神吹白金の修行時代
KANBUKI Shiroganes Lehrjahre




 この日、澪は朝から機嫌が悪かった。口を利かなくとも雰囲気で分かる。正宗は何とも思っていないようだったが、白金は彼女が気にかかって仕方がなかった。そのためか、どうにも身が入らず、銀一はいつも以上に何度も雷を落とした。師はやがてひとつ大きく息をつくと、いつもより早めに休憩と告げる。注意の散漫な弟子がふたりもいては埒が明かないと思ったのかもしれない。
 修練の場には、高台から落ちる滝がつくる清流を取り囲む森の、ごく一角だけを開いた土地を使っている。湿り気が消え、足元が丸い石から細かい粘土へと変化する辺りに誂えたように切り株がいくつか点在する。澪はなるべく白金を避けたいらしいが、他に腰を下ろす場もないため、結局正宗を挟んで少し離れたところに座った。
 地面をじっと見つめる澪の横顔を、白金はそっと盗み見た。彼女は、戦いに身を投じるにはあまりに華奢で、すらと伸びた指や形のよい爪は野蛮な争いに向いていない。黒髪の流れる背は小さく、ただ、そこだけが白い前髪から覗く瞳は鋭く、虚空を睨み据えている。
 夏が始まるまで彼女とはあまり面識がなかった。必要があって湟神の家に出かけることも度々あったが、澪は大概そこにおらず、すれ違ったことが数回あるという程度だ。その時にちらとくれる一瞥に浮かぶ感情は薄かった。正宗のように、押さえ込んだという類のものではなく、生きるということ、たとえば自分自身に対してさえも執着がなく、何かを諦めたような、それゆえに何をしでかすのか分からないような、そんな危うい空気が漂っていた。
 傍目にもそれが変化したと分かったのは、四ヶ月前、陰魄の襲撃を受けた後だ。細かい話は聞いていないが、彼女は血を流し倒れ臥す師をかばったという。その非情な現実が彼女に何かを与えたのかもしれない。少なくとも、今の彼女から自暴自棄な雰囲気は感じられない。
 白金は目線を正面の滝に戻した。豪快な、それでも嫌ではない水音が響いてくる。こういう人物を知っているような気がした。その豪胆さに初めのうちこそ驚かされるのだが、いつの間にか心の隅々に染み渡っている、そんなひとだ。
 誰だったかと思いを巡らした時、前方に黒い影が見えた。背が高く、夏なのに黒いコートを着込んでいる。サングラスの平面が太陽を弾く。白金はそのひとを思い出した。
「明神」「勇一郎さん」
 澪と白金の声が重なる。ふたりは互いに顔を見合わせた。挟まれた正宗は右を見て、左を向く。勇一郎は楽しげに笑うと、
「じゃあ間取って正宗くんに挨拶!」
 と言って、正宗に抱きついた。唐突な事態に対応できなかったのだろう、彼の口元は引きつっていた。
「やあ皆、元気だったか?」
 すぐに正宗を解放し、勇一郎はひらりと手を振ってみせた。
「勇一郎さん、もう出歩いていいんですか? 全治十ヶ月でしょう? まだ四ヶ月しか経ってませんよ?」
 立ち上がり、挨拶もせずに白金は質問を畳みかけた。澪も目を丸くしている。立ち直った正宗は、さり気なく勇一郎から距離を置いた。
「いやあ、まだ若さには自信があるから」
 動くのに差し支えはないし、彼はにんまりと笑ってみせた。白金は、驚きと呆れでものも言えなかった。同じ心境なのだろう、澪も目を丸くしている。
「丁度いい機会だ。皆の明神お兄さんが君達を鍛えてやろう」
 こちらの心情などきれいに無視して勇一郎が声をかけたところに、
「明神、ちょっとこっちに来い」
 丁度いい機会だと思ったのだろう、銀一が彼を呼び寄せた。白金は気が抜けたように、再び切り株に座り込む。
 師のふたりは弟子達からやや離れたが、その会話は特に隠されることもなく、風の手伝いもあって聞き取ることができた。忠勝の現状と彼のもたらした報告について少しばかり情報を交換した後、彼らは湟神の当主について語った。一兆、の名が出た瞬間に、びくりと澪の肩が震えた。
「……こう言うと何ですけどね、やはりもうお年だし、そのせいか少し弱気になってるみたいで」
 半ば予想通り、あまり明るい内容ではなかった。勇一郎の言葉はため息混じりで、銀一も息をつき、小さく首を振る。一兆は、澪の師は、まだ床を離れられないという。
 澪は立ち上がった。そのままふいと横を向くと、木立へと足を進ませた。白金がその背に呼びかける。
「澪ちゃん」
「気安く話しかけるな」
 彼女はこちらを見なかった。白金は何もできず、木々の陰に消える黒髪を見送った。勇一郎はまだ銀一と話し合っており、澪に気づいた様子もない。白金は彼女から視線を外すと、ため息混じりに再び師を見遣った。
「――パラノイドサーカスとかいう連中、オレが見たキヨイという奴ですが、どうやらこいつがリーダーらしくて」
「そいつが入れ知恵でもしているのか。いずれにせよ陰魄は滅ぼさねばならん」
 吐き捨てると、銀一は眉間に不快を露わにした。
「……そうなんですけどね」
 勇一郎が口ごもる。夏だというのに暑苦しい黒のロングコートを羽織り、それでもぞくりと肩を震わせ、上腕をさすっている。
「正直、勝てる気がしません。オレは、キヨイには敵わない」
 その声にはかすかな怯えが混じっていた。
 白金は、さらに淀んだ気分になり、視線を膝頭に落とした。気にするなよ、正宗が語りかける。白金はそれに答えられなかった。
 自分は何かしたのだろうか、白金は記憶を探った。しかし、やはり思い当たることはない。
(……ま、いつものことだけど)
 自虐的に口の端を歪ませて、彼は長く息をついた。周囲のこのような態度に慣れてしまったのはいつだったろう。三年前、白かった髪を周囲と同じ黒に塗り潰したその時か、あるいはそれ以前か。
 小さな悪意と戦うこともせず、それに背を向け、逃げ出した。そして彼は彼自身を殺し――この表現は自分でも気に入っている――すべてを欺くことに決めた。今以上に弱かった自分を守る術は、今をもって見出せていない。それが正しいかは知らない。分かりたくもない。
 確かに容貌についての噂話は減ったように思う。しかし掬う足元などいくらでもある。だからこそ白金は完璧を目指した。師の厳しい試練にも耐えた。今度はそれを嗤われた。まったく息苦しい八方塞がりだ。目に見えない闇が首元をゆるやかに縊り上げるのを、彼にはどうすることもできない。
(オレは、弱い)
 それをまざまざと見せつけられたのが、あの陰魄と相対した時だ。白金はもう一度ため息をついた。成程、今の自分程度ならば、低く見られるのも当然だ。
「……深く考えるな。相手にも事情がある」
 正宗が白金の肩を叩く。白金は、ありがと、と小さく呟いた。
「あれ、澪は?」
 話を終えたらしい勇一郎が、消えた彼女を求めて辺りをうかがった。正宗が立ち上がり、白金もそれに倣う。
「また『東の国』にでも行ってるのかな……探してきましょうか?」
 勇一郎の言葉に、そうしてくれ、と銀一がうなずいた。
「東の国?」
 白金は、鸚鵡返しに、耳慣れない言葉を問い返した。勇一郎がにやりと笑った。
「澪の逃げ場みたいなもんだ。湟神の屋敷や敷地にいくつかある。君よ知るや東の国、というわけで命名」
「南、だ」
 隣から、呆れたように銀一が口を挟んだ。
「君よ知るや南の国――ゲーテの詩の一篇だ」
 それから彼は、口調に幾許かの郷愁を滲ませて語った。恋に破れ旅に出た青年と、そこで出会った少女の話。彼女が歌う故郷、つまり、レモンの花が咲き、オレンジの実る南の国、優しい思い出が包み込んでくれる世界。
「……さすが世界史教師」
「常識だ」
 言い捨てる銀一の言葉に宿る不機嫌さは、きっと照れ隠しに違いない。彼は追い立てるように勇一郎を促し、澪を探しに行かせた。白金はふと、忠勝とのことを思い出した。いつだったか彼は銀一を指して、意外とロマンチストだ、とこっそり教えてくれたことがある。それを考えると、己の技に、天使の一服、などと名づけたのは、もしかしたら彼であるのかもしれなかった。そんなことを想像して白金は微笑した。少しだけ、気分が軽くなった。
 しばらくして、澪は勇一郎に腕を取られ、半ば引きずり出されるように木立から姿を現した。彼女の目が赤く潤んでいる。どこかで泣いてきたのかもしれない。銀一は彼女とすれ違う折、ぽんと頭を叩いてやった。澪は小さく頭を下げた。
 彼女は本当に強いひとだと思う。弱音など決して吐かず、見ているこちらが痛々しく思うほど、華奢な身体を精一杯に伸ばして、苦しい修練に耐えている。手の甲で乱暴に拭うと、頬にはもう涙の跡は見つからなかった。
「でもなあ」
 勇一郎が眉根を寄せ、独り言のように呟いた。
「自分の弱さを認められる、それをひとにさらけ出せる、それも強さだと思うんだけどな」
 彼は、すぐ隣に足を向けた白金を振り返った。
「白金くんは、どう思う?」
「……それは、」
 答えが見つからず、彼はうつむいた。長い前髪が瞳を隠した。


back   next

* * * * *
全治というのは「完全に治るまで」の期間であり、実際にはある程度治った時点で退院できるそうです。明神さんなら頑丈そうだし意外とぴんぴんしているのではないでしょうか。
作中の「ゲーテの詩」は「ヴィルヘルム・マイスターの修行時代」に登場するもので、堀内敬三訳が「君よ知るや南の国」、森鴎外訳が「ミニヨンの歌」として知られていますがあまり有名でもないもよう……。


 Last up 07/02/15

back