臨死体験・気功・瞑想

覚醒・至高体験の事例集  普通の人々の場合 1

 

J・トレヴォーア

 ジェイムズの『宗教的経験の諸相 上 (1) (岩波文庫 青 640-2) 』には、数多くの神秘的な体験が収録されている。その中から「第16・17講 神秘主義」に見られる一文を紹介する。J・トレヴォーアという人物の自叙伝からの抜粋とのこと。ジェイムズは、神秘的経験が、散発的にあらわれる場合の事例として、これを挙げている。


 ある晴れやかな日曜日の朝、私の妻と子供たちはマックルスフィールドのユニテリアン派 の礼拝堂へ行った。私は彼らと一緒に行くことは不可能だと感じた――丘の上の陽光をあと にして礼拝堂の方へ降りて行くことはしぱし霊的な自殺行為をなすことのように思えた。そ れに私は、新しい霊感と私の生命の拡大とを必要だと感じていた。

 それで私はしぶしぶ、悲. しい気持で、私の妻と子供たちが町の方へ降りて行くにまかせ、私は杖を手にし、犬を連れて丘の上へ上って行った。朝のすぱらしさと、丘や谷の美しさのために、私はすぐに悲しみと悔いの感じを失ってしまった。およそ一時間、私は飲屋「猫と提琴」のほうへ歩いて行き、 それから引き返した。

 帰途、突然、なんの前触れもなしに、私は自分が天国にいるのを感じ た――ある温かい光を浴びているという感じを伴なった、筆紙に尽くしがたいほどに強度の、 心の平安と歓びと確信であって、まるで、外の状態が内的効果を引き起こしたようであった――私は光明の真中にいるようであったので、私の周囲の光景が以前よりもいっそうはっき りと目立ち、そしていっそう私の身近にいるようであったにもかかわらず、肉体を超越して しまったような感じであった。

 この深い感動は、その強さがだんだん弱まりながらも、家に帰り着くまで続いた。そしてその後しばらくして、だんだんに消えて行ったのであった。

 ジェイムズによると、 この著者は、これに似た経験をその後もいくどもしているので、今ではそういう経験をよく知 っていると付記している。彼は書いている。

 霊的生命は、それを生きている人々にとっては当然のことであるが、 それを理解しない人々にはどう言えぱよいであろうか?少なくともこれだけのことは言え よう。

 すなわち、それはその体験がその所有者にとって事実において現実的であるような生命である。なぜなら、その体験は、それを客観的な現実の生活と緊密に接触させたときにも、 決して失われずに残るからである。

 夢はこのテストには合格しない。私たちは夢から醒める と、それが夢に過ぎなかったことを知る。興奮し切った頭脳のはせる空想も、このテストに 合格しない。私が経験した神の現前の最高の経験はめったにないもので、短時間のものであった――驚いて私に、神はここにいます!と叫ぱずにはいられなくした意識の閃きであっ た――あるいは、それほど強度ではなくて、やがてだんだんと消えて行く高揚と達観の状態 であった。

 私はこれらの瞬間の価値を厳重に検討してみた。私が自分の生活と仕事とを単な る脳裡の空想の上に築いているなどと言われたくなかったので、この経験を私は誰にも話さ なかった。

 しかし、あらゆる試験とテストの結果、これらの経験は今日では私の生活のもつ とも現実的な経験であり、過去のすべての経験と過去のすべての成長とを説明し是認し統一 する経験であることを、私は見いだすのである。

 まったく、この経験の現実性と、その広大 な意義とは、ますます明確になってゆきつつある。この経験が臨んだときには、私はもっと も充実した、もっとも強い、もっとも健康な、もっとも深い生活をしていたのである。私は そうした経験をしたいと求めたのではなかった。

 私が断乎たる決意をもって求めていたもの は、たとえ世間がどんな反対の判断を下すとわかっていても、さらに強く私自身の生活を生 きるということであった。神がほんとうに現前し給うたのは、私がもっともほんとうに生き ている時のことであった。そして私は、自分が神の無限の大洋のなかへ沈んでいたことに気 がついたのであった。


01・11・25 追加

 

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