神吹白金の修行時代
KANBUKI Shiroganes Lehrjahre




 自分の変わり様を目の当たりにしてきた親友のことだから今更大概のことでは驚かないだろうが、それにしても、必要以上に高いプライドを表面的には悟らせない自分が、ひとつ年下の少女に顎で使われ、しかも満更でもなさそうな様子なので、きっと呆れているに違いない。火神楽正宗のため息を、神吹白金はそう推測した。
 使い走りの内容は夏というこの季節に相応しく「氷菓子を買ってこい」というもので、言い出した相手は「水」の湟神澪だ。言いつけに従ってもう十何回目かになる買い出しに走るたびに、白金は小さな発見をする。夏休みであるせいか近場の商店には子どもが溢れている。彼らの中でも、プールないし川帰りの者は、もう充分に涼んできたためであろう、氷菓子には目をつけない。そして、暑いと実感できる日は氷菓子が品薄となり、耐えられる程度の気温であればアイスクリームが姿を消す。そんなことを報告するたびに、
「お前は馬鹿か」
 と、親友たる正宗は冷たく言い捨ててくれるのだ。些細な発見でもしなければ潰れてしまうこの心情に、彼は容赦なく脚払いをかける。白金には正宗のそういうところにたまに傷つけられるのだが、反面、羨ましく思うこともある。
「何であんな女の言うことを聞くんだ」
 そして、正宗はいつも呆れて尋ねるのだが、
「いろいろ、思うところがあって」
 白金は、気の抜けた声で返答した。正宗はもう一度ため息をついた。

 今回の修行がこの時期に行われたのは、一応「生徒」という区分に属する弟子の三人と、案内屋で唯一まっとうな職を手に持つ、白金の師たる銀一の都合に合わせたためだ。正宗の師である忠勝も途中まで参加していたのだが、戦禍を潜り抜けた者の勘が何ごとかを告げたらしく、様子を探ってくる、と言い残してどこかへ消えた。弟子に言わせればいつものことらしく、特に不都合もないようだった。
 修練の場は、湟神が襲名と同時に受け継ぐことになっている霊場のひとつで、屋敷に程近い距離にある。だが、そこには今、主人の一兆は姿を見せない。
 パラノイドサーカスを名乗る陰魄集団の来襲から四ヶ月あまりの時が過ぎた。あちらの得た戦果と引き換えに、こちらの受けた損害は計り知れない。何よりも、守るべき「無縁断世」という能力を持つ女性――白金は、そして正宗も、澪も彼女と会ったことはなかったが――を奪われたという事実、それに加え、案内屋や他の霊能力者自身の受けた肉体的な損害も大きい。忠勝は、遠距離からの補佐という火神楽の戦闘スタイルによって、それほどの傷は負っていない。前線には出たが、白金も加勢したために銀一も大した打撃は受けていない。しかし、澪の親代わりでもある師の一兆は今も病院に収容されており、当代明神の勇一郎も同様の痛手を被っていた。前線からやや離れたところで戦闘を繰り広げていたという壊神なる案内屋は、その後、行方知れずとなった。
 多少戦力が増したところで何かが変わったとも思えないが、それでも、修行中の身であるとはいえ、案内屋の名を背負った者達の秘めたる力を育てておくべきであった、と、ことの終わった後にひとびとは悔やんだ。白金自身もそう思う。
 師に加勢せんと敵の目前に立った時には足が竦んだ。殺気に圧倒されたばかりではない、もっと身体の奥深くの、人間がまだ獣であった頃の本能が全霊を込めて指先まで猛り狂うような、それは、畏怖の感情だった。己の弱さと、相対する者との間に立ち塞がる絶望的な力の差に、喉元まで這い登る吐き気を残る理性の一分でどうにか押し留め、からがらに逃げおおせたことしか覚えていない。
 助かったのだ、と実感した頃には、がくがくと膝が笑い出していた。それは嘲笑のようにも思われた。お前は強いはずではなかったのか、少なくとも他人を見下せる程度には。小さな自尊心が、自身を嗤っていた。
 澪もまた、彼と同様に敵対する者の間に立ちはだかったという。しかし、彼女の唇から洩れ聞こえるのは、自嘲ではなく、怒りだった。それは無力な自分への怒り――そして、彼女を前へと突き進ませる原動力だ。
「強くなりたい」
 彼女は言った。その通り、強さだけを見つめていた。血と泥にまみれ、肩で息を喘がせながらも、ただそれを掴まんともがき続ける彼女を、美しい、と思った。

「という具合に惚れて、惚れた弱みでパシらされてるわけか」
 濡れた髪を拭く片手間に正宗はぼそりと言い捨てた。彼の右目を隠す眼帯は外され、代わりに、深く抉れ、ケロイドとなった傷跡がそれを塞いでいる。
「……いや、断じてそんなことは」
 一応否定はしてみたが、それは口の中で溶けて消えた。もっとも、どれだけ論理的に滔々と否定しようとも、人生の半分来の付き合いの親友であるから、役に立ちはしなかっただろう。白金は卓袱台に肘をつき、うっとうしい前髪をかき上げた。正宗は彼の正面で脚を崩し、濡れた手拭を首に回した。
 伸び放題の前髪からちらりと見える居間の風景は、見慣れた自分の家ではなく、修行の場に近い湟神の屋敷のものだ。夏が終わるまでここに下宿することになっていた。八月という季節のわりにこの日は涼しく、開け放った雨戸から湯浴み後の火照った身体を冷ます優しい風が吹く。初めのうちこそ物珍しかった鹿威しも、ひと月も過ごすうちに見慣れてしまった。時折響く、かこん、という音が、澄んだ夜空に心地よく流れる。他に音はない。
 正宗という男は無駄口を好まず、沈黙を愛することは承知している。だから白金も付き合った。彼と出会ったのはいつだったか、記憶を探ると、それは呆気なく見つかった。
 人生の半分前、つまりまだ七つか八つかそこらの時、案内屋の仕事に出かける忠勝が銀一のもとに預けていったのが最初だった。幼い正宗を見た時、銀一は今までになく取り乱したものだ。当時は意味が分からなかったが、今までどこに隠していた、などと言っていたから、忠勝がどこかで女を泣かせ、無責任に放っておいたとでも思ったのだろう。
「戦場で拾ったんだ」
 忠勝は実にあっさりと言った。弟子として育てるつもりだとも告げた。正宗は、その言葉に力強くうなずいた。顔を上げた彼と目線がぶつかる、それが出会いだった。
 右目の傷についても尋ねたことがある。正宗は淡々と、誰かが踏んだ地雷の破片に当たった、と言った。声には何の感情も含まれていなかった。
 痛くなかったの、と白金は訊いた。痛かった、と正宗は答えた。
「でも、死んじまった父ちゃんや母ちゃんの方が痛かったに決まってる。だからオレは絶対泣かない」
 言葉の隅に、正宗の本心がじわりと滲む。この時に彼の強さに気づいた。
「それ、さ」
 静寂を侵食することに対して少しばかりの申し訳なさを感じつつ、正宗の右目を指し示して問うた。
「痛くないの?」
 今更な質問だった。正宗は気分を害するでもなく、ああ、と肯定した。
「銃を撃つには片目で充分だしな。何も支障はない」
「……すごいな」
 白金はぽつりと洩らした。
「まだ何年も経っていないのに、割り切れるもんだね。すごいな」
「気の持ちようだ」
 白金の感嘆を打ち消すように、正宗は手拭をいじりながら答えた。
「自分がどう思うかで、世界は変わる。お前も、能力はあるんだから、背筋伸ばして生きりゃいいじゃねえか」
「……まあ、そうなんだけどさ」
 ため息と共に卓袱台に突っ伏すと、髪色の黒に視界が染まった。正宗も卓に肘をついた。
「髪、染めて、もう何年になる?」
 宙で遊んでいた右手で自身の前髪を摘む。白金は、ううん、と少し呻いた。
「三年、かな。でも今更戻すわけにもいかないしね。地毛だと思われてるから」
「どういう意味だ」
 襖を乱暴に開ける音と同時に、抑えた女性の声がした。澪だった。
「髪を染めてるって、どういう意味だ」
「どうもこうも」
 正宗は答える。白金は身を起こした。
「こいつ、元々は襟足以外の部分が白いんだよ。それを染めてる。理由は知らん」
 本人に訊いてくれ、正宗はそれ以降を投げ出した。澪の切れ長の瞳が白金を睨む。湯上りの上気した頬は、やけに迫力があった。
 膝を崩した状態のまま、正座に移行することもできず、白金は仁王立ちで見下ろす彼女の視線を受け止める羽目になった。 澪の、薄物の寝間着から覗く鎖骨にはそれなりにどぎまぎしたのだが、そんな浮ついた空気が一瞬で凍てつくほど、彼女の投げる感情は鋭かった。澪の瞳の奥から垣間見えるそれは、憎悪に近いものだったかもしれない。
 時間にしてほんの数秒も経っていないだろう、しかし、白金には永遠にも思われる時だった。だが、目を逸らすこともできなかった。逃げ出すには、彼女はあまりに真剣だった。
 ――やがて澪は、ふん、と鼻を鳴らし、踵を返して立ち去った。振り向いた勢いで長い髪から雫が飛んだ。正宗は彼女の消えた方向を、面白くもなさそうに見つめ続けている。
「恨まれるようなことでもしたのか」
「……この間買ってきたガリガリくんが溶けてた」
 他に思い当たることはなかった。


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例によって捏造してみました。時期は、作中の通り、10年前のパラノイド襲撃(4月終わり頃)から4ヶ月後です。
題名はゲーテ作「ヴィルヘルム・マイスターの修行時代」より拝借。


 Last up 07/03/09

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