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The Dreaming Troubadour 水ぬるむ春といえども夜風は冷たい。でもまだ夏の気だるさのない澄んだ空気も僕は好きだった。 田舎で燻ること一年、灰色の浪人生活から抜け出し、まさに「とめてくれるなおっかさん」と親類縁者を振りきって――まあ実際、田舎の次男坊なんて誰も止めやしないけど――どうにか国立医科大学に潜り込み、上京。東大紛争から始まった僕のキャンパスライフも四年目に入った。時は学生運動全盛期、医学部なんてまさにその渦の中心だった。よく授業を行えたものだと今更ながらに感心する。テレビを持たない僕は知らなかったあさま山荘事件とやらはどうやら内ゲバの争いだったみたいだし、内実を知ってそろそろ飽きるかと思いきや意外にも学生諸君はしぶとかった。 でもそんな騒動はどこへやら、僕はごく普通の一般学生らしく、麻雀やらパチンコやらに耽らせてもらった。誤解のないように言っておくけれど、当時のパチンコは今の電動式とは違う、人道的な手打ち式だった。月末はこれでよくしのいだものだ。たまに負けてさらに苦しくなることもあったけど。 そして時はグループサウンズ全盛期。生徒時代の青春をつぎ込み、例に洩れず影響を受けた僕は、指先が肝要な外科志望にも関わらず、暢気にギターなんて弾いていた。まったくよく単位を取れたものだと今更ながらに感心する。 その日は新月で空は暗かったけれど、縁側に腰を据えてギターを構えると、僕は迷惑にならない程度の声量で歌った。恋に焦がれる僕に振り向いて。君が好きなんだ、知っているだろう? ―― 一曲弾き終わった時に、頭上でぱちぱちと手を叩く音がした。振り仰げば今年の卒業生がかつて使っていた、要するに今は無人のはずの二階に電気の光と女の子が見えた。 「それ、ビートルズの『Love Me Do』でしょ? 私、大好きなの」 目が合った瞬間、笑顔でそんなことを告げる彼女に、惚れるなというのは無理な注文だ。こちとら出身は男子高、女医も珍しい時代で大学もほぼ男子校状態、悲しいほど女っけのない過酷な人生を孤独に歩んでいる真っ最中だったのだから。 でも、その笑顔は満月にも負けないぐらい眩しかった……というのは恥ずかしいから黙っておくことにする。 その頃の僕の風体といえば、そりゃあ悲惨なものだった。流行っていたとはいえ肩まで伸ばした猫っ毛に、近眼対策の丸眼鏡、どう言い繕って見栄えのしない細身、それなりに体力はあったけれど。そして服にかけるお金もなければ、かけようとする意志さえない。とにかく彼女と比べることさえ申し訳なくなる具合だった。彼女は眼鏡こそ僕と同じだったけれど、それはきちんと手入れのされたきれいなものだったし、癖のあるふわふわした髪は僕をノックアウトするのに充分だった。この頃見かけるミニスカートではなかったけれど、膝丈の花柄から覗くふくらはぎは信じられないほど白く柔らに細く、自分と同じ生き物とは到底思えなかった。そういえば物心ついてから、年頃の女性とまともに接するのはこの時が初めてだったのじゃなかろうか。それも手伝って僕は恋に落ちてしまったというわけだ。恋やら愛はすばらしい、世界が変わって見えるようだ、なんていう昔の言葉にも深く納得できた。 しかし、安さだけが取り得という、風呂なしトイレ共同台所は申し訳程度のこの四畳半に、どうして彼女は乗り込んできたのだろう? 「実はこの下宿は親類が経営しておりまして、同居人の人柄は保障するとのことでご厄介になっているのです。というわけで、叔母からお噂はかねがねお聞きしております」 しかし、一階は管理人夫妻の住居、二階の続きの三部屋が下宿人の居場所であるわけで、要するにひとつ屋根の下であるわけで、保障するとはいえ初対面の男と同じ家に住むのは嫌ではないのだろうか? 「両親の目の届く範囲にいることを条件にようやく上京できたものですから、贅沢なんて言えません。そして貴方につきましては、話に聞く限り大丈夫だろうと思いまして。実際お会いしてますます確信が持てましたわ」 異性に免疫のない僕の精一杯の抵抗を、彼女は笑ってかわしてしまった。彼女本人もその周りも何を考えているのかと思ったが、確かに大家はさり気なく目を配っているし、何より、僕にどうこうする度胸もないというのは至極的確な指摘だった。 そういうわけで僕と彼女の生活は始まってしまった。この日以降、ありがたいことに、彼女のついでに管理人の風呂を使わせて貰えるようになり、その上なぜだか僕は彼らの食事に同席することになる。しかも、 「せっかくお料理を習っているのですもの、腕を磨かなければ田舎の両親にも面目が立ちません」 そんな理由で、彼女の手料理だ。家政大学と料理教室は大分違うと思うのだけれど、家族を思うという点については確かに同じものかもしれない。それに、きちんと栄養を考えているだけあって、塩鮭に青菜の味噌汁、お新香に金平牛蒡に山盛りの白米と実にバランスが取れている。難を言えば朝食には量が多いのだが、日本男児の食欲を甘く見てはいけない。 ただ問題は、日を追うごとに彼女の手に生傷が増えていくということだ。 彼女は実にそそっかしい。見るからに、そして実際に良家のお嬢さんなのは分かるけれど、ひとはそれだけでこうまでもおっちょこちょいになれるものだろうか。数え上げればきりがないが、たとえば包丁で指を切るのは日常茶飯事だし、火にかけている鍋にうっかり触ることもざらにある。味見をすれば舌を火傷し、客人が来れば揚げ物も放っぽり出して出迎える。全部目の前でやってくれたから対処できたものの、僕がいなかったら彼女はどうなるものやら、想像するだに恐ろしい。でも、 「今日はお大根がおいしく煮えましたわ。だからたんと召し上がって下さいね」 少しは腕も上がりましたのよ、なんて笑顔で言われては怒るに怒れない。少々の傷では彼女の向上心を止めることはできないらしい。そして笑顔と夕食を横目に見ながら、僕はため息混じりに絆創膏を貼るのだ。 「貴女のことは絶対に僕が守ります。だから安心してどじを踏みなさい」 ――僕は超人でも何でもないからそんなことは不可能なのだけれど、いつかこれを現実にしたいと思うようになったのはある意味当然のことだろう。 ただ問題は、そもそも僕は彼女に相応しい人間かということだ。 そんなこんなで半年が経ってしまった。間に夏休みを挟んだのだけど、僕はともかく、彼女が実家に帰らなかったのには驚いた。 「だって、せっかくの都会ですもの。少しぐらい遊んでもよろしいではありませんか」 確かにその通り、かもしれない、自分は出歩かないのでよく分からないが。東京見物のお相手に僕が選ばれることもあった――そしてそれはこの上ない光栄だった――けれど、やはり女の子は女の子同士で出歩くのもまた楽しいらしい。当然一日がかりの散策になるわけだけど、彼女はきっちりと僕の昼食を用意してから遊びに出た。 「だって、貴方ほど痩せている殿方はお見受けしたことがありませんもの。少しでも栄養を取って頂かないと干からびてしまいそうで、怖くて」 そう言われても、食べても太らないのだから仕方がない。これ以上痩せてよいことがないのも事実だけど。 「それにおいしそうに召し上がって下さいますから、こちらとしても張り合いが出るのです」 だから貴方のために作るのです、と彼女は何のてらいもなく言った。一方的に照れてしまった僕は果たして自意識過剰だろうか。ともあれ、そんな理由によって、愛がこもっていればいいな、と思いつつ、今日もご飯をおいしく頂くのだった。 そんな状況は傍から見れば新婚夫婦に映るらしく、学内ではちょっとした噂になっているようで、個人的には満更でもないのであえて放置してからしばらく経つ。しかし彼女にはとても言えない。 本日休講という彼女に見送られ、鞄を小脇に歩き出した。まったく実に新婚夫婦だ。空は何だか薄暗いけれど、一方的な幸せ気分からどうにかなるだろうと勝手に判断し、こころもち急ぎ足で大学に向かった。 さて、この日は朝からやかましかった。このところ下火になりつつあるとはいえ、学生運動はまだまだ盛んらしく、数人の政治集団と相当数の愉快犯が我が物顔にキャンパスを占拠していた。顔触れには見覚えがなく、どうも他校連中が勝手に乗り込んできているらしい。ぽつぽつ降り始めた雨にも怯むことなく、わあわあと大騒ぎを続けている。 そんな人いきれをかき分けて、どうにか校舎に潜り込み、一息つく。見渡せば、同じように避難してきたひとびとが、同じように息をついていた。 まったく、と僕はよく思う。政治も宗教も好きに主張すればいいし、ベトナム戦争には僕も反対だ。しかし、自分の主張のために暴力を振るうこと、ましてその尻馬に乗っかってお祭り騒ぎをすることに一体何の意味があるのだろう。アメリカを見習うも結構、かぶれるも結構、だが他人を巻き込むのはいい加減にしてくれ。 「まあ、連中も何も分かっちゃいないのさ」 机に鞄が投げ出される、その鈍い音に僕は振り返った。 「戦後に既存の価値は失われ、すっかり先行きが見えなくなった。そのために新たな価値観を得ようと、そして溜まった憂さを晴らそうと暴れ回っているんだ」 言いながら隣に腰を下ろした、こいつは名前を伊達という。 「小鳥と同じさ。鳥は卵から無理に出ようとする。卵とは世界だ。生まれようとする者は世界を破壊しなければならない――もっとも、ファッションとしての闘争に意味があるかは分からんがね」 「いいよ、もう。お前のヘッセは聞き飽きた」 遮ると彼は怒るでもなく皮肉のように唇の片端を上げた。そこいらにはねる硬い髪やら、やたらと悪い目つき、息子が生まれたら「マサムネ」と名づけるというしょうもない希望まで見飽きた仲だ。医学部とはそもそも人数が少なく、班ごとに実験やら演習やらをやらされる上に、それが六年間も続くものだから、お互い腹の底まで読めてしまうのだ。 だから、こいつが鞄からおもむろに医学書を出し、自習を始めることもまったく予想通りだった。 「下らない馬鹿騒ぎでは戦争は終わらないし、傷病者が治るわけでもない。自分が医者になって前線に出た方がよほど有意義で、確実だ」 常々口にする彼を、僕は秘かに尊敬している。 しかし、悲しいかな僕は弱い人間で、当面の目標さえ存在しない。彼に倣って自習でもすればよいものを、本降りになると面倒だからとさっさと教室を出てしまった。出てから、しまった、とは思うものの、戻るわけでも決してない。 湿気を帯びた古い校舎を何とはなしにだらだら歩くと、なぜ自分は今ここにいるのか、分からなくなることがある。僕はなぜ医者になりたいのだろう? 友ほど明確な意志があるわけでもなく、流行に乗ったわけでもない。理系科目が得意であるなら工学部にでも行けばよかったのだ。 戦争――第二次世界大戦は惨敗、その結果既存の価値観が意味を失い、若年のモデルが消えたことで精神が路頭に迷う、そのつながりは理解できる。外の騒ぎにも冷静でいられるだけの頭はあるつもりだ。でも、いくら考えてみても、未来に何をすべきかが分からない。つまりはひとに迷惑をかけていないだけで、僕も革命家諸君も何も違いはしないのだろうか。そんなことばかり考えてしまうのも、きっと雨のせいに違いない、と僕は無理やり結論づけた。 正面玄関から一歩足を踏み出すと、途端に騒音が耳をつんざく。雨だというのに元気なことだ。所詮他人事だからと気楽に考えていた僕は、しかし行き交う脚の間に屈んだ小さな影を見つけて、一気に冷静さを失ってしまった。それは本当に小さな影で――それでも、僕にとってはこれ以上ないほど、大きな、大切な存在だった。 華奢な背中はゆっくりと立ち上がり、行き先の知れない大衆の中でもがくように、片足を引きずりながらも己の道を求め、進んだ。 僕は走った。必修体育がなくなって二年ばかり経っていたけれど、日本男児の底力を甘く見てはいけない。息をするのも苦しい人波をかき分け、ふり払われながらも僕は走った。 しかしこの連中は何なのだろう、自分もよく分かっていない理想を唱えながら、目の前で倒れたそのひとにさえ気づかず、むしろ踏みつけんばかりの革命家気取りは。鳥は卵から無理に出ようとする、そして卵とは世界――抜けた先は、新しい、別の世界だ。だが、今まさに出来つつある価値観がこんなものならば、僕は断固として抵抗する。 「――――!」 僕は彼女の名前を呼んだ。彼女は――ふわふわとした長い髪を雨と恐怖でびっしょり濡らし、それでも真っ直ぐに前を見据える、今年の春から僕の心を捉えて離さない彼女は、僕を認めると躊躇いもせずに腕を伸ばして僕の手を掴んだ。それを引き寄せると、軽い身体を抱き上げ、まだ衰えぬ人波から逃げ出した。 これはロマンチックな逃避行なんかじゃない、己の明日を掴むための戦いだ。 僕は彼女を守る、守り抜く。あまりにもささやかな使命かもしれない、どれほど地味な目標か知れない、けれど何もかもに意味を見出せないこの世の中で、やっと掴んだ唯一の希望なのだ。 「――傘をね、渡そうと思ったのです」 いつもより念入りな手当てを終え、僕の肩越しに、彼女は言った。 「そうしたら騒動に巻き込まれてしまいまして……結局、お空も晴れてしまいましたし」 「まったく、無茶しないで下さいよ」 彼女を軽く負ぶい直し、ため息をついた。彼女はあのきれいなふくらはぎに傷を負っていた。そこから流れる一条の血が可愛らしい靴下を赤く染め、やがてどす黒い染みになるであろうことは容易に想像できた。大した傷でなかったからよかったものの、万一のことを思うと本当に肝が冷える。ただでさえ僕の肩を掴む手は絆創膏だらけなのだ、この上事故にまで遭われてはたまらない。 「今後は気をつけます……」 しおらしく答える彼女に苦笑する。今でこそこんなことを言っているけれど、きっと明日も明後日も、そしてこの先いつまでも、彼女は料理を作っては傷をこしらえ、雨が降れば、自分が濡れるのも構わず、傘を届けてくれるのだろう。彼女にとってはただの些細な親切かもしれない、けれどそこに惹かれるのだから仕方がない。 「ひとつ、よろしいですか」 「はい」 「これからも、怪我をしたら僕に言うんですよ。きちんと手当てして、痕も残らないぐらいきれいに治してみせますから」 外科志望を甘く見ないで下さい、と僕が告げると彼女は、まあ、と嬌声を上げた。 「それはそれは、とても心強いことです」 そして細い腕を精一杯伸ばし、思いきり抱きつくものだから、嫁入り前の娘さんがそんなことをしてよろしいのですか、と裏返った声で尋ねてしまう。すると彼女はとびきりの笑顔で、 「責任は取って頂きますから」 などと言うものだから、僕はすっかり参ってしまった。 「……本当にいいんですか」 「はい?」 「僕ごとき青二才が貴女の人生に責任を負っても」 「はい」 間髪入れない肯定の返事に僕は返す言葉を持たなかった。後悔しても知りませんよ、と告げると、しませんよ大丈夫です、と彼女は笑った。かくして僕の未来は決まり、不真面目な態度は是正された。そのうち周囲の学生運動も収まり、怒涛の七十年代は静かに半生を終えようとしていた。 しばし後、僕はどうにか国家資格を取り、ことあるごとに彼女の怪我を治し、研修医の期間を経て、やがて「責任」を取り――要するに結婚した。その間に彼女のどじも大分少なくなり、伊達は予告通り海外へ行ってしまい、僕も麻雀とパチンコはやめたのだけど、グループサウンズ狂いは未だに治らない。 next |