ショウタイム
What an ironic comedy this real is !




 ――そこは、薄暗く、窓のない部屋だった。冷え切った空気が支配するその空間は、静かに開け放たれた扉にも塵ひとつ舞わせることはなかった。足を踏み入れた瞬間、かすかに残るホルマリンと、それを包み込むアルコールの饐えたにおいが鼻につく。男の目前、扉から細く差し込む光に照らし出されたそこには、大小の剥製が並べられていた。
 側面に目をやり、顔をそむけない者はいるだろうか、つくりつけられた紫檀の棚には無数の硝子瓶が不気味に光る。透明な硝子は己の内に液体と臓物を抱え込んでいた。
 同様に、アルコールに浮かぶ紙片がその正体を告げる。ライエン。コウテイコウモリ。クロックラビット。バフォメット。それが、かつて彼らであったものの名であり、今や肉塊と化したそれらの呼称だった。
 男は扉を後ろ手に閉め、手探りで壁のスイッチを探す。かちり、という無機質な音に次いで白々しい電灯が瞼を刺す、その空間に、リノリウムの床と、簡素な机と、上記のものが照らし出されたが、しかし彼は背後の壁をするりと抜けた少女の姿には気づかなかった。
 男は少女に背を向けたまま、真っ直ぐに足を進め、山羊にしてはずいぶん立派な体躯を持つ剥製の前に佇んだ。山羊は、確かに形だけは生前の姿を保ってはいたが、長い毛足は艶を失い、模造の眼球は男を映すが見つめてはいない。それは他の標本、すなわち、雷雲を呼ぶ猿、人心を操る蝙蝠、時を歪める兎――「だったもの」――とて同じことだった。
 もはや肉体とも呼べる代物ではない。今男の目の前に仁王立つそれらは、所詮毛皮に適当な詰め物をしただけの紛い物だ。その身を支えた五臓六腑は細い刃で削ぎ落とされ、あの醜悪な瓶に窮屈に詰められている。赤みを帯び、躍動を約束した筋繊維は色が褪せ、ひどく薄気味悪い肉色に漂っていた。
 少女は顔をしかめた。コウテイコウモリのラベルと共に封じられたそれこそ、生ある時分の彼女、正確に言えばその一部だった。
 そう、つまり彼女は死んでいた。魂は肉体を離れ、今や自由に闊歩する。しかし、それは本来あるべき蝙蝠ではなく、人間によく似た姿を取っていた。憎むべきそれに焦がれ、憧れ、ついにはその姿を写し取ろうとする――それを、人間願望、などと、呼び始めたのは誰だったのだろう。気の利いた名前だと想い人は嗤った。憧れはやがて嫉妬に変わり、その対象を焼き尽くそうとも、望みは決して潰えない、そして叶うことも決してない。成程、実に素晴らしい命名だ。
 だが少女、すなわち、生ある時分は「コウテイコウモリ」として暗き天を翔けていた彼女、今や友より新しい名を賜り、コクテンと呼ばれる存在は、少なくとも目の前の男に対しては、憧れなど抱いてはいなかった。男は冷ややかに睨めつける彼女の気配さえ感じることもなく、未だに呆然と遺骸を見つめる。
「ねえ」
 コクテンは、それでも男に語りかけた。
「貴方には分からないでしょうね。足蹴にされる痛みも、極限の飢えの苦しみも、友を見送る悲しみも、死してなお見世物にされる憂鬱も」
 男は動かない。背を向けたまま微動だにしない。
「貴方はそれを想像できた、でも、私達を救いはしなかったよね。もちろんあの男は憎いけれど――」
 あの男、とは、彼女を薄暗い地下に閉じ込め、死に至らしめた人間のことだ。コクテンが語りかけている男は、その人物と懇意だった。しかし、
「――あの状況を黙って見ていた、それも罪になるんだよ、知ってた?」
 だからこそ、この男も死すべきだった。
 もちろん、男の死をもってしても、何かが変わるわけではないと、そんなことはよく分かっていた。だが、己と仲間の抜け殻を見ると、この顛末を忌々しく思わざるを得ない。それに、彼女の懸想人――男の前に立つ山羊の剥製、かつてその身を支配していた彼――によれば、どうせ人間はすべて殺すのだ。ならば彼女が手を下しても構わないではないか。
 コクテンは静かに息を吐くと、自身を前へと進ませた。男の背中との距離が狭まる。音も、気配もないそれに、彼はまったく気づいていない。彼女はすっと腕を伸ばした。憧れながらも嫌悪する人間と同じ形をした指先が、強い殺意を纏ったそれが、ついに男の首筋に触れる――

「すまなかった」

 ――直前に、男は呟いた。コクテンは思わず手を引き戻す。
「君達を、助けてやれなかったな……私は真霧くんを止められた、いや、止めるべきだったのに」
 男は胸の前で手を合わせると、目を閉じ、もはや抜け殻となった肉体に向かい、深々と頭を下げた。死者を悼むように、冥福を祈るように。それは彼が殺した者達のためか――あるいは、彼自身の救済のためか。いずれにせよ、その真摯な姿勢に欺瞞はなかった。
「遅いよ」
 コクテンは吐き捨てた。
「遅いよ、遅すぎるよ、どうしてあの時に気づいてくれなかったの? 私は、貴方を待っていたのに」
 それは、男をなじる言葉、同時に彼の手を求める声でもあった。
 彼女を虐げるあの男を、バフォメットの彼は彼の命と引き換えに殺した。だがその小さな救いは刹那に過ぎ、結局、誰も救われはしなかった。彼らがまだ生を保っていた頃、かすかな希望に明日をつないだ夜に、どうしてこの男は来なかったのだろう、自分達を救いに来なかったのだろう。
「ねえ、死んだらもう生きられないんだよ、知ってた? どうして私達は死ななければならなかったの? どうして静かに死なせてくれなかったの? どうして貴方は今更祈るの? どうして、どうして、どうして」
 少女はありったけの声を絞った、だが、それは男に届きはしない。
「どうして、貴方は今更祈るの――せめて、私達が死んだその夜に、その告白をしてくれたのなら、貴方を、人間を憎まずに済んだのに!」
 そして、彼女の涙も、届きはしない。
 コクテンは滲んだ目をこすった。これは己を憐れんでのことではない――ただ、無性に悔しかった。
 この男は最低の人間のはずだった。だからこそ躊躇いなく憎むことができた。しかし、何の悪戯によるものだろうか、彼を殺す力を得た後に、憎むべき敵は消えてしまった。

 ならば、心に積もった醜い怨恨を、どのように晴らせばよいのだろう?

 ――壁越しに、ひとの気配を感じた。コクテンは思わず振り返り、ついでに残った涙も拭う。
 軽いノックの音なのだろうが、扉が厚い樫であるためか、それはくぐもって鈍く聞こえた。同様に、男を呼ぶ若い青年の声も、どこか頼りなげに細く響く。
「旦那様、坊ちゃまがお帰りです」
 男はその青年に部屋に入る許可を与えた。重い扉に蝶番が軋み、部屋の前に伸びる廊下の窓から明るい橙色の光が滲んだ。それは窓のない部屋にも差し込み、無機質な電灯とはまた違った趣を添えた。青年は部屋に歩を進めると、整った眉を少しだけしかめる。慇懃な口調ではあるが、やや呆れたように彼は言った。
「また、こちらにおいでだったのですね。申し訳ありませんが、私はあまり長居したくありませんので、早めに切り上げて下さいませ」
「分かっている。今行くよ」
 しかし青年の言葉を咎めるでもなく、男は苦笑して身を翻した。最後に、かつてコクテンであったものに目礼し、青年が抑える扉から出て行く。その後を追う横顔をコクテンの目線は静かに追った。瞬間、青年は振り返る。
 鼻筋の通った端正な顔立ちの中で、ひときわ瞳が目を引いた。混じり気のない純粋な漆黒は、夜明け前の空を思わせる。しかし、そこを訪れる朝はないようだった。静寂をたたえたその黒は、はかり知れない闇を抱えている。コクテンはそう直感した。
 対して、青年の唇は艶めいて赤い。それがかすかに歪み、目は穏やかに細められた。彼は笑っている。微笑みかけている。
(生者には見えないはずの、私に向かって――?)
「轟、どうした」
「いえ、何でもありません」
 彼女の疑念は、しかし呼びかけに遮られた。青年も朗らかに返事をすると、コクテンからさっさと視線を外し、彼元来の任務に立ち戻る。
(……気のせい?)
 だが、そうと言い切るには何かが引っかかった。あの底知れぬ闇を映した瞳、その深奥は確かに自分を捕らえていた。
 重い扉が音を立てて閉まり、辺りは再び漆黒の静寂に包まれた。


next

* * * * *
7巻のあまりの衝撃に書き始めた雉ノ葉・轟・コクテンの暗めのお話。続きます。
真霧さんちにツキタケのパパンらしき人が現れたのを見て、ガク・ツキの死因とパラノイドは関係あるんじゃないかと思っておりましたところにウッカリ黒い轟が出てくるから悪いんだ……!
 時期的には、作中の「現在」から4年くらい前の9月です。


 Last up 07/01/06

back