臨死体験・気功・瞑想 

覚醒・至高体験の事例集 西欧の神秘家たち

プロティノス

 古代ギリシア哲学の末期を飾った哲学者プロティノス(Plotinos, A.D.204頃〜270頃)の神秘体験を紹介します。かつて彼の哲学について少し学ん だことがありますが、それは臨死体験に関心をもつようになる以前でした。いま再 び、彼の神秘体験を読み直してみると、そこには一種の体外離脱体験が語られてお り、また現代人が報告する臨死体験と比べてみても興味深い比較ができると思いま した。彼の哲学は、その深遠な神秘体験をひとつの基盤として築かれたものと思わ れます。

  エジプトに生まれたプロティノスは、28歳の時アレクサンドリアに赴き、師のア ンモニウス・サッカスについて39歳までの11年間、哲学を学びます。243年、ペ ルシアやインドの思想に学ぶため、ローマ皇帝の軍に加わってペルシアに行ったと いいます。翌年ローマに学校を開いて哲学を教え、多くの弟子を集めました。プラ トン哲学の真の後継者を自任して独自の哲学体系を築き、その思想は,アウグステ ィヌスらを通じてキリスト教神学と結びつき,ヨーロッパ精神史のなかに多大の影 響をのこしました。


  プロティノスは、修業生活を重視し、神秘的体験を大切にしたといいます。彼は、 自分自身の肉体の外側に立つというエクスタシーの体験をしばしば持ったようです。 ある弟子によると、プロティノスはローマにいた5年間だけでも4度ほど、神秘的 な合一体験をもったといいます。

  その著作『エンネアデス』のなかに自らの体験に ついて次のように語られています。

  「幾度となくそのようなことが起こった。肉体から外へ出て自分そのものにまで 高揚され、他のすべての事物の外部にたって自己に集中し、驚くべく美しいものを ながめたのである。そのような時は、かつてないほどまでに最高の秩序と合一して いる確信が起こり、神的なものとの同一性を獲得してもっとも高貴な生き方をし、 神的なものの活動を達成することによって神的なものの内に宿り、知性において至 高なるものに劣るすべてのものの上に安定を得たのだ。しかしながら、知的な作用 から推論への下降の瞬間がやってくる。神的なものの中をあのようにさまよった後 で、わたしは次のように自問する。自分がいま下降している、というようなことは どうして起こるのだろうか、霊魂はいったいどのようにして私の肉体へ入ってゆく のか、と。その霊魂は、肉体の中にあってさえ、かつてなきまでに高揚されている のだが。」

   「しかしこうしてそれを観た者には、私の言うことがわかるはずである。すなわ ち魂がそこに接近し、すでにそこに達していて、《あの存在者》の一部を分け与え られているならば、そのとき魂は新しい生活を経験し、真実の生の導き手が身近に いるのを識るのだということ、そしてこの経験よりほかにもうなにも必要としない ようになるのだということを。いや、むしろ他のいっさいのものを脱ぎすてて、こ の《一》なるもののなかにのみたたずみ、また、この身を包むいっさいを脱ぎ去っ てそれにならなければならない。‥‥‥こうしてそこで私たちは観ることができる のだ、‥‥‥《あの者》を、また私たち自身を、精神の光にみたされ、いや、純粋 な光そのものとなって、光明に包まれ、重さなく、軽やかで、神と化した、いや、 すでに神である私たち自身を。」

  「なぜしかし、私たちはあそこにとどまらないのだろう? なぜなら、私たちが まだすっかり自己を解き放っていないからである。けれどいつか、私たちがすっと 続けて観るようになる時がいたるだろう、肉体によりなんら煩わされることもな く。」  

  ここで語られている体験を読むと、これまで本サイトや 『臨死体験研究読本』の中で取り上げてきた多くの臨死体験や覚醒・至高体験と重 なり、プロティノスは何人かの臨死体験者が体験したのと本質的に変らないことを、 きわめて深いレベルで体験したのではないかと感じます。違いがあるとすれば、彼 の体験が「臨死」体験ではなかったということです。偶発的な事故や病気で瀕死の 状態になって体験したのではないということです。

   たとえばベバリー・ブドロスキーの臨死体験(本サイト「臨死体験事例集」所収)を思い出してください。彼女は語ります。 「私という 存在は変容しました。私の迷いや罪は、尋問もされずに許され、清めら れました。そしていまや私は、愛であり、始原の存在であり、至福でした。そして、 ある意味で私はそこに留まりました、永遠に。そのような合一は破られることはあ り得ません。それはつねにあったし、あり続けるでしょう。」

  「あのように強烈で人生を変えてしまうものが、夢や幻覚であるはすがありません。 逆に残りの人生こそが、つかの間の幻影であり、はかない夢だと思います。それは 終わるのです、いのちと至福をもたらす永遠の存在のなかに再び目覚めるときに。 悲しんだり、恐れたりしている人々に私は請け合います。死は存在せず、愛は終わ りません。また、どうか忘れないで下さい、私たちは、完全なる全体の一側面なの だということを。そのようなものとして神の一部であり、お互いの一部なのだとい うことを。これを読んでいるあなたと私は、いつの日か光のなかで、愛のなかで、 終わり なき至福のなかでひとつになるでしょう。」

   さて、先のプロティノスの言葉の中で《あの存在者》、《一》なるもの、《あの者》などという名称で語られているものは、彼の哲学の中では《一者(ト・ヘン)》 として語られます。 《一者》はいわば万物の中心点であり、究極の根拠ですが、多くの人々はそれを 知りません。人々は、まるで「気が狂って自己を失った子供たちが自分の父を見知 らない」ように、自分の故郷がどこにあるかを忘れているのです。彼らは「自己を 見失い」、「自己自身の外に」逃げ出しています。しかし、《一者》を忘れ、自己自身から逃げ出し、やがて滅びる無価値なものを愛する生活は、「生命の影」にす ぎないのです。 こうした思想が、「残りの人生こそが、つかの間の幻影」だとするブロドスキー の言葉と響きあうのは言うまでもありません。

  万物の起源としての《一者》は、すべての対立・限定を超えており、名づけよう がないのですが、強いて《一者》と呼んでいるに過ぎないといいます。《一者》は 太陽にたとえられます。太陽は、自ら減じることなく、しかもたえず光を流出させ ます。それと同じように《一者》は、流出してまず精神(ヌース)、それから霊魂 (プシケー)を生み出すのです。流出の末端に自然があります。そして《一者》か ら派出した万物は《一者》に帰るといいます。《一者》は全てを超えると同時に全 てのものの内に内在し、全てのものは《一者》のうちにある、とも言われます。

   ここでまた、ある臨死体験者の言葉を思い起こしてください。『臨死体験研究読本』なかで取り上げた臨死体験者・高木善之氏です。彼は、自らの臨死体験をもと にこう語ります。

  「生命は光です。生命はすべてたった一つの光の世界から雨が降るように地上に 下りてきたのです。それを記憶しているものも忘れているものも自分の使命を負え たあとはすべて光の世界へ帰っていくのです。こちらでもあちらでも実はすべてつ ながっているのです。 すべての知識も体験も、そこに集合意識として一体となっているわけです。私た ちはすべて、"もう一度"この地球に生まれてきたのです。生命は同じ所から来て、 同じところに帰るのです。動物も、虫も人間も、みんな同じです。  
  魂は一個の独立体ではなく、光のなかに包含されているものです。  
  すべてが一つに溶け合っているのです。」  

  これもまた、プロティノスの流出という考え方と響き合っていることが、確認で きるでしょう。  

  最後に哲学者バートランド・ラッセルの言葉を引用して終わります。彼は、神秘主義的な哲学には与しない哲学者ですが、人間としてのプロティノスをこう評して いるのです。

  「スピノーザと同じように、彼はある種の道徳的純粋さと高邁さとを持っていて、 それは非常に感銘を与える。常に彼は誠実であり、甲高い声や叱るような口調はけ っして用いず、できるだけ平明に、自分が重要と信じることを読者に語ろうとして いる。理論的哲学者としての彼に、どのような意見がいだかれようとも、人間とし ての彼を愛さずにいることは不可能である。」


  《参考文献》
世界の名著〈15〉プロティノス・ポルピュリオス・プロクロス (1980年) (中公バックス) 』(中央公論社)

忘我の告白 (叢書・ウニベルシタス) 』(マルティン・ブーバー編、法政大学出版局)

西洋哲学史―古代より現代に至る政治的・社会的諸条件との関連における哲学史 (1) 』(バートランド・ラッセル、みすず書房)

『立体・哲学』(朝日出版社)

西洋哲学史〈第1〉古代 (1967年) 』(ヒルシュベルガー、理想社)


03・5・17 追加

 


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