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KANBUKI Shiroganes Lehrjahre 3 白金は走っていた。右の腕を前後に勢いよく振り、左は誰かの手を握り締めている。それは誰か、何から逃れるつもりなのか、まったく分からなかった。後ろを向けば捕まってしまう、ただその焦燥だけが彼を駆り立てた。 めまぐるしく変わる風景が、やがて行き止まりに彼らを誘った。荒い息が絶望の吐息に変わる。左手に誰かの爪が食い込んだ。彼だか彼女だかも同じ心境らしい。後方に迫る悪しき気配は寸分違わず彼らに向かって歩を進める。白金は振り返ることができなかった。第一、振り向いたところで何になる? 自分にできることなど、何もない。 彼の手を握り締める誰かの手が、ふいに力を失った。すらと伸びた指が解け、形のよい爪から色が消える瞬間を見た。長い黒髪がふわりと空を切る。右肩に、悪意の指先がかかった。 「やっぱり、まもれなかったね」 あどけない少年の声が響いた。 「また、たすけられなかったね」 子どもの自分が、彼に笑いかけた。 「――――ッ、」 飛び起きると、まだ夜も明けていなかった。鹿威しの鳴らす間の抜けた音だけがどこか遠くでかすかに響く。夜のひやりとした冷気が、寝汗をかいた背を振るわせた。 夢、と彼は呟いた。口の中が乾いてうまく音にならない。薄闇の室内を見回すと、隣の布団では正宗が背を向けて眠っていた。いい加減見慣れた湟神の屋敷だ。雨戸の内側を隠す障子も、金泥で飾った襖も何も変わらない。 両親を失った傷が癒えないうちはよくあったことだが、悪夢を、怖い夢をみたのは久しぶりだった。記憶に残るストーリーは多少違うが、扱うテーマはまったく同じだ。つまり、己の無力さを苛んでいる。白金は首を振った。長い前髪がさらさらと揺れた。 (あれは、誰だったんだろう) 左手に感触が残っているような気がする。小さな、すべらかな手だった。力が抜け、ぐにゃりと歪んだそれが自身の指の隙間から零れ落ちる瞬間や、同時に体温さえも失う様を、薄気味悪いほど生々しく見せつけられた。 掌を室内着の腿に擦りつける。嫌な汗がじっとりと滲んでいた。白金が立ち上がると、正宗が薄く目を開けた。鋭い男だ。 「ちょっと、散歩してくる」 障子を静かに引きながら告げる。正宗は、分かった、というようにひらひらと手を振ってみせた。再び寝息が上がった。 白金は足音を消して玄関に向かった。素足をスニーカーに突っ込み、戸を潜ると、期限つきで借りた合鍵を使い、再び錠を閉める。飛び石を越えて、瓦葺の大門の隣に据えられた通用門から外へ抜ける。蝶番の軋む音がした。 表を横切る土の道は、転がる小石とその影の見分けがつかないほどに薄暗かった。しばらく私有地が続くために、人気も、人家もない屋敷の周囲には異界への扉が隠されていてもおかしくない。いたずらにさんざめく竹林に、白金は少しだけ肩を竦ませた。 何とはなしに足を向かわせてみる。身体は修行の場への道を覚えていたようだ。乾いた土は白く固められ、弱々しい三日月を撥ね返している。路傍では縦に筋張った細い草が権勢を誇っている。それは林の間でも衰えを見せず、鞘当を繰り返す竹の根元をより鬱屈に茂らせる。どこかで、夏虫が一匹だけ鳴いていた。 夜明け前の濃い闇も、慣れればなかなか居心地がよい。夏の熱が振り撒く気だるさも、今は影を潜め、涼やかな大気をもたらしている。しかし、かすかにそよぐ風の中に、一抹の淀んだにおいが流れた。白金は辺りを見渡すが、においはすぐに紛れて消えた。丑三つ時の草木が騒ぐ様子もない。 (気のせいか?) 首を傾げながらも、彼は歩を進めた。妖の気配はもはや消え失せた。思い過ごしか、と息を吐く。 瞬間、がさり、と右方で物音がした。何かがこちらに近づいてくる。だが、徐々に大きくなるそれは下草を踏み分ける音で――つまり、霊魂ではなく、生きた人間の足音だ。竹林の奥へ続く獣道から現れた少女を見、白金は、ある意味で驚いた。彼女は薄い紺地の浴衣に、底の低い雪駄をつっかけていた。 「……澪ちゃん、こんなところで、どうしたの」 目線のかち合った澪は気まずそうに顔を背けた。その背後に伸びる細い道の先に、よく見れば小さな空間がある。白金は納得した。そこもまた、彼女の「南の国」のひとつなのだろう。 澪は眉を顰めると、踵を返した。屋敷に戻るつもりらしい。何も言わずに背を向けるその態度に、さすがに白金も憮然とした。逃げるように足を進める彼女の腕をしっかと捕らえる。 「離せ」 「嫌だ」 低い声で脅す彼女に構わず、白金は手に力を込めた。掴んだ手首は思いのほか細い。痛みにか、澪はさらに眉根を寄せた。 ふたりは、そのままものも言わずに睨み合った。澪の切れ長の瞳には、いつかのように憎悪が宿っている。だが白金は身に覚えのないことで恨まれる筋合いはなかった。やがて、嫌いだ、と澪は呟いた。 「私はお前が嫌いだ。お前も、私が嫌いなんだろう?」 思いもかけない言葉に、白金は手を緩めてしまった。澪はその隙に腕を振り解く。そうして、改めて白金を睨んだ。 「嫌いなんだろう、実力もないくせに、身勝手で、傲慢な私が。才能のあるお前には、私が目障りで仕方ないんだろう」 静かに告げる口調の裏に、激しい憎悪が隠れていた。しかし、それは白金だけに向けられたものではない。 彼女は、彼女自身を憎んでいる。白金はそう感じた。 「……そんなこと、」 途中で言葉を切り、白金は辺りをうかがった。先刻感じた不穏なにおいが、空気に混じって彼の感覚を振るわせる。澪も気づいたらしく、口をつぐんで周囲を見回した。 (どこだ――) 気配を探るが原因は見当たらない。淀んだ邪気は喉の奥に絡み、嫌な汗が頬を伝った。 (どこにいる) 「ねえ」 すぐ隣で、あどけない声がした。白金は、そして澪もそちらをかえりみて、身構える。ひとりの少年が傍らに立ち、こちらを見上げていた。 彼は薄い微笑を唇に貼りつけていた。だが黒目がちの瞳はまったく笑っていない。そして、その身体は弱い月明かりにぼんやりと白く浮かび上がっている。 「いっしょにあそぼう」 邪気のない言葉がうそ寒く響く。それを薄く隔てた向こうには強い負の感情が隠されている、白金は、直感的にそう感じた。いつか、どこかで出会ったことのある、とてもよく知った感情だった。 相手の出方をうかがい、澪も、白金も口を利かない。張り詰めた沈黙に気分を害したのか、少年の眉が泣きそうに歪んだ。 「どうして、なにもいってくれないの? ぼくがきらいなの?」 言葉を発するたびに、澱んだ憎悪が少しずつ露わになっていく。増していく威圧感に押される。殺意を剥き出された方がましだった。それならば、こちらも躊躇いなく攻めに転ずることができた。 「じゃあ、ぼくもきらいだ。みんながきらいだ」 独白のように、少年はうつむき、呟いた。白金は先刻みた悪夢を思い出した。この邪気は、あの時と同じだ。 「――だから、みんな、しんじゃえ」 少年が面を上げる。その瞳が爛々と煌めいた。白金は澪を後ろにかばう、だが、彼自身も殺気に怯えていた。 目前で、もはや完全に明らかとなった邪気が少年を覆い、変貌させていった。めきめきと骨の軋むような音を立て、三日月を隠すように巨大な姿へと膨張する。白金は澪の手を取ると、踵を返し、全速力で駆け出した。彼女の右手もそれに従い、土の道を、竹林の中を闇雲に走った。薄い葉が頬をかすめ、じわりと血が滲むが構っていられない。くすくすと笑う声だけが、妙に耳朶に近く、頭に響く。 どこを走っているのかは分からなかった。視界が暗い上に土地勘もない。澪は道案内どころではなく、荒い息と引きずられる足に口を挟むこともできなかった。 「っ、白金」 澪が声を上げた。白金は振り向かない。 「そっちは――」 言い終えた頃には遅かった。彼らの眼前は、高い崖で塞がれていた。 剥き出しの岩肌の向こうから轟々と水の落ちる音が聞こえる。右方、左方に広がる木立の密度は濃く、遮蔽物をものともしない霊魂と鬼ごとに興じて、勝てるとは到底思えなかった。ゆっくりと、遊ぶような足取りで、冷たい殺意が背に迫る。 「つかまえた」 そして彼は宣告した。 澪の手に力がこもり、白金の掌に爪が食い込む。振り返ることができなかった。静かな威圧に肩を押さえつけられ、脚が竦んで動かない。 「白金」 しかし澪は毅然とした声で告げた。 「時間を稼ぐ。逃げろ」 強張る彼の手から、彼女のそれがするりと抜けた。澪は黒髪を翻し、迫る陰魄と相対する。 「おねえちゃん、あそんでくれるの?」 声音に歓喜が混じった。澪は、吐き捨てるように答える。 「ああ、私が相手をしてやる」 同時に、後ろ手に白金の背を突いた。白金は呪縛が解かれたように、半ばよろめくように背後をかえりみた。 陰魄は、もはや少年とも呼べぬような異形を呈していた。口は耳まで裂け、ぞろりと牙が揃っている。目玉は奇妙に大きく、底の知れない黒目が、合わない焦点でこちらを見下ろしている。身体はやけに膨らみ、歪んだ背骨のせいで腕はだらりと垂れ下がっている。 陰魄の手がこちらに伸ばされた。奇妙な手だった。子どものそれをそのまま巨大化させたような形をしている。白金は一歩後ずさるが、澪は敵を見据えて動かなかった。 「あそぼう」 あくまでも無邪気に彼は告げた。ひゅん、と風を切る音が聞こえた、途端に左方の木々が千切れ飛んだ。腕を振り回しだ反動で陰魄はよろめく。白金は動けない、だが、澪は前に進み出た。 「どうした? 私はここだぞ」 そして挑発するように自分の胸を指し示した。その肩がかすかに震えている。陰魄は、乱杭歯を剥き出しにして低く唸り声を上げている。 再び風を切る音がした。敵は右の腕を鞭のようにしならせ、下から掬い上げるように振るう。それが、今度は寸分違わず澪の目前に迫るのを、白金は呆然と見守っていた。 (オレは――何をしている) スローモーションに映る光景の裏で、白金の網膜に閃くものがあった。彼をかばう母の冷たい腕と、立ち向かう父が倒れる瞬間―― 『 やっぱり、まもれなかったね 』 あどけない少年の声が聞こえた。 『 また、たすけられなかったね 』 夢の中で、子どもの自分が、彼自身を嗤っていた。 白金は澪を突き飛ばし、前線へと躍り出た。繰り出された陰魄の腕を避ける間もなく、腹部を引っ掛けるようにまともに打撃を喰らい、鳩尾を強い衝撃が襲った。喉元まで吐き気が込み上げる。しろがね、と甲高く叫ぶ声がする。焦点の合わない黒目が、ぎろりと澪を睨めつけた。 彼女を呼ぶ声はかすれていた。よろめく足に気を纏わせ、駆ける。俊敏に迫る敵と澪の間に割り込み、彼女をかばうように抱き寄せた。背中に鈍い痛みが走る。一瞬、呼吸を奪われた。はずみで倒れるが、地面に膝をついて立て直し、澪を後ろにかばった。ぼやける視界で陰魄を見上げると、彼は猫が鼠を嬲るように、ゆったりと優雅な足取りでこちらへ近寄ってきた。 肩口に澪が爪を立てた。指先の震えが身体に伝わる。相対する彼がにたりと笑った。じゃあね、と、あどけない声が響いた。白金はきつく唇を噛み、目を瞑った。 ――頭上で破裂音がした。薄く目を開けると、目前の陰魄は頭部を抑えてぞっとするような悲鳴を上げた。あまりの音声に耳がどうにかなりそうだった。しかし、朦朧とする意識の中で原因を求め、背後の崖に目を向けると、視界の端にちらりと人影が映った。忠勝だった。 「白金!」 澪の叫び声に正面を振り返ると、苦痛と怒りのために盲滅法に腕を振り回す悪しき霊の姿が映った、その右腕が眼前にまで迫っているところも。だが白金は動けなかった。この一撃を喰らえばどうなるか、頭では分かっているのだが、脚が、身体がそれに反応しない。 (やられる) 奇妙に冷静だった。だが、コマ送りで迫る悪意の指先は彼に届かず、すんでのところで何かに弾かれた。無事か、と叫ぶ声が聞こえた。豪快に雪崩れ落ちる水音のような声――勇一郎だ。 膝をつく白金の前に人影が立ち塞がる。細身の背には静かな威圧が漲り、相対する敵を睨み据えているのだろう。銀一は、再び風を切って歯向かう腕を軽くいなすと、懐に飛び込み、肥大した陰魄の胸に掌を押し当てた。そこから洩れ流れる気が風を生み、澪の長い髪を揺さぶる。薄暗がりに現れた白い光が銀一の横顔を照らした。その目は鋭い。白金も見たことのある、処刑者の瞳だった。 身を引き裂くような断末魔が響く。膨大な光が破裂した。白金はたまらず目を閉じ、腕で顔をかばった。 「たすけて」 小さな声に、白金は目を開いた。だが白色の光に染まる視界には何も映らず、かすかに銀一の背が影となって浮かんでいる。 「どうしてみんなぼくをきらうの、なにもわるいことなんかしていないのに、どうして」 言葉を残し、光が消えた。辺りは再び闇に包まれるが、白金の目線の先に、少年の姿はなかった。 勇一郎が駆け寄る。澪が立ち上がり、彼にしがみつくのを白金はぼんやりと眺めていた。その肘を取り、立ち上がらせながら銀一は、大丈夫か、と尋ねた。白金はそれに答えず、脇腹を押さえて呻くように呟いた。 「……先生、先生なら、あの陰魄を助けられましたよね。どうして消してしまったんですか。どうして殺したんですか。どうして」 銀一は何も言わなかった。ただ苦しげに唇を引き結んでいる。やがて、瞼を伏せると、静かに息を吐いた。 「殺らねば、殺られていた。それだけだ」 そして、白金の頭をぽんと叩いた。その手は記憶の中より小さかった。 (あれは、オレだ) 陰魄であった少年の消えた場所を見つめ、思う。 (あの感情はオレのものだ) それは、かつて自分が殺した少年――自分自身と、同じものだった。白金は震える両手をで瞼を覆った。 暗い視界の中で、ふと銀一の言葉を思い出した。レモンの花が咲き、オレンジの実る南の国。優しい思い出が包み込んでくれる世界。誰からも傷つけられることなく、弱さを受け止めてくれる場所。 「そんなものはない。あるわけがない」 その嘆きは言葉にならずに消えた。 back next * * * * * 師匠世代の案内屋にとって陰魄は絶対悪だったのかしら、と妄想。 陰魄のデザインは変身後ハセ様を思い浮かべて下さいませ。 (追記)04/19、少し手直ししました。 First up 07/02/15 Last up 07/04/19 |