ヴィスビ 聖ラーシュ教会廃墟


聖ラーシュ教会廃墟

「カッコイイ!」が私の第一印象。
この廃寺もまた冒頭画像の如く、絵になる朽ち方をしていた。オフ・シーズンで内部に入れないのが、ホント、恨めしかった・・・

1225年から50年近くの歳月を経、完成したヴィスビ・聖ラーシュ教会は、INNERSTADに残る聖堂建築の中でも、特異なものだという。他のお寺は現・ドイツの宗教建築のスタイルに拠っているが、この物件はビザンチン様式になり、ノヴゴロドから来るロシア商人たちのお堂だったと目されている。

カタチテキには、本堂中央に塔が立つ、ギリシャ十字タイプ。東端にアプスがあり、北側には祭具室。復元図で見る限り外観は、中央円塔の屋根をタマネギ型に置換すると、ノヴゴロド・イリイナ通りの救世主変容教会(1374年建立)にも似る。かの地の聖堂も、ヴィスビと同じく地石=石灰岩のブロック積と聞く。

尤も、当教会の石組の構築は、技量から、ゴトランドのネイティヴ職工の手になると目されているとか。
ヴィスビには、もう1件、ロシア正教寺院があったが、現在は所在不明。

そして聖ラーシュも、毎度お馴染みの「宗教改革」後、廃墟化していった訳だが、その時点までジョブ・チェンジせず、ロシア人たちが使っていたか、浅学な私には判らない。政情悪化等につき、在ノヴゴロド・ハンザ商館は、1494年にクローズしたが、その一方、ロストク大学へのロシア人留学生受入・ノヴゴロド大主教によるリューベク人(印刷技術者や学者)招聘等々、中世末に至っても、対ロ・平和的コミュニケーションは継続していた。

尤も、ノヴゴロドのハンザ商館は塀の中に隔離された造りだったそうで、彼らの交流も、商売付き合いオンリーだったそうな。直接ハンザを介しての、ノヴゴロドとカトリック圏との文化交流が難しかった一方で、政治・宗教の横槍が、通商活動の妨げになることも無かったろう。

スウェーデンVSロシア・隣人不仲の記録ばかり見ていると、「スウェーデンの正教寺院?」には余りピンと来ないが(で、あの国の統治下にあったフィンランドになら、納得する訳よ)、結構ロシアの痕跡…各地で出土したビザンツやロシア由来の遺物…は多い。

ローマ法王により、「ロシア人へのカトリック強制改宗」が明言されたのは1222年。この発言で、旧教VS正教の亀裂が決定的になったとされるが、3年後、聖ラーシュ(旧教徒からすれば、異端の寺院≠ナないの?)の建設が始まっっている。聖都を遠く離れたゴトランド、情報伝達が遅かったのか?それともヴィスビあきんどたちは、他人の信心には、余り細かいことは言わんかったとか。

だいたい、ゴトランド・ロシア貿易はハンザ期以前からの古いものだし……と、今では石灰岩剥き出しのラーシュ教会内部に、正教イコンや金銀荘厳が光を放っていた往時の様子を、私は妄想したのだった。


聖ラーシュ教会廃墟


上画像はラーシュの東側・アプス部を撮影したものだが、界隈はヴィスビでも古い地区で、北側に建つドロッテン教会は、当寺の姉妹教会だそうな。
そのドロッテンは、中央奥に四角く聳えている。建築廃墟/現役が渾然として、私にとっての「ヴィスビらしさ」のヒトコマでもある。

かつては「宗教改革」の負の遺産(カトリック・サイドからは、こう見えるのでは?)だった廃寺群が、世界遺産:観光資源となり、イニシエの商人たちに替わって稼いでいる町=ヴィスビ。(2001年9月訪問)