金誠一

1538(中宗33)〜1593(宣祖26)。朝鮮中期の文臣。本貫は義城。字は士純、号は鶴峰。
生員金璡の子で、安東臨河出身。李滉の門人。


1564年(明宗19)司馬試に合格して成均館で修学、1568年(宣祖1)増広試文科に丙科で及第した。承文院副正字から始まり正字・検閲・待教を経て1572年奉教となり魯山墓(のちの端宗)の奉祝と死六臣の復権を進言した。翌年に刑曹・礼曹の佐郎を経て正言となり、ついで修撰で春秋館記事官を兼職した。1574年に副修撰を経て再び正言となり、吏曹と兵曹の佐郎を歴任したのち賜暇読書をした。
1577年(宣祖10)には謝恩使の書状官として明に派遣され、宗系弁誣のために力を注いで帰国し、校理・掌令を歴任した。1580年咸鏡道巡撫御史、1583年黄海道巡撫御史として辺境の防備を調べ、また羅州牧使に在職中、錦城山山麓に大谷書院を建てて金宏弼・鄭汝昌・趙光祖・李彦迪・李滉を祭享する一方、士身分たちを学問に専念させた。1586年社稷壇の火災責任を取って官界から退いた。
1590年司成で通信副使となり日本の情勢を調べて帰国した。この時正使黄允吉が日本が必ず侵略をするだろうと言ったのに反し、彼は侵略の気配が見られないとする見解を示した。執権勢力である東人は彼の復命を採択したのだが、1592年壬辰倭乱が起こったのである。この時慶尚右兵使であった彼は罷職・送還されるなか、右議政柳成龍の弁護で処罰を免ぜられて慶尚右道招諭使に任命され、抗戦に功を立てた。居昌などで義兵を集めて義兵将郭再祐・鄭仁弘らを支援しながら義兵と官軍の調和を図った。また慶尚右道観察使に戻って金時敏に晋州城を守らせた。1593年慶尚右道巡察使を兼ねて対日抗戦を督励したが病で殉国した。
政治的には東人に加担、1590年鄭汝立の謀叛事件に連座して獄死した崔永慶の伸冤のため、西人の領袖鄭Kを糾弾しながら、その後東人が南人・北人に分かれるときには柳成龍・金宇顒らとともに南人を形成した。
また性理学に造詣が深く李滉の主理論を継承しながら、嶺南学派の中枢となって、その学統が張興孝―李玄逸―李栽―李象靖に継承された。さらに礼学にも長け《喪礼考證》を著述した。その他著書に《海槎録》がある。安東の虎溪書院・酒濱書院、英陽の英山書院、義城の永溪書院、河東の永溪書院、青松の松鶴書院、羅州の景賢書院に祭享された。1649年(仁祖27)文集《鶴峰集》が刊行され、吏曹判書を追贈された。謚号は文忠。