李山海

1539(中宗34)〜1609(光海君1)。朝鮮中期の文臣。本貫は韓山。字は汝受、号は鵝溪・終南睡翁。
内資寺正之蕃の子である。


1558年(明宗13)進士となり、1561年式年文科に丙科で及第し承文院に登用され、翌年弘文館正字となり明宗の命を受け景福宮大額を書いた。ついで副修撰となり、1564年兵曹佐郎・修撰を歴任し、翌年正言を経て吏曹佐郎となった。 1567年(宣祖即位年)遠接使従事官として明の詔使を迎えたあと吏曹正郎・議政府舎人・司憲府執義・尚衣院正・副校理を歴任し、直提学を兼任した。ついで校理・応教を務め、賜暇読書を済ましたあと1570年同副承旨に昇進した。 1577年吏曹・礼曹・刑曹・工曹の参議を順に歴任し大司成・同承旨となった。 1578年大司諫となり西人尹斗壽・尹根壽・尹晛らを弾劾し罷職させた。翌年大司憲に昇進し、1580年兵曹参判についで刑曹判書に昇進した。 翌年吏曹判書を経て右参賛に昇り、再び吏曹・礼曹・兵曹の判書を歴任しながら提学・大提学・判義禁府事・知經筵春秋館成均館事を兼任した。 1588年右議政に昇り、この頃東人が南人・北人に分かれるや、北人の領袖として政権を掌握した。翌年に左議政についで領議政となり、宗系辨誣の功で光國功臣三等に冊録され、鵝城府院君に冊封された。 翌年鄭Kが建儲問題を起こすと、息子慶全を守り金公諒(仁嬪の兄)に鄭Kが仁嬪と信誠君を害しようとしていると伝え物議を醸しながら、息子慶全に鄭Kを弾劾させ江界に流配させる一方、これに関連し戸曹判書尹斗壽、右参賛尹根壽と白惟成・柳拱辰・李春英・黄赫ら西人の領袖級人物を罷職または帰郷させ、東人の政権掌握を確固たるものにした。 1592年壬辰倭乱の際、王に扈従し開城に至ったが両司から国を誤らせ日本を侵入させたと弾劾を受け罷免された。白衣で平壌に至ったが再び弾劾を受け平海に中途付処された。1595年解かれて領敦寧府事で復職し大提学を兼任にした。北人が再び分党する際、李爾瞻・鄭仁弘・洪汝諄らと大北派となりその領袖として、1599年再次領議政に昇ったが翌年罷職され、1601年府院君として還拜され宣祖が亡くなると院相として国葬を取り仕切った。
幼い時から聡明で神童と呼ばれ、特に文章に優れ宣祖朝文章八家の一人である。 書画にも長け、大字と山水墨図に優れており、龍仁の趙光祖墓碑と安康の李彦迪墓碑を書き、李珥・鄭Kと友人であったが党派ができてからは関係が遠くなった。
著書に《鵝溪集》がある。謚号は文忠。