁で、六道の間、それぞれの果報の身を現ずる。それに分段段落の差があるので、分段の生死という。変易の生死とは三界六道を出た生死で見思の惑を断じた声聞・縁覚・菩薩の聖者の生死である。修行の過程で分段の身を変易して煩悩を断ち智慧を開いていくゆえに変易の生死である。総勘文抄には「損変易生とは 同居土の極楽と方便土の極楽と実報土の極楽との三土に往生せる人・彼の土にて菩薩の道を修行して仏に成らんと欲するの間・因は移り果は易りて次第に進み昇り劫数を経て成仏の遠きを待つを変易の生死と云うなり、下位を捨つるを死と云い上位に進むをば生と云う是くの如く変易する生死は浄土の苦悩にて有るなり」(0571-05)とある。分段・変易の生死を合わせて二種生死という。 
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断常の際
 断常二見のこと。断見と常見のこと。外道の生命観である。断見とは心身ともにこの一生を限りとして断絶し、再びうまれないという思想。常見とは心身ともに不住不滅であると説くが、鳥は、いつも鳥、人は必ず人に生まれると説いて、真の因果を説かぬ思想。いずれも偏見で見解に62種ある。六十二断常の見という。
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五住の垢累
 五住の煩悩のことである。垢累とは、けがれのこと。すなわち生命の濁りであり、煩悩をさしている。一に三界の見惑、二に欲界の思惑、三に色界の思惑、四に無色界の思惑、五に根本無明惑である。宇宙の実相を掌握するのをさまたげる働きをするものをいう。
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道樹
 道場樹、菩提樹のこと。いっさいの仏は、この樹の下で正覚を開くという。
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法性之淵底玄宗之極地
 法華文句には「下方とは法性の淵底、玄宗の極地なり、故に下方と言う」とある。地涌の菩薩が下方に住していることに対する釈である。法性とは生命、淵底とは奥底ということである。玄宗とは根本という意味。獄地とは究極ということである。生命の応底、究極たる南無妙法蓮華経こと。
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生公
 (~0434)竺の道生のこと。中国東晋の世の僧。俗名は魏氏、河北省の人。幼少から竺法汰について出家、15歳で講座に登った。東秦の隆安年中に盧山慧遠の文に入り、のち、鳩摩羅什が長安において経論を伝訳すると聞き門に加わり、羅什門下の四傑のひとりとなった。義熙5年(0409年)、羅什が逝去すると建康に帰り青園寺に住した。羅什が亡くなった後に、法顕が訳した大般泥洹経六巻が伝えられ、羅什門下の衆僧はみな競うように泥?経を研鑚したという。しかし、周りの衆僧たちが経典に表れた表面的な文字に固執し、深く仏意を思惟ないことに対し、「悉有仏性説」に基づいた「頓悟成仏義」を主張して、二諦論や法身無色論、善不受報、仏性当有論などを著して、慧観らと論争になった。これに対し建康では、義熙5年(0409年)、羅什が逝去すると建康に帰り青園寺に住した。羅什が亡くなった後に、法顕が訳した大般泥洹経六巻が伝えられ、羅什門下の衆僧はみな競うように泥?経を研鑚したという。しかし、周りの衆僧たちが経典に表れた表面的な文字に固執し、深く仏意を思惟ないことに対し、「悉有仏性説」に基づいた「頓悟成仏義」を主張して、二諦論や法身無色論、善不受報、仏性当有論などを著して、慧観らと論争になった。これに対し建康では、五時八教の教判のルーツとなる、独自の教相判釈を道生が打ち立てた。さらに法顕訳の泥洹経を研鑚し、闡提成仏の義を宣揚したが、これが元で他の衆僧たちから賓斥され、追放された。当時の涅槃経は前半部しか伝わっておらず、そこには闡提は成仏しにくいことが繰り返し説かれていたからである。その時に道生は「我が所説は、もし経義に反するれば現身において癘疾を表さん。もし実相と違背せずば、願わくば寿終の時、獅子の座に昇らん」と誓い、蘇州の虎丘寺に立ち去ったという。伝説によると虎丘寺の山中で道生が山川の石に向かって涅槃経を説き、また闡提成仏の義を説くと、石の群集はみな首肯して、飛び上がって喜んだといわれている。元嘉7年(0430年)に、再び廬山に戻る。しかし同年、南宋に曇無讖訳の北本涅槃経が伝わり、慧観らが法顕訳の六巻泥?経と統合訂正して「南本・大般涅槃経」が完成すると、そこには闡提も成仏することが説かれており、道生の唱えた闡提成仏の義が正しいことが証明され、衆僧たちは皆、その先見の明に感嘆し服したといわれる。道生の業績は計り知れず、唯識・般若から法華、また涅槃と導いたことは、後に智顗が開いた天台宗にも影響を与えたといわれる。元嘉11年(0434年)の11月、廬山において法座に昇り説法が終るや眠るように入滅したという。
―――
無疑曰信
 「疑い無きを信心と曰う」と読む。
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本化の菩薩の所作としては南無妙法蓮華経なり
 本化の菩薩の振舞い、実践は、すべて南無妙法蓮華経を根本としている。迹化の菩薩は、蔵・通・別・円と教化をうけ、機熟し、所詮は法華経二十八品をたもった振舞いであるけれども、本化の菩薩は、本来、南無妙法蓮華経を根本とし、南無妙法蓮華経を受持しきった振舞いなのである。ここに迹化の菩薩と根本的な相違があるのである。
 かつて、戸田城聖前会長は「世の中の政治家等の指導者は、迹化の菩薩である。われわれは本化の菩薩である」と、生活に約して説明されたことがあった。いかに偉大な指導者、政治家であったとしても、三大秘法の大御本尊をたもっていなければ、根本的な、世の中の革命、一人一人の救済は絶対にできない。
 したがって、新しい時代に新しい哲学をもって、新しい指導者が涌出して、これからの日本の国の繁栄のため、そしてまた、世界の平和と幸福のために戦っていく以外にない。われわれこそ、民衆の幸福、世界平和をかちとる戦いの先駆者であり、指導者であると確信すべきである。
此れを唱と云うなり
 唱導之師の唱とは、南無妙法蓮華経と唱えることである。また、南無妙法蓮華経を根本として、大指導者になって、いっさいの民衆のために、人類の文化のために、あらゆる階層にたたかいを進めて、貢献していくことをいうのである。われわれの妙法を根底にしたいっさいの言々句々は唱である。
 アメリカの大統領も、ソ連の最高首脳も、またフランスの大統領も、国家のために、または民族のために、あるいは世界の平和のために、長時間にわたる演説もするし、政策も発表する。また、その他、評論家にしても、学者にしても、さまざまなことを発表する。それらはぜんぶ、一応は唱になるのである。だが、それらの唱は有名無実であり、必ずしも民衆の幸福につながらない。かえって、民衆に、不安と動揺を与える場合も多々である。大御本尊を持ったわれわれの、いっさいの言々句々は、妙法蓮華経の法理にかない、平和と幸福のために事実の上に通じていくのである。
導とは日本国の一切衆生を霊山浄土へ引導する事なり
 唱導之師の導とは、日本国の全民衆を霊山浄土へ引導する。 大御本尊を持たせ、創価学会員として、広宣流布に邁進していくことが、力強い息吹となり、全世界へ波及していくのである。
末法の導師とは本化に限ると云うを師と云うなり
 末法の導師とは、別しては日蓮大聖人、総じては、大聖人の弟子である。世の中には、いろいろな指導者や師匠がいる。しかし五濁爛漫の末法の全民衆を救済しきる真実の指導者は、大御本尊を受持しきっている者に限るのである。
 この大聖人の御文を拝するならば、われら地涌の大菩薩が、あらゆる分野に、あらゆる階層に進出し、一切の人々を、誘引、引導しきる、真実の中の真実の師匠であり、指導者たることを確信すべきである。
上行は我を表し無辺行は常を表し浄行は浄を表し安立行は楽を表す
 いまこの文を信心の上から拝すれば、上行は、南無妙法蓮華経という、我を表す。われわれは六道輪廻、九界そしてまた十界の生命活動をしているけれども、その根本は南無妙法蓮華経を唱えいくことである。いかなる場合でもただ南無妙法蓮華経を唱えることを、忘れないという我である。無辺行とは、一切法これ仏法で、いかなる生活、どんな境遇、どんな時代であっても、つねに南無妙法蓮華経を忘れないことである。
 浄行は、同様にいかなる時代が来ようとも、どんな境遇であろうとも、どんな悲しいときでも、どんなつらいときでも、どんなうれしいときでも、ただ南無妙法蓮華経を根本とした生活、生命活動は浄のなかの浄である。世の中は、五濁爛漫であり、おごりたかぶり、にごりきった人々ばかりである。だが蓮華の花が、ちょうど泥沼に咲くごとく、泥沼のような九界の現実の世界の中で、題目をあげきっていく人生活動は、もっとも浄らかな生命活動なのである。安立行は、寿量品の「我此土安穏」と。いかなる時代にあっても、いかなる事態がおころうとも、いつも南無妙法蓮華経を受持し、唱えているならば、楽である。すなわち、常楽我浄を上行・無辺行・浄行・安立行の四菩薩から説いたわけである。
 小乗仏教は、苦集滅道であり、苦・空・無常・無我である。それに対して、大聖人の仏法は常楽我浄である。また大聖人は「南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり」(0788-五百品)とも仰せである。すなわち浄楽我浄である。まだまだ幾重にも生命論の立場で、さまざまに解釈ができる。
有る時には一人に此の四義を具す二死の表に出づるを上行と名け断常の際を踰ゆるを無辺行と称し五住の垢累を超ゆる故に浄行と名け道樹にして徳円かなり故に安立行と曰うなり
 この文について、日寛上人の開目抄文段には、次のごとく説かれている。
 「二死の裏に没するとは下る義であり、すなわち?縛不自在である。二死の表に出ずるのは上る義であり、すなわち解脱自在である。ゆえに、上行は我を表すのである。断常を踰え辺際なしとは中道常住であり、ゆえに無辺行は常を表すのである。五住の垢累を超ゆるとはすなわち清浄である。ゆえに浄行は浄を表すのである。道場菩提樹の下で万徳円満すとは安楽に成立することであり、ゆえに安立行は楽を表すのである。これらは別体の地涌である。
 次に『有る時には一人に此の四義を具す』とは、すなわち総体の地涌である。在世は別体の地涌であり、末法は総体の地涌である。なぜなら「有る時」とは末法を指すからである。ゆえに末法の地涌の菩薩には浄楽我浄の四徳が一身に具わっているのである。これこそ御本仏日蓮大聖人であらせられる」
 もし、この総体の地涌をわれわれの信心生活に約していえば、われわれが大御本尊を信じて、唱題していくならば、四菩薩の徳用が、わがこの一身にそなわることである。
 いまその立場から、この文をみていくこたにする。
 「二死の表に出づるを上行と名け」分段、変易等の生死の苦に束縛されない、自由自在の境涯を上行と名づけるのである。題目を唱え、仏界を涌現した生活は、なにものにもおかされない、力強い生命活動の現われである。上行こそ、真の自由の境涯なのである。
 「断常の際を踰ゆるを無辺行と称し」断見、常見等の低き生命観を捨て去り、永遠の生命観に立った時、一切の行き詰まりは、ことごとく打破され、広々たる未来の心境に生きることができる。これ無辺行の境涯である。「五往の垢累を超える故に浄行と名け」五往の垢累等、宇宙の本体、生命の本質を見分けることのできない惑いから来る。生命の穢れは、妙法の強力な仏界に照らされ、浄化され、清浄無染の生命活動をしていくのである。これ浄行の境涯である。
 「道樹にして」とは、道場菩提樹の下でとの意味である。すなわち、信心生活に約せば、いっさいを、仏法を根本として如実知見していける人生である。ものごとに対して、道筋をとおし、またあくまで正論は正論として、いいきっていける。また見ていける生活である。「徳円かなり」とは、もっとも人間らしい人格者である。人間革命されきった人格、個人も幸福であり、隣人をも情けをもって幸福に導いていける人格、それを名づけて安立行というのである。よく戸田城聖前会長は「私はりっぱな平凡な大凡夫である」と申され、初代牧口会長も「信心しきった場合には、結局は、一見すればりっぱな平凡な人間である」といわれたと聞く。信心すれば自然と円満な徳はそなわるのである。むしろ、いまの有名人や政治家は、権威をもち、虚栄をもち、背のびし、人間らしい人間ではなく、一種の片端となっているのである。われわれの場合は、ありのままで、自然と「徳円か」な姿になっていくのである。生命の本質からあらわれた自然の姿である。
 決局こうみていくと、御本尊を受持し、御本尊に題目をあげていくことそれ自身が、二死の表に出たことになり、断常の際を踰えたことになり、五往の垢累を超えたことにもなり、徳円かなることになるのである。
今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱え奉る者は皆地涌の流類なり
 諸法実相性には「皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり」(1360-08)とある。すなわち南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、皆地涌の菩薩の眷属なることをいうのである。
 従って、法華経二十八品、そして、従地涌出品に説かれた、教相における地涌の菩薩は、この大聖人の観心釈によって、所詮は日蓮大聖人の弟子を意味することがわかろう。遠く経文にあったものは、実は現実のわが身の上のことなのである。
 法華経を読むと、非常に数学的に大きいことが説かれている場合が多い。たとえば経文には「百千万億那由陀劫」とある。だが大聖人の観心釈では、それは百界千如と読むわけである。また「観音三十三身」とあるのを、大聖人は、空仮中の三諦と読み、十界と読み、また法報の三身と読む。また「千仏の御手」とあるのを、千如と読む等、けっして経文上のことではなく、一歩深く、生活に直結して説かれている。これが大聖人の仏法から法華経を解釈する読み方なのである。次にあげる涌出品の文を教相のまま読んでも、現在の創価学会の広宣流布に向かう姿に、ひじょうによく似ていることがうなずける。
 「一一の菩薩、皆是れ、大衆の唱導の首なり、各六万恒河沙等の眷属を将いたり。況や五万・四万・三万・二万・一万恒河沙等の眷属を将いたる者をや。況や復、乃至一恒河沙、四分の一、乃至千万億那由陀分の一なるをや。況や復、千万億那由陀の眷属なるをや、況や復、億万の眷属なるをや。況や復、千万、百万、乃至一万なるをや。況や復、一千、一百、乃至一十なるをや。況や復、五、四、三、二、一の弟子を将いたる者をや。況や復単己にして遠離の行を楽えるをや。是の如き等の類比、無料無辺にして、算数譬喩も知ること能わざる所なり」
 また、この経文からすれば、まだまだ折伏はできることになる「仏語実不虚」の自信をもち、勇気をもって、誉れ高く、すすんでいきたいものである。
又云く火は物を焼くを以て行とし水は物を浄むるを以て行とし風は塵垢を払うを以て行とし大地は草木を長ずるを以て行とするなり四菩薩の利益是なり
 地水火風の四大を四菩薩に配立し読むところである。
 比は空に上がるゆえに上行は火大であり、風は辺際がないゆえに無辺行は風大であり、水は清浄なるゆえに浄行は水大であり、地は万物を安立するゆえに安立行は地大に配せられるのである。古くから天台仏法では、四菩薩を四大に配立した文献が残っている。天台家の大学者といわれた尊舜の止観見聞の五には「地湧の四大士は即四大なり地大は万物を育し、清水は塵垢を洗い、火大は寒苦を防ぎ、涼風は九夏の熱を涼ます。皆是れ本地の慈悲本覚所施なり」とある。
 天台は、四菩薩の行を四大にことよせて論じているが、所詮は四菩薩とは妙法蓮華経それ自体であることをあらわそうとしたものである。すなわち、四菩薩とは、宇宙本然に備わる大慈悲の生命活動であり、個人に集約すれば、尊極極まりなき、妙法の生命活動をいう。
四菩薩の行は不同なりと雖も、倶に妙法蓮華経の修行なり
 いっさいの宇宙の森羅万象の中にも四菩薩の働きはある。同じく、ある人は政治家に、ある人は実業家に、ある人は科学者に、教育者に、ある人は家政婦に、ある人は職工に、ある人は新聞記者に、ある人はカメラマンにと、四菩薩の行は不同なりといえども、ともに妙法蓮華経の修行なのである。
 すなわち、南無妙法蓮華経を根本とするならば、どういう立場であっても、いかなる境遇であっても、おのおの使命感に立って生活し、活動し、人生を生ききっていくことが、それ自体りっぱな仏道修行なのである。広宣流布につながり、社会を利益していくことに通じている。との仰せである。これこそ、民主主義の原理なのである。
 わが教団は、誠実であり、清潔である。団結が強い。外見から見た人は、自由がないのではないかと錯覚するであろう。これ大なる誤りである。一人の人間が、命令的に民衆を引っぱっていけると思うこと自体、時代錯誤である。混沌としているこの日本国で、放縦なこの社会にあって、だれが命令で動くかといいたい。わが子さえ、意見を聞かぬ場合が多い。いわんや、何百万、何千万の人が命令についてくるわけが絶対にない。
 わが教団は、わが和合僧は、命令主義でもない。英雄主義でもない。また、そんな時代でもなく、機根もないのである。
 われわれは、信心一途である。ゆえに強いのである。この本質を、わきまえぬため、彼等は愚論を繰り返しているに過ぎないのだ。われわれは、ただ、大御本尊を受持することを根本とし、各人が一生成仏を目指しゆくことのみが、目的なのである。いかなる生活であろうが、職業であろうが、またいかなる境遇であれ、ぜんぶ自由である。創価学会は、それぞれ主体性を持ち、その境遇の中から、広宣流布を成し遂げようという目的観に立った、異体同心の団結なのである。これ未曾有の、新世紀にふさわしい、大宗団の出現であり、大勝利の前進の足音と確信したいものである。
此の四菩薩は下方に住する故に釈に「法性之淵底玄宗之極地」と云えり,下方を以て住処とす下方とは真理なり,輔正記に云く「下方とは生公の云く住して理に在るなり」と云云、此の理の住処より顕れ出づるを事と云うなり
 「法性之淵底玄宗之極地」とは、南無妙法蓮華経のことである。すなわち真理の中の真理、生命の奥底、宇宙の本源、本体であり、あらゆる法理、道理の根本である。たとえば、エネルギーの根本、草木が繁茂してゆく、その力の根本力、われわれが活動してゆく源泉力、それを天台は「法性之淵底玄宗之極地」といったのである。
 われわれは、信心なき時は、隣人の不幸をかえりみなかった。自分のことでいっぱいであったのである。しかし、一度、大御本尊を受持して、生命力は涌き出て、不幸な人を救おうとの慈愛に満ちているのである。日本の国の安穏安泰も考えるようになった。世界の民衆の幸福も、心から願いゆくようになった。
 これは観念論ではなく、事実、現実に活動を展開しているのである。これは、地涌の生命が、奥底より涌現している姿なのである。
 戸田城聖前会長は、青年訓に「青年は、親をも愛さぬような者が多いのに、どうして他人を愛せようか。その無慈悲の自分を乗り越えて仏の慈悲の境地を会得する人間革命の戦いである」と述べられている。大御本尊に、南無した時、仏の慈悲の境地に立脚し、あらゆる衆生を利益する力が涌き、世界平和のため、全民衆のために貢献していくことが可能になるのである。
 また御義口伝には「涌出とは十界の衆生の出胎の相なり」(0799-涌出品-02)とあるごとく、地涌の菩薩の出現は、四徳をそなえた尊厳なる生命が、母の胎内より涌出することを意味するのである。
 「下方とは真理なり」の真理とは道理ということである。神が人間をつくったという不合理、あるいは観念的なものではないということである。また、下方とは実際に大地ととってよいと思う。われわれが歩くのも大地がなければならないし、いくら飛行機が飛んでも、最後は大地に戻ってこなければならないし、鳥もやはり決局大地に戻ってこなければならない。われわれが食べるものも、すべて大地より生育され、育成されるのである。さらに太陽の熱、またいっさいの引力も、星の運行も、大地に直接関係をもつものである。なお、竺の道生が述べた「下方とは住して理に在るなり」の理とは、南無妙法蓮華経を指しているのである。
 「此の理の住処より顕れ出づる事というなり」とは、事すなわち、生活実践をいう。また、現象界を指す。所詮、あらゆる現象は南無妙法蓮華経を根本としているということである。天台大師が「起はこれ法性の起、滅はこれ法性の滅」と論じたごとく、全現象の起滅等は、ぜんぶ妙法蓮華経を根本としてあらわれた姿である。換言すれば、現実の中に、妙法の大法則があって、決して観念的なものではないということである。
又云く千草万木・地涌くの菩薩に非ずと云う事なし
 これ、妙法を根本とすれば、一切の活動が地涌の菩薩の働きに変わるという文である。例えば原子爆弾たりとも、「地涌の菩薩に非ずと云う事なし」の道理になるのである。これは、妙法を根本とすれば、原子爆弾も必ず平和開拓利用に変わってゆくとの原理である。反対に誹謗、謗法のみ世界に充満した場合、阿鼻叫喚地獄になって、千草万木は死滅してしまう。共に、一切のものが、天魔の働きに変わってしまうのである。世界恒久平和を根本理念とし、人類共栄の永久原理とし、かつまた、地球民族主義の一大指針として、心ある人に、この大法理をば、伝えきらねばならない。
されば地涌の菩薩は本化と云えり等
 「久遠五百塵点」とは教相である。「無始無終」は久遠元初であり、観心である。ここでは当然、久遠元初の日蓮大聖人と拝すべきなのである。「本法所持の人」とは、別しては日蓮大聖人、教相では上行菩薩のことである。信心より拝すれば、大聖人の弟子である。われわれを指すのである。
此の本法の体より用を出して止観と弘め一念三千と云う、惣じて大師人師の所釈も此の妙法の用を弘め給うなり
 南無妙法蓮華経が本体であり、それから用をいだして、釈尊は法華経二十八品を説き、天台は摩訶止観を説いたのである。また、あらゆる大師、人師、例えば、竜樹、天親、妙楽、伝教等も、南無妙法蓮華経の本体の用を弘めたに過ぎないのである。その本体を直接弘めていくのが、本化の地涌の菩薩である。すなわち、われわれのことである。なんと福運の大なることであろうか。かつ、重大な使命を痛感しうるものである。
此の本法を受持するは信の一字なり、元品の無明を対治する利剣は信の一字なり無疑曰信の釈之を思ふ可し
 「此の本法」これすなわち、三大秘法の大御本尊を受持するのは、信の一字である、との御断言である。元品の無明とは、不幸の根本をいう。それを断ち切る利剣は、信の一字しかないとのおおせである。政治、法律、機構、制度、教育、環境だけでは、この無明、不幸の本源の解決は、永久にでき得ない。結局、抜本的に、日本の国の、幸福と平和と繁栄を築くのは、信心強盛なる地湧の菩薩のみであるとの文なりと大確信すべきである。