臨死体験・気功・瞑想

自己・成長・悟りの関係 

この事例集の、さまざまな体験に触れていくうえで参考になるかもしれないと思い、ここに自己と成長と悟りとの関係にふれた小論を掲載します。  

ここに述べたような考え方は、このサイトを作成するうえでの基本になるものでした。こうした考え方をもとに、この事例集に掲載したような事例をあつめ、また臨死体験についての本を書きました。

◆「自己」は小さなガラス・ケース  

俳優の根津甚八が、かつて『徹子の部屋』というトーク番組でこんなことを語っていました。彼は、まだ幼いころのある日、とても印象深い不思議な心理的体験をしたといいます。砂場で夢中で遊んでいたときに、なぜか「自分は自分であって他の人間とは違う」ということが実感として分かってしまった。その瞬間、自分の周囲の世界がすーっと自分から遠のいていくような感覚にとらわれた。それ以来今に至るまでずっと、あの幼き頃のように本当に純粋に我を忘れて何かに熱中することができなくなってしまった。そして彼が演劇の中で探し求めているものは、あの幼き日の何もかも忘れた純粋な没入感かも知れないというのです。  

根津甚八のようなはっきりとした自覚はないにせよ、この文章を読んでいる、おそらくすべての人々が、子供から大人へと成長する過程で根津甚八と同じような経過をたどって来たはずです。「幼き頃の純粋さ」「自己意識に押さえ付けられない生き生きとしたいのち」「自己意識に曇らされない純粋な眼」──そんなものを知らぬまに失うことによって私たちは大人になったのです。自己意識という見えない壁によって自己と世界とを隔てることによって大人になったはずなのです。  

大人である私たちは、たいていは「自分は自分であり、自分を取り囲む世界とは別だ」と思っています。主体としての自分はここにおり、その周囲に客体としての世界が広がっている。道端にころがる石はあくまでも石であって自分ではない。他者はあくまでも他者であって自分ではない。周囲の世界や他者と自分とのあいだには、目に見えない境界線がある。これが普通の感覚でしょう。しかし、本当に「いつもそうだった」と言い切れるでしょうか。  

たとえば、海辺を歩いていて、波の音、大洋のうねりの音が自分の雑念をすべてを洗い流してしまうとき。残っているのは、砕ける波の音、涼しげな微風、遠くから聞こえる海鳥の鳴き声だけ。自分がそれを聞いているという意識すらない。そんな瞬間が誰でも一度はあったのではないでしょうか。そんなとき、自分と海、自分と風との境界線は消えてしまう。自分が海そのもの、風そのもの、世界そのものでした。しかし、それはほんの一瞬の出来事で、次の瞬間には再び自分という意識が戻ってしまいます。世界はすーっと自分から遠のいていくのです。 

とすれば世界と自分とを分け隔てしまう「自己意識」とは何でしょうか。確かにそれは、乳飲み子のころの自分にはなかった。大人になってからも何かの拍子に一瞬たわむれのように消えることはある。しかし、自分と道端の石ころとの、自分と他人との区別がつかなくなってしまえば、まともな社会生活は送れないし、むしろ病的な心理というべきではないか。自他の区別が完全に消えてなくなるなどということは、まともな人間にはありえないのではないか。 確かにそうかも知れません。しかし逆に「自分はこういう人間だ」という意識が固定してしまって、そうした硬直した「自己意識」を通してしか社会とかかわれなくなっているとすれば、それもまた問題です。そして、「まともな社会生活を送っている」と思っている私たちは、多かれ少なかれ「自己」という小さな硬い殻によって自分の中の「大いなるいのち」をがんじがらめにしばりつけてしまっているかも知れません。   

人は誰しも、自分自身について何かしらのイメージをもっている、自己についての観念をもっている。「私は、まともな人間だ」というのもそうした自己イメージのひとつでしょう。そのほか「自分は小心だ」「こつこつやるタイプだ」「数学が苦手だ」等々、自分の性格や特質について言葉であれこれに規定しています。そんなふうにして意識された「自己概念」が統合されて、自分はだいたいにおいてこんな人間だという全体像が各自の頭のなかに漠然とできあがっている。これが、人間性心理学の創始者の一人、C.ロジャーズなどによって広められた心理学用語としての「自己」です。

 「自己概念」は、つねに世間や他人との比較のうえに成立しています。そして、他人と比較して自分をどう評価しているかという価値意識と結びついています。たとえば、「自分は小心だ」という意識は、「気が強い人、気が大きい人」は素晴らしいという価値判断、「それに比べると自分は気が弱くてだめだ」という自己評価とをともなうことが多いでしょう。「男」「夫」「父親」「部長」等といった社会的役割にもほとんどの場合、価値評価をともなった様々な「自己概念」が結び付いている。たとえば、「自分は、めめしい男だ(=男らしい男でありたい)」「部下に信頼される部長だ(=軽蔑される上司でありたくない)」等々。

こうしてそれぞれの「自己」は、「世間一般」が期待する様々な社会的役割を基礎として、その期待や要求にうまく応えられたり応えられなかったりしながら、それでもその要求に対応する「自己」として形成されます。結局人は、この世に生まれ落ちたときから、世間にあわせ、世間との関係において外的に規定されたものとしての「自己」を生き始めるのです。その意味で「自己」は、社会構造に密着して成立します。

特定の社会のなかで、特定の地位と役割を持ったものとして「自己」が限定されると、その社会が存続する限り「自己」は一定の安定を得る。「自己」は、その社会に支配的な価値規範を自らのうちにとりこみ、それとの関係のなかであれこれに自身を評価し、規定する。「私は有能な部長である」という自己概念にしても「私はだめな夫である」という自己概念にしても、その社会に特有な価値規範との関係においてそう規定されるのです。それゆえ私たちは、現代の日本人として生まれたというよりは、現代の日本人に加工されて生きているといってよいのかも知れません。

ところで、多かれ少なかれ加工された「自己」を生きている私たちは、その代償として「自己」からはみ出してしまう自分の一切を切り捨ててしまっているのでないか。私たちの中に隠されている本来の命の可能性(「真実の自己」)は、「自己」という、規格品のような小さなガラス・ケースには、もともと収まり切れないものであるはずです。そのように「自己」からはみ出してしまう一切のことを、精神分析学や深層心理学では「無意識」とか「潜在意識」という呼び名で呼んだのです

◆自己モデルの崩壊

人間性心理学でいう「自己」とは、自分についての意識やイメージや記憶、感情や価値意識が一つになってできる、「自分はこんな人間だ」という全体像でした。  「なまぐさな夫」、「やさしい父」、「有能な上司」、そして時には「慎重なドライバー」、「賢い消費者」等々、人間は、複雑な社会関係というネットのどこかにそのつどの役割や働きに応じた「自己」像を結ぶことによって(たとえば「私は、この会社の有能な部長だ」等々として)、その社会に承認された「人間」となるという側面があります。  

そして「自己」は、一種のフィルタの働きをします。自らの周囲に広がる世界(自らがかかわりを持つ一切の人間関係や社会関係や個々の現実)を「自己」を中心にして秩序づけ、構造化して把握するのです。たとえば「私は、この会社の有能な部長だ」という自己概念は、「我が社は、日本でもトップレベルの将来性ある会社だ」、「日本は、世界をリードする経済大国だ」等々という現実認識とからみあい、それに支えられながら、何らかの自己評価をともなった一つの「自己意識」を成立させていたかもしれません。

しかし「自己」は、もともと実体のない「心理的な構築物(モデル)」であり「社会関係の編み物」に過ぎないので、人間が成長し機が熟すれば自然にほころんで超えられていく可能性を秘めています。それがつまり、自己モデルの崩壊なのです。「私は一流会社の有能な部長だ」というような自己概念が意味を失い崩れ去るときには、その「自己」体制を内外から支えていた一連の現実認識も意味を失い、新たな視点からの再把握を強いられるでしょう。たとえば「一流会社の部長」という自己概念にがんじがらめになっていたときには全く見えかった現実が見えてくるはずです。

◆受容の中で自己は変わる(カウンセリング)  

さて、ロジャーズは、「自己」構造と経験との関係を次のように論じています。88 ふつう、私たちの生活のなかで起こるさまざまな経験は、「自己」との関係において次のどれかに当てはめて考えることができます   

(1)「自己」構造と一致するので、なんらかの「自己」との関係へ意識化され、知覚され、体制化される。  

(2)「自己」構造との関係が全然知覚されないので無視される。  

(3)「自己」構造と矛盾するので意識化を拒否されるか、歪曲されたうえで意識される。  

通常「自己」は、「自己」構造と一致しない経験を自らのなかに取り入れることに抵抗します。(3)で指摘されるように歪曲されて意識化されるか、無意識にとどまるかです。これは、フロイト派の人々が抑圧という言葉で説明した現象です。「自己」構造と一致しない経験は、「自己」にとって脅威として知覚されます。そんな知覚が多ければ多いほど「自己」は防衛的となり、自らの構造を破壊されまいとして、よりかたくなに「自己」体制を固めようとします。  

「自己概念」と矛盾する経験は、その「自己概念」の全体的なまとまりを脅かし、心理的な不安定をもたらすので、それを回避するために多少なりとも否定されたり、歪められたりするのです。体制化された「自己概念」が、実際に経験される知覚と一致しなくなればなるほど、緊張も強くなり、場合によっては心理的不適応に陥ることもあります。  

逆に「自己」は、攻撃またはそれと同様の脅威を受けない受容的な雰囲気の人間関係のなかでは、これまで拒否していた知覚を意識化し、「自己」を統合しなおし新たな体制化をおこなうことができます。防衛をする必要がないので、より現実に根差した「自己」を形成する方向へ安心して踏み出せるのです。そのような条件を意識的につくるのが、ロジャーズが創始した「来談者中心療法」と呼ばれるカウンセリングです。そのような関係のなかで来談者は、これまで否定されていた脅威的な経験をはっきりと意識化し、古い「自己」構造の崩壊を許容することができるようになります。そして、これまで無視されてきた経験は、生まれ変わった「自己」に統合されるのです。  

]そこに現れた新しい「自己」は、歪曲されない現実により深く根差し、同時に彼自身の現実の姿にはるかに近いのです。こんなふうに経験が「自己」に受容されればされるほど、「自己」は自らを防衛する必要がなくなり、心理的不適応や緊張から解放され、また「自己」意識はより少なくなるようです。防衛する必要がないときには、攻撃する必要もありません。  

攻撃したり否定的に見たりする必要がないときには、他者は、その人自身の感じ方や意味付けによって行動するあるがままのその人として、すなわち一人の独立した人間として経験されるようになります。人は自分自身にたいして受容的になればなるほど、他者にたいしても受容的になるのです。両者は、同じひとつの事実の内と外との現れです。 自分のあるがままの姿を素直に見、許容できるようになれば、その程度に応じて他者にたいしても、そのあるがままの姿を受け入れることができるようになります。また「自己」を取り巻く世界の一切に対しても、よりリアルな把握ができるようになるでしょう。現実のあるがままを受容できるということは、対象が自分自身であろうと他者であろうとその他の環境の一切であろうと変わりのない、ひとつの共通な構えの問題なのです。  

こうした人間の心理的・人格的な成長のプロセスは、「自己」がより受容性のある柔軟なものに変化し、生命に内在する本来の〈いのちの働き〉をより受容し、それと調和していく癒しの過程です。 人間性心理学が描く、以上のような成長の方向は、臨死体験者が自ら語る成長の方向と似ています。臨死体験者の変化の方向は、自己が限りなく柔軟になり、受容性を増していくという傾向、より開かれた方向へ成長していくという傾向でした。狭く固く防衛的になった「自己」という殻に閉じこもるのではなく、周囲のあらゆる人々や事物に心を開いて、あるがままに受け入れるようになる傾向でした。彼らの多くは、自分がかかわるすべての人々や生物、事物に心を開き、愛し、慈しみ、それらとの一体感を感じるようになる傾向があったのです。これは、ロジャーズのいう心理的・人格的な成長の方向とまったく同じではないでしょうか。

◆「自己」という壁が崩れて命が躍動する  

人間の心の成長は、肉体的な成長と同じように、ある意味で連続的なプロセスでしょう。それは、堅く閉ざされていた「自己」がより柔軟になり受容性を増していく過程です。何重にも塗り固められた「自己」という表皮を一枚また一枚と脱ぎ捨てていく作業にも似ています。あるいは、殻の内側でひな鳥が充分に成長していくプロセスにも似ています。  

一方、「自己」という殻は少しずつ変容するだけではなく、ときとして一瞬のうちに飛び散ったかのように意味をなさなくなる場合があるようです。多くの場合それは、「限界状況」(哲学者ヤスパースの言葉)に直面し、そこから目をそらすことなく、限界を限界として自覚し引き受けるときにおこるようです。  

限界状況を自らのものとして引き受けたとき、おそらく「自己」とそれにまとわりつく束縛が超えられることが多いようです。私たちが「自己」という観念の下にひっさげている様々な執着、プライドであろうと優越感であろうと劣等感であろうと権力欲であろうと地位欲であろうと名声欲であろうと、それら一切が、自らの限界状況を直視し引き受けた彼にとっては無意味になったのです。だから、古びて色あせた飾り物のような「自己」は無意味になるのです。そして「自己」が飛び散り、「自己」というフィルタを通して見る必要がなくなったとき、世界は輝いて見えるのです。「自己」という壁が切り崩されて、あるがままの命が躍動するとき、同時に外なる世界もあるがままの姿で光り輝くのです。

忘れてはならないのは、ここには「自己」が一瞬のうちに飛び散っても大丈夫なほどに、「自己」による防衛が必要ないほどに内的な成長があったということです。限界状況から逃避せずに、限界を限界として直視して引き受けるに充分なほどの成長があったのです。

◆トランスパーソナル・自己超越とは?  

以上に述べたことをトランスパーソナル心理学にふれながら振り返ってみましょう。  トランスパーソナル心理学は、一九六〇年代に生じてきた心理学の新しい潮流で、行動主義の心理学、精神分析的心理学、人間性心理学に続く第四の心理学として位置付けられます。  

トランスパーソナル心理学は、人間性のなかの超越性あるいは霊性の側面を強調するという点で、これまでの心理学と大きな違いをもっています。この心理学の大きな特徴は、東洋思想から強い影響を受けており、仏教的な人間観とも深いところで重なる面をもつことですが、一方で現代欧米の深層心理学・発達心理学などの基礎の上にその主張をなしています。ケン・ウィルバーは、それまで多くの心理学の学派が入り乱れていたところに、ある種の全体的な見取り図を提供しました。 その理論の中心に位置するのが意識のスペクトル理論です。意識のスペクトル理論の特徴は、さまざまな宗教や心理学の理論を部分真理を語るものとしてとらえ、それぞれの部分を折衷的に足し合わせて人間のこころの階層構造的な全体像を浮かび上がらせたということです。  

ここで意識のスペクトル論を詳述しませんが、この階層構造の基盤には、前個的状態、個的状態(自我のレベル)、超個的状態という三つの段階が想定されています。これまでの神秘主義では、「幼児の、自他を区別できない意識(前個的状態)」と、「成人の自我確立以後の宇宙と一体化した意識(超個的状態)」とが、同じ状態だと見なされがちでした。しかし、だとすれば宗教的な覚醒体験は一種の「幼児退行」になってしまいます。「自己」超越へのプロセスを歩んでいくには、その前にまず個がしっかりと確立されていなければなりません。「だれでもない者になる前に、まずだれかになるということが必要」なのです。前個的状態、個的状態、超個的状態という分類があるのは、そうした意味で個的領域が重要視されるからです。  

正しい捉え方は、プレパーソナル(前個的、自我以前)の段階から、パーソナル(個的、自我確立)へ、そしてトランス・パーソナル(超個的、自我の超越)の段階へという成長段階の把握でしょう。それに対し、まずトランス・パーソナルの状態があって、そこからパーソナルの段階へ、そして再びトランス・パーソナルの状態へのいう捉え方をしてしまえば、それは前個的状態と超個的状態とを安易に混同してしまうことになります。ウィルバーはこれを「前−超の虚偽」として厳しく批判します。

東洋の宗教で「無心になれ、無我になれ」とよくいいますが、我をもっていない人間がどうして無我になれるのか。赤ん坊には自我がないだけですが、覚者は自我に埋没しておらず、それを超えており、しかもそれを使うことができるのです。自我は、人間の発達の流れのうえで必要な一つの基点であり、通過点です。自我を一度健全な形で確立したうえで、そこからさらなる上位の発達段階が可能となるのでしょう。 ウィルバーは、この点を明らかにしたことによって、意識のスペクトル論を展開することが可能となったのです。すなわち、

@自我以前から自我の確立、ないし自己実現までに焦点を当ててきた西洋の発達心理学と、
A自我の超越を主張してきた東洋宗教の修行の段階論とが、

全体的な視野のもとで統合されることが可能となったのです。

さて、こうしたウィルバーの理論を踏まえてここで強調したいのは、「自己」からの解放、「自己」の超越とは、内的な成長の最終的な段階に位置する出来事だということです。内的な成長とは、「自己の地平の拡張と拡大であり、外に向かっては視野、内に向かっては深みにおける境界の成長」なのです。

そして、「自己」成長、その地平の拡大の果てに、 「自己」超越、すなわち悟りがあるのです。


☆以上は、メルマガ『精神世界の旅』で論じた内容を編集しなおしたものです。

追加 02・9・15


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