臨死体験・気功・瞑想

覚醒・至高体験の事例集  普通の人々の場合1

前川博氏

東洋古典と精神世界

 この事例集に作家の辻邦生の体験を紹介くださった大愚さんが、続けて前川博氏の「宗教体験」を紹介してくださいました。禅詩やその解釈は難しい感じですが、「私は雑巾を絞っていないのに、私は雑巾を絞っていた」や、その前後の、体験を直接語る文章は、とても印象的です。
 出典を見ると、一般にはなかなか目に触れる機会もないもののように思えます。こうした貴重な一文を紹介くださった、大愚さんに感謝します。


 まず前川さんの簡単な略歴をご紹介すると、1937年生まれ、 俳人・歌人・読売新聞社勤務(「思想のひろば 1」創言社 )とあります。

 以下は同本に掲載された前川さん自身によ る「インマヌエルの光を求めて―<滝沢思想>をめぐる私的な思想状況」という論文からの抜粋です。 (「滝沢」とは、滝沢克巳のことで、西田幾多郎に師事した 後、彼の勧めで、危機神学のカールバルトに師事。後に独自 の思想展開を見せた神学者、哲学者です。九州大学教授を経 て晩年にはハイデルベルグ大学神学部の名誉学位を受けまし た。久松真一との対話集『仏教とキリスト教』(法蔵館)と いう本もあります。)

 前川さんの<神秘体験>への叙述の抜粋の前に、その体験へ と至るまでの彼の「魂の暗夜」(スタニスラフ・グロフ)を ごくごく簡単に整理させてください。

@「60年代安保は決定的な敗北に終わった」―社会運動へ の挫折。

A「思想」(マルクス主義などを基盤とした「新左翼」等)へ の挫折。

B宗教(キリスト教・禅仏教)へと救いの道を求めますが、 決定的なものを得ることができない。

C「全共闘」の最中、滝沢思想と出会う。が、根本的な理解に至らない。

 これらの経緯を前川さん自身の言葉で整理させていただくなら「人生が 無意味だということは人生は生きるに値しないということであり、政治 も思想も文学も何ら私の精神的支えとならない絶望」ということになり ます。また前川さんは俳人・歌人でもありますのでご自身の歌を引用しながらこうもいっています。

  「まさしく私の精神状況は、人生など無意味で、<生きて苦しみて死す> だけのものだという<藻のごとき不安>の中にあったのである。」と。

  そういった決定的なニヒリズムの渦中にいた前川さんが、ある体験をもと に「一変」してしまうのです。

「翌1982(昭和57)年は、私の人生が一変した記念すべき<奇跡の年> であった。」 前川さんはその<奇跡>を3つの観点から分類しています。

@西田幾多郎の思想が「すんなり理解できたこと」。
(ただこれは知的理解であり、「宗教的体験」とはまったく違った次元のもの と断っています。)

Aキリスト教の「福音」に「心を洗われる思い」を味わう。 (これも決定的な<変革>ではないといっています。)

  抜粋までの説明がずいぶん長くなりましたが、今回お伝えしたかったのはもちろ ん Bの<宗教的体験>でした。

  「依然として絶望状況の中で、書物も読む気力もなく、誕生日が過ぎていった。 私は本棚をひたすら雑巾で拭いていた。初めは手が冷めたかったが、何度も雑 巾を絞っているうちにすべてを忘れていた。ふと気がつくと、私は雑巾を絞っているのに、私は雑巾を絞っていなかった。私は雑巾を絞っていないのに、私は雑巾を絞っていた私はそこに、まざまざと無姿無形の不可思議なものを見た。その時、私は<蜃気 楼>のような、<空蝉>のような<空無>の存在になっていた。<私>は存在せ ず、私の<意識>は私の身体の外にあった。<無姿無形>のものは、まぎれもな く<本当の私><真の自己>であった。私の意識は一瞬のうちに<変革>され、 私は傅大士(ふたいし)の褐を理解した。

空手把頭鋤頭  空手にして鋤頭を把り
歩行騎水牛    歩行して水牛に騎る
人従橋上過    人、橋上より過ぐれば、
橋流水不流    橋は流れて水は流れず

 この禅詩の内容を私は次のように説明している。

  「私たちは本当は手を使わないでペンや鉛筆を持っているのである。手でペンを 持っているが、手でペンを持っているのではない。私たちは毎日歩いているが、 本当は全然歩いていないのである。歩いているように見えるが、実はすばらしい <水牛>に乗っているのである。人が橋の上から過ぎれば、橋は流れてしまう。 いつだって橋は流れてしまう。橋はいつかなくなってしまうから、橋が流れてい ることは理解しやすい。

  しかし、最後の『水は流れず』は難解である。川の水は毎日流れている。行く川 の水は絶えずして、といわれている。水は流れる。水は流れている。聖人君子と いわれる孔子も川のほとりで『行くものはかくのごときか。昼夜をおかず』とい っている。誰でも水が流れているのを見ている。たしかに水は流れている。 しかし本当は、水は流れていない。水が流れるなんていうことはないのだ。だっ て水が流れているじゃないか。

 そうだ、水は流れている。水は流れているままで 流れていないのだ。水が流れているままで水の流れがピタリと止まる。宇宙が始 まって以来、水が流れたことなど一度もなかったのである。 そうだ、水は流れない。水は流れず。水不流。この時、人間に本来の幸福が戻っ てくる。すばらしい至福の時がやって来る。生まれてからずっと、幸福は私たちの存在を離れたことなど一度もなかったの である。物事はすべてそのように為されているのだから、私たちは本来、こと さら何かをする必要など全くなかったのである。何もする必要はないのだ。無為 にして為さざることなし、というのはこういうことである。荘子が大声で笑うの は、こういうときであろう」

(前川博 『東洋神秘主義としての老荘思想の<道>―タオとは根源的にどうい う存在か、そして西洋人はどう把握しているか』大修館『鎌田正博士八十寿記念 漢文学論集』所収)」(「思想のひろば 1」創言社)

01・10・21 追加

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