人間の世界ではない空間
高野山は聖地である

千数百年にわたりそう信じられてきた。

中でも「一の橋」から「弘法大師の御廟」に向かう参道に沿って
杉の木と無数の石塔が林立する「奥の院」は 人間の世界ではない と言われている。

一の橋はその「死者の世界」の結界の入り口にあたる。

僧たちはそこに足を踏み入れる時必ず手を合わせ祈りを捧げる。



しかし一人の観光客としてこの参道を歩く時には、歴史上の人物の墓に目を奪われたり
行き交う多くの参拝者や観光客の存在により、この場所の本質を忘れがちになる。




私は 高野山を案内するボランティアガイドグループに関係するようになってから
何度か外国人と共にこの場所を訪れた。

ほとんどの外国人には日本の歴史についての知識がないが、
奥の院の雰囲気は彼らに強い印象を与える。
彼らは不要な知識に惑わされずに本質を感じるのだろう。


ある日外国人の団体の案内の手伝いをした時、
一人の外国人女性が何かに誘われるように石畳の参道から離れ、
石塔群の間に入って行った。
そこは まばらな石塔が並ぶ、すこし開けた場所であった。



柔らかな光の中で
彼女は、何かを感じるように、何かを聞き取るようにたたずんでいた。
その姿を見た時、突然  私は
「ああ、ここは、人間の世界(この世)と異世界(あの世)が交わる場所なのだ。」
という事を強く感じた。



そこは 恐山のように死者の魂が集まる場所なのかどうかは解からない。
しかしそこは死せる魂が安らぐ場所であり、生ける我々の心にも
平安を与える場所であり、
数百年の長きにわたり人々の「死者への思い」を集めて来た場所だと
いうことは確かだと思う。


元高野山大学教授の日野西眞定先生によると平安期より奥の院のみならず、
大門の内側の高野山地域すべてが聖なる場所と考えられていたそうである。




人々は亡くした自分の親しいものの聖なる地「極楽」あるいは「浄土」への再生を願い
何世代にもわたり遺骨や遺髪などを収めた容器を高野山に持参しその聖域に埋めてきた。


大門修理の時、調査の為に周辺が掘りかえされた時にも多くの舎利容器(骨壷)
が掘り出されたそうである。




鎌倉期以後は亡き人を慰霊するため多数の石塔がつくられた。
多くは財力のある支配者層のものであり巨大な石塔が造られた。



一番石塔

奥の院で最大の供養塔は駿河大納言忠長の母 (2代将軍秀忠夫人お江(ゴウ)の方)の供養の為 建立したもの

亡き母への想いが最大の石塔を生んだ


石塔の材料の石材は瀬戸内海周辺で切り出されたものが使われた。

海を船で運ばれ、紀ノ川をさかのぼり、
人と動物の力で海抜千メートル の山上まで運ばれた。


一方庶民たちは小型の石塔を自分で持って高野山に登った。 

血縁者達の来世の安楽を祈り、重さに耐えて登ったのであろう。


その小型石塔たちは奥の院周辺の土中に無数に埋まっている。

そして掘り出された石塔は無縁仏として供養されている。


人々の祈りが込められたものがこれほどの数、これほどの長い年月にわたり
集積されてきた場所は世界でも例がないであろう。


そしておそらくその思いが何か霊的エネルギーのようなものとして、
訪れる人の心に何かを伝え続けているのである。


高野山奥の院 それは 

御廟の奥の岩室で今も生きて瞑想を続けていると信じられている弘法大師の
存在と同じように 過去と現在、そしてこの世と異世界を超越し
それらが交錯する空間である。