臨死体験・気功・瞑想 

覚醒・至高体験の事例集

■「光」体験をともなう場合

ビル・ビンガム氏

 

以下は、 『自我が死ぬとき:臨死体験と神秘的回心体験の事例集』("When Ego Dies: A Compilation of Near-Death & Mystical Conversion Experiences "Emerald Ink Publishing,1996)の中から取った ビル・ビンガム氏の至高体験の事例である。


■臨生体験(1)

◆離婚の苦しみと読書
  ビル・ビンガム氏は、機械技師として働く一方、大学で教鞭をとっていたという。47歳で退職し、以下に述べるような1962年の体験後、人間のスピリチャリティの研究を続け、一方、テキサス州、ヒューストンの臨死体験支援グループで指導をしているという。

  彼は、その経験をする以前は、不可知論者だった。機械技師として科学的な教育を受けており、左脳的で分析的な性格であったという。十代の半ばには教会に通うのも止めていた。

「私の経験は、それらすべてを変えた。それは、妻との激しい争いと離婚という感情的なトラウマの結果としてやってきた。私はこの女性を愛していたが、しかしまた、私とは合わないことを深いレベルで知っていた。私たちは、何度も争い、そして当時はその理由が分からなかった。別れとなる争いをした夜、私は相反する感情に引き裂かれていた。私は、彼女のところへ行き、連れ戻したかった。一方でそれはさらなる苦痛でしかないことを知っていた。それで私は、ある本を取り出し、ベッドに座り、心から彼女のことを追い出して、読むことを自分に強いた。私は、取り乱してほとんど字面を追うことが出来なかった。それでも私は、一語一語読むことを自分に強いた。」

  彼女のことを考えてしまい、単語や文を何度も飛ばしては戻った。そしやがて眠りに落ちた。目が覚めると、また本を取り出し、一語一語読んだ。運よく大学が2週間の休業に入っており、その間、自分の心と感情と格闘することに費やすことが出来た。その強制的な読書は、心にある程度の平安を取り戻すまで数日のあいだ続いた。さらに2・3日後には深い平安が訪れた。彼はその状態に留まろうと決心し、読書を続けた。 何年か後、彼が深く座禅の実践をしたとき、あの強制的な読書により非常に集中した状態になっていたことが分かったという。あれは、禅が懸命に努力して得ようとする状態だったのだ。

◆火炎のような光と感情
「そしてある日、とても平和な気持ちで台所から居間へ歩いていたとき、私の頭のてっぺんで何かが吹き飛んだ。光と輝かしい感情の流れが、火炎のような力をもって私を襲い、貫いたように感じた。それは私を打ち倒した。私は完全な畏怖の中で床に横たわった。数分間、頭はものを考えることもできず、身体は動かなかった。ただ、私を通って流れ出る驚くべき感情と光とを経験するのみだった。感情の強烈さを誇張することは不可能である。

 ある体験者は言った、『もし、あなたがこれまでに味わった一切のオーガズムと他の一切の完璧な愛の感情とを一緒くたにし、それらすべてが一度にあなたに起こったとしたら、これで何かしら想像する手がかりを得られるだろう。』

 私にとっては、身体と心に何が出来るかについての、実際に精神と身体が何であるかについての、私の理解を完全に変えてしまった。  光と暴力的なほどに輝かしい感情の数分間のあと、私という存在は、この上ない至福の状態へと落ちつきはじめた。それから私は、私の人生の歴史が通り過ぎていくのを見た。そのとき私の感情状態は、無条件の愛の一種だった。愛するということが、私から私へ向かって来るだけでなく、あらゆるところから来た。部屋が(おそらく宇宙が)愛で満ちていた。」 彼はそのとき「人生は、まさしく本来あるべき仕方で存在してきたのだ!」と感じた。頭でそう考えたのではなく、ただ心がそれを知っていた。

◆完全な知識
 そのあと彼は、知識の壮大な展開を見始めた。日常生活ではありえないような仕方で事物を「理解」した。心を集中させるものは何であれ、それについての完全な知識を得たというのだ。その分子構造を知り、化学的な構造を知った。その完全なデザイン、その存在の歴史、宇宙におけるその位置等々を知った。この場合もまた、これらのものを予測したり、考えたりしたのではなく、それらを求めたり、望んだり、期待したりもなしに、ただ浮かび上がってきたという。

 それから彼は、わずかな身体的な衝撃を感じた。それが何だったかを見ようとして、注意が自分の内側に向かった。と同時に、一切の死への恐怖が去ってしまったのを知ったという。この全的な体験をする前には自分が死への大きな恐怖を持っているとは気づかなかったが、それがいつ去ったかは確実に分かったという。

 「この時点で、はじめて自分自身が生み出した思考と感じられるものが浮かび上がった。その考えとは、『さて、私はいまや死ぬことができるようだ』というものだった。あたかも、この完璧な経験が、私がこの地上に生み出された理由であったかのようであり、それゆえ私は今や去って行くことができる。それで私は、死がやって来るのをみようと、いわば見回したのである。しかし、それは姿を現すようには見えなかった。」

◆「許し」と「受容」  
 次に生じた考えは、「さて、残りの人生は《もうけもの》だな」というもの だったという。その後の5・6ヶ月の間、すべてがまさしく《もうけもの》である かのように、昼も夜も至福の状態のなかにいた。そして‥‥

「数ヵ月後のあるとき、私は、至福を楽しみながらただそこに座っていた。すると よりレベルの高い感情が、私のなかを巡りはじめた。私は、私が知っている人々― ―何人かはよく知っており、他はそんなに知らない――の顔が通り過ぎていくのを 見始めた。ふたたび、ただひたすら畏怖することだけが可能な状態になった。」

  まもなく彼は叫んだ、「ウーッ、何だこれは、何だこれは、何だこれは。」 そ して一つの言葉が浮かんできた。それは「許し」という言葉であった。彼は、目の 前を通り過ぎるこれらすべての人々を許したのである。彼は、自分が知りもしない 多くの人々を何らかのことで非難していたのである。 その数週間後にもうひとつの似たような経験があった。このときの言葉は、「受 容」だった。これらふたつの愛の性質は、『奇跡のコース』(A Course In Miracles)の基本原理である。

 彼の体験の13年後にこの本は出版され、19年 後に彼がそれを発見し、徹底して読んだという。彼は体験によって、「許し」、 「受容」、「エゴの死の経験」をし、のちに禅によって同じ経験をした。そして、 この体験があったからこそ『奇跡のコース』が、霊感によって書かれた書物である ことを知ることができたという。

  (ちなみに『奇跡のコース』は、1965年にニューヨークのコロンビア大学医学部の 教授ヘレン・シャックマンチャネリングした内容を書き写したもので、1200頁から なる大著だという。英語では既に150万部出版され、フランス語、スペイン語、中国 語でも既に出版され、現在日本語への翻訳作業も進行中とのこと。そのメッセージ はきわめて深遠で多くの人々の心を動かしているという。)

  その後彼は、何度も何度も恩寵を体験し、金銭はあの体験後ほとんど意味をなさ なくなった。しかし、その後の年月すべてが、《甘露のようなもうけもの》であっ たわけではない。ただ、確かに彼はその体験によって高次の意識に接触し、確かに 回心をした。彼は、こうした自身の体験を「神秘的回心の体験」と呼んでいる。  彼は言う、「高次の意識が存在し、少なくとも意識において人生は永遠であり、 死は恐れるべき何ものでもないということを、私は疑わなかったし、今も疑わな い」と。


■臨生体験(2)

◆臨死体験との比較
 ビル・ビンガム氏の体験を読んで印象に残ったことをいくつか記したい。

 第一は、臨死体験との類似点である。もちろん彼の体験の中には「体外離脱」体 験はないし、トンネル体験もない。だから、瀕死の状態でないのに臨死体験をする、 いわゆる「臨死なき臨死体験」ではない。しかし、彼が自分の手記のタイトルを 「臨生体験」としているのは、自分の体験のどこかに臨死体験と類似するものを感 じているからだと思われ、きわめて興味深い。どこが類似し、どこが違うのか比較 して確認しておきたい。

 類似する点を列挙するなら、人生回顧、光と愛の体験、完全な知識の体験である。

 「人生回顧」については「私の人生の歴史が通り過ぎていくのを見た」という短 い記述しかないから、臨死体験者がよく報告するような相手の感情の奥までを追体 験する強烈なものだったのかどうかは分からない。しかし何かしら生涯を振り返る 体験があったことは興味深い。また上の体験の中で出てくる非難してきた人々への許し の体験は、「人生回顧」ではないにしても、何かしら共通する基盤のようなものを 感じた。臨死体験者も「人生回顧」によって、これまで憎んでいた人々を許すこと がしばしばあるからである。

 臨死体験者の「パノラマ的人生回顧」では、無条件の愛を発する人格的な「光の 生命」のもとで回顧が起こる報告が見受けられる。ビンガム氏の場合、この神秘体 験そのものに光が伴う点は共通しているが、それは人格的な「光の生命」とは認識 されていない。

 また、臨死体験では、その「光の生命」から発せられる無条件の愛に包まれる感 動がひんぱんに報告されるが、ビンガム氏は、「愛するということが、私から私へ 向かって来るだけでなく、あらゆるところから来た。部屋が(おそらく宇宙が)愛 で満ちていた」と語っており、ここにも人格的な「光の生命」の愛は登場しない。 また、「愛するということが、私から私へ向かって来る」というような表現は臨死 体験者の体験中の報告にはほとんど見られない。ただし、臨死体験者の体験後の人 生についての報告には、自分自身が「生きとし生けるものへの愛に満ちていた」と いうような類似する表現がしばしば見られる。

 私が、臨死体験との比較という観点からもっとも興味深く読んだのは、完全な知 識の体験である。覚醒体験においても臨死体験においてもこうした体験が報告され ることはめずらしい。別の箇所でも具体的に語っているのでそれを紹介する。

 「私が注意を集中する個々のものは何であろうと、それについての全てを知った。 もし私が猫に集中すれば、その体内の原子の一切を見た。私は、その生きてきた歴 史を知り、その生涯の展望を知り、宇宙のなかでの位置を知った、等々。」  これは、常人には計り知れない知のあり方だ。言葉とその働きを完全に超越した 意識のあり方に開かれる次元の違う知なのだろうか。もちろんこうした次元の知識 の真実性を疑うことはいくらでもできるだろう。ただ興味を引かれるのは、臨死体 験者の体験中の報告にこうした知のあり方と比較して見たい事例が散見する点だ。

 たとえば、拙著『臨死体験研究読本』にも収録した臨死体験者・ベバリー・ブロドスキー氏は、臨死体験の中で英知、愛、哀れみ、真実が あまねく充満する光の存在に、この世の様々な矛盾についてなど多くの質問をする。 しかし、やがて彼女は、あらゆる智恵で満たされたように感じて質問を止める。無 数の花が一度に開花したかのように神の知識によって満たされ、その点で神とひと つだと感じる(Ring,K."Lessons from the Light" Moment Point Press, 2000.)

 K・リングの同じ本に紹介されているメレン・トーマス・ベネディクト氏も臨死 体験中に次のような体験をしている。

 「突然、私はもはや私ではなくなったのです。ただ一つ言えるのは、私は神の眼 で見ていたということです。突然、ひとつひとつの原子が存在する理由がわかり、 私はすべてを見ることができたのです。」(同上)

 臨死体験中に、宇宙の秘密の一切を知ったような体験をしたという報告は他にも かなりある。しかし例外なく、この世への生還後は、その叡智を忘れてしまったと いうのだ。ベバリー・ブロドスキー氏も、「体験中にきわめてはっきりと得られた 洞察は、地上へは持ち帰れなかった」と語っている。

 これらをビンガム氏の体験と比較して、積極的に何かを主張することまではまだ 出来ないが、たいへん興味を引かれたのは事実である。  最後に、ビンガム氏の体験でもうひとつ興味を引かれた点について一言。それは 彼が「その考えとは、『さて、私はいまや死ぬことができるようだ』というものだ った。あたかも、この完璧な経験が、私がこの地上に生み出された理由であったか のようであり‥‥」と言っていることである。

 私自身が、「もはや死ぬことができる」と思うところまで至りつくかどうかは分 からない。しかし、この世に生まれてきたのは魂の成長のためにだとほとんど確信 しているのは確かである。


 03/3/1追加

 

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