慶親王奕劻

1836〜1916。乾隆帝17子永璘の次男綿性の子。清朝最初の内閣総理大臣。


叔父綿悌の嗣子となり道光30年(1850)輔国将軍を継ぐ。咸豊2年(1852)正月貝子に封ぜられ、同10(1860)年正月貝勒に進み、同治11年(1873)9月同治帝大婚の時、郡王銜となり御前大臣に任ぜられた。 光緒10年(1884)3月管総理各国事務衙門事、10月慶郡王に進み、同11年(1885)9月西太后の命により会弁海軍事務となる。 同20年(1894)2月西太后60歳の誕生日に、西太后の命により慶親王に進んだ。義和団事変に際しては連合軍の北京占領後、同27年(1901)7月11ヶ国と辛丑条約を結んだ。 これに先立つ3月には立憲的改革を準備、計画するために設けられた督弁政務処の督理大臣の1人になり、6月には総理各国事務衙門が外務部に改編になるやその総理となった。 同29年(1903)3月軍機大臣になり、次いで総理財政処、10月には総理練兵事務となった。その後同31年(1905)に日露修訂東三省条約全権大臣、同33年(1907)に陸軍部が出来るや、管陸軍部事となった。 同34年(1908)11月世襲罔替となった。宣統3年(1911)4月軍機処、旧内閣が廃止され、新内閣官制が発布されると彼は皇帝を補佐し、国防の責任を負う総理大臣に任命された。しかし新内閣13人の大臣中、満人が9人を占め、しかもうち4人は王公、2人が宗室、1人が覚羅という構成であったので世人はこれを「親貴内閣」と非難した。 同年9月辛亥革命により内閣は総辞職、袁世凱がこれに代わり、彼は弼徳院院長となった。清朝崩壊後は天津に住み、1916年そこで病没した。謚密。