朝鮮・韓国歴史用語解説(ま・や・ら・わ行)

メレンドルフ、パウル・ゲオルク・フォン
(Moellendorff,Paul Georg von/韓国名穆麟徳)[1847〜1901]

1847年2月17日ベルリン北部の町ツェーデニックで生まれ、ハレ大学で法学と東洋語を専攻、駐清ドイツ領事館に勤務した。1869年清の税関吏として働いたのち、李鴻章の推薦で朝鮮の統理衙門参議・協弁を歴任し、外交と税関業務を受け持った。1883年第一銀行に海関税収納業務を委託し、1884年ロシア公使C.ウェーベルと協調、朝露修好通商条約を締結させた。1884年甲申政変の際には金玉均の開化派に反対、守旧派を助けた。漢城条約が締結された後、特命全権大臣徐相雨と共に副大臣として日本に渡り、駐日ロシア公使と結託、朝鮮にロシア勢力を引き入れたとして外務協弁に在職中の1885年、李鴻章の圧力で解任され、朝鮮を離れ1901年4月20日中国の寧波で亡くなった。韓国の歴史に造詣が深く満洲語に精通していた。


羅禅征伐

朝鮮後期に清の要請で二度にわたり朝鮮軍のロシア軍に対する征伐。
羅禅はロシアの音訳である。ロシアは13世紀以来蒙古の支配下であってから、15世紀末から独立しシベリアを征服した。彼らは穀物を生産する土地と鉱物資源を探して黒龍江方面に南進したのだが、1644年にホヤルコフ、1649年にはハバーロフの探検遠征隊が黒龍江に到達しその地勢などを調査した。1651年黒龍江北側にある雅克薩河口にアルバジン城を建設し軍士・植民の根拠地とした。ハバーロフがアルバジン城から再び黒龍江東側に沿って下り1652年(孝宗3) 烏蘇里江河口にアチャンスク(今のハバロフスク)城を構築するや、その地方の原住民である阿槍族と衝突した。
阿槍族は当時彼らを統治していた清に援兵を要請し清とロシア間に衝突が起こった。その時清は中国本土の攻略に没頭していて、満洲の守備が手薄だった関係で第一次の援兵はロシア軍により敗退した。ロシアは更に積極的に南進を継続するや、清は使臣韓巨源を朝鮮に送り援兵を要請した。孝宗は領議政鄭太和の意見にしたがい援兵を送ることにし、咸鏡道兵馬虞侯邊岌を司令官にした。邊岌は精鋭烏銃軍150名余りを率いて1654年3月26日豆満江を渡り寧古塔(寧安)から出発して厚通江(混同江)に到着しロシア軍と接戦、好通(依蘭)で撃破したのち、その場で土塁を築き同年7月に帰国した。これが第一次羅禅征伐である。
1658年(孝宗9)3月に清は再度救援兵を要請し、咸鏡北道兵馬虞侯申瀏が選抜した精鋭軍200名余りを引率した。朝鮮軍は清軍と力を合わせて同年6月10日に黒龍江に進駐し激戦を繰り広げた末にロシア船10隻に火をつけロシア軍270名を射殺した。申瀏は一旦松花江に退却してから朝廷の命令で凱旋した。これが第二次羅禅征伐である。当時孝宗は丙子胡乱の際、受けた恥辱を晴らす思いで北伐計画を推進中であったのだが、二度の羅禅征伐は朝鮮の軍事力を試験できた良い経験になった。派遣された軍士の数は多くなかったが、朝鮮軍の士気と射撃術が優れていたことをよく見せてくれた。しかし二度の羅禅征伐後にも朝鮮とロシアの関係には別段変動がなかった。


乱廛

朝鮮後期廛案(粛宗32年から実施した制度で、市廛で取り扱う物種と商人の住所、姓名を登録した台帳)に登録せずに許可された商品以外のものを密かに売る行為または店のこと。
朝鮮後期商業の発展とともに成長した非市廛系私商人が商行為をし、封建的商業構造を乱したということで付けられた名称である。朝鮮は国初から国役を負担する六矣廛と市廛商人にその保証として商品を独占販売できる特権を付与し、その規定に違反し思うままに商行為をすれば乱廛だとして禁止させた。しかし17世紀以後都市の人口が増え商業が発展し、ソウルの場合市廛商家以外で南大門外の七牌や東大門近くの梨峴などで新しい市場が形成され街ごとに乱廛が出来、市廛の専売品を売買するようになった。さらに比較的大資本の私商都賈がソウル郊外の松坡・銅雀津・楼院店などで三南・東北地方から上って来た商品を買占め、ソウル城内の乱廛商人に渡すことで乱廛活動を活発にさせた。
このような乱廛の主体は主にソウルの権勢家とその家僕、各官衙の邸吏、扈衛庁傘下の軍兵と各営門の手工業者、ソウルと開城の富商・都賈や中都児(仲買人)であった。
彼らは大概封建特権層と結託して官府に一定の商業税を納め、自身の商権を確保することで六矣廛と同じ特権的市廛商人に大きな打撃を与えた。これに六矣廛をはじめとする市廛商人は一時政府から乱廛を禁止する禁乱廛権を得て乱廛に圧迫を加えたが、18世紀後半禁乱廛権の廃止で私商人層により主導された朝鮮後期商品貨幣経済の発展を防ぐことことはできなかった。このように乱廛の発展は、朝鮮後期に成長した非特権的手工業者と商人によって封建的商業構造が崩れた都市商業の発展の反映であった。


龍虎営

内三庁・禁軍庁ともいう。1755年(英祖31)禁軍庁を一つの独立軍営につくりながら龍虎營に改めた。禁軍庁時代から置いた内禁衛・羽林衛・兼司僕の3衛がある。
官員には別将1名が軍営を総管し将6名は各衛に2名ずつ配属され衛を指揮した。その下に堂上軍官16名、教錬官14名、この他に別附料軍官120名を置いた。
1867年(高宗4)政府から1万両を割り当てられ部隊体制を整備・強化し格式と威容を整えて、常備軍も2千名に及んだ。1881年12月訓錬都監・扈衛庁と合わせて武衛営に改編し、1882年6月壬午軍乱で再び旧制に復旧、1891年弱化した禁軍の強化策に従い親軍龍虎営に改編された。
このとき禁軍別将1名、騎士別将2名、各番将12名、駕前駕後100名、禁軍550名、騎士300名、執事27名、別武士18名、馬医3名、門旅手40名、牢子14名、巡令手11名、帳幕軍17名、燈籠軍8名、標下軍及び有料軍官120名がいた。1894年統衛営に併合された。


旅閣

朝鮮時代沿岸地方の浦などに海産物と農産物の売買を仲立ちし、委託販売をしながらその貨主を相手に金融業・旅館業を兼ねた業所。
邸家・低店・船主人ともいう。旅閣商人は中央の開城、道の監司など勢力家を買収して差帖という許可証を得て商船が浦に入ってくれば、ほとんど強制的に貨主を旅閣に泊まらせ貨物を移すことをできなくさせて、宿泊料・貨物仲介料を強制的に徴収した。彼らは大概大きな倉庫を所有し、魚類・塩など主に海産物の仲介・委託販売などをしながら穀物も取り扱った。朝鮮後期開港場にあった旅閣は外国商人と直接商品取引をすることもした。


林尚沃[1779〜1855]

本貫は全州、字は景若、号は稼圃。朝鮮後期の貿易商人。
平安道義州で生まれ、1796年(正祖20)から商業を始め、1810年吏曹判書朴宗慶の政治的背景を利用して朝鮮最初の国境地帯で人参貿易権を独占、天才的商業手腕を発揮した。
1821年弁誣使に随行、清に赴く際には北京商人の不買同盟を巧みに壊して原価の数十倍で売り莫大な財貨を稼いだ。その財貨で飢民及び水災被害者を救済した功で1832年(純祖32)郭山郡守、1835年亀城府使に抜擢されたが、備辺司の論斥を受け辞退した。その後貧民救済と詩酒で余生を送った。
詩でも名をとどろかせ、著書に《稼圃集》・《寂中日記》がある。


礼曹取才

朝鮮時代下級官吏採用試験である取才には守令・外交官・駅丞・渡丞・書題・蔭子弟・録事・道流・書吏を選抜する吏曹取才と医学・漢学・蒙学・倭学・女真学・天文学・地理学・命課学・律学・算学を専攻した技術官及び画員・道流・楽生・楽工を選抜する礼曹取才があった。このような吏曹取才と礼曹取才は≪経国大典≫完成で整備された。
高麗時代には科挙だけが試験を通じた唯一の官職への道であったが、朝鮮時代には官員は勿論書吏までも試験を通じて選抜した。従来無試験で選任された蔭敍も試験を試す門蔭取才に変わって、無試験で選抜された書吏も吏科取才試験を通じて選抜した。このように朝鮮時代は各種下級職官吏を試験を通じて選抜した。礼曹に必要な下級職官吏も同じく試験を通じて選抜した。
礼曹取才は各技術学の専攻者である諸学生徒、雑科合格者である權知、前職技術官などを対象に主に各々の専攻書籍を試験した。礼曹取才で選抜された技術官は該当技術衙門の禄官遞兒職や軍職遞兒職を受けながら、次点者は外職に任命した。



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