モンゴル地域研究講義    『日本農政の戦後史』T 1940年代後期 敗戦の日本と農地改革



(1)敗戦と飢餓の日本

 1)敗戦後の食料不足

    その原因

   ・1931年の満州事変から1945年の原爆投下まで、186万人(300万人)の死者。

   ・鉱工業生産の破綻。→失業者。そして、被災者。

   ・朝鮮・台湾からの「移入米」失う。そして、凶作。

   ・戦地・外地から650万人の復員、引揚者。

   この時の農村が社会的にもっていた意義:農村は食をえる場であり、住むところを供給してくれる場

 2)占領下の戦後改革

   沖縄を除いて間接的占領

   戦後改革は絶対的権力をもつGHQの発意により、戦後「改革」の基本的な枠組み決定 。

  軍隊・軍需生産の解体、戦犯逮捕、治安法規と特高警察の廃絶、言論・集会・結社の自由の確立、天皇神格の否定、国家と神道の分離、農地改革。

   婦人解放、労働権の快復、教育の自由主義化、専制政治の廃止、経済の民主化という五大改革司令が打ち出された。こうして占領下で「民主化」が進められた。

...................................(モンゴルの民主化時はどうだったのだろう?)

 3)中国共産党の社会主義革命進展。その影響で変わる日本の立場

   日本の「民主化」は、「反共の防衛」を期待する「経済復興」と「経済自立化」政策へと転換。

 4)しかし、さぼられた「財閥解体」

   占領当初は厳しい賠償計画。粗鋼生産の4分の1にあたる。

   しかし、Bの後、計画縮小。

   アメリカは日本の工業力をそのまま活用することを考える。

....................................「活用」とはどういうことか?誰が、何のために「活用」するのか?

 5)戦前の半分以下に決められた労賃と米価

   新しい物価体系:1941年、物価を10倍、賃金を5倍。米価を安く。

            1947年、物価を65倍、賃金を27.8倍。労働者のストライキ。

 6)ドッジ不況 

   「ドッジ・ライン」:「国家財政の赤字の一掃と黒字への転換のために、民間企業へ の補助金の交付の廃止や、事業税の増徴などのような一連の非常に激しい手段をとるこ とを命令した。」(林、P.20)

   冷戦下のアメリカの対日政策の特徴:アジアの反共拠点として、日本経済の「自立」の必要

   1ドル360円。インフレはおさまったが、まだ「自立」に耐える底力がない。

   「1万2千の企業倒産と51万2470人の失業が発生した。」(林、P.20)

(2)農地改革−戦後日本農業の出発点

 1)農地改革前

  日本政府の原案にもとずく農地改革。←大正時代以来の小作争議などの農民運動。

 2)第一次農地改革の意図

  食糧不足緩和。引き揚げ労働力に仕事を。不在地主の5町以上の土地をとりあげる。

 3)占領軍の勧告と第二次農地改革

   ほとんどの農民が自作農となる。........(自分で作った米を腹いっぱい食える)

   小作制度がなくなり、最底辺の貧しさがなくなる。

 4)牧野解放、しかし、山林は解放せず。

   これはせめて木を売って生計をたてられるようにと、地主を保護するためであった。

   山村の農民は第三次農地改革として山林の解放を切望していた。

.........(集落の共有地に林間放牧し、炭焼きをし、薪をとり、狩りをし、焼畑で蕎や大根を作るなど、農民は山を利用する術を知っていた)

   この結果、農民の山林利用を後退させ、山村の農業、特に、土地利用型畜産の発展を阻害した。.........(これは購入飼料加工型畜産が定着する土台となる)

.........(後に見る北海道旭川市斎藤牧場は徹底して山地を利用する)

   現在の過疎化の原因となる。......(但東町は90%以上が山。『山しかない』)

 5)低米価強権的供出と耕作放棄(社会主義国の集団化と家畜殺しに類似)

   政府は農民に低米価での供出を強制。1946年に供出強権発動件数は全国で1万件。

   占領軍が銃の威嚇を農民にむけた「ジ−プ供出」も行なわれた。........(但東町でも)

   それまで地主が現金で支払っていた所得税を自営農も負担するようになる。

   その一方で、生産者米価の切り下げが行なわれ、農民の耕作放棄が進む。

  *戦前の物納小作料:1町歩経営の小作農家が50俵(3000s)の収穫をえたとしても

   30俵は物納し、自家消費にまわせるのは20俵。不作の時は自家消費分が減る。

   ・米30俵とは、当時、6-7人の家族がようやく食べていけた量である。

   ・山村では、三反百姓(30a経営)が多く、食っていけず、満州に分村した。

   ・命からがら帰国した人々は、再び、日本の各地で開拓を始め、自作農となった。

   ・地主に収めなくてよくなった30俵は、戦後、復員・引揚者や疎開・被災者をさしあたり養う基盤となったのである。

    そういう意味でも、農地改革は重要な意味をもっていた。



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