覚醒・至高体験の事例集  あえて分類せずの場合

バーナデット・ロバーツ

バーナデット・ロバーツ(Bernadette Roberts、1931〜)は、カリフォルニア在住の主婦で、カトリックの家庭で育ち、幼いころからカトリックで行なわれる瞑想ないし観想に親しんで来た人であるという。以下に述べられるような「自己喪失の体験」が始まったのは四十代の半ばだったようだ。最終的に彼女は「純粋主観性」に目覚めるのだが、それはこの事例集で私たちが「覚醒」と呼んできたものに匹敵するだろう。しかもきわめて徹底したものと感じられる。 彼女の精神的な「旅」の特徴は、通常の意識から「純粋主観性」への移行の途上において凍りつくような虚無を通過しなければならなかったことである。その「旅」は、第一の過程、第二の過程、最終段階と分けられる。彼女自身の言葉を中心にその「旅」の過程をたどってみよう。(バーナデット・ロバーツ『自己喪失の体験 』紀伊国屋書店、1989年。以下、引用の順序は必ずしもこの本に書かれた順ではない)


『‥‥広く開けた谷間の風景を眺めて丘を下ってゆくとき、ふと内部に注意をむけたところ愕然として思わずそこに立ち止まりました。私の内部にあるはずの中心がなく、そこは空っぽなのです。それを知った瞬間、静かな喜びがあふれて来ました。無くなったものが何かやっと分かったのです。それは私の自己でした。』

『‥‥とにかく自己の客体化の機能は永遠に止まってしまったのです。後から考えると、これが通常の意識から純粋主観性への移行の第一歩だったのです。』

これが彼女の「自己喪失の体験」の始まりである。自己の客体化が止まり、自己意識が無くなったというのである。さらにしばらく経ったあと彼女は、次のような「素晴らしい状況」を味わっている。

『‥‥ビッグ・サーの修道院で静修をしました。その二日目の午後おそく海を見下す丘に立っていたとき、かもめが一羽風に乗って滑るように飛んで来ました。私はそれを生れて初めて見るように眺めました。まるで催眠術にかかったようで、かもめと私の区別がなく、私が飛んでいるのを見ているようでした。しかし区別がないというだけではない何か、ほんとうに美しく未知の何かがそこにありました。そののち私は修道院のうしろの松林の丘に目を転じましたが、やはり自他の区分がなく、一つ一つのものと風景全体を通って「何か」が流れていました。すべてのものが合わされた「一なること」を見るのは、まるで特殊な立体鏡をのぞいているようでした。そこで私は、ああ、神はどこにもいるというのはこのことなのだと思ったのです。』

『この移行の第一の過程では、主体のない意識の状態にあり、客体と言えるものは、あらゆる存在が合一した「一なること」だけなのです。これは、自己から解放されて生の大きな流れに入るという何とも驚くべき素晴らしい状況でした。この世界のすべての存在、すべての生命が「一なること」に動的に結ばれ、永遠で聖なるものと見えたのです。』

彼女は、この状態にいつまでも留まれたらよいと思ったようだが、これはまだ「純粋主体性」ではなく、そこに達するためには、もう一つの恐ろしい過程を経なければならなかった。自己を失ったあと「それ」に至るまでの虚無の通路は、絶望も狂気も超えた通路だったという。狂ったり絶望したりする自己はすでにないからである。彼女はそれを次のように語る。  

『第二の過程は四カ月ばかりつづきましたが、ひどくつらい状態で、天国でどんなむくいがあっても、自分から入りたいとは思いません。‥‥この第二の過程は主体も客体もない意識の状態で、知るものと知られるものとの関係は、絶対的な虚無に出会うという形でしか残っていないのです。通常の認識の道は閉ざされ、知られるものは意味をまったく剥奪された虚無的な外界だけなのです。』

『もし自己があれば、その場で狂ってしまうか、何とかして先へ行くのをやめて逃げ出そうとすることでしょう。普通の意味での絶望とか憂慮とかいうものは、この不可知の重圧にくらべれば、自己防衛の玩具のようなものに過ぎません。この重圧の方は防ぐ手立てもなく、第一防ごうとする者さえいないのです。自己があるということは、どんな状況下においても何より大きな補償となるのもので、自己とは不可知の状態に対する人間の補償にほかならないというのが、今の私の確信です。』

そんな虚無の通路を通って至りつくのは、次のような最終段階の心境であった。

『この旅について特に強調したいことは、最後に存在全般にわたる虚無に出会わなければならなかったことです。これは私にとって神なしで生きることを意味していました。こうして希望と信頼を奪われ、窮極の実在なしに生きることに十分に慣れ、ついにこの状況を受け入れるほかなくなった時にはじめて、突然「それ」が真理でありすべてであることが分かったのです。意識しうるものも無意識のものも含めて、ありとあらゆる経験と観念が一つ残らず亡び去った時にこそ「真理」が顕現するのです。』  

 『知へのすべての扉が堅く閉ざされていたこの状況に思いがけない出口がありました。主体も客体もないところに何が残っているかは知るすべもなかったのですが、それが向こうから姿を現して来たのです。この示現が純粋主体性への移行の最終段階でした。  

この示現はほかのものと見まちがう恐れがないように、意識の対象が一掃され、雑草がすべて取り除かれた後に来たのでしょう。誤謬や疑惑の影を一つも落とさずに闇に差して来る光のようでした。今までこれほどはっきりとものを見たことはありません。  
私の場合この示現は、ごく単純な微笑として現れたのです。それは「微笑そのもの、微笑するもの、微笑が向けられるもの、この三つがすべて同一である微笑」でした。この三つのものが一つになっているのを見たと言っても、そこに内省が働いているのではなく、外部の何かに注目したわけでもなく、目がその目自身を見るかのように、その一つになったものを見たのです。ここで起こったことに立ち会う何者もなく、そこにはそれ自身を見る目だけがあって、その見ることと見たものとを享受しているのです。したがってこの示現は誰に示現されたものでもありません。』

『自己がなくなれば事物を差別相において見る相対的な心も無くなって、「それ」だけが残るのです。それは時に非常に強烈にもなりますが、何か異常なものではなく、自然で平明なので、どこを見てもあるという意味でむしろ通常なのものなのです。』  

彼女の体験は、凍りつくような虚無を通過したという点において、この事例集のほかの覚醒体験の記録とは確かに異質な面もある。が、その歩みの誠実な記録を読むと、体験のおどろくべき徹底性を感じる。根源的なところにたどり着いた人という印象である。 最後にもうひとつだけ、彼女の言葉を紹介する。  

『旅が終わった後では、現在の瞬間に生きることしかできません。心はその瞬間に集中していて、過去や未来を顧慮することがないのです。そのために心はいつも一点の曇りなく晴れていて、既製の観念が何一つ入る余地もなく、観念が一瞬間から別の瞬間に持ち運ばれることも、他の観念と照合されることもないのです。要するに、考えるべきことはいつも目の前にあり、何を考えるか何を為すかに迷って停滞することがないのです。』  

彼女のこれらの言葉には、「自己」を超えるということとB認識との関係が端的に示されている。「自己がなくなれば事物を差別相において見る相対的な心も無くなる」とは、まさしくすべてがB認識になるということであろう。もちろんそれは、クリシュナムルティのいう「無選択的意識」とも深く響きあう。

では、彼女が通過しなければならなかった「凍りつくような虚無」とは何だったのだろうか。それは、彼女にのみ起こった特殊な体験なのだろうか。それとも、徹底した覚醒に至るためにはすべての人が通らなければならない普遍的な体験なのだろうか。筆者にはまだこの問いに答えるだけの準備はない。一つには、これを理解するにたる自らの体験がまったくないからである。二つには、これを普遍的な体験であることを示唆するような他の事例を知らず、かといってそれが特殊な体験であると主張する充分な根拠もないもないからである。また、彼女の「凍りつくような虚無」の体験を上手に説明する言葉や理論も持ち合わせていない。

しかし少なくとも言えることは、第一の過程、第二の過程、最終段階と分けられる彼女の旅は、徹底的な覚醒体験とは何かを理解するうえでのひとつのヒントにはなるだろうということである。彼女にとっては「凍りつくような虚無」を通過することが、徹底した純粋主観性に至るためにおそらく必要だったのであろう。

彼女のいう第一の過程は、この事例集でとりあげた至高体験のいくつかの特徴と合致している。すなわち、「かもめと私の区別がなく、私が飛んでいるのを見ているようでした」、「これは、自己から解放されて生の大きな流れに入るという何とも驚くべき素晴らしい状況でした。この世界のすべての存在、すべての生命が『一なること』に動的に結ばれ、永遠で聖なるものと見えたのです」などの記述は、至高体験において「認識の対象にすっかり没入してしまう」、「認知が自己超越的、自己没却的で、観察者と観察されるものとが一体となり、無我の境地に立つことができる」、「対象に熱中し、没入するので、主観的に時空を超越している」等々の特徴と重なりあっている。さらにクリシュナムルティの「すべてが――無生物も生物も、山も 虫も、生きとし生けるものすべてが――私のなかにあった」という自己超越体験にも重なるであろう。

しかし、彼女にとってこれはまだ「純粋主体性」ではなく、そこに達するためには、「凍りつくような虚無」を通過しなければならなかったのである。 これは何を意味しているのだろうか。ほんとうの意味での「覚醒」は、彼女が体験し、記述したような想像を絶する虚無の道を通過することによってはじめて可能だということを意味するのだろうか。それとも、これはバーナデット・ロバーツというひとりの女性の特殊なケースと理解すべきなのだろうか。筆者は残念ながら、この問いの前で沈黙せざるを得ない。

 


 05/5/29追加

 


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