臨死体験・気功・瞑想

覚醒・至高体験の事例集  あえて分類せずの場合

 

地橋秀雄氏

 以下は、グリーンヒル瞑想研究所長でヴィパッサナー瞑想の指導者・地橋秀雄氏の文章である。もとは『瞑想ネットサーフィン』という小冊子に掲載されたものである。
 私は、地橋氏にその中の 『56億7千万光年のサマ−ディ…』という文章を本サイトの事例集に掲載してよいかとお願いした。地橋氏は、快く承諾してくださり、一般公開用に手直しされた原稿を送ってくださった。以下がそれである。 
  ≪サマーディとは?≫の文章全体は、サマーディをめぐって、ヴィパッサナー瞑想とサマタ瞑想の違いを考察するものであり、これ自体たいへん貴重な資料として参考になる。
 私が、とりわけ興味深く思ったのは、氏がかつてサマタ瞑想で得た深いサマーディの体験を、その後に学んだヴィパッサナー瞑想の立場から相対化して批判的にとらえている点だ。 3『56億7千万光年のサマ−ディ…』の部分にそのサマーディ体験の描写が見られる。 かつての至高体験をこのように相対化する視点を持つということ自体に驚嘆を感じる。
 と同時に、覚醒体験・至高体験とは何かを問うときに、氏が提出されたような視点をも踏まえなければ、この問いは、非常に片手落ちになると、思われた。 こうした批判的な視点をも忘れずに、体験の意味を考察する必要があるだろう。

 ちなみにグリーンヒル瞑想研究のサイトは、以下である。
                      ブッダのヴィパッサナー瞑想


 瞑想エッセー特集:≪サマーディとは?≫

1 『モンキーマインド』―…お猿の心で灰かぐら…( 特集@ )

2 『たこ壺にフタをしないで…』 ( 特集A )

3  『56億7千万光年のサマ−ディ…』 ( 特集B )


1 『モンキーマインド』―…お猿の心で灰かぐら…( 特集@ )

 サマーディとは何か?

 サマーディを構成しているものは?

 どうしたらサマーディを高めることができるだろうか?

 サマ−ディ(Samadhi:三昧:禅定)の確立という瞑想修行の最も重要な問題を、特集のシリーズで考えてみたい。

 「…集中が弱いのでどうしても雑念が鎮まらないんです。なにかサマタの集中瞑想をやるべきでしょうか?」

 ヴィパッサナーの瞑想者なら一度は浮かぶ質問である。

 「集中力→禅定力」を高めることは『戒→定→慧→解脱』の『定』の修行の基軸であり、ヴィパッサナ−瞑想が高いレベルで成功するか否か、本当の仏教の『智慧』が ヒラめくか否かも、この『禅定力』の達成にかかっていると言えるだろう。

 「集中」とは一つの対象に心を据えつけていく能力、『尋』(Vittaka :ヴィタッカ:狙い定める)を意味する。

 『尋』の力が弱ければ、私たちの心は、次々と六門(眼耳鼻舌身意)に飛び込んでくる情報に飛びつき、散乱状態になる。

 猿が飛び回ってはキョロキョロするのに喩えられ「モンキ−・マインド」とか「心根は猿猴の如し」などともいう。

 一つの対象に心を据えつける『尋』の力は、他の対象を除外する能力でもある。

他の対象を必死で除外しながら、心を一点に集中させようとする努力が『尋』を確立するといってもよい。

 その結果、灰かぐらのような心の散乱状態が静まっていくのは当然であり、なぜ瞑想修行が集中力や記憶力を飛躍的に向上させ、能力開発になるかの根拠の一つがここにある。

 では、どうしたら「集中力→禅定力」を高めることができるだろうか。

 まず、瞑想修行の大前提として、五戒をしっかり守ることは必ずクリア−しなければならない。

 「そんなことより、瞑想中の集中をどうやって高めるかを知りたいのです…」

 と言いたい方も多いだろうが、これがサマーディ確立の第一番目の秘訣なのである。

 酒を飲んでは酔っ払い、悪口と自慢話ばかりしている者、キセルやネコババは当たり前、嘘をついては不倫を重ねているような者に、禅定が生じる見込みはまったくない。

 五戒が守れないことと心の混乱状態は、完全にイコ−ルなのである。

 心の散乱を鎮めていく作業が、そのままサマーディを確立することになる。

 アビダルマでは、煩悩が生まれるときに必ず共通のセットで働く心の因子を4つ指摘している。

 『共一切不善心所』とか『全悪心共通心所』と呼ばれるもので、その一つが『掉挙(じょうこ:Uddhacca:ウダッチャ)』、すなわち心の散乱状態なのである。

 程度の差はあれ、煩悩が出るときには必ず「想いの乱れ、昂奮、浮動、落ち着きのなさetc.」が含まれている。

 例えば、夜、テレビのチャンネルを変えた瞬間、いきなり男女の喘ぐ声と愛欲シーンが眼に飛びこんできたとする。

 「ボクはテレビを見ながらでも、カタトキもサティの修行を忘れないんです」

 なんていうのはウソに決まっているから、当然サティが入らない。入らなければ画像が眼に入った瞬間、パッと灰かぐらが立つように、極めて短い一瞬の間にさまざまなものが舞い上がり、妄想され、欲望が生まれて、胸がドキドキするかもしれない。

 『掉挙』の一瞬である。

 心に混乱があれば、真実の姿をあるがままに見ることはできない。

 不正確に対象を認知するのだから,必然的に心は善行為や善念から逸脱し、煩悩が暴れ出すのである。

 『掉挙』の灰かぐら状態が強まれば、行動や言葉のレベルにまで表出してしまう。

 言動の威儀が乱れている者に、より微妙な想念レベルでの乱れを統一することはできるわけがない。

 悪をすれば、意識するしないにかかわらず、必ず後悔が伴ない、隠蔽しようと戦々恐々になるだろう。

 五戒を守ろうとする努力、悪を避けようとする意志こそ、諸悪の共通因子である『掉挙』を鎮め、対象の本質をあるがままに洞察する第一歩である。

 このときに事実上の瞑想がスタートしているといえる。

 <諸悪莫作>は仏教の眼目である。

 悪を避ける努力とは、つまり心に不善心所が現れるのを阻止する努力である。貪り、怒り、高慢、嫉妬、物惜しみ、後悔…など14の不善心所が一つでも浮上したならばただちにサティ(Sati;気づき)を入れて見送ってしまわなければならない。

 放置すれば、その瞬間に心は汚れ、禅定は不可能になるからである。

 五戒完守こそ、サマーディ(集中力→禅定力)の完成に到る第一の関門である。

 サマタ瞑想とサマ−ディについてさらに詳しく検討していきたい。   


2. 『 たこ壺にフタをしないで… 』 ( 特集A )

 さて、サマーディの一番のポイントは、『尋』(Vittaka:ヴィタッカ)である。 

 No.1で触れたように、他の対象を振り払い、除外しながら、瞑想対象の一点に心を据えつけていく能力である。いわゆる集中力の根拠である。

 懸命に修行を続けるうちに、やがて、すべての条件が整う幸運にめぐまれると、瞑想対象への一点集中が安定し、揺るぎないものになってくるだろう。  

 すると、瞑想者とその対象とが一つに融けあい、合一したかのように、主体と客体とが未分化の状態になってしまう瞬間が訪れる。

 観想し、瞑想している自分の意識が突然、脱落し、瞑想対象だけが意識野に独存し、照り映えているかのように…。

 自分からコントロールする感じは全くなく、いきなり<それ>が襲来したかのような印象を受けるのが普通である。

 これが「三昧」や「禅定」ともいわれる<サマーディ>の意識状態である。

 対象に没入し成りきってしまうと、心が止まったかのように感じるが、実は、瞬滅する意識がつぎつぎと同一の対象を取り続けているにすぎない。

 形のある対象なら『有想三昧』、無念無想の無が対象なら『無想三昧』とヨーガ・ス−トラなどは分類する。

 テーラワーダでは、有形の瞑想対象なら「色界禅」、無形の瞑想対象にサマーディが成立すれば、「無色界禅」と呼ばれる。

 次の心も、その次の心も等しく同一の対象を持つが故に、サマーディを昔は『等持』とも訳した。

 ちなみにヴィパッサナ−瞑想の『瞬間定』とは、このサマ−ディの力をいわば分散し、生滅変化する事象と一瞬の合一を矢つぎ早にくりかえしている状態といえるだろう。

 心が形成した瞑想対象との合一を持続するか…。

 それとも、刹那々々に生起し、存在し、滅していく、あるがままの事象を対象にするか…。

 この違いがサマタとヴィパッサナ−をわける分水嶺でもある。

 ここはヴィパッサナ−瞑想にとっても重要なポイントなので、もう少し徹底して考えてみよう。

 サマ−ディという極度に高まった集中力がなければ、瞬滅する万物の真実相が眼のあたりに見えてくることはない。

 サマ−ディの定力は絶対に不可欠である。

 しかしそのサマ−ディにも落とし穴がある。

 ヴィパッサナ−瞑想のコツは、現実の知覚や感覚をよりいっそう研ぎ澄ましながらサマーディをたもつことだが、サマタ瞑想のゴールは「静かさと没入」である。

 その性格上サマタの三昧にハマると、現実の知覚世界にフタをして、たこ壺や繭玉に入ったような閉鎖した内的世界に没入してしまう危険性があるのだ。     

 この世の現場である事実の世界からシャットアウトされれば、必ずイメージや思考が作り出す内的世界が現れ、自分の心が産み出した偽せものの悟り体験になってしまうだろう。

 悟りに必要なサマ−ディの構成因子を、正確に理解しておかなければならない所以である。

 原始仏教では、『尋・伺・喜・楽・一境性』の5つの心の要素がそろうと、サマ−ディの第一段階である初禅が確立したと定義する。

 『尋』が「狙い定めた対象に注意を向ける最初の粗大な働き」だとすると、『伺』(Vicara:ヴィチャーラ)は「その安定した継続的な働き」である。

 『尋』が確立されると他の対象を除外しようとするエネルギーは必要なくなり、その結果、フォーカスされた対象がよく伺察されるのである。

 さらに、それまで雑念や眠気と戦うだけで精一杯だったのに、『尋』『伺』が確立されると探し求めていたものが手に入ったかのような喜びが生まれ、サティの対象にも新鮮な興味が湧いてくる。

 修行実感としては多様多彩に経験されるが、総じてこれを『喜』(Piti:ピィティ)という。

 『楽』(Sukha:スカー)は抑制されたエクスタシーであり、静かな喜びである。

 欲しい物が手に入った瞬間の激しい喜びを『喜』とするなら、一段落してその物の味わいをゆっくり吟味して楽しむような幸せが『楽』に譬えられる。

 注意が一つの対象の上に完全に止どまる一瞬の静止状態…。

 もしくは、対象に突き刺さり没入するような合一感が、『一境性』(Ekaggata:エカガター)である。

 サマ−ディが成立する瞬間ともいえる。

 以上のサマ−ディの構成因子を踏まえた上で、さらに具体例に則して考察を続けよう。

    


3  『 56億7千万光年のサマ−ディ… 』 ( 特集B )  

 サティ(気づき)が安定し、揺るぎなく確立することが、ヴィパッサナ−修行者の第一の目標である。

 しかし、たとえサティが完全なものになっても、正しいサマ−ディが確立されない限り、解脱の智慧には到達しないだろう。

 サマーディは、サマタ瞑想系のものとヴィパッサナー瞑想のものとに大別されるが、サマ−ディそのものの構成因子は、どちらの場合にも共通である。

 今回はサマタ瞑想の具体例を呈示しながら、サマ−ディがどのように達成されていくのかを考えてみよう。

 サマ−ディがあるレベルに達してから、ヴィパッサナ−に移行すると修行内容が格段によくなるのは誰もが経験する。

 サマ−ディの特徴を控えめに表現すると、散乱や逸脱が全くない意識状態だともいえる。

 つまり歩行感覚や、坐禅瞑想の腹部感覚の実感に、揺るぎなく注意が集中し、逸れなくなれば、対象がよく観えてくるのは当然であり、気づきから洞察へと、ヴィパッサナ−はひとりでに成長する。

 問題は、サマーディが達成されたときの素晴らしい快感や喜悦を捨て、現実世界のドゥッカ(苦)の本質ばかりが観えてくるようなヴィパッサナ−瞑想を続けるのがイヤになることかもしれない。

 私がヴィパッサナ−瞑想を本格的に始めたのは、今から12年前だが、それまでの11年間は、サマタ・サマ−ディの瞑想に専念していた。

 死にかかるほど激しい断食をなんどもくり返したり、滝行や真冬の水行などさまざまな苦行を10余年に渡って続けたのも、ただ一つ、瞑想のため、完全なサマ−ディに入定するためであった。

 当時のサマタ瞑想の心象風景を、言語化して表現したものが残っているので、以下にそれを紹介する。

 これは、足指に発症した水虫を、瞑想の力で治そうと試みたときのものである。

 毎日「強力タムシチンキ」という薬液を患部に塗り、ウチワでパタパタあおぐのだが、10日たっても一向になおらない。

 そこで、はたして瞑想で治療が可能なのか、まず、サマ−ディに没入してから、水虫の完治したイメ−ジを観想し、実感し、主客未分の合一感のなかで、全快イメージと融け合い、成りきって、キリストが奇跡の癒しを行ったように、一気に病気治しをやってのけようとしたのだ。

**☆**

【  ……まず、坐禅を組んだポーズで半眼に目を閉じ、長く深い腹式呼吸をはじめるが、それを意識するのも最初のうちだけで、やがて息をしているのかしていないのかすらも気にとまらなくなっていく。

 空間を静かにながめ、すべてを空間にゆだねたリラックス状態をかぎりなく自分に許していくと、いつのまにか、自分をつつむ空気が、海のように、ゆるやかなたゆたいをはじめ、私は、空間の海に漂っており、その海が、全宇宙であることに気づきはじめる。

 頭骨の内部、自我の内側にしがみついていた私の意識は、いつのまにか空間に放射され、ひろがり、宇宙の果てから果てまで満々とみなぎりみちわたる全宇宙意識(ブラフマン)と連続し、つながり、一体化しようとしている。

 宇宙を、銀河を、生命を発生させた力は、私の骨をつくり、血液をつくり、脳細胞をつくった力と同じチカラであり、それはいま、この瞬間にも、目の前の空間にみなぎり、私の身体を貫通し、天地一切のものを貫いて全宇宙に遍満している。

 その全宇宙意識と私の意識が、すでにはるか昔から連続し、つながっていたという事実に、私は、目覚めようとしている…………。

 そのような、トロリとした半覚醒の時間が流れているうちに、なぜだろうか、地球の奥深い中心部で、ドロドロに溶解し、煮えたぎっているマグマの海が、焼けただれた闇のように、意識に浮かび上ってきた。

 しかし、それが自分の意識になのか、空間の意識になのか、もはやわからなくなっている。

 さるほどに、ドロドロのマグマの核から、金色の一本の直線が、地軸に沿って突きぬけ、地表に達し、床をぬけ、カーペットをぬけ、半跏に組んだ私の尾柢骨から、脊髄をとおり、頭頂部を貫通して、無限の宇宙のかなたにぬけていく……。

 その、私をつらぬく金色の直線にそって、地球の全エネルギ−が、私の中に限りなく収束され、私は、遠くはるかな私の生の起源である地球と、とけあい、合体し、一つのものになってしまった……!

 私の中には、宇宙の全歴史が刻まれ、封印されている。

 私が、まだ胎児だったころ、私は、あたたかい母の羊水のなかで、30数億年におよぶ進化の夢をみながら、私の祖先の姿をすべて追認し、生きてきた。

 北京原人も、ヒツジも、トリも、ワニも、サカナも、ナマコも、ミドリムシも…、すべて、私であった。

 今、このときの記憶が、ゆくりなくも、鮮やかによみがえる。

 私は、アメーバ。

 私は、原始の海。

 遠い、なつかしい、帰郷の感覚のなかで、私は、さらに深く沈んでいく……。

  私が地球と合体し、合一しうるのは、私のなかに地球の痕跡が存在し、地球と私は同じものからできているからだ。

 私のなかには、塩がある。

 マグネシュウムがある。 

 リンがある。

 強い引き潮で海流が流れていくように、私のなかでも、真っ赤な海が循環し、ドクドクと流れていく。

 冬の朝、田畑のしめった土の表面が、朝陽の光のなかで、白い湯気をたてるように、私の一本の髪の毛の中から、土の香りがたちこめる。

 私の骨のなかで火山が爆発し、溶岩が流れ出す。

 私は地球だ…………

 さるほどに、

 透明な意識の波が、

 どこかで微かに、ゆらいだように思われた。

 五十六億七千万光年のかなたの宇宙空間に、非常に微細な、チリのような星間物質が浮遊している。

 全宇宙に放射された私の意識は、そのチリの一粒の中にまで達し、<チリの中の私の意識>が、ピクピクと波動を伝えながら、ほの暖かい微光をなげかけていた。

 その光は、急速に明るさをまし、もはや上なのか下なのかわからない虚空の中、空一面にヒカリカガヤク無数の銀河が、星の海となって、キラメキながら、降りそそぎ、落ちてくるのが、感じられる。

 それは、にわかに強い現実感をおびはじめ、私の体を貫通し、天球をつらぬく直線にそい、燦然と光る銀河の海が、私のなかに、ふりそそぎ、流れこみ、私は、マバユイばかりに光り輝きながら、無限の宇宙と合一し、同体となっていた。

 いや、私は、生れる以前から、すでに銀河であり、光であり、宇宙そのものであったことを、ついに憶い出したのだ!

 失われていた記憶の究極…………。

 この、無限の宇宙の空間と光こそ、ブラフマンであり、久遠実成の仏であり、私と仏とは、もはや帯のように連続して、ーつのものになり、自他の分別も、「私」という意識もなく、ただわき上る恍惚とともに、光り輝いている……。

 なにもかもが、ただ光であり、

 光であることの意識も、

 時が移りゆく意識もない、ただの、マバユサ…………!         】

**☆**

 まだヴィパッサナ−瞑想の存在すら知らなかった23年前には、自分の心が作り出すこんな有想三昧の法悦に浸っていたのだ。

 苦笑を禁じ得ない。

 さまざまなイメージが氾濫しているにもかかわらず、すべて、地球や宇宙との合一感という一点に絞られているのは、『尋』の力が働いているからだ。

 同心円が輪を拡げるように、中心のテーマから、さらに詳細なイメ−ジや想念がのび拡がっていくのは、『伺』や、ヨーガでいう『静慮』の働きである。

 全編にわたって、『喜』『楽』が溢れているのはいうまでもない。

 本人が深々と体験しているサマ−ディの実感は、とても文字情報では表現しきれないとも痛感される。

 肝心の水虫はというと、こうして、自分のなかに収束された宇宙エネルギ−が、マバユイ光の奔流となって、足指の突端までブチ抜き、『私』は、ただ、水虫の滅却=マバユイ光感覚に、没入していた。

 夜9時頃だった。

 翌朝、患部を眺めて、おお、と目を瞠った。

 なんと、水虫は、完全に、アトカタもなく消え失せて、なにひとつ、痕跡すら残ってはいなかった。

 完治していたのである。

 サマ−ディという善心所の組み合わせには、色法(肉体現象)にこのような奇跡的な変化をも生じさせる力があるのだ。  


01・9・27 追加

 

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