2011.3.11 東日本大震災 宮古の記録 

2011.3.11~9.11 半年の記録
トップ写真:「広報みやこ」2011年6月1日号から借用
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宮古onWeb

2011年3月11日(金)午後2時46分、大地震発生。
 気象庁は2011年東北地方太平洋沖地震と命名。
 震源は三陸沖。
 マグニチュードは初め8.8と発表し、13日に9.0と訂正。
 最大震度7、宮城県栗原市。
 宮古の震度は5強〜5弱。
 天気は曇り。
 夕刻から雪が舞う寒い日。
午後2時49分、岩手県に大津波警報と避難指示。
人は高台へ、避難所へ。
 一方、高台、避難所から、自宅へ戻る人もいた。
すぐに動かせる船は、沖へ向かって逃げた。
 例えば青年漁師の平運丸。
大型の底引き船11隻が難をまぬがれる。
 地震のとき水揚げ作業中で、すぐ沖へ向かって津波をやり過ごした。
県北自動車の遊覧船3隻のうち2隻が失われた。
 無事だったのは第16陸中丸。
 臨時便の運航を終えて桟橋に係留中、地震が起きた。
 船長の判断で船を出した。
 引き波に乗って沖へ向かった。
 あと5分遅ければ、引き波による深度不足で埠頭を離れられなかった。
 約42時間、沖合いで待機。
 3人の乗員は、残っていた「うみねこパン」を食べて飢えをしのいだ。
 2日後、海上自衛隊の船から水・食料の配給を受けた。
 浮遊物や沈んでいる瓦礫を避けながらの帰港に2時間かかった。
 第15陸中丸は修理のため陸揚げ中、鍬ヶ崎の町中に押し流された。
 失われたもう1隻は第12陸中丸か?
気象庁による岩手県の津波の予想は、高さ3m。
 その後、6m、10mと変更した。
 ところが、停電のためもあって、多くの住民には最初の3mしか伝わらなかった。
 この3mという情報を鵜呑みにして、津波から逃げ遅れた人も少なくない。
2日前、3月9日(水)午前11時45分に三陸沖を震源とする地震が発生している。
 マグニチュード7.3、宮古の震度4。
 このときの津波が30cmほどだった。
 そのため11日の地震でも、高をくくって逃げなかったという人も多い。
宮古への津波、第1波は地震の直後で、波の高さは20~30m。
午後3時10分頃、閉伊川の河口部、宮古港、浄土ヶ浜、蛸の浜などで、底が見えるほど水が引いた。
午後3時20分過ぎ、大津波(第2波)が襲来。
本州最東端とどヶ崎を擁する重茂に最初に到達。
 一説によると、宮古港への到達より10分早い、午後3時10分頃だったという。
重茂漁協は所属船814隻のうち800隻を津波で流失。
浄土ヶ浜マリンハウスの建物は残ったが、津波が突き抜けて内部は空洞。
 屋根に船が載った。
浄土ヶ浜レストハウスも建物は残ったが、津波が突き抜けて内部は空洞。
浄土ヶ浜レストハウスの前、屏風岩を越えて津波がなだれ込んだ。
浄土ヶ浜の津波碑の古いほうが流失。
 1933年(昭和8)3月3日に起きた昭和大海嘯の記念碑。
(後記※津波碑はその後、海底から発見され、元に戻された)
 その西側そばにあった桜、根元から折れる。
 その西側にあった三本松、流失。
浄土ヶ浜の宮沢賢治歌碑は残った。
竜神崎、竜神さまの社が流失。
 赤い太鼓橋と鳥居、八大竜王碑は残る。
 魚霊塔、流失。
竜神崎の検潮所、破壊される。
赤灯台の立つ宮古港防波堤が流出。
角力浜、犠牲者1名、80代男性。
 ほかは避難誘導路から臼木山に避難して無事。
 角力浜町内会は40世帯約110人。
日立浜、山根町、蛸の浜町、港町、鍬ヶ崎下町・仲町・上町、潰滅。
鍬ヶ崎上町のプチホテル海幸園では地震後、鏡岩の漁協ビルに避難。
 海幸園2階まで津波をかぶったものの建物は残る。
 鏡岩の標高は29m。
南隣りにあった旧遊郭の更科楼、全壊。
鏡岩(標高29m)の漁協ビルから、さらに旧魚市場ビル?から撮影した、出崎埠頭に津波が押し寄せるニュース映像。
 津波が大量の車をおもちゃのように押し流し、閉伊川を溯ってゆく。
 大小の船が上流に流されてゆく。
蛸の浜の防波堤、決壊。
 蛸の浜の橋、崩落。
蛸の浜の坂の頂上は標高約18m。
 津波はその坂を越え、怒濤となって町を襲った。
 鍬ヶ崎から来た津波とぶつかった。
鍬ヶ崎小学校の校舎1階まで波が来た。
 熊野神社に避難し、生徒・教職員みな無事。
港町交番の巡査二人が、住民の避難誘導中、津波に呑まれて殉職。
藤原埠頭の宮古港湾合同庁舎、2階まで水没。
 鉄筋3階建てで、職員は屋上へ避難。
午後3時26分、大津波が築地の堤防を越える。
 堤防の高さは5.26m。
   > 科学映像舘>東日本大震災巨大津波
最大波は午後3時26分、8.5m以上。
 ただし、竜神崎の検潮器が破壊されたため、以後の記録は不明。
光岸地の浄土ヶ浜旅館・味処海舟が大破。
宮古市役所の5階から映した、閉伊川の堤防を、真っ黒い津波が越えるニュース映像。
 真っ黒いのは、湾内の海底や川底のヘドロを巻き上げたため。
市役所2階まで津波をかぶる。
築地、愛宕、新川町、津波に呑み込まれ、建物が押し流される。
 押し流された船が、車が、家が、町を押し潰してゆく。
愛宕食堂、1階天井近くまで浸水。
市役所前にある歩道橋の最高部は水をかぶらなかった。
 ここにいて助かった人がいた。
昭和館前の電柱によじのぼって助かった人(男性)がいた。
 そばに信号もあり、シグナルの高さまで登った。
築地のNTTがやられて固定電話が通じない。
 回線経由のインターネットが使えない。
 市街地で固定電話が通じたのが3月22日頃。
携帯もだめ。
 比較的 au が通じたらしい。
築地2丁目の羅賀丸石油、若山食堂など、流失。
 不思議に旧白浜丸待合所の建物が残った。
新川町から向町にかけての堤防や宮古橋に真っ黒い津波がぶち当たって盛り上がる。
宮古橋は補修工事中だった。
 欄干流失。
 向町がわの付け根の道路部分が津波を受けて一部陥没。
船場の水門を閉めた2分団員は、閉伊川を監視中、堤防を越えた津波に巻き込まれた。
 Aさんは旧国際劇場のほうまで流されたが助かる。
JR山田線の閉伊川鉄橋、船場側から三分の二が崩落し、上流に押し流される。
南町、少し水が入ったが大きな被害なし。
 八幡土手とJR山田線の土手に守られた。
宮町も無事。
南町・宮町あたりの住民は宮高や八幡さまへ避難した。
 一中は工事中で入れなかったらしい。
宮町のNさんは、地震のとき出崎埠頭の「シートピアなあど」にいた。
 魚の発送のため車で国道106号を長町の運送店に行った。
 自宅に戻ってくると八幡さまにみんな逃げている。
 それでやっと津波が来ていることを知った。
防潮壁を越えて漁船がなだれこみ、向町の2分団の側面に激突。
向町の介護施設あお空が孤立。
漁船が中央通りのセントラルホテル熊安あたりまで押し流された。
新町のエル・アミーゴあたり2m以上冠水。
大通2丁目で1.8mの冠水。
 十数人が3階建ての建物に避難した。
 水が引いたのは午後9時頃。
大通1丁目の安倍屋(あんばいや)あたりも、1.8mほどの高さまで水が来た。
大通1丁目の宮古教会あたり、1.5mの水。
長谷川駐車場のあたりで1.5m浸水。
末広町交差点のあたりで1.5m冠水。
旧山口川沿いの宮古保育園は、津波をかぶった。
 6月14日現在も修復ができずに常安寺保育園に間借りしている。
第二幹線、元祖いかせんべいの菅田のあたりで1.3m冠水。
避難所になった宮古小学校の校庭の3分の2が水に浸かった。
五月町の魚菜市場の近くまで水が来たが被害はなかった。
津波は宮古駅前のロータリーで止まり、駅舎は被災を免れた。
宮古駅前交差点で20cm冠水。
キャトルの前まで水が来た。
山口川は、山口小学校のところで土手下1mまで津波がさかのぼる。
 タバコ屋のおばさんは、怖くて仕方がなかったという。
藤原堤防の北端、閉伊川河口藤原防潮壁の東端部、決壊。
藤原では比古神社、旧伊藤牧場、ラジオ塔のあたりに避難した。
藤原保育園は小山田保育園に統合されて、園児はいなかった。
元祖いかせんべいの菅田の藤原工場・支店、1.8m浸水。
 従業員、全員無事。
 機械は壊されたが、手焼きの焼き型が残る。
 1枚焼き(80枚)と8枚焼きの2種類。
磯鶏石崎、切り通しの崖が地震で崩落。
貯木場の大量の丸太が津波とともに磯鶏を襲った。
黄金浜の老人福祉センター潰滅。
黄金浜、老人福祉センターかたわらの龍神碑は残る。
神林、全滅。
宮古警察署、2階まで浸水。
リアスハーバー宮古潰滅、全艇流失。
宮古湾かき養殖組合のカキ養殖棚171台が全滅。
藤の川のレストランまるみつ、大破し、犠牲者が出た。
高浜の異人館、建物は残ったものの1階は空洞、営業再開不能。
 隣の高台にある母屋は無事。
宮古浦しおさい舗道、大破。
高浜入り口の国道45号を楽々越えて津波は集落になだれ込んだ。
yama君からの高浜報告
3月11日当日、夜に(盛岡から)宮古に駆けつけた。
厳しい交通規制で高浜まで行けず、河南中で車中泊。
翌12日の朝早く、覚悟を決めて徒歩にて高浜に向かう。
河南中から、45号線に出たとたん愕然。
アスファルト道路の上には、住宅の2階部分、漁船、仰向けの車、たくさんの材木、本来家の中にあるべきあらゆる生活用品・・・・瓦礫、瓦礫、そして瓦礫・・・
この目でこれまで見たことのない光景。
気持ちを取り直して、歩みを進める。
宮商の坂を越えて、藤の川に出たとたん、また同じ光景。
戦火の跡を思わせる光景。
踵を返して、走り戻りたい気持ちを振り切って、再び歩き出す。
やがて太陽が昇り始め、浜辺の白い砂場にかもめが戯れる。
春を肌で感じるさわやかな朝。
でも、打ち寄せて帰す波がない。
そのことに気づいて、我に返る。
まだ大津波警報が発令中だったことを自らに確認して、歩みを速める。
ここに荒れ狂う怒濤が押し寄せたのは、ほんの11時間前の出来事。
瓦礫の山を、特別な思いを込めて、乗り越えながら、やっとのことで高浜にたどり着く。
道路が陥没。
幹線道路の両側は冠水。
落ちた道路を注意深く進む。
たわいのない思い出が胸をよぎる。
1969年、暑い夏。
海パン一丁で、茣蓙とラジオと大江健三郎を持って、この道を藤の川に向かうのが日課だった。
でも災禍の跡は現実。
まもなく実家にたどり着く。
家はそこにあった。
ほぼ1階部分は冠水。
庭はやはり、瓦礫。
両親は、避難所に逃げ延びてそこにはいないだろうと見上げた2階の窓が、ガラリと開く。
「おう、よく来たな」
と親父。
盆休みにかけることばの抑揚のままで、「おう、よく来たな」はないだろう親父!
なんでここに留まっているの!
今回の津波は、第一波が予想以上に早く、足の悪い母親が逃げ遅れたため、一緒に2階に逃げ込んだらしい。
事情はともかく、生きてて何より。
母親をおぶって、冠水を免れた父親の実家に駆けずりこみ、
「はぁ―」
と全員が言葉にならない声。
多くの意味が込められた、言葉にならない声。
親父が母親が何を言いたいのか、なぜかすべて理解できた。
一段落して、買い出しのために、いま来た道を折り返す。
岩も、砂浜も、山も、空も、海も、壊れない。
家も、車も、信号機も、おもちゃも、家具も、そして人も壊れる。
自然は壊れない。
ただカタチを変えるだけ。
人のつくったものは、壊れる。
壊れて残骸だけが残る。
……永遠に残るものを、俺は作る。
 以上、俺の被災報告         (私信に一部手を加えて採録)
高浜のS君。
 津波は山側にある自宅の10m下まで来た。
 家の前の坂道を、みんなが逃げてゆく。
 自分も高浜入り口の高台に避難した。
 この高台には仮設住宅ができた。
 津波後、水が引かずに海のようになった。
海抜11m以上ある高浜小学校の校庭が冠水。
 校舎の床ぎりぎりまで波が来た。
 隣の金浜老人福祉センターに避難し、児童全員無事。
 引き波で金網フェンスが倒壊。
金浜、全滅。
 防波堤決壊。
 宮古湾温泉マースの屋上に十数人が孤立。
 高さ20mはある三菱自動車の看板に波の跡。
 集落の奥を走る山田線の線路を津波が押し流す。
 宮古道路に遮られた住民が逃げ場を失って津波に巻き込まれたという話がある。
金浜の江山寺、4mの波をかぶり本堂が大破。
大通りに住む旧友が、たまたま車で津軽石方面に出かけて津波に巻き込まれ、亡くなった。
津軽石川水門にさえぎられた津波は、両側の堤防を越えて集落になだれ込んだ。
 水門も越えた。
 津軽石川水門は河口から300m上流にある。
 水門と両側の堤防の高さは8.5m。
津軽石駅で列車が押し流された。
 地震の起きた2時46分、津軽石駅を宮古へ向けて発車しようとしていた列車から乗客20人と乗務員は高台に避難して全員無事。
 2両編成のディーゼル列車は津波で100m近く南へ押し流された。
津軽石小学校、校庭まで水が来たが、生徒・校舎は無事。
赤前、潰滅。
赤前の奥に位置する宮古工業高校、1階は1m水没。
 敷地が津波に流されてきた残骸・瓦礫で埋まる。
赤前小学校の生徒、全員無事。
重茂の10集落以上が潰滅。
重茂の姉吉、漁港潰滅。
 集落は無事だった。
 ただ、他出中の母子4人が行方不明。
姉吉の海岸から坂道を800m・海抜60mほど登ったほとりに、昭和三陸大津波後に建てられた大津浪記念碑がある。
 集落は、その碑より上にある。
 碑文――高き住居は/児孫の和楽/想へ惨禍の/大津浪/此処より下に/家を建てるな//明治二十九年にも、昭和八年にも津浪は此処まで来て/部落は全滅し、生存者僅(わず)かに前に二人後に四人のみ/幾歳経るとも要心あれ
陸地を駆け上った津波の到達高度(溯上高)は、重茂姉吉の約500m内陸で海面から約40.5mだったことを研究者らが確認した。
 これまでの最高は1896年の明治三陸大津波に大船渡市で記録した38.2m。
 今回はそれを上回る、観測史上最大の津波だったことを裏付けた。
  > 海岸工学委員会東北地方太平洋沖地震津波情報
重茂の千鶏小学校は30mの高台にあるが、津波をかぶった。
重茂の鵜磯小学校、標高25mだが津波をかぶる。
重茂の白浜、住民は避難して無事。
日出島海岸、宿、中の浜、被害甚大。
女遊戸の集落は全34戸のうち20戸が流された。
 栽培漁業センター潰滅。
田老、潰滅。
 「スーパー堤防」「万里の長城」と呼ばれた防浪堤(防潮堤)を越えて津波の第2波が町を襲った。
 家屋の約8割にあたる800戸以上が全半壊。
 住民約2800人のうち約160人が死亡・行方不明。
 津波と同時に火災が発生。
 田老の防浪堤は海抜約10m・総延長約2.4km。
山田町、潰滅。
 大火災が発生。
船の大半が陸に打ち上げられ、あるいは海に流出して失われた。
 沖へ向かって逃げた、わずかな船が生き残った。
定置網、養殖施設、全滅。
閉伊川を溯った津波は長沢川の合流点まで達したという。
引き波が多くをさらっていった。
大量の瓦礫・残骸とヘドロが残った。
夕方になって雪が舞い、寒さがきつくなった。
夜になって大通4丁目1番で火災、一角が焼失。
避難所には指定避難所と、臨時に避難所になったところがある。
 避難所85箇所・避難者8889人(最大時)
半壊した自宅へ戻った避難者も多い。
 自宅避難、在宅避難。
停電、断水、余震。
 ろうそくの火で夜をあかす。
停電で、携帯電話の充電もできない。
 信号がつかない。
 医療機械が動かない。
 冷凍庫・冷蔵庫が利かずに海産物が腐る。
 自家発電装置の必要性が見直された。
断水で、地域にある湧水が注目された。
 常安寺そば、小沢、黒森神社、善林寺など。
食料・水がない、ガソリンがない、灯油がない。
被災をまぬがれたガソリンスタンドに長蛇の車列。
配給、炊き出し、支援物資。
 避難所の配給、1日に、おにぎり1個、りんご半分、飲み物。
国道45号、寸断。
 JR山田線・東北新幹線、三陸鉄道北リアス線、不通。
 道路も、鉄道も、瓦礫・残骸・泥に埋もれ、あるいは崩落、流失した。
 緊急車両、ボランティアも、被災地に近づけない。
千徳地区体育館・田老公民館体育室が遺体安置所となる。
宮古伝言板に安否を問い合わせる書き込みが相次ぐ。(5月31日で閉鎖)
自衛隊が入ったのは、3月13日か?
 自衛隊の艦艇が宮古港に入った。
 被災者に食料・毛布などを配給した。
 その後の自衛隊の救援活動は目覚しかった。
瓦礫・残骸・土砂・泥の撤去、道路の確保。
3月14日? 国道106号が通行可能に。
 緊急車両のみということだったが、一般車両も入った。
3月16日、雪が降り積もる。
 いつもより寒い春だった。
3月16日、106急行バス復活。
 一日3往復。
3月16日、三陸鉄道・北リアス線のうち、陸中野田駅〜久慈駅が復旧。
3月17日、魚菜市場が営業再開。
 午前中のみ。
物不足、買い溜め。
3月20日、三陸鉄道・北リアス線のうち、宮古駅〜田老駅が復旧。
 復興支援列車として運賃無料。
3月20日、鍬ヶ崎のプチホテル海幸園が再開。
3月22日、市街地で固定電話が復旧。
 電話回線のインターネット復旧。
3月22日、みやこさいがいエフエム開局。

3月25日、仮設住宅の建設が始まる。
 グリーンピア三陸みやこ248戸、愛宕公園81戸〜
 建設予定2000戸、住居を失った全避難世帯を収容する計画。
 家賃無料、水道光熱費は入居者負担、入居期間は原則2年。
津波をかぶった家屋の壁に「解体OK」「解体可」の文字がスプレー缶で書かれている。
 「仮設入居後に解体OK」というのもあった。
 「今まで ありがとう ぼくの家」「海なんか きらいダ〜 バカヤロー!!」「この町が好きだ! ありがとう」などというメッセージが残る家もあった。
3月26日、JR山田線のうち、盛岡駅〜宮古駅が復旧。
3月29日、三陸鉄道・北リアス線のうち田老駅〜小本駅が復旧し、宮古駅から小本駅までつながる。
4月、末広町1−6の福島湯が、脱衣所の修復工事が終わるまでのあいだ、無料開放。
4月1日、東日本大震災という名称に閣議決定。
 当初、東北大震災、東北関東大震災と呼ぶメディアが多かった。
4月5日、「広報みやこ」特別号bPを発行。
4月10日、タウン誌「月刊みやこわが町」大震災特集号を発行(4月20日付)。
4月11日、出崎埠頭の宮古市魚市場が再開。
4月11日、新町のホテル沢田屋が営業を再開。
4月11日、みやこさいがいエフエムが USTREAM でネット配信を開始。
4月11日、震災後1ヵ月。
 午後2時46分、街にサイレンが鳴りわたり、黙祷を捧げる。
4月12日、「広報みやこ」特別号bQを発行。
4月16日、桜咲きそめる。
4月19日、「広報みやこ」特別号bRを発行。
4月25〜26日、小中学校の入学式・始業式。
 この頃、桜が満開に。
4月26日、「広報みやこ」特別号bSを発行。
4月29日、浄土ヶ浜で恒例の霊鏡祭=安全祈願祭。
例年ゴールデンウィーク中に開かれる浄土ヶ浜まつり、中止。
4月29日、東北新幹線が復旧。
5月7日頃、大通1丁目、ラーメンの安倍屋(あんばいや)復活。
 以前の原材料が手に入らず、味の調整に苦慮しているとのこと。
安倍屋の隣、団子のみかわ屋は解体される、後継者もいないので廃業するらしいとのこと。
5月11日、震災後2ヵ月。
5月11日、菅田のいかせんべい工場再開。
5月12日、宮古民友(5月15日号)が発行を再開。
5月13日、「広報みやこ」特別号bTを発行。
5月下旬、1階天井近くまで浸水した愛宕食堂が復活。
5月、日本野鳥の会宮古支部の佐々木宏さん、宮古に大津波が襲いかかる写真で構成した記録集「東日本大震災」を自費出版。(奥付に発行日付なし)
5月、田老の津波伝承者・田畑ヨシさんの詩「海嘯(つなみ)〜鎮魂の詩(うた)」(2003年)にサスライメイカーが曲をつけて発表。
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 海嘯(つなみ)〜鎮魂の詩(うた)
 一 突然襲う 大つなみ
   永久(とこしえ)忘れん あの怖さ
   家と流され 諸人(もろびと)は
   海の藻屑(もくず)と 消えゆきて
   無念の涙 ほほつたい
   今 静かなる 碧(あお)き海
   悲しき海よ ふるさとの海
 二 独り残りし 幼児(おさなご)も
   人の情けに すがりたる
   育てはぐくむ 慈悲もあり
   親にかわりし 愛の手に
   健やか育ち 子のありて
   今 静かなる 碧き海
   母なる海よ ふるさとの海
 三 慰霊の前に やすかれと
   花をばたむけ 手を合わせ
   愛しき人の 思い出を
   あたためながら ふるさとの
   復興誓い 船出する
   今 静かなる 碧き海
   恵みの海よ ふるさとの海
6月1日、「広報みやこ」定期発行・大震災写真特集号を発行。
6月1日、みやこさいがいエフエムの聴取エリアが田老に拡大。
6月2日、三重県松阪市の松浦さん、自費出版の売上を宮古市の震災孤児の支援に。 > 朝日新聞
6月3日、宮古橋の歩道が開通。
6月3日、山田町の木村商店が営業を再開。
6月11日、震災後3ヵ月。
6月11日、鍬ヶ崎小学校の運動会。
田老・善助屋食堂どんこ丼、復活。
6月11日現在の宮古市の被害状況 〜岩手県HPより
 死者:417人
 行方不明者:355人
 避難者:1612人
 避難所:19箇所
 住宅・建物被害(全壊+半壊):4675件
6月14日、なあど産直が中央通り佐藤靴店跡で店舗販売を再開。
   > 寄っておでんせ宮古の産直へ
6月17日、岩手日報社、東日本大震災特別報道写真集を刊行。
6月18日、百か日法要。
6月25日、「月刊みやこわが町」大震災特集号パート2を発行。
6月26日、震災108日め、市民総合体育館シーアリーナで宮古市合同慰霊祭。
7月、市内の全海水浴場、海開きを断念。
7月11日、震災後4ヶ月。
 なお震度4クラスの余震が続く。
7月13日、出崎埠頭に山積みされていた瓦礫の撤去が終わる。
 瓦礫は岩泉町小本の仮置き場に運搬船で移送された。
 瓦礫の量は約3万トン。
 なお、宮古市の瓦礫の総量は一説に86万トンとされる。
7月13日、自衛隊、宮古地区から帰隊。
7月16日、浄土ヶ浜マリンハウス、青の洞窟さっぱ船遊覧、復活。
 県北自動車の浄土ヶ浜遊覧船、再開。
 浄土ヶ浜巡行無料ボンネットバス、運行開始。
7月18日、田畑ヨシさん『おばあちゃんの紙しばい つなみ』、産経新聞出版から刊行。
7月23日・24日、鍬ヶ崎のおぐまんさま(熊野神社)のお祭り。
7月29日、津波で破壊された検潮所が藤原埠頭に新設され、観測再開。
7月29日、重茂漁協で震災後初のウニの口開け。
 宮古漁協・田老漁協は今シーズンのウニ漁をとりやめ。
7月29日、「月刊みやこわが町」8月号「特集 2011.3.11東日本大震災 ふるさと明日への絆」発行。
7月29日付、被災状況 PDF文書
7月31日、JR山田線の舘合踏切が開通。
安全上の配慮から震災後閉鎖されていた。
7月31日、船場の水門が再び閉鎖。
2分団が担当していた堤防水門で、安全上の配慮だという。
7月、宮古湾かき養殖組合が仮復旧の養殖棚約90台で再開。12年6月の本復旧を目指す。
7月、宮古民友社が写真集 『東日本大震災 3.11宮古地方版』 を刊行。
8月3日、仮設住宅2010戸がほぼ完成。
8月5日、浄土ヶ浜パークホテルが一般客の受け入れを一部再開。
浄土ヶ浜パークホテルは震災から1カ月、約200人の避難所となり、その後は復興支援関係者が宿泊し、観光客を受け入れていなかった。
73室のうち15室ほどをあてる。
8月5日、グリーンピア三陸みやこ、一般客の受け入れを一部再開。
8月10日、全避難所を閉鎖。
避難所は85カ所設置され、約8800人が身を寄せた。
8月11日、震災後5ヵ月。
8月11日、田老夢灯(あか)り。
 手作りの灯籠など約2300個を常運寺・道路・防潮堤の約1キロにわたって並べ、鎮魂と復興への祈りをこめた明かりを灯した。
 田老の死者・行方不明者は約200人。
8月12日、津波で全壊した出崎埠頭の製氷工場が再建。
一日100トンを製氷し、1000トンの氷を貯蔵する。
8月13日、震災後の初盆。
8月14日、宮古夏まつり海上花火大会。
8月14日〜15日、鍬ヶ崎小学校の校庭で盆踊り大会。
8月29日、県立宮古工業高等学校が赤前1−81の本校舎で授業を再開。
 被災後、水産高校・商業高校で分散授業を行なっていた。
8月29日、「月刊みやこわが町」9月号「特集 22011.3.11東日本大震災 大好きみやこまち」発行。
9月1日、宮古商工会議所が 『写真特集 Document2011.3.11 津波 宮古市の被災記録と復興への一歩』 を発行。
 広報みやこ6月1日号を再編集したもの。
9月2日現在、岩手県内では仮設住宅1万2875戸、民間賃貸住宅3448戸、雇用促進住宅829戸、公営住宅等174戸に、合わせて4万3375人の被災者が暮らしている。
9月4日、「がんばれ!宮古市 目黒のさんま祭り」大盛況。
 宮古市は7000匹のさんまを贈った。
9月9日現在、岩手県総合防災室によると、県内の死者数4656人、行方不明者1692人。
9月11日、大震災から半年。
 岩手県知事・岩手県議会議員選挙の投票日と重なり、公的な追悼・記念行事などは行なわれなかった。
9月11日、浄土ヶ浜さんまフェスタ。
9月11日、横山八幡宮秋祭り。
 震災復興祈願祭が行なわれ、神輿が市内を練り歩いた。

                  ■ 半年を一応の区切りとして本稿を擱筆
                              2011.9.11 吉田仁
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