男爵1

尹用求洪淳馨金奭鎭韓昌洙李根湘趙羲淵朴齊斌成岐運金春熙


尹用求

1853(哲宗4)〜1939。文臣・書画家。本貫は海平。字は周賓、号は石村・海觀・睡幹・獐位山人。南寧尉宜善の子供である。
1871年(高宗8)直長で文科に登第し官職が礼曹・吏曹判書に至った。
1895年乙未事変以後で法部・度支部・内務部などの大臣に十数回拝命されたが就任しないでソウル近郊の獐位山に隠居しながら‘獐位山人’と自ら称した。日韓合邦後日本政府から男爵を授与されたが拒絶して書画とコムンゴ、碁で自誤しながら杜門不出、世の中の事を避けた。
字は楷書・行書を多く書き、絵画は蘭と竹を良く描いた。金石文として果川の〈文簡公韓章錫神道碑〉と広州の〈宣城君茂生李公神道碑〉が、全羅南道にある仙巖寺入口の降仙楼扁額が残っている。
一方、絵画では〈竹図〉(個人所蔵)と〈墨竹〉(カンソン美術館所蔵)などがある。韓国書芸百年展で出品された行書作品をみれば特徴ある自己の筆致は成し遂げたが、強弱の変化を求めることがあっては無理があり不自然で行意の収筆処の画にも無駄なものができたところが多く、格が高くはできない。

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洪淳馨

1858(哲宗9)〜?。朝鮮末期の文臣。本貫は南陽。字は汝聞。ソウル出身。
在龍の孫で判書奭種の子供で、憲宗の妃である孝定王妃の甥である。
1874年(高宗11)増広別試文科に乙科で及第、翌年待教に任命された。つづいて掌令・副応教を経た後、1877年承政院同副承旨になって、驪州牧使を歴任した後、1882年開城府留守に昇進してから、1884年吏曹参判・弘文館副提学、1887年成均館大司成、1888年大司憲・奎章閣直提学になった。礼曹参判を経た後、1890年知経筵事・刑曹判書、1891年漢城府判尹・礼曹判書、1892年開城府留守を歴任した。
1893年黄海道観察使在職中、黄州で郷村地方勢力と郷吏等の貪虐に抵抗した民乱がおこるや、朝廷に(장계)を差し上げ乱を導いた李ェ石等を厳刑3回の後定配させて貪虐した者たちを厳刑懲放させた。
1894年京畿道観察使を歴任した後この年甲午改革で官制が改革されるや8月広州府留守を経て、1895年王太后宮大夫になった。
その後国葬?都監提調と掌礼院卿・明憲太后宮大夫を歴任した。
1901年判敦寧府事・明憲太后宮大夫、1902年太医院卿・宮内府特進官・表勲院副総裁、1903年太医院卿、1904年議政府賛政・表勲院副総裁・判敦寧府事・弘文館学士・奎章閣学士・侍講院日講官・中枢院賛政を経た。
1906年以後でも宮内府特進官と奎章閣学士兼侍講院日講官職をさまざまな順で受け持った。
1908年には教育・衛生・患難相救を目的とする観鎮坊会の賛務長を受け持ち、社会活動をすることもした。
1910年日韓併合後、日本政府から男爵の爵位が与えられる時、これを拒絶して受けなかった。

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金奭鎭

1843(憲宗9)〜1910。朝鮮末期の文臣・抗日憂国志士。本貫は安東。字は景召、号は梧泉。尚憲の後孫である。
1860年(哲宗11)庭試文科に丙科で及第し、宗親府の官職を経て、司果・典籍などを歴任、弘文館の官職を務めて持平・掌令・司成・司諫など清要職であってから、戸曹・刑曹・兵曹・吏曹の参議につづき漢城府左右尹および戸曹・吏曹・刑曹・工曹の参判、刑曹判書・議政府左参賛・広州府留守および三道陸軍統禦使などを務めた。
1896年宮内府特進官、つづいて秘書院卿・掌礼院卿・貴族院卿などを経て、1901年判敦寧府事に至った。
1905年乙巳条約が強制的に締結されるや翌年1月22日五賊臣の処刑を上疏したのだが、その上疏文で脅迫による条約は公法上で廃棄するようになっているので、外部大臣を呼んでさまざまな外国公使に声明を出して売国逆徒たちを誅殺し国憲を正して人民を生き地獄から求めようとした。
これに対する王の承諾を得ることができなくて期日が遅れるや、また上奏では、売国奴たちと共に天に首を入れて回る数もないのだが、ましてそれらと肩を並んでして一列で立てないので、懿孝殿享官の職を退くといったのだが、当時享官の列に五賊の一人である李址鎔がいた。
趙秉世が条約を反対しながら殉死するや弔問に行ってから来る道に南大門近辺の一店舗でアヘンを買ってしまっておき二度と宮殿に入っていくことはなく一死報国する決心をして機械を見ていた。
1910年日韓併合後、朝鮮の前職高位官僚たちに爵位または恩賜金を与えたのだが、日本は彼に男爵の爵位を与え、懐柔しようとした。これを恥辱と感じて1910年9月8日しまっていたアヘンを飲んで自決した。
1962年建国勲章国民章が追叙された。

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韓昌洙

1862(哲宗13)〜?。朝鮮末期の官僚。本貫は清州。ソウル出身。大提学章錫の子供で内閣書記官長提学胤錫に養子に行った。
1888年(高宗5)8月に別試文科に丙科で及第、9月承政院の仮注書になりながら、翌年には権知承文院副正字になって、1893年には検閲、1894年同副承旨・礼曹参議・右副承旨・右承旨を歴任した。
1895年4月漢城裁判所判事となったが、甲午・乙未改革時期に官制が改正されるとき学部学務局長になり学部の主要な業務を受け持って、同年10月14日漢城師範学校校長職を兼任しながら1897年に外国語学校校長職も兼摂した。
さらに外国語でも精通し1898年6月駐箚英独伊公使館の三等参書官に約1年間勤務したことがあった。
1899年外交問題を実務的に処理する外部参書官になって、1900年以後では昌原監理兼府尹・中枢院議官務安監理などのさまざまな官職を務めた。
さらに1906年には報聘大使の随行員として日本を行って来ながら1月には議政府外事局長になり外部の実務職である業務を担当して11月には議政府参賛になりながら刑法校正官としても活躍したことがあった。
1905年11月17日乙巳条約締結以後から亡くなる時まで、数十年間親日的な言行を恣行し、国民の顰蹙をかった。
1907年以後増補文献備考監印委員長・文官銓考委員長・内閣不動産法調査委員・各部官制調査委員長・文官高等銓衡委員長などを歴任した。
1910年日本政府から男爵の爵位を受けて、朝鮮総督府中枢院顧問と李王職長官を歴任した。

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李根湘

1874(高宗11)〜1920。朝鮮末期の文臣。本貫は全州。初名は根N。号は松悟。大臣根澤の弟である。
1880年(高宗17)まで家庭で修学してから1892年5月成均館進士になって、その年7月語学校に入学、速成で卒業しながら、1895年10月軍部主事に任命された。
翌年六品に昇級して、1898年宮内府参理官になりながら、翌年侍従院侍従になった。
1901年抱川郡守に任命されながら、同年9月玉果郡守、翌年任実郡守などを歴任した。
1903年中枢院議官・外部交渉局長・法部法務局長・博文院副長・宮内府協弁・礼式院?副長などをまんべんなく務めた。
翌年イタリア駐箚特命全権公使になって、同年内蔵院監督・礼式院副長・農商工部協弁・ハンミ(한미)電気会社検察長・農商工部署理大臣・帝室制度整理局議定官などを歴任した。
1905年法部協弁および法官養成所長・法部法律起草委員長を兼任して、同年3月日本特派大使随行員に任命されながら、この年に八卦章を授与された。
つづいて侍従院副卿署理・学部協弁・中枢院賛議になった。同年10月礼式院礼式卿?になって、1906年制度局総裁を兼任して、その年6月慶尚北道観察使に任命された。
7月には宮内府大臣になってつづいて中枢院副議長になった。
1907年修学院長・侍従院卿・宮内府大臣・中枢院副議長などの要職を歴任した。
1910年併合以後、日本政府に協調した功労で男爵の爵位を受けながら、朝鮮総督府中枢院顧問になった。

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趙羲淵

1856(哲宗7)〜1915。朝鮮末期の大臣。本貫は平壌。字は心源、号は杞園。左参賛存赫の子供である。
1874年(高宗11)9月武科に及第、1883年機器局委員・宣伝官・訓錬院判官・煕川郡守などを歴任した。1887年軍器視察および貿易業務を兼ねて上海・香港などの地を見回ってくる道で日本の大阪・東京などにいって砲兵工廠を見学することもした。帰国後日清両国から軍器を買い入れて、また両国の文明を斟酌し、これを実地で試行したことがある。
1888年に錬武公院参理事務を務めて、1891年慶尚道鉱務監理になった。1894年東学農民軍の蜂起の時には招討使洪啓栫A両湖巡辺使李元會等の出陣による軍糧などいろんな物資を補給、準備し輸送した。
さらにその年5月清国請援説が広まっているとき“清兵が我が国に来れば、東亜の騒擾が起こるだけではなく、列強の干渉がひどくなり国の基礎が危うくなる。”のだと清国兵士の我が国派遣はいけないと稟奏し、そのいけないことを重ねて強く諌めた。つづいて甲午改革がなされるや、開化党の中堅として壮衛使に登用され、軍国機務処の会議員を兼ねた。
また第1次金弘集内閣の軍務大臣署理に昇進された。また第2次金弘集内閣の軍務大臣および副将に、1895年2月日清戦争の戦勝日本軍を慰問する為の政府代表として牛荘に派遣されてから内務大臣朴泳孝との軋轢で解任された。
さらにその年12月乙未事変の責任を負って軍部大臣安駉壽が退くや、また第3次金弘集内閣に入り軍部大臣になったが、翌年俄館播遷のとき逆賊として集まり逮捕令が下るや1896年1月兪吉濬・張博らとともに日本で亡命した。
1897年以後日本に陸軍参謀次長川上操六と会い相談し名古屋・大阪・横須賀・広島などの地で軍事的な施設と実習を参観もしくは視察して1899年には北海道に行って拓殖経営を目撃するなど前後10年間周遊した。
1907年に帰国しその年10月宮内府特進官、1909年表勲院総裁を歴任して1910年崇政大夫從一品、勲一等に太極章を授与された。
その年8月に韓国が日本により併呑されるや日本政府から男爵の爵位を受けたが、どれほどもたたないうちに返納する姿勢をとった。
しかし第1級親日派たちで構成された朝鮮総督府中枢院顧問に任命されることもあった。

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朴齊斌

1858(哲宗9)〜1921。朝鮮末期の官僚・親日分子。本貫は潘南。字は文卿。ソウル出身。
禾壽の子供である。
1874年(高宗11)庭試文科に丙科で及第し、その年に承政院仮注書になって、翌年9月承文院副正字になった。
1881年承政院正言を歴任して、1882年弘文館校理・弘文館副修撰になり三司の主要業務である典翰の編纂と言論文筆など規制・糾察の業務を担当してみた。
1885年司憲府掌令になって、その年4月宗親府正・弘文館副応教になった。
1886年司憲府持平・司憲府掌令・弘文館応教を受け持った。
1890年通政に昇任されてつづいて兵曹参議になった。その年3月中枢府僉知になりながら、9月承政院同副承旨、10月工曹参議になった。
1891年3月司諫院の大司諌というきわめて重い業務を担当して、1893年7月承政院右副承旨になった。
1894年7月内閣改編と官制改正で新しく発足した軍務衙門の参議になり、約1ヶ月間軍事業務を処理した。
1897年中枢院議官として奏任五等に併陞したが中枢院議官はわずか1ヶ月だけで免官されてしまった。
1899年秘書院丞になって從二品官に昇進した。
1900年2月宮内府特進官に転任して5回も仕事を受け持ち処理しながら、その年4月奉常司提調として勅任四等に昇任された。
1901年4月掌礼院少卿、6月景孝殿提調と社稷署提調になった。
1903年2月永禧殿提調、4月宗廟署提調を歴任した。
1904年8月全羅北道巡察使になったが、1905年5月審弁事によって平理院に拘束され5ヶ月後の10月に釈放された。
1907年8月承寧府副ハ管勅任二等と嘉義に昇進された。
この時から親日的な振る舞いがさらに露骨になった。
1909年安重根が伊藤博文を銃殺するや、親日派閔丙奭等と謝罪団に一員として日本に渡り伊藤の国葬に参席した。
1910年日韓併合後、日本政府から男爵の爵位を受けながら、朝鮮総督府の中枢院賛議になって、1911年7月経学院の副提学になった。

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成岐運

1847(憲宗13)〜?。朝鮮末期の文臣・親日政客。本貫は昌寧。忠清南道洪州出身。
老論派の子孫で義益の子供である。
1879年(高宗6)文科に及第した後、1884年3月駐清商務書記官になり、清国天津に駐在しながら約1年間清国の文物と制度を視察した後帰国した。
1885年4月弘文館修撰、1889年には刑曹参議・左副承旨・漢城府庶尹などを歴任して、1890年9月仁川府使兼監理になり各国との交渉および通商業務などを担当した。
1900年11月駐箚日本全権公使として約半年間駐在しながら、日本を研究した。
1902年12月鉄道院総裁として京釜線鉄道工事に関与して、1904年以後慶尚南道・忠清北道・京畿道観察使を経て、1906年11月朴齊純親日内閣の農商工部大臣、1907年6月中枢院副議長、1908年掌礼院卿を歴任した。
1910年日韓併合後、日本政府から男爵の爵位を受けた。

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金春熙

1855(哲宗6)〜1926。朝鮮末期の文臣。本貫は慶州。ソウル出身。
升集の子供で、恒集に養子に行った。弘集の甥である。
1883年5月別試文科に丙科で及第、1886年世子侍講院兼文学になった。
翌年吏曹佐郎・吏曹正郎・参議内務府事を歴任した。
1888年成均館大司成に任命されて、翌年吏曹参議に至った。
1890年冬至使兼謝恩使の副使に任命されたが辞職した。
その後世子侍講院輔徳になり別試の試官を受け持ちながら、12月には吏曹参判になった。
1891年また世子侍講院の兼輔徳を経て、1893年都承旨に任命された。
1894年6月甲午改革でおじの弘集が総理大臣になり内閣を組織するとき黄海道観察使に任命されて、つづいて経筵庁副学士になった。
このころ甲申政変主役の一人朴泳孝が10年だけで帰国、政治活動を再開しようとするや、彼等の権力分割を招くことを憂慮、新政府内の開化派人士安駉壽・金弘集・金嘉鎭等と朴泳孝の復権を牽制するための上疏を申し上げることもした。
その後1907年宮内府特進官、すぐにつづいて承寧府の侍従長に任命された。
1909年《国朝宝鑑》編纂に参与しながら、1910年初めには承寧府侍従長として皇太子問候のため東京に行ってきて、勲二等に特書された。併合後日本から男爵と恩賜金3万円を受けて徳寿宮賛侍になった。

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