臨死体験・気功・瞑想

覚醒・至高体験の事例集  普通の人々の場合


ねこさん


 2001/08/10 に談話室(掲示板)にねこさんという方の書き込みがあった。その内容は、以下のような至高体験であった。小学校5年生という、非常に低年齢での体験である。 私は、レスポンスの中で「もしよろしければ、5年生のときのこの体験がその後の人生にどういう影響を与えたか、 も含めて詳細を聞かせてください」とお願いし、同時にこの事例集への収録をお願いした。ねこさんは、収録を快く承諾してくださり、また、後半に掲載したような返事をくださった。


小学5年生の至高体験

Noboru様、はじめまして。

私も神秘体験と呼ぶのでしょうか、あることを体験しました。

少し前まで、体験の意味を知りたくて、あちらの掲示板で いろんな方の意見を聞かせてもらいました。
いまは、その意味を他人に聞くことが無意味だと知りました。
真実は自分が1番良く知っているわけです。
こちらでは、いろんな方の体験がありましたので、 私も一つ、体験発表をさせて頂こうと思いました。

私がそれを体験したのは、若干小学校5年生の時。
夏休み、私は朝起きると、毎日家の周りの田んぼや、川へでかけ
トンボの羽化、魚の群れ、朝露の光を見ました。
毎日楽しくて仕方ありませんでした。

ある日のこと、いつものように川へ行き、魚の群れを見ていました。
魚たちは臆病なので、息を殺し、まるで私はそこにある木を装うように眺めたのです。
その日初めて、私の耳に池の泡がはじける音が聞こえました。
小さな小さな、そして今まで聞いた音の中で一番美しい音でした。

なんてきれいな音、とさらに耳を澄ますと、小さなはずの音が私の体中に広がる大きな音になりました。
しばらく音に聞き入った次の瞬間、
その時の私の感覚では、お腹の中が爆発したような、衝撃が あり、
それはまるで爆発の炎が空に立ち上るように上に抜けて行きました。
体が浮いたかと思ったくらいです。

最初の感覚は感謝と、驚きでした。

「あぁ、私は、自然のすべてと境目なく一体なんだ。」

至福の瞬間を味わったのです。

一瞬にして、たくさんのことが わかったのですが、もともと当たり前のことでした。

すべてが「神」でした。すべてに神が宿り、それは「愛」でした。
溢れる感謝を向ける相手は「神」しかいなかったのです。

それからは、さらに自然の中にいることを好みました。
あれもこれもが輝き、心が伝わってくるような、いいえ、心などは どこにもなく、ただそこにいる。

「私が受け入れて貰ったのではなく、ずっと受け入れてくれていたもの、
そこにずっと存在していたものに、気が付いた。私たちはひとつ なんだ。」

私は、第6感というのでしょうか、
川原の石の上を跳んでいく時に どの石が安全なのかというのが無意識でわかるのです。
石だけでなく いろいろなことが、無意識のうちにわかるのです。

しかし、親にも、先生にも話しましたが、当然?理解されず、
私も変な子と思われるのがイヤでそれを隠すようになりました。
その後も時々は木々に心開き、語っていましたが、忘れかけている ような状態でした。

ところが、まだ1年は経たないのですが、自分の怠惰な生活に嫌気がさし、 朝早く起きる決心をし、
毎日4時半ごろには起きるようになりました。
朝は感覚が研ぎ澄まされているようで、あの時のことをよく思い出すようになりました。
そして、体験の意味を求めて、2ch掲示板へいったのですが、
その間にも私はいろいろなことに気づいていきました。 詳細は、後ほど。
とにかく、大きな体験は以上のようなことです。 長くなりましたので、このへんで。


5年生のときのこの体験がその後の人生にどういう影響を与えたかという質問に対して

表面的には、掲示板にも書いたように、誰に言ってもわかってもらえず、 何でもなかったのかな・・・という感じですが、実のところ、私がここに いることさえも、この時の体験あってと思っております。 というのは、どんな小さな出来事も、それなくして一人の人間が存在することは できないということです。 しかし、それではつまらない答えですね。

そうですね特別に変わったところでは、まず、死を恐れなくなりました。他の皆さん のように、死も生もすべて無である・・・というのではないのですが、 至福の境地だったものですから、もういつ死んでもいいかな、と思うわけです。 あれだけの(良い)思いをしたのだから、思い残すこともないな、と。

よって、実におおらかに人生を歩んでいる気がいたします。 あまり悩むこともなく、周囲の人々を見て、何でそんなに心が狭いのだろうと思うことは多々あります。

そしてその後、私は小さな命たちが愛しくて、家のなかにいるハエを母が叩いたりすると 泣いて抗議した、という記憶もあります。自分で誤って、殺してしまった時にも 張り裂けそうな胸の痛みに、ただつらくて、生きることが苦しみ、と思えるほど。 でもそれを通じ、何を言っているのか、ただでさえ、肉を魚を食し、多くの命を 痛みも感じることなく、貪っているのではないか、ということに気づき、 命は、惜しまれるものではない、と知りました。害虫は害虫として生きているし、 殺されることもまた、大自然の営みであること。私自身生きることも、大自然の営み、 心を開き、身をゆだねること。 その後は「死」というものも冷静に見ることができるようになりました。これは成人 してからでしたけどね。

つまり、幼い頃の体験ではあったけれど、すべての思考はそれを基盤としているのだと いえるでしょう。 ところで、大人になり、年をとり(32才です)知識、経験を得たところで、 忘れかけていた、その出来事を追求してみよう、と思ったのには、何か理由があるのではと思っていたところ、Noboruさんの掲示板に出会い、書き込みをしてから、 「こんなHPを作っている人がいるのだなぁ、このような内容のHPを 望んでいる人もたくさんいるのだなぁ、ここで皆、何を心に思うのだろう。」 ということを思っておりました。(というか、このHPは何の為に在るのか)

そして数日後、時間がありましたので、皆様の体験談を端から読ませて頂いております 時に、不思議なことがおこりました。 目で文章を追っております時に、心の中は、「素晴らしい」という思いでいっぱいでした。 皆様の言葉より、この世が愛であること、キラキラと生きているすべての生物たちに「愛」=「神」が宿るのだと言うこと、多くの人がそれを知り、感じ方、表現はさまざまであってもそれはまったく私の感じたものと同じなんだということ、を思っておりますと、 ふと、得も言われぬ心地よさを感じました。

「あれ?なんだろう」とその感覚をもっと知ろうと思った時に、「あ、これは・・・」 と思い出したのです。あの小さな泡の音を聞いたときと同じ感覚。あの時は、「なんてきれいな・・・・」としばらく浸っていると、私の中が音で満たされ、ドーンとなった。 ああ、そうか、このまま浸っていれば良いのだ、しかしちょっと邪魔が入り、 それ以上その感覚を保つことはできませんでした。 しかし、この時に得たものもまた、大きなものであったと感じます。 至る道がわかったのです。

2ch掲示板にて、ある方には、エネルギーが上昇する感じは、「クンダリーニ」だと思います。と教えて頂き、そのあたりの本も読んでみました。 でも、ヨガをやっていた訳じゃないし、瞑想したわけでもないし、とその時は思いましたが、先日の感覚にて、ヨガの瞑想に近いものであったのかな、と思うようになりました。ひとつの好ましい対象に集中することにより、幸福を感じる状態を維持し、心が広がって行く。 つまり、自分の好きなこと、ものに没頭すれば得られるということです。そこには常に喜びがあり、心が温かく、穏やかであるのです。 ‥‥‥

心に尋ねることです、自分の真に欲するものを。一番心地のよい場所がどこにあるのか。そして、その逆のものからは遠ざかるべきなのです。 という訳で、ここ一連のネットでの情報交換は、ここに行き着く為のものであったのかなと思うのであります。NoboruさんのHPを見ての第一印象の「ここは何を得るところなのだ?」と思ったことも。素晴らしいことですね、深く感謝すると共に、これからもHPのご発展、陰ながら応援致します、頑張ってください。

01・8・24 追加


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