恭親王奕訢

1832〜98。号は鑑園主人、楽道主人。道光帝の第6子。生母は孝静成皇后博爾済吉特氏。咸豊帝の弟。


咸豊帝即位後、恭親王に封ぜられた。咸豊3年(1853)10月軍機大臣となり、同5年(1855)7月軍機大臣を解かれた。同10年(1860)英仏連合軍が北京に肉迫し咸豊帝が熱河に避難するや、連合軍と妥協し北京条約を締結して外交担当官署である総理各国事務衙門を設置し列強との和親を図った。
同11年(1861)咸豊帝が亡くなり、6歳の同治帝が即位するや、東太后・西太后と連合しクーデタを断行(辛酉政変または祺祥政変という)、同治帝の側近である怡親王載垣・鄭親王端華・粛順らを除去し、東太后・西太后の摂政のもと議政王大臣に任命された。また軍機処・総理衙門の大臣として内治・外交の最高権力を掌握し、曽国藩らを採用し太平天国の乱など数ある内乱を鎮圧し伝統的体制を回復し'同治中興'と言われた。 内外に平和が回復されるや、西太后から敬遠され、同治4年(1865)3月議政王大臣・軍機大臣から退き、4月には軍機大臣に復したが、光緒10年(1884)3月には一切の官職から退いた。しかし同20年(1894)日清戦争が起こるや11月軍機大臣になり、戦争を執り行い、戦後の政国を指導した。同24年(1898)4月軍機大臣在職中に亡くなった。謚は忠。詩に長け、《楽道堂詩集》・《華錦吟》などを遺した。