神吹白金の修行時代
KANBUKI Shiroganes Lehrjahre




 ことの顛末はこうだ。白金が部屋を抜け出してから少しして、正宗が周囲に流れる不穏な空気を感じ取った。方法までは聞きそびれたが、ともあれ正宗は忠勝に連絡を取り、それを伝えた。かねてから周辺を探っていた忠勝は、銀一、勇一郎に呼びかけて行動を開始、修行の場の裏に当たる崖で、目標と、襲われるふたりを発見した。
 日除けをされた涼しい部屋の布団に転がり、それでも眠れずに白金はそんなことを思い出した。胴に負った打撃と裂傷は受けた衝撃ほど深いものではなく、擦り傷で済んだ澪の、癒しの梵術で八割がた治った。頬をかすめた笹の葉による細い切り傷は跡も残っていない。
 当然ながら、この日の修練は取りやめになった。白金の体力回復ということもあるが、師匠連による周辺の探索も行われるためだ。体力の有り余っている正宗も駆り出された。澪は、白金と同じく湟神の屋敷にいるという話だが、治療の終わった後から姿を見せない。その間に日は昇り、朝は過ぎた。
 安静を言い渡されてはいるが、天井の染み程度では退屈と空腹をごまかすことはできない。布団からむくりと身を起こすと、白金は何となく足音を忍ばせて勝手へ進んだ。目的地にたどり着き、冷蔵庫に手をかける。そこで、白金、と名を呼ばれ、なぜだかぎくりとして振り返った。
「……澪ちゃん」
 声の主を確認し、その格好を見て少しばかり鼓動が跳ね上がった。澪は、飾りのない淡い色のシャツを着込み、外した第一ボタンから日に焼けていない素肌が見えた。七分のジーンズから覗く素足は彼を無意識に蠱惑する。
「もう動いていいのか」
 澪はしかし何も気づかずに安堵の表情を浮かべ、それを瞬時に咳払いで隠した。それを数度繰り返した後、改めて彼女は白金に向かい、気まずそうに呟いた。
「……すまなかった。それから、助けてくれて、ありがとう」
 今まで見たことのなかった彼女のしおらしげな態度に、白金はしばらく言葉も出なかった。呆然と澪を見つめる彼に痺れを切らしたのか、何見てんだよ、彼女は乱暴に言い捨てて白金の頭をはたいた。その手は、いつもに比べれば幾分か優しかった。
「丁度いい、暇なら来い」
「あの、朝ごはん」
「何か言ったか?」
「……いえ」
 かくして朝飯は食べそびれた。

 たどり着いた先は大きな総合病院だった。白い外壁は長年の風光にさらされ、ところどころに細くひびを走らせている。窓にはめこまれたすりガラスは内部を好奇の目から隠す。澪は物怖じする様子もなく全自動の入り口を潜り、白金もそれに倣った。ロビーに立ち並ぶソファの群れにも消毒液のにおいが染みついている。だが澪は構わず、すり抜けて病棟へ向かった。
 角の個室の名札も確かめずに、彼女は躊躇いなく、しかし静かに引き戸を横に滑らせた。日は中天に近づいているのに窓にはカーテンが引かれ薄暗い。そのためか、白金は寝台に横たわる人物に一瞬気づかなかった。一兆、澪の師は、白いシーツに、同じく雪のように白い蓬髪と長く伸びた髭が埋没してしまったようだ。それは以前のように溌剌とした艶を持たないように見えた。つくりつけの棚に飾られた鮮やかな花の色とは対照的だ。
 白金に椅子を勧め、澪は寝台の端に腰を下ろした。眠る一兆を見遣る視線は、白金が夏の間に見たことがないほど穏やかで、しかしどこか沈んだ面持ちだった。
「助けられなかったんだ」
 やがて、誰にともなく、澪が呟いた。
「目の前で師が倒れていくのに、私は何もできなかった。私は――私は、明神に守られて、逃げるのが精一杯だった」
 澪の視線が徐々に落ちていく。白金もそれを追った。彼女は膝の上に置いた両手を握り締めていて、その甲には細く骨が浮き上がっていた。
「だから、白金が妬ましかったんだろうな。才能も、技量もあるお前が加勢したから、神吹師匠は助かった。自分の師匠と明神に大怪我をさせて、何もできなかった私とは違って」
「それは違う」
 白金は口を挟んだ。澪の目線が再び上がる。
「オレだって、オレは、何もできなかった。陰魄の前に出たら足が竦んだ。助かったのは運がよかっただけだ」
 一息で言い切ると、澪が言葉を継ぐのを待たず、白金は続ける。
「髪を染めたのだって、周りの連中にからかわれるのが嫌だったからだ。嫌なことがあればすぐ逃げる、オレはそういう人間だ。オレは、強くなんかない」
「……そうか」
 相槌を打つ澪は微笑していた。すまないが、と前置きをして彼女は告げる。
「正直に言うと、少しほっとした。神吹の秘蔵っ子もただの人間だったんだな」
 澪は立ち上がると、棚に置かれた花瓶を手に取った。
「水を替えてくる。待っててくれ」
 少しだけ軽くなったらしい心地で澪は病室を後にした。白金は出入り口を見つめている。
「――若い、若いのお」
 直後に声が聞こえ、白金はびくりとして寝台を見た。一兆は、先の生気のなさが信じられないほどに矍鑠として身を起こした。
「起きてらっしゃったんですか、というか起きて平気なんですか」
「湟神の当主をなめるな、ひよっ子が。どうせ、また明神の奴が年寄り扱いしたんじゃろう?」
 図星を突かれ白金は口ごもった。一兆はふんと鼻を鳴らし、それはともかく、と話を変えた。
「おぬしらもな、少しは大人を頼れ。何のために爺いが隠居もせずにでしゃばっていると思う」
「…………」
「銀一は泣くぞ。いや、あやつならまず怒るな。どうして何も言わなかった、ひとりで抱え込むんじゃない、罰として町内十周」
「…………」
「何じゃ、図星か」
「……はい」
 返す言葉もなく白金は黙った。師の性格をかんがみるに彼の指摘は正鵠を射たと言うより他はない。見て取ったらしい一兆はからからと笑った。そこに花瓶を抱えた澪が戻る。澪は、己の師が思いのほかぴんしゃんとしていることを確認すると、やはり驚いた様子で駆け寄った。
「起きて大丈夫なの?」
「この通りじゃ」
 一兆は胸を張って答えた。澪は全身から力が抜けたらしく、天井を仰いで嘆息した。心配するんじゃなかった、呻くように呟くと、一兆はもう一度大笑した。

 病院を出た後はいろいろ連れ回された。とりあえずと入った馴染みだという食堂のおかみさんに、恋人かい、と訊かれた澪が全身全霊を持って否定するのは少々悲しい気分だったが、それを除けば楽しいひと時だった。
 満ち足りた腹で、足の向くままにふらふらと寄り道を続ける。涼やかなガラスの小物が並んだ雑貨屋や、ふわふわとした手触りのぬいぐるみが並ぶ玩具店、一幅の絵画を堪能しながら楽しむコーヒーなど、今まで白金が考えもしなかったものが、今日は身近に感じられた。世界の片隅はすてきなもので溢れている。いかに自分が狭い視野で生きてきたのかと、カップを口元に運びながら白金はしみじみと思った。
 夏の日は長い。店を出、ドアベルをがらごろと鳴らした後はどこに向かうのかと尋ねたら、修行場に行く、と澪は答えた。白金にもすっかり馴染みとなったそこに何があるのかとも思ったが、午後を使って彼女が案内したところに間違いはなかったので、彼は今度も好奇心に任せて彼女についていくことにした。見慣れない道がやがて見覚えのある道に代わり、その頃には陽光もレモン色となり、オレンジ色に変わる。そのうちに気風のいい水音が響いてきた。
 しかし澪はいつものようには進まず、すぐ脇の、茂みに隠れた細い道へと彼を誘った。そこは、細身とはいえ彼女より肩幅の広い白金には少々窮屈であったが、何とか引っ掻き傷もつくらず通り抜けることができそうだ。途中から平坦なそれが上りの勾配となり、土が岩へと変化する。そのうちに目的地にたどり着いた。
 どうやら修行の場に落ちる見慣れた滝が生まれ出づるところのようだ。ごろごろと大きな岩が転がり、その隙間を縫うように清流が一目散に流れていく。川の両端からは木々の枝が庇をつくり、今は水底に濃い藍色の影を落とす。見渡せば山脈が連なり、大気に溶け込んで静かに佇んでいた。地面に叩きつけられた水が奏でる轟々という音は小さく、どこか遠い国の物語を奏でるようにも聞こえる。
「ここだ」
 浅瀬を躊躇いもせずに踏み分ける彼女の後につき、白金も清流に足を浸す。布製のスニーカーに滲む水は冷たい。彼女が示したのは川の中央に鎮座するひときわ大きな一枚岩で、その上はひとが寝そべることができるほどに広い。実際、澪はそこによじ登った後、寝転がってひとつ伸びをした。その折に服の袷から無防備に現れた形のよい臍が白金には目の毒で仕方がない。
「ほら、あそこを見てみろ」
 その状態から、彼女は腕を伸ばし、指先で山際を示す。白金は眩しさに腕で目をかばいながら、そちらを見上げた。
「夕焼け」
 空の端を引っ張りながら落ちる太陽に白金は感嘆を洩らした。遮る人工の建物など何もない山々は日を背後に負って影となり、濃い紅色の雲が飾る夕闇の画面を引き締めている。白金が見つめる間にも夜は迫り、真上には早くも一番星がまたたいた。
「どうだ、きれいだろう? とっておきの場所なんだ」
 上体を起こした澪が白金に悪戯ぽい笑顔を送る。白金はその眩しさを咳払いでごまかしながら、うん、と小さくうなずいた。
 太陽の赤が最も濃くなる瞬間、強くなりたい、と澪は呟いた。
「強くなりたい――大切なひとを、守れるぐらいに」
 その横顔は凛として、水のように澄んでいた。見惚れる白金を振り返り、お前は、と彼女は尋ねる。白金は口ごもった。かつての幼い夢が胸の奥でわだかまっている。
「……笑わない?」
「笑うもんか」
 白金は澪の真剣な眼差しを認めると、大きく深呼吸し、意を決してそれを告げた。

「オレは、世界を救うヒーローになりたい」

 そして、おずおずと澪をかえりみた。彼女はきょとんとしていたが、やがて柔らかく口角を持ち上げ、そのうち肩を震わせて笑った。嘲笑ではない、もっと気持ちのよい笑い声だ。
「――気に入った!」
 言葉と共に白金の背をばんと叩く。掌に親しげな力がこもっていた。白金はほっと安堵の息をつき、未だに喉の奥でころころと笑い続ける澪を見つめた。
「よし、じゃあ私は一流の案内屋、お前は世界を救うヒーローだ」
 笑みを押し留めた澪は、すべらかな小指を差し出した。白金も、躊躇いがちに小指を立て、彼女のそれに絡める。細い指だった。馴染みの言葉と共に、二度、三度とそれを上下に揺する。誓いと言うにはあまりにささやかな、幼子の交わす小さな約束だ。だが、きっと叶う、と思った。
 するりと指を解くと、澪は岩から降りた。軽快な水音と共に、こちらを振り返りながら彼を促す。白金は先を行く澪の黒髪を眺めた。それは、もはや夜ともなった空の帳においても艶やかに光を弾いている。彼は小さな背中をゆっくりと追った。

 こんなにも世界は美しい。


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* * * * *
修行時代の捏造はとりあえずここで終わります。この先成長する過程で白金は薄汚れてしまう(待て)と思いますが、それはまた別のおはなしにて。
最後までお目通しいただき、ありがとうございました☆

(追記)04/19、少し手直ししました。


 First up 07/02/15
 Last up 07/04/19

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