臨死体験・気功・瞑想

覚醒・至高体験の事例集 あえて分類せずの場合

様々な至高体験(2)

 ここに収録するのは、ジョン・ヒックの『魂の探求―霊性に導かれる生き方 』(徳間書店、2000年)の第12章「宗教経験」の中に取り上げられた「宗教体験」のいくつかである。それぞれ、独立のページとする長さではなかったので、ここに「様々な至高体験(2)」として収録したい。
( )内は、管理者による補い。
  「紫色の引用部分」がそれぞれの体験内容を示す。


 オックスフォードの研究所(宗教経験研究所)は、アメリカの全米世論研究所と同じく、アンケートによって、あらゆる職業人のおよそ三分の一が、人生に少なくとも一度 は宗教的、超越的経験」と思えるものに遭遇していることを明らかにしている。記憶されたその瞬間が、 人生に計り知れない意味を与える場合がほとんどである。

 神の臨在感、正確には神の臨在の中にいる感覚から始めることにしよう。ここでは、必ずしも特定の出来事や人物、状況ではなく、生命全体、まわりの宇宙が、意識を超える解釈の引き金を引く。それが、生涯の多くにわたり、意識の背景をつくりだすこともある。‥‥私自身を含め、多くの人が、ほんの一瞬であっても、言い知れぬ喜びと、未知への恐怖心が失 われる、このような聖なる超越の臨在感を経験するものである。

 (宗教経験研究所の)ハーディーはこう結論付けている。 「こうした経験をする人々は、しない人々より、ずっと心理学的に健全な状態にあるように思える。宗教経験を報告する人々は、全体として、バランスの取れた精神状態にあり、より幸せで、社会的責任感も人一倍ある。」

 薬物とは無縁の宗教的、神秘的経験における知覚の変性は、穏やかな傾向があり、環境の意味付けに影響して、今やそれを宗教的な用語で経験するようになる。一八世紀の神学者ジョナサン・エドワーズはこの変性を次のように説明する。

 「外に現れている何もかもが変化する。あたかも、すべてに神の栄光が現れているかのように、静謐と、 甘美なる味わいがそこにある。神の卓越性、神の知恵、神の純潔と愛が、すべてのものに現れているかのようである。太陽、月、星、雲、紺碧の空、草、花、木々、水、自然界のすべてに」

 クェーカー教の開祖、ジョージ・フォックスはこのように記録している。

  「あらゆるものが一新されている。創造のすべてが以前とはまったく別な香りを私に与えている。それを言葉に表すことはできない」

 こうした知覚の変性、より大きな実在への没入は、汎神論的言葉遣いによって描かれることもある。こ んな報告もある。

 「その現象は扉の外で変わらず起こる。"生かされている歓び〃の気持ちがそれを先触れする。どれほどこの感覚が続くかは分からないが、しばらくして、感覚が目覚めるのを知る。何もかもが鮮烈になり、視覚と聴覚と嗅覚は、まったく別の意味をもってくる。すべてに善を感じるようになる。それから、明りが消されるようにすべてが静まり返り、自分が本当にその光景の一部であったかのような感覚をもつ」

 「道を歩きながら、夕日を拝もうと西を振り返る。日没の瞬間、紅の空を背に、松の木立が黒いシルエッ トのように浮かび上がるのを見た。そのときに、あたかも"私"という名のスイッチが切られたかのような思いがした。私の意識は、以前は観察される対象だった"存在"を包むまでに広がった。"私"は日没 であり、"それ"を経験する"私"は存在しなかった。観察するものとされるものはそこにはない。同時 に、永遠が"生まれ"た。過去も、現在も、未来もなく、永遠の今だけがそこにあった。それから、いつも通りの意識に返り、野を歩いている自分に気づいた。だが、記憶は鮮やかだった」

 フォレスト・レイドは、自叙伝の中で、このように書いている。

  「・・…自然の中に入り、生い茂る草を感じる。澄み切った空を雲とともに流れ、大地の鼓動に耳を傾ける。 その色と臭いが強く迫ったときに、私は自分が別の存在であるという感覚を失った」

 各種の自己超越の体験報告は、生きとし生けるすべてのものが相互に依存し合っていることへの目覚め と、自我の拘束からの解放に似たものを描いているように思われる。それは禅で教えている〃悟り"の境 地に近いものだ。悟りの一面は、自我の歪みなしに世界を経験するときに湧き起こる、内的平和と歓喜の境地である。誰よりも禅を西洋に紹介することに努めた鈴木大拙は、このように言っている。

  「禅は、毎日、毎時間修するにつれて、人の心を大いなる神秘へと開く。人をして、エデンの園を歩くよ うに世界を歩かせる。その理由は説明できない。また説明するを要しない。だが、日が昇るときには全世界が歓び踊り、誰の心も至福に満ちる」

(中略)

 オックスフォード研究所が調べた報告には、さまざまな種類の経験が網羅されているが、そのほとんど は、「驚くべき歓び」の経験である。よく引用されるのが、レスリー・ウェザーヘッドの学生時代の鮮烈な経験である。それは「ミルク缶の並ぶバウホール駅を外に見る、淡いガス灯の光に照らされた列車の客室内」での出来事だった。

  「一瞬、客室全体に光の張る感覚を覚えた。他に言い表すすべがない。愛と勝利と輝かしい目的の中にいるかのような、大きな感覚に包まれた。これほど自分が謙虚になったのを感じたことはない。これほど開 かれた自分を感じたことはない。何とも不思議で圧倒する感覚に包まれ、悦惚となった。人類にとってすべてが善いとの感覚を覚えた。どう言葉に表してよいか分からない。"善い"という言葉はあまりに貧弱である。すべての人が、ついには信じ難い歓びに入る輝かしい存在であった。美、音楽、歓び、計り知れ ぬ愛、言い難き栄光、このすべてを彼らは受け継ぐのである。不思議な余韻だけを残して、一瞬のうちに 栄光は過ぎ去った。私は、その客室内にいるすべての人を愛した。今は愚かしく思えるが、あの瞬間に、 私は客室内にいる誰のためにも命を投げ出せると思ったのである」

 ウェザーヘッドは、この体験によって、メソジストの牧師になる決意をした。 この特殊な経験は、神学生の有神論的信仰によって組み立てられたが、他にも、まったく異なる形の、 同じほど鮮烈な宗教経験がある。一九世紀のインドの優れた神秘家、ラーマクリシュナは、インドの寺院 でこんな一瞬を経験している。

  「家、戸口、寺院、何もかもが一瞬のうちに消え去ったかに思えた。なにものもそこに存在しないかのようである。私が見たものは、岸のない無限の光の海、意識の大海であった。どの方向を見ても、どこまで見渡しても、輝かしい波が打ち寄せてくる光景しか映らなかった」

  1880年代にオンタリオの精神病院の院長を務めた、精神神経病理学の権威、リシャール・ビュシュも、劇的な経験をしている。三六歳のとき、ワーズワース、ホイットマンその他、ロマン派の詩人の作品 を友人たちと読み合い、帰宅する車中の出来事だった。彼は自分を第三者として述べている。

  「突然、何の予告もなく、彼は自分が炎のような色の雲に包まれているのを見た。市内で火事が起こったのだろうかと思ったが、次の瞬間に、光が自分白身の中に存在することを知った。それから、高揚感と、 大いなる歓びが臨み、言語に尽くし難い知的光に浴した。以後、彼の人生を末永く照らすことになるブラ フマンの閃光が、一瞬のうちに脳を貫き、ブラフマンの至福のひとしずくが胸の中に落ちて、天国の余韻 を長く残した。それまで信じられなかったものが見え、理解されるようになった。宇宙は死んだ存在では なく生ける実在であること、霊魂は不滅であり、宇宙のすべてが森羅万象の善のためにつくられているこ と、世界の根源はわれわれが愛と呼ぶものが世界の根本原理であり、終局的には万人の幸せが確定してい ることを」

 批判的にみれば、彼の経験の描写には、当時広く行き渡っていたウォルト・ホイットマンの読者に共通 する、ヒンドゥー的な用語が使われていることに気づく。だが、まったくヒンドゥー教の用語を使用せず に、不二一元的瞑想に似た経験をしているのが、アルフレッド・テニソンである。

 「個人性は解けて無量の存在へ消え去る。暖味な境地ではなく、明断で、非常にはっきりした、言語を超 えた境地である。そこでは、死という言葉はまったく意味を成さない。個人性の喪失は存在の消滅ではなく、唯一真の生命である」


02・05.11 追加

 


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