◆『カルト資本主義』斎藤貴男(文芸春秋社)

■第2章「『永久機関』に群がる人々」

 この本の前に読んだ佐々木茂美氏の『「見えないもの」を科学する』には、気(宇宙エネルギー)の実在を確認するいくつかの実験の結果が報告されている。それは、近代科学という理論的先入見から自由に見れば、そこに何かしら未知のエネルギーを想定せざるを得ない実験結果がいくつか示されている。  ところが著者は、宇宙エネルギーといった未知のエネルギーが存在するかどうかを追求・検証することは一切しない。「かくて彼らのうちのある層は、一挙に近代科学の基本的価値観であるところのデカルト哲学の否定へと飛躍し‥‥」という表現からも伺えるように、「近代科学の基本的価値観」を裁きの絶対的な基準として、その基準に合わないものは一切否定するという姿勢がはっきりしている。  近代科学の理論的な枠組みによって理解できないものは、一切が怪しげなオカルト的研究であり、非難されるべき悪だという大前提によって現実が裁かれていく。

■第3章「京セラ『稲盛和夫』という呪術師」

 私は、稲盛和夫についてはほとんど知らない。梅原猛との対談集を読んだ記憶があるくらいだがあまり記憶に残っていない。したがって自分で判断する材料は持たないのだが、その状態でこの章を読むと、稲盛はかなり信頼できない人物であるとの印象が伝わってくる。 「私に言わせれば、“稲盛哲学”ないし、“京セラフィロソフィー”は、その実どこまでも人間を企業に縛りつけ、奉仕させるために内面から操り、究極の奴隷とする呪術的便法に過ぎない。‥‥世界経済は大競争時代に突入し、企業サバイバルのためにはより生産性を高めたい。そのためには、見返りを求めない従業員の忠誠を涵養したい。‥‥何もかも肯定する生き方こそ人生の真理だと説くニューエイジ思想こそ最高の方法論になり得ると、稲盛は判断しているようだ。経営者たちはそのことを本能的に感じ取っているから、彼を手放しで支持するのである。」(P155)  

 稲盛が、従業員の忠誠を涵養するための方法論として「何もかも肯定する生き方こそ人生の真理だと説くニューエイジ思想」を利用しているのかどうか、私には班判断できないのだが、上のような思想が、経営のための都合のよい方法論として利用される危険が充分にあることは認めなければならない。  すべてに感謝し、すべての肯定的に受け止める姿勢は、個人の心の在り方として素晴らしいものだと私は思う。それはこころの受容性の増大を意味し、人間の心理的成長とは、自分の内と外の現実をどれだけ受容していけるかにかかっているのだと思う。  しかし、それによって社会の矛盾や悪を批判し、改革しようとする姿勢までもが失われてしまうのだとしたら、それも絶対に間違っていると思う。  

 この辺の問題を追求することはニューエイジ思想の根本にかかわると思うので、これからじっくり考えていきたい。

■第4章「科学技術庁のオカルト研究」

 「科学技術庁(現文部科学省)が密かにオカルト研究をしていた。鳩山由紀夫ら“改革”派議員が大まじめで「気」の研究会を組織していた。」という口調からもわかるように、現代科学では捉え切れない現象を研究することは、斎藤にとってすべて無条件に「悪」であり、厳しく断罪されなければならないのである。こうした方面の研究を「オカルト」という独特のバイアスのかかった言葉で十把一からげにして捉えて、そこで実際に行われていることの真実を見ようとしない、あるいは見ても歪めてしまうところに、著者の限界がある。研究それ自体は「悪」でも、断罪されるべきものでもないはずだ。

 槍玉にあげられるのは、科学技術庁放射線医学総合研究所の気や「遠当て」の研究、科学技術庁科学技術政策局内の「未来科学研究サロン」1989〜1992)、通産省(現経済産業省)が設置した審議会スタイルの「感性ビジネス研究会」(1992年)、鳩山由紀夫を会長に超党派の国会議員で構成された研究組織「気の研究会」(1993年)などである。

 著者は、これからの組織や研究をニューサイエンスや、ニューエイジ運動の潮流に乗った動きであると位置づける。そのこと自体はおそらく間違っていないだろう。そして日本のニューエイジ運動が、容易に全体主義や、民族主義、あるいは企業の経営論理にからめ取られれていくことの危険を強く訴えている。

 私は、パラトラパ雅さんとの対話などを通して、ニューエイジ運動の問題点を内側から吟味していきたいと思っているので、その点、斎藤のレポートは大いに参考になる部分を含んでいる。

 しかし、ニューエイジや気功、超能力の研究が、内側からの吟味なしに「オカルト」の名で、一顧だにされないまま断罪されてしまことで、こうした潮流や研究の中のもっとも大切な部分がまったく理解されないことに著者の限界を感じる。

■第5章「『万能』微生物EMと世界救世教」

 私は、EMにはかなり魅せられた一人だ。有吉佐和子の『複合汚染』以来、有機農法や微生物には心引かれるものを感じていたので、比嘉照夫氏その他のEM関係の本は何冊も読んだ。それだけではなく実際にEMやEMぼかしを購入し、生ゴミにぼかしを混ぜて実験したくらいである。ただ都会に住んでいるので作った堆肥の使い道がなく、結局公園の植木のそばに埋めたのだが。金魚鉢にEMを使用して見たが、それほど効果があったわけではなかった。

 斎藤がEMを問題にする論点は大きくは次の3点だろう。

1)既存の農学が、EMの効果を非科学的として認めていないこと。とくに土壌肥料学関係の農学者はEMは、評価に耐え得ない「いかさまだ」と結論している。

2)EMは、単なる農業資材であることを超えて、崩壊の文明から蘇生の文明へと転換させる「真理」を教えてくれるというようなEM信仰になっている。そんな真理を押しつけられる社会は真っ平ごめんだ。

3)比嘉照夫をEMにまつわる人脈の問題。世界救世教だけでなく、他の信仰宗教、政治家、右翼、マルチ商法等々が、EMに群がっている。中でも世界救世教をはその内部抗争にもからんで密接にかかわっている。

 結局斎藤はここでも、それが実際に効果があるのかどうかを自分の目で確かめるという作業はまったく行っていない。既存の農学の権威を疑わず、それだけを頼りにEMを断罪し、ただEMの「非科学性」と人脈の怪しさだけが問題にされていると言ってよい。

 私は、比嘉照夫氏の文章を読み、EMに限りなく魅せられた一人とし、できれば自分自身の目で実際にどう使われたか、どのような効果があったのか確認していきたい。 問題は、EMに比嘉がいう通りの効果があるかではないだろうか。EMを批判する以上、この点の検証を抜きにして、やれ微生物教だなんだと論じてもあまり意味がないだろう。 とりあえず私にできるのは、インターネットを使って、各地の取り組みを検証して見ることだ。

■第6章「オカルトビジネスのドン『船井幸雄』」

 私は、船井幸雄の本を何十冊となく読んできたし影響も受てきた。船井幸雄を通してEMも知ったし、高木善之も飯田文彦も知った。彼の本は中学生でも読めるほど平易だが、読むと不思議に勇気づけられ元気になる本だった。彼は、日本のニューエイジ的な潮流をリードする、もっとも影響力の大きい人物の一人だろう(もっとも船井本人は、自分をニューエイジャーとは思っていないようだが)。

 著者は、船井がパチンコ業界の健全化にからんで警察当局ともたれあいながら、業界専門の経営コンサルト会社を設立し、この業界に強力な影響力をもつ事実などを指摘する。しかし著者の批判の根本は次のような文章に集約される。

  「現実に西洋近代文明に基づいて成立している社会の中で、船井流にすべてを必然必要ベストと受け止めたり、あるいは“生まれ変わり”を信じる人が増えすぎることは、権力者や犯罪者には限りない無責任を許し、権力者でも犯罪者でもない者には絶望的に明るい諦めだけをもたらす。いずれも“百匹目の猿”などではない。知性を持った人間であることを拒否した、自分では何も考えることができない“猿”である。これぞ“脳ナイ革命”だ。  哀れなるかな日本人は、行き詰まった文明社会に疲れ傷つき、少しでも癒されたい、人間らしく生きたいと願って船井の講演や著書に飛びつく。オカルトに走る。だが、そこに待ち構えているのは、ニューエイジという一見新しいが、日本人にとっては実に馴染み深い、伝統的な価値観に過ぎなかった。すなわち自我の否定あるいは没我、ないし“和”による全体主義」  

 斎藤は、ニューエイジは米国的な個人主義や科学万能主義の行き過ぎに対するアンチテーゼでもあり、それだけに全体主義的で、科学的な論理性・合理性の放棄に繋がりやすいと言う。さらに欧米のニューエイジ運動は、キリスト教的な伝統との激しい緊張の中で形成されたのに、日本の場合はニューエイジ=新霊性運動が、日本の主流の宗教や文化伝統と対立するどころか、たいへん近いところに位置すること、それゆれ我が国の共同体的な企業社会と非常に相性がよくなってしまう危険性があるという。

 船井はそういう危険性をはらんだ潮流の旗手として批判されるのだ。

 我が国のニューエイジ運動や新霊性運動は、とどのつまり方便として用いられれいると、斎藤は言う。終身雇用制がくずれようとしている今、それに変わって従業員の忠誠心を涵養する武器としては、すべてが必要必然ベストであると説く船井流のニューエイジがもっとも好都合だというのだ。自我の否定あるいは没我、ないし“和”による会社という全体への忠誠。全体主義への傾斜。  しかし斎藤には、ニューエイジないし新霊性運動のもっとも深いとことになにがあるのかまったく見えていない。「新霊性運動」が示唆するのは霊的な目覚めである。自我の否定、没我がそのまま全体主義とイコールなのではない。  

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