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Is it too late to help ? 夏の名残を引き継いでか、空調の利いた屋敷内から一歩外に踏み出すと、傾いたとはいえ未だ厳しい日差しが肌を刺す。先刻まで冷え切った部屋にいたこの男、門から本丸の入り口まで歩くとうんざりする距離を持つ広大な屋敷と、バブル景気が崩れた頃から頭角を現した金融会社の持ち主である雉ノ葉豪造は、一応申し訳程度に日陰に入っている玄関に佇み、流れた汗をハンカチで拭う。 彼の視界には、この広すぎる前庭を楽しげに歩く少年の姿が映っていた。少年は豪造に気がつくと、珍しく屈託のない笑顔で手を振り、一直線に駆け出した。 「今日、学校で身体測定がおありだったそうです」 青年――二年前からこの屋敷の執事として働くが、どちらかというと少年のお守りと車の整備に精を出している轟宗之助も、少年と同じようににこやかに微笑んでいる。 「何でも、身長が六センチも伸びられたとか。最近の月武様の成長は目覚しいものでしたからね」 「ああ、それでか」 豪造は苦笑してうなずいた。彼の息子、今まさに彼に向かって突進してくる月武少年は、学校嫌いな上に自分の低身長を気にかけているらしく、そのどちらもが一時的にとはいえ解消された今日という日は、滅多にない喜ぶべきことなのだ。 「お父さん、ただいま!」 その珍しい笑顔で月武は言った。学校帰りにしては機嫌もいいのか、そのまま父親にしがみついてくる。豪造は無意識にしまりのない顔になっていたが、轟は見ないふりをしてくれた。 「聞いたぞ月武、背が伸びたんだってな?」 息子を抱き上げてそう言ってやると、少年ははにかみながらも肯定した。 「道理で重くなったわけだ。でも母さんみたいにはならないようにな」 「旦那様、奥様に怒られますよ」 忠告しながら、轟も少しだけ笑っている。豪造は彼に口止めした後、でも母さんぐらいちゃんと食べなくちゃな、と、地面に下ろした息子に吹き込んだ。それはどこにでもある父子の光景なのだが、轟はふいに笑みを潜め、静かに、鋭く彼らを見つめた。 「――そうだ、轟」 月武が振り向いた。名を呼ばれた彼は表情を直し、何でしょうか、と慇懃に訊いた。 「今日も車庫に行っていい? 話の続きをしてほしいんだ」 このささやかな願いを、彼は喜んで引き受けた。 「では、先にお着替えをお済ませ下さい。お召し物が汚れてしまいますので」 「それくらい、別にいいのに」 「なりません、メイドが泣きます。機械油は落ちにくいんですよ」 言い募る月武を軽く制して、結局は少年が折れることになった。早く来てね、と言い残し、彼は屋敷に滑り込んだ。重い扉が音を立てて閉まる。 「また、車の話かね」 「ええ」 少年を話題に出し、大人ふたりは苦笑した。年頃の男の子なら誰しも目を輝かせるそれは、彼らにも覚えがあるどころか、むしろ今現在の趣味とも言える。そのために女性諸君、特に豪造は最愛の妻から呆れられている。 「蛙の子は蛙、だな」 「ええ」 轟は、再び苦笑する豪造を見た。苦いというより甘い表情だった。息子が可愛くて仕方ないのだ。轟はこれみよがしにため息をついてみせたが、豪造は聞こえないふりをした。 「……旦那様も、そのように笑われることがあるのですね。坊ちゃまがお生まれになる以前は、そのような表情をお見受けしなかったのですが」 二度目のため息の代わりに、轟はそんなことを言った。豪造はようやく真顔に戻り、そうだったかな、ととぼけてみせた。 「しかし、轟がうちに来たのはつい二年前だろう。どうして私の過去まで知っているのかね?」 仕返しに、意地悪く尋ねてやると、 「いえ、その、メイドがそんなことを申しておりましたので」 雇い主の機嫌を損ねたと思ったのか、轟は慌てて言い募った。そして彼は苦笑を、豪造は大笑をしたところに月武がやって来て、言いつけ通りに着替えたのだからと轟の袖を引っ張っていった。彼は主人に礼をする間もなく、前庭を横切って視界から消えた。 やがて離れた車庫のシャッターが開く音がして、豪造はふと呟いた。 「……笑う、か」 試しに口の端を持ち上げてみると、引きつるということもなく笑みの形になった。 確かに自分は変わったと思う。十年も昔なら、去り際に頭を下げない召使などさっさと解雇していただろう。しかし現在の彼は、轟を責める気など毛頭ない。 また、息子が生まれる以前、否、妻と出会う以前には、子どもを愛でる気など欠片もなかった、それは他のすべてのものにも当てはまる。当時の彼にとって重要なものは、金と、金に換わる価値あるものだけだった。すべては損得の秤にかけられ、不益に傾くなら切り捨てた、たとえそれが人間であっても。そうして現在の富がある、それは痛いほどよく分かっている。 だが、そのために失ったものは何だったのだろうと、たまに思うことがある。少なくとも一時期の自分はどうかしていた、ひととしての心を失っていた。 貸しつけた金を苦に一家心中、生き残ったのは息子ひとり。かつて、そんな惨事を引き起こしたことがあった。思い返すのも恐ろしいのだが、この当時の自分はこう考えた。すなわち、返す当てもない金を借りるのが悪い、死ぬのなら借用書を地獄まで持っていけ、不可能ならばせめて保険にでも入ってから死んでくれ、そんなおぞましいことを本気で思っていた。だから彼らの葬儀にも向かわなかったし、謝罪の言葉もかけなかった。そのためか、生き残ったという少年の消息さえ分からない。その少年が当時、今の彼の息子と近い年齢であると知り、背筋を凍らせたのはつい最近のことだ。 そして、先刻数度目の弔意を告げた剥製達の死にも豪造は立ち会った。だが、すでに魂を失った彼らを見、自分は何を思っただろう。 (――貴重な資料、そう思ったのだったな) 生ある者がいずれ迎える死に畏敬を払うこともなく、彼らの命の重さなど、彼らにも感情があることなど、まったく気にも留めなかった。天国などというものが本当にあるなら、彼らはそこで安らかに眠れているのだろうか。それとも―― (未だにこの世界にいて、私を恨んでいるのかもしれないな) 細く息を吐き、豪造は思った。 裁かれる覚悟はできている。自分はそれだけのことをしてきた。まだ若い頃、世界は自分の手の中にあると信じていた頃、死ぬことさえも恐れはしなかった。天が裁きを与えるのならば甘んじて受けようと豪語していた。だが、 (困ったものだ、この期に及んで、死ぬのが怖い) 色を薄めた陽光に目を細め、自嘲混じりに彼は笑った。 こんなことを考えるようになったのは、きっと息子のせいだと思う。彼が生まれた瞬間から、世界は自分が動かせるものではく、生命とは実に弱々しいもので、かつ愛おしく、慈しむべきものだと教えられた。知るのが遅すぎた、と、悔いた夜も度々ある。 失われた命は二度と戻らない、そんな簡単なことさえ、どうして忘れてしまったのだろう。再び思い出した今となって、ようやく死を恐れるようになった。それは己自身だけではない、最愛の者に先立たれるのが何より怖い。 (私も、すっかり弱くなってしまった) だが、それは居心地のよいまどろみだった。 豪造に関わったことで生きることをやめてしまった者、彼らに謝する術はもはやないが、せめて安らかに在るようにと、ただ彼は祈った。 それは、欺瞞なのかもしれないが。 back next * * * * * 心中に追い込むような貸し方をしたわけですから、雉ノ葉氏は本職の金融会社だと予想。ツキタケのお父さんかもしれないので認めたくないですけど、一代で財を成したぐらいですから、やっぱり豪造さんも悪どいことをやっていたのでしょうか。(借りる方も多少は悪いと思いますけど…) 某サイト様で、ツキタケがいじめられるのは親が金持ちであるせいだから多少親を恨んだりしてるのかな、とあったのですが、どうも私自身がファザコンなせいか、その考えは出てきませんでした。実際の親子関係はどうだったんでしょうね。 Last up 07/01/08 |