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Don't cry, baby. 出会い頭に、ジャックナイフで切り裂いてやろうと思っていた。 それは、今は亡い父親が昔よく口ずさんでいた歌によく出てくる単語で、ナイフという物騒な言葉のわりに妙に明るい響きが気になり、ずっと記憶に残っているのだ。 だが、飛び出した大振りの刃は、数年手入れを怠ったためか、すでに切れ味が鈍っている。指先を押しつけても肉は裂けず、血が滴るということもない。 唯一、形見と呼べるものだった。しかし、これこそが彼の命を危うくし、生死を彷徨わせた原因でもある。振り上げられた刃を濡らすどす黒い赤と、肉を突き刺した時の鈍い音は今もありありと思い出すことができる。それにも関わらず、これを未だに持ち続けているのは何のためかといえば、無論、彼と、彼の家族を死に追いやった雉ノ葉豪造を殺すためだ。 轟は刃を折り畳むと、ため息と共に工具棚に戻した。彼自身がつくる影はすでに藍を帯び、長い夏の日もそろそろ後ろに下がるようだ。月武はとうに本館に帰し、今頃は夕飯を楽しんでいることだろう。 その少年の父親から、自分の父親が金を借りたのがすべての始まりだった。 金とは無情なものであるし、借りた方ももちろん悪い。だが、その当時まだ十にも満たない少年に、道理をわきまえることができるだろうか。愛すべき者達を失った轟は、その時まで、復讐を糧に生きてきた。そこいらによくある悲劇だ。 その時――雉ノ葉に仕える者として、初めて豪造に目通ったその日の、着慣れない上等な制服に隠した刃の重さは忘れられない。まだ肌寒い風が時折吹く四月、轟の記憶の中ではまるで悪魔のように嘲りに顔を歪めた未来の主人は、しかし、悪というにはあまりに甘い顔で、轟の正体に気づくこともなく、型以上の挨拶をしていった。 そして、豪造が背を向けた一瞬に、ジャックナイフを取り出そうとしたのだ。 結局、それは未遂に終わった。なぜなら、刃を握るべく用意した右手が小さな掌に引き止められたからだ。 慌ててそちらを向くと、まだ幼い月武が、何も知らないのをいいことに、お兄ちゃん、遊んで、などと言っていた。 「ああ、轟くんには、息子の子守りも頼んでいいかな。年が近い方が何かと便利だろう」 そして、雇い主のこんな理不尽な要求にも、被雇用者は耐えて忍ぶしかなかった。これで機会が永久に失われるとは、この時は思いもしなかったが。 今ではそんなこともないのだが、出会った当時の月武の泣き癖といったら、それはそれはひどいものだった。上がったばかりの小学校で同級生にからかわれたとか、そういった泣き言を車庫まで持ち込み、轟の前でだけ泣く子どもだった。ささやかな信頼は初めのうちこそどこか居心地の悪いものだったが、それが晴れがましいものになるのに大した時間はかからなかった。 それからこんなこともあった。月武がある日自分を見上げて、 「轟は、オイラのこと、好き?」 と、尋ねた。そこで、 「嫌いです」 少しばかり悪戯心を起こしてしまったのが間違いだった。 見るも無残な大惨事だった。上は洪水、下は大火事――子どもじみたなぞなぞのように、月武はわあわあと泣きだした。冗談です、嘘でした、すみませんと言っても彼は聞く耳を持たず、やがて泣き疲れて眠ってしまった。目を覚ました後も、当然といえば当然なのだが、月武は口をきいてくれず、それが一週間も続いた。 その一週間の、何と長く、心許なかったことか。 (坊ちゃまの中で私の存在が大きいように) きっと、自分の中でも、月武の存在が大きくなってしまったのだ。 轟は我知れず苦笑していた。自分はいつからこんなに弱くなってしまったのだろう。 (だが、それで、よかったのかもしれない) あの瞬間に、無垢な瞳に出会えたからこそ、まだ手を汚さずに済んでいる。平凡でめまぐるしい日々は彼の暗い感情を、たとえ一時であっても忘れさせた。月武に接するたびに己の心から憎悪が薄れていくのを轟は自分でも感じているし、それに救われた夜もあった。だが、 (すでに心に秘めてしまった刃、これはどうすればよいのだろう) それは、考えても未だに分からない。 たとえ罪を償った後だとしても、豪造が自分の最愛の者達を殺したことに変わりはない。過去を塗り潰すことができない以上、事実は依然事実としてそこに在る。それが鎖となって己の首を締め上げることも、轟は薄々感じている。誰かに復讐を頼まれたわけではない、しかし、まだ幼かった感情は心の深くに根を張ってしまい、もはや消すことなど不可能だった。 そこにあの少女が現れたのは、天啓、と呼ぶべきなのだろうか。 思い違いでなければ、彼女の力を請うことで、おそらく自分は目的を遂げられる。相手を言いくるめる自信もある。ただ、自分はそれを叶えたいのかどうか、それがどうにも分からなかった。 それに、どうせ世界は自分が動かせるものではない、だから彼はすべてを天に任せることにした。彼女は果たして現れるだろうか――現れたなら、自分は裏切り者と弾劾されることになるだろう。賽はすでに投げられた、留める術を彼は知らない。 (私が父親を殺したら、坊ちゃまはお泣きになるだろうか) いつかの思い出を探り当て、彼はふとそんなことを思った。 (それとも、私が罪を犯したことで、坊ちゃまがお泣きになるのだろうか) 背後に気配を感じ、轟は振り返った。地平に沈みゆく夕闇を背に、少女――コクテンが、佇んでいた。とき色に輝く髪に紛れて、蝙蝠の羽根が目に留まる。彼女の瞳は青かった。それが、自分を見つめている。 ……薄気味悪いほど彼に都合よく傾く運命に、轟は嘲笑を隠せなかった。やはり、幼いあの日の、涙で濡らした自身の感情は嘘偽りなどではなかったのだ。それを世の理さえ受け入れている。ならばこの道を進めばよいのだ、行き着く先は闇であっても。 「先刻もお会いいたしましたね。何かご用ですか」 轟はいつものように笑みを張りつかせ、少女に丁重に話しかける。 「ご主人様にご用でしたら、お取次ぎいたしますが」 「ねえ」 だがコクテンは構わず、話を遮った。 「貴方、私が見えるのね」 確認の言葉に、轟は笑みを崩さなかった。 「ええ、貴女だけでなく、他の死者達も。私も一度死んだ身ですから」 「私が誰だか、知っているの?」 次いで、問いを投げつける。轟は一度まばたきをすると、 「皇帝蝙蝠、学名Vespertilio adverto。吸血によって人の心と行動を操り、時に惨事を引き起こす。中世以前の歴史的事象のいくつかはこれによるものと推定される。かつては趨勢を極めたが、他の生物同様、近現代の開発により個体数は減少、近年確認された例は非合法の一件のみ。もっとも」 彼は、改めて彼女を見つめる。 「貴女が、あの剥製と同じ個体かは分かりませんが」 「よく分かっているじゃない」 コクテンは、半ば呆れたように、轟に対して笑ってみせた。 「さて、わざわざ自分の死体を見に来るとは、なかなかの物好きでいらっしゃるようですね。ご感想をお聞きしてもよろしいですか」 「まあ、大した嫌味だこと」 ふん、と鼻を鳴らし、さりげなく口元を手で覆う。そのしぐさがすべてを物語っていた。彼女は嫌悪している。己の死と、そこに追いやった原因を。 「憎いですか」 轟は彼女に鋭く問うた。 「貴女を殺した人間が。もしくは見殺しにした人間が。要するに雉ノ葉豪造という男が」 コクテンは、目線と鼻先を彼から逸らした。 「……分からない。初めは殺すつもりだった、でも今は、憎いのかどうか、それも、分からない」 「いえ、きっと憎んでいるはずです」 彼は、強い口調でそう言い切った。揺るぎない声音にむしろコクテンが驚いている。 「あの男は貴女を見殺しにした。たとえ悔悛したにせよ、それは紛うことなき事実です。もしかしたら、他の標本も同じ目に遭ったのではありませんか」 薄暗い、窓のない部屋に置かれたあれらについて言及すると、少女の頬に朱が差した。 「貴方に何が分かるっていうの? 私達を殺した人間のくせに。どうせ、大切なひとを失ったことなんて、一度もありはしないんでしょう」 「いえ、あります。一度だけ」 怒りに震える声を制し、轟は穏やかに切り返した。 「たった一度で、私はすべてを失いました。元凶は貴女と同じ、雉ノ葉豪造という男です」 コクテンは黙った。彼女と彼は同じであることを悟ったのだろう。轟は表情を崩さなかった、未だに、にこやかに微笑み続けていた。 少女は静かに息を吐き出すと、唇を引き結び、瞼を伏せた。彼女の背後、大きく開け放たれた車庫の入り口から上方を濃紺に染めた茜の空で、血色の夕日がわずかに地平に近づいた折、貴方は、と少女は呟いた。 「貴方は、あの男を憎んでいるの?」 「ええ、殺したいほど、心の底から。貴女と出会えたということは、これを肯定すべきということでしょうね」 湧き上がる哄笑を喉で押し留め、肩を震わせて彼は嗤った。やがて感情を潜め、改めて轟は彼女に問う。 「力を、貸していただけませんか。少しばかり私に協力して下されば、貴女は直接手を下さずとも済みます。それに、誰かしらは手引きする者も必要でしょう。悪い取引ではないと思いますが」 少女は軽い躊躇を見せた。彼は逡巡を受け入れる。轟は歌うように囁いた。明るい男声は高い天井によく響く。 「どうせなら、大掛かりなショウにしてやりましょう。狭い舞台での立ち回りでなく、世界すべてを巻き込むような、皮肉で滑稽な三文オペラに」 やがて観念したようにコクテンは前を向き、青い瞳で彼を睨みつけた。 「……いいわ、手伝ってあげる。代わりに、ひとつ、条件がある」 コクテンは、すい、と指を伸ばした。視線はそこに吸い寄せられる。 「あの男の大切なひとを、まず真っ先に殺して頂戴。あの男にも、私達と同じ感情を味わわせてやりたいから」 「……それは」 轟は口篭った。自分にささやかな信頼を寄せる少年の顔が真っ先に浮かんだ。 「できないの? なら自分でどうにかするのね」 一瞬の動揺をさらにかき乱すように、少女は彼に選択を迫る。賽はすでに投げられた、留める術も、過去を塗り潰す術も、自分は知らない。 轟は数度のまばたきを繰り返した後、コクテンと同様に、底知れぬ漆黒の瞳で彼女のそれを睨みつけた。 「……分かりました、それで貴女の気が済むのなら」 「取引成立ね」 短く言い捨て、コクテンはくるりと背を向ける。その華奢な身体がふわりと舞い、とき色の髪が揺れた。それは暗い紗を纏った空に鮮やかに映える。やがてその色は空に消えた。 轟は再び工具棚に手を伸ばした。掌に載せたナイフはずしりと重く、心の闇を吸って冷たい。 「ああ、これでまた、坊ちゃまを泣かせてしまうな」 微笑混じりに、彼は呟いた。 (fin.) back * * * * * という、轟・コクテン・雉ノ葉妄想話でした。十中八九捏造です。 この設定だといろいろおかしいところもあるのですが(ガクは黒幕(このSSでいうと轟、コクテン)に気づいているが、そのわりにはコクテンと仲良く(?)暮らしている、とか)、7巻プロフィールを見た瞬間、「イケる!」などと考えてこのようなお話になりました。 過去がどうあれ、現在そして未来の彼らが幸せに生きてくれることを願ってやみません。特に雉ノ葉さんは生きているのかどうかも危うい……。 ともあれ、最後までお目通しいただき、ありがとうございました☆ Last up 06/01/11 |