モンゴル地域研究講義
 

斎藤晶牧場から「近代」を問う

    〜蹄耕法による山地酪農−北海道旭川市の斎藤牧場にて〜    

        遊牧社会の地域研究プロジェクト実践チーム  


 
      斎藤晶さんの牧地造成の方法    澄川裕之      


    “牧地を造る”と言えば、ブルドーザーなどで山を崩し、広大な平地を作ることから始まるという認識は根強い。実際、開拓時代以降、北海道の牧地造成は、正にそのように行なわれてきた。しかし、その結果、自然のバランスが崩れ、逆にひどいシッペ返しを受けてきたことも、また事実である。ここでは、そういった流れに対するアンチテーゼとして、ますます実益をあげ、自然破壊も及ぼさない、むしろ、溶け込んでいる斎藤牧場をいかにして作りあげてきたのか、という“技術面”を見てみよう。

    ≪立ち木処理≫

    雑木の立ち込める土地を牧地に変えていくためには、まず、立木の処理から行なわなければならない。しかし、山を丸裸にむいてしまうのではなく、少なくとも30%は木を残すのである。山、本来の調和を忘れてはならない。

    

    ≪防火線の設定≫

    国有林に隣接しているため、開墾火入れの適期である乾燥期である4月下旬〜5月下旬に火入れ許可が得られない。そのため、翌年の火入れ予定地の周囲をササ刈りし、次年度の火入れに備えるのである。この火入れは、牛の重放牧のみの草地化では、進展が遅いために行なわれるもので、斎藤さんの牧地造成は「焼払い蹄耕法」が実態である。

    

    ≪火入れ≫

    翌年の8月中旬から下旬の火入れ許可があり次第実施する。この時期のササは水分を含み、下部が燃え残るために再生するが、再生したササは牧草播種後の日陰となり、牧草の発芽がよくなる。

    

    ≪牧草播種≫

    火入れの翌朝、10アールあたり3キロの割合で牧草の播種を行なう。しかし、山全体に播く必要はなく、林道に置いておけば、雨が降って傾斜地の故にながれ、更に牛の糞によって、山全体にばらまかれる。労力も、資本も必要がない、極めて省力的な方法と言える。

    

    ≪踏圧≫

    牧草播種の翌日から、11月上旬まで放牧する。(1ヘクタールあたり10頭)早朝に放牧し、牧草の踏圧、第二次植生の抑圧を実施する。

    

    以上のような過程をへて、現在の斎藤牧場が存在するのである。

    

    ≪草種の推移≫

    

牧草(%)ササ(%)雑草(%)
1年目2080
2年目503020
3年目8020
4年目100

    ここで、第2牧場をとりあげて、牧地を考えてみる。

    第2牧場のあるところは、かつては白樺林であった。それを開拓者がやってきて、放牧地を造るときにブルドーザー等で表土を沢に落とし、起こしてから、種を播いた。その開拓者は3年しか放牧せず、牧地を放棄してしまった。そして、すっかり荒廃してしまったところに斎藤さんが手をかけ、牛で牧地を復元してしまった。もちろん、資本はほとんどかかっていない。

    こうして造った放牧地だが、放しておくと、牛は風通しのよい決まったところでいつも寝る。踏まれすぎて裸地になってしまうが、放っておくと、落とした糞で、再び生えてくる。糞のまわりの草は、1年目は肥料が効きすぎて、おいしくないために食べないが、2年目からはきれいに食べるという。

    また、牛が余り食べないところは、日があたらず、株になったり、裸地になったりしてしまうため、ひんぱんに踏んで、きれいに食べさせることが大切である。そういう意味で、草が悪くなり、不足したりする時には、逆に多くの牛を放す。そして、リン酸肥料もばらまく。リン酸によってクローバーが増えるが、根粒菌によって、空気中の窒素を固定する。すると、ケンタッキーブルーグラスやオーチャードグラスが伸びてくる。その上に多くの牛の糞が撒かれると草地は回復するのである。

    

    以上が、斎藤式牧地造成法である。一般の考え方とは大きく異なるために、受け入れ難いかもしれないが、自然を熟知した上での、実に合理的な方法ということができる。

    

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