臨死体験・気功・瞑想

覚醒・至高体験の事例集  普通の人々の場合-1

河上肇

 河上肇は、清廉な生涯を貫いたマルクス主義経済学者として著名であるが、その生き方の根底には、ここに紹介するような宗教体験があった。以下は、安藤正瑛著『さとりの構造―東西の禅的人間像 (1980年) 』よりの要約による紹介である。
 なお読者の方には、 ぜひ、本サイトの[普通の人々の場合2」>「なおたまさん」の体験と  あわせ読んでいただくこことをお勧めする。ある共通点を発見できると思う。


 明治末期から昭和初期にかけて、京都大学にほとんど同じ時期に在職し、広く内外の注目を集めていた二人の有名教授がいた。その一人は『善の研究』などで著名な西田幾多郎、もう一人は『貧乏物語』などで名をなしていた経済学科の河上肇であった。

 河上肇といえば、二十一年余にわたる京大教授の職を棄てて社会運動に身を投じ、そのため五年もの入獄を強いられたことはよく知られているが、こうした社会運動家としての一面の奥に深い宗教体験があったことは、あまり知られていない。

 彼の宗教的意識はどのようにして養われたのか。彼は明治十二年(一八七九)に山口県岩国に出生、山口高校を経て、東大政治科に進む。卒業後東大農科実科講師、学習院大学教授嘱託、専修学院、 台湾協会専門学校講師などを兼任する。と同時に『読売新聞』に千山万本楼と号して匿名で三十六回 にわたって「社会主義評論」と題する論文を寄稿し続けていた。

 しかし「自分も可愛いが、とかく他人のことも気になると云ふ」(河上肇『書簡集』昭和九年十二月二目、河上芳子宛書簡から)人間愛豊かな河上青年は、経済学の知識の切り売りに終始する自分の生活に満足ができなくなっていった。

 彼はまだ東大学生時代に、足尾鉱毒事件に関する鉱毒地救済婦人会の演説会を聞きに行って、これに深く同情し、ただちに二重外套と羽織と襟巻を寄附し、 さらに翌日、身に着けていたもの以外の衣類を残らず婦人会事務所に送り届け、当時の『毎日新聞』 (一九〇一年十二月二十三日)に「特志の大学生」という見出しで記事になったという。

 ちょうどそのころ伊藤証真という人物が、巣鴨村の庚申塚近くの畑中の大目堂という小さな御堂を無料で借りうけ、これを「無我苑」と呼び、ここを本拠として、雑誌『無我の愛』を発刊、「全力を 献げて他を愛するの主義」を唱道していたという。河上青年は、伊藤氏の所説に強く心動かされ、ついに一切の教職をして無我苑に身を投じ、無我の愛の実行と伝道に挺身しようと決意した。

 伊藤証信という人は当時三十歳で、そのころ真宗大学研究科に在学していたが、二、三の友人 と語り合い、無我の愛の伝道運動を始め、雑誌『無我の愛』を発刊するや、その影響は号を重ねるに したがって驚くべき勢いで全国に波及し、河上青年が先に述べた決心をするようになったころには、四千の読者を持つに至っていたという。

  河上青年がこの決心をした当夜、彼は異常な宗教的体験、彼が人生の帰趣」の中で用いた言葉を借りれば

「積年の苦悶一時に脱落して春風春光四方より湧くが如く、身心計らずも頓(とみ)に平安幸福の妙境に入る」

という宗教的体験に恵まれたという。「無我愛運動に投ぜし前後」の中で、彼はこの体験を、次のように回想している。

 「此の時須臾(しゅゆ)にして余が頭脳は実に形容すべからざる明快を覚え、透明なること玻璃(はり)の如くなるを感じたり。

 …余は霊薬を以て余が眼瞼を洗はれたるが如く感じたるが、眼界俄(にわかに)に開けて急に視力の倍加したるに驚き たり、この時余が心神は万里雲晴れて月天心に到ると云ふべきか、否な到底筆墨に云ひ現すべからざる無上の軽快を覚えたり。……余は全く無我となれりしを信じたりき、…… 」

 この体験後、河上青年は躊躇することなく無我苑に身を投じ、無我の愛の伝道に尽くし始めた。そのころの彼の俳句には、当時の彼の感懐がよく表われている。

 捨 て し 身 の 日 日 拾 ふ い の ち か な

 このころ巣鳴の無我苑に河上青年をたずねた作田壮一氏は、 その印象を「面影と印象」 の中でこ う述べている。

 「無我苑で会った時には、強い道念から迸(ほとばし)り出る意気が何者をも説伏せずには置かない迫力を以って私の頭上に落ちかかって来た。……その時に私が深く感銘したことは河上さんが絶対の真理を説く態度であって、.その風貌はそれまでに、またその後にも再び見ることの出来ないほどに情熱の籠った、意力の充ちた、総身 これ一魂の表現であった。……それは氏が無我苑に入る直前に体験した没我の心境が然らしめたのであろう。 氏は私が訪れた時に、自分の覚悟は世界の光景を全く一変せしめたと語ったが、そうに違いない。」

 こうした体験によって目覚まされた宗教的意識は、河上肇の波欄に富んだ後半生を通していつも生命の奥に深く根をおろしていたのである。


河上肇(かわかみはじめ 1879〜1946) 
  明治〜昭和初期のマルクス主義経済学者。東京帝国大学法科大学在学中に内村鑑三らの講演をきき、キリスト教の絶対的非利己主義という生涯の精神的支柱をえた。

 資本主義社会の利己と利他の矛盾の解決を絶対的利他主義に求めて,1905年教職を辞し伊藤証信の無我苑にはいったが,やがてその誤りを批判。

 京都帝国大学教授在任中の1916年(大正5)に大阪朝日新聞に連載した「貧乏物語」と、19年に創刊した「社会問題研究」によって多くの青年をひきつけ、みずからはマルクス主義にかたむいていった。

 24年に櫛田(くしだ)民蔵の批判をうけてマルクス経済学とマルクス哲学の本格的研究にとりくみ、「経済学大綱」(1928)などを刊行。28年(昭和3)筆禍事件で京都帝大を退職、その後は政治運動にはいった。

 32年共産党員となって地下活動にはいり、翌年治安維持法違反で入獄。思想的には非転向をまもりとおした。

 37年出獄後まもなく太平洋戦争が始まった。隠棲し「自叙伝」(1947〜48)などの執筆に専心。戦争に反対し心を痛め彼の体は、戦後の食料不足と老いのため余力なく5ヶ月後、栄養失調と肺炎のため清廉な生涯を終えた。

☆主著<経済学大綱><資本論入門><貧乏物語>。

☆主な関連サイト

http://www.ksky.ne.jp/~hatsu/hajime/

http://www.ksky.ne.jp/~hatsu/hajime/k_link.htm

http://www.asahi-net.or.jp/~pb5h-ootk/pages/K/kawakamihajime.html


01.12.18 追加

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