臨死体験・気功・瞑想

覚醒・至高体験の事例集  普通の人々場合

 

なおたまさん

 

 以下は、なおたまさんという方から掲示板にいただいた投稿です。その内容は、少しでも多くのみなさんに読んでいただきたいものだったので、なおたまさんの許可を得て、ここに転載します。
 このサイトのテーマのひとつは、臨死体験と悟り体験の共通点を探ることですが、 至高体験のなかで「まるで光に包まれてるような感じがし」、「愛されている」と実感したというなおたまさんの体験は、その意味でもとても興味深いものです。


 はじめまして。今はもう忘却の彼方にある体験を話します。

 当時22歳の私は青年期を生きていて、「愛とはなにか」について、その理念ではなく実践に励んでいました。その意気込みはすごいもので、 これがわかったらすべてが癒され救われる、と思って一途になっていました。 折りしも、大の親友が退廃的な生活の末にヤクザな道に足を踏み込もうと していて、私はそれを阻止するのに「愛」でなんとか遂げてみせようと、尋常ならぬ忍耐と努力を重ねていました。
 しかし、その私の想いとは裏腹に 友人は私を逆恨みし、益々落ちて行くばかり。 しかし私はあきらめないことを肝に命じ、この友人を理解し、受け入れること、 とにかくそうすることで友人の回心を信じて、ひたすら自己のことはかえりみず 友人への心寄せを試みたのでした。
  ところが、がんばってもがんばっても友人の心を動かすことはできず、 あげくの果てに、「私の人生は私のもの、アンタには関係ない」という、 私にとって最もショックな一撃を食らったのでした。私はほとほと希望を 失いました。精も根も尽きました。もうがんばろうと思っても、 あきらめまいと思っても、ついに意志が続かなくなったのでした。 半ば自暴自棄になって、友人とはもう絶縁だなと、この上なく哀しく思う日々が 続きました。
 友人の件のみならず、このことをあきらめることは私にとって、 「愛」をあきらめること、自分のアイデンティティを放棄し、いわば「死」を 意味することに他なりませんでした。

 そんなある日、ある人にこの一連の話を聞いてもらい、内心慰めを請うたところ、 その人は実にこんな言葉を私に言ってくれました。
 「あきらめちゃだめだ! だってどうしたいの?友だちなんでしょ。だったらあきらめるな。」
  この言葉はあまりに意外でした。なぜなら私はてっきり「もうそこまでやった んだからもういいんじゃない」という言葉を予想していたからでした。 そう言ってもらうことで、この件についてけりをつけようとも思っていたのです。 しかし、ちがっていました。 そして、これこそが、この言葉こそが、私が心の奥底から本当に言ってもらいたい、 いわば私自身の魂から聞こえてきたような言葉だったのです。
  私はあまりの衝撃に、その場に倒れ、しばらく起きあがることができませんでした。 雷に打たれたように倒れてしまったのです。心の奥深く、こんなに心に深淵が あるのかと思うほど深いところにある存在を感じ、それと一体になったような 衝撃があり、私は狭心症になったかのように、あまりの胸の痛みにしきりと 胸をこぶしで叩きました。そして、その日は一言も発せず、とりあえず家に 帰ったのでした。

 翌日、私は不思議な感覚に包まれ、まるで生まれ変わっていました。 一言で言うなら「愛」がわかったのです!私はまるで光に包まれてるような感じがしました。そして、私は愛されている、とそう実感しました。また、 そこにあるテーブルやイス、木々などの植物はとくに、ビルや石ころに至るもの すべてが、自分と血肉を分けたようなもののように思われ、それらが一つ一つ 独立して存在しているのではなく、すべてが統一性をもって、必然性をもって そこにあるのだ、自分と連鎖してそこにあるのだと感じました。

  さらに、私が思うことはすべて愛に満ちたことで、思った瞬間にそれは 現実のものになると確信でき、また事実そのようになりました。 それまでなにげに聞いていた音楽や絵などが、感動的にありありと心に迫り、 感受性がとても研ぎ澄まされたようでした。
  私は気づきました。神とは、杖をついた白髪の老人でもなんでもなくて、 こういうことかと。私は「愛」がわかったと同時に「神」もわかったのです。(私は無宗教です。)
  周りの人や環境が、私が何も言わなくともそこに居合せただけで、 いい方へと変化し、すぐに私の言い方や服装やしぐさを真似する人が 現れるようになりました。私は思いました。教祖はこうして誕生するのかと。 カリスマとはこういうことかと。それらは絶対によくないと思い、 極力控えめに居ました。
  もちろん友人ともいい関係になり回心してくれるのに1週間とかかりませんでした。

 このテンションというか、感覚は、トーンダウンしながらも半年も続きました。 これが至高体験などと呼ばれたり、禅の修業をしたりして皆が欲しがっているもの などと知ったのは、その後7年もたってのことでした。 その間、この神秘体験は誰にも話すことはありまでんでした。 (投稿日:00年01月04日(火)01時57分)

 

 なおたまさんは、追って下さったメールの中で、ご自身の体験を次のように補足してくださっています。


  それにしても、私が最も強調したいのは、まず一つは、 自分の中の想像を超えた深いところの存在、それは私のようで私とも ちょっと違う、「本当の自分」のような、かと言って神とも違う、でも神にとっても 近い存在、それと、この心の表層で認知されている普段の私と一つになった ものすごい衝撃。
  愛されている、という確信、実感。 その存在とは、ユングで言うところの老賢者でしょうか。 ハイヤーセルフでしょうか。


  二つめは、 ありとあらゆるもの、無機質なものまでが自分と血肉を分けたもののように 感じられた、すべてとの一体感。そしてそれらがどれをとっても必然性が あってそこにあること、そしてそれらが独立してではなく、相互に関係し合って そこにあること、それゆえに全体が統一されて、調和されていること。 そう感じられる、そう見える。パーフェクトワールドだ、この世は、と思いました。
  しかし、それはつい昨日まで眼にしていた同じ風景を見てのこと。 そう、私の心の中が統一され調和されているのだ、それが外界に投影 されてそう見えるのだ、すべては自分の内面の投影だ。そうわかりました。 そうすると益々、あの存在との一体化が大切なことが思われました。
 
 そして三つめは、 私はまるで意識だけになったみたいでした。肉体の存在を感じないくらい 体が軽く、意識だけがぽっかり浮いて、それが自由自在になんにでも 同化してしまう。私は透明人間になったと思いました。透明人間になって とくに人の心の、奥の奥を簡単に読むことができる。
  「その人が本当は何を欲しているのか」ということ。 それはみんな「愛」でした。そしてそれを提供するというか、与える私。 するとその人も開眼したように癒されたようになって、「本当の自分」と 出会うようなことになるのでした。


 私が、なおたまさんの手記を読んで一番強く思ったのは、臨死体験者がしばしば口にする「光の生命」、あの無限の愛を発散する「光の存在」のことです。「光の存在」も、結局は、なおたまさんがいう、

 「自分の中の想像を超えた深いところの存在、それは私のようで私とも ちょっと違う、「本当の自分」のような、かと言って神とも違う、でも神にとっても 近い存在」

なのではないかということでした。しかし、おそらくそれは、自分の心の奥底にあると同時に、宇宙の心でもあるのではないかと思うのです。 そのへんのことは、今後じっくりと考えて行きたいと思っています。

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