侯爵

李載完李載覺李海昌李海昇尹澤榮朴泳孝


李載完

1855(哲宗6)〜1922。朝鮮末期の文臣。本貫は全州。字は舜七、号は石湖。興完君晸應の子供で、大院君の甥で徐相祖の婿である。
1875年(高宗12)別試文科に丙科で及第、説書・検閲を経て、1877年同副承旨になった。
1880年吏曹参判に昇任し、1884年甲申政変の時には開化党内閣の兵曹判書になって、翌年大司憲になった。
1886年弘文館提学になり、1891年吏曹判書に昇任された。
1898年弘文館学士に続いて、翌年には宮内府内大臣に転任した。この年9月完順君に封爵され輔国崇禄大夫に昇進した。
1905年正月報聘使として日本に行き、1907年陸軍副将に任命された後、承寧府総管になった。在任中、勲三等一等太極章をはじめ、大勲李花章・瑞星大綬章・金尺大綬章を授与されて、日本政府からでも旭日桐花大綬章と併合後に侯爵の爵位を受けた。
そのうえ、1897年設立された漢城銀行の主導的役割を果たしながら、1903年また金宗漢・李普応・韓相龍などと共に合資会社公立漢城銀行を設立し、1912年までこの銀行長を務めた。

[TOP]

李載覺

1873年(高宗10)〜?。朝鮮末期の文臣。本貫は全州。ソウル出身。荘献世子の玄孫で、完平君昇応の子供である。
1891年別試文科に丙科で及第して、1895年秘書監左書郎になった。
翌年には経筵院侍読・王太宮侍読官を経て、1897年中枢院三等議官になって、1898年には侍講院侍読官と秘書丞になった。
1899年には奎章閣直学士をはじめ皇太子侍講院副・事・弘文館副学士などを歴任して、義陽都正に封じられてから続いて義陽君に進封された後宮内府特進官に補任された。
1902年1月には特命英国大使に任命され英国皇帝戴冠式に参席し見識を広めることもした。
1903年には典膳司提調になって、翌年には軍部砲工局長になり、新式軍隊養成に一翼を担って、1905年には宗正院卿になった。
そのうえ、この年特命日本国大使になり、日本に行き、7月には韓国赤十字社総裁に就任した。在任中、勲一等太極章をはじめ、大勲李花章・瑞鳳章そして最高の勲格である大勲金尺章が授与されながら、一方外国勲章としては日本の旭日桐花大綬章を授与された。
1910年以後には日本政府により侯爵になった。

[TOP]

李海昌

1865(高宗2)〜1945。朝鮮末期の文臣。本貫は全州。字は拜言。京畿道抱川出身。
慶鎔の子供で夏銓の養子になって、守旧派洪鍾宇の婿である。
1879年(高宗16)宗親府参奉に除叙され、1884年には忠勲府都事になってから、1889年式年文科に丙科で及第した後、弘文館校理として南校教授を兼任した。
翌年には司諫院献納をはじめ、総御営軍司馬・司憲府掌令・弘文館応教を歴任して、1891年には修正庁都庁になり、《璿源譜略》の改撰に参与すると同時に宗親府都正を兼ねた。
翌年には刑曹参議を経て右副承旨・司諫院大司諫に昇任された。
1893年には工曹参議に続いて礼曹参議に転任され、1894年にはまた大司諫を経て宗正司長に補任された。
1897年には奉常司副提調から江華府尹に転任され、翌年には中枢院議官につづいて秘書院丞に転任されながら、1904年漢城府判尹になった。その年昌山都正につづいて昌山君に進封されたと同時に從二品に特資され裕陵守陵官になった。
1905年には正二品の正憲大夫になって、1907年には從一品に昇格した。在任中に勲一等太極章・大勲李花大綬章を受けて、併合後には日本政府から侯爵の爵位を受けた。
一方財界にも手を伸ばし1923年から1928年まで漢城銀行の取締役に従事することもあった。

[TOP]

李海昇

1890年〜?。本貫は全州。
養父は贈豊善君李漢鎔。全溪大院君の玄孫にあたる。
【官歴】
1902/02/20睿陵参奉(〜02/21)
1905/07/15六品
1907/03/14侍講院侍従官
1907/09/04侍講院侍従官
1908/12/15正三品
1908/12/21C豊都正(全溪大院君祀孫ということで)
1910/06/04従二品
1910/06/06C豊君
1910/08/04勲一等賜太極章
1910/08/25正二品
1910/08/27賜李花大綬章

日韓併合の際、侯爵に叙爵される。その後朝鮮貴族会会長・国民総力朝鮮聯盟評議員を務めている。

[TOP]

尹澤榮

1866年(高宗3)〜1935。朝鮮末期の官吏。本貫は海平。
祖父は議政容善、父は進士贈領敦寧徹求であって、兄は宮内府大臣徳榮であり、娘は純宗の妃純貞皇后である。
1899年侍講院侍従官に任命されて、1901年秘書院丞を経て英親王府令になってから恵民院総務を兼任して勅任官四等に与えられた。
翌年英親王府総弁になり恵民院総務を兼ねて勅任官三等に叙任されながら、この年前議官金禹用が上疏を申し上げ、兄徳榮の貪虐とともに彼の恵民院総務の職責を利用した蓄財を非難した。
1904年法部協弁になり勅任官二等が与えられてから、また英親王府総弁に任命された。
1906年娘が皇太子妃に選ばれたことで、翌年特別に加資されながら、知敦寧司事で勅任官二等に叙任された。つづいて陸軍参将・副将・賛謀官などを歴任した。
1907年海豊府院君に封爵されて、皇太子冊封時に副使として活動した功で勲一等太極章が与えられ、また大勲が叙勲されて李花大綬章を受けた。同年皇后宮大夫に任命されて勅任官一等に叙任された。
1908年真宗昭皇帝玉宝篆文の書写官に任命され、瑞星大綬章を受けて1909年金尺大綬章を受けた。併合に伴い日本により侯爵に任命された。

[TOP]

朴泳孝

1861(哲宗12)〜1939。朝鮮末期の政治家。本貫は潘南。初名は無量。字は子純、号は春皐・玄玄居士。水原出身。
判書元陽の子供で、母は全州李氏で、上の兄は泳教、下の兄は泳好である。
1. 開化党組織
1872年(高宗9)哲宗の駙馬になったがたった3ヶ月で死別した。錦陵尉正一品上輔国崇禄大夫に封じられた。上の兄に従い朴珪壽の舎廊を出入りしながら、呉慶錫・劉大致・李東仁など実学、特に北学派の学脈をつなぐ開化思想家たちの影響を受け、1879年頃金玉均・徐光範などと開化党を組織した。
2. 日本見聞と開化施策
1882年9月壬午軍乱の事後収拾を日本政府と協議するため特命全権大臣兼第3次修信使に任命され、従事官徐光範など14名の随行員を従え日本に行った。
そこで約3ヶ月間滞留しながら日本政界の指導者および欧米外交使節と接触し国際情勢を把握する一方、明治日本の発展像を探った。
このとき航海する船上に太極四卦の国旗を制定、日本に到着した直後から使用した。
1883年初頭帰国した後、漢城判尹に任命され、博文局・巡警部・治道局を設置し、新聞発行と新式警察制度の導入、道路整備事業、有色衣服奨励など一連の開化施策を広げた。
しかし閔台鎬・金炳始など守旧派の反対にぶつかり、三局は閉鎖され広州留守兼守禦使に左遷された。
このとき守禦営に錬兵隊を新設し、新式軍隊の養成に力を注いだ。また守旧派がこれを問題視することで同年12月辞任した。
しかし彼の努力で《漢城旬報》の創刊をみることができた。
3. 甲申政変と亡命
このように政界進出が継続挫折するや、1884年2月アメリカ遊覧を計画したが、この計画もやはり挫折した。
このとき開化党人士が政権掌握を企図するや、これに加担しまずアメリカに協調を得ようと接触したがアメリカは応じなかった。また日本に接近しさまざまな順の協議の末に軍事的支援を確約され、同年12月甲申政変を起こし、親清守旧派を粛清して革新内閣を樹立し、前後営使兼左補盗大将職を担当し、兵権を掌握した。
しかし清国軍の即時の介入で政変が三日天下で失敗するや日本に亡命した。
その後本国政府の執拗な送還願いと日本政府の冷遇で1885年アメリカに渡った。
しかしそこでの生活に適応できず日本に戻ってきて山崎永春に名前を変えた後明治学院に入学、英語を習いながらアメリカ人宣教師とも親交を結んだ。
4. 開化上疏
1888年初め日本にいながら高宗に国政全般に関して13万字余りにわたる長文の改革上疏を呈した。これがいわゆる‘開化上疏’もしくは‘建白書’である。
この上疏文に封建的な身分制度の撤廃、近代的な法治国家の確立による朝鮮の自主独立と富国強兵を主張した。ここで彼の開化政治に対する理想が設計されていながら、その後彼が施行した改革政治はそれの実践だったとみることができる。
1893年末福沢諭吉などの日本朝野の有力人士の助けを受け東京に親隣義塾という私設学校を建て、留学生の教育に力を注いだ。
この時朝鮮政府の密命を受けて李晩植などが朴泳孝を暗殺しようと親隣義塾に潜入したが未遂に終わった。
5. 帰国後の政治活動
1894年春東学農民軍の蜂起を契機に日清戦争が勃発するや、日本政府の斡旋でこの年の8月帰国した。
その後朝鮮政府に親日勢力を扶植しようという日本公使井上馨の支援を受け樹立された第2次金弘集内閣の内部大臣に入閣した。
1895年三国干渉で日本勢力が退潮するや不安を感じ井上馨の勧告を無視して、金弘集派を内閣から退陣させた後、独自に第2次甲午改革を推進した。
この時期に重点的に推進した改革は近代的な内閣制度の導入、地方制度の改編、新しい警察・軍事制度の確立などだった。このような改革を通じて朝鮮の富国強兵を図る一方、自身の権力基盤を強固にしようとした。
しかし王室と井上公使から排斥にあって1895年7月謀逆を陰謀したという嫌疑を受け、また日本に亡命した。
その後上疏を通じて自身の謀逆嫌疑の不当であることを高宗に訴えたが成功できなかった。そこで1898年に入って独立協会が強力な政治団体に浮上することに従い本国に李圭完・黄鐵・李鄭吉などの心腹を密かに派遣し独立協会との提携を通じた自身の政界復帰を企図した。その結果独立協会の新進少壮派?が中心になり彼の召喚叙用運動を展開した。
しかし高宗と守旧派大臣たちはむしろこれを口実に独立協会を解散させてしまった。このようになるや、1900年7月本国密かに派遣されていた李圭完一行に義和君堈を国王に推戴する為のクーデタの陰謀を指示した。
しかしこの陰謀も事前に発覚することで彼の政界復帰工作は失敗に帰し、欠席裁判の結果絞首刑が宣告された。
1907年非公式に帰国し釜山に滞留してから上京、宮内府顧問加藤増雄と接触、工作し、高宗の特赦詔勅を除叙されるだけでなく盛大な歓迎式と宴会で政界復帰をすることができた。
つづいてハーグ特使事件を契機に宮内府大臣に任命され、統監伊藤博文と李完用内閣の高宗譲位圧力をなだめさせようとしたが失敗した。
純宗が即位した後軍部内の反譲位派と通謀、高宗の譲位に賛成した政府大臣たちを暗殺しようとしたという嫌疑を受け1年間済州島に流配された。
6. 合邦後の行績
合邦後日本が懐柔政策の一環として授与した侯爵の爵位を受けながら、1911年朝鮮貴族会会長、1918年朝鮮銀行理事を歴任した。
3・1運動が起こった後、日本のいわゆる文化統治に順応し、維民会・同光会・朝鮮倶楽部・民友会など親日内地改良主義的団体と関係を結ぶ一方、1920年東亜日報社初代社長に就任した。
1926年中枢院議長、1932年日本貴族院議員を務めながら、1939年中枢院副議長在職中亡くなった。

[TOP]