臨死体験・気功・瞑想 

覚醒・至高体験の事例集

 

玉城康四郎氏(1)

 ここに仏教学者・玉城康四郎氏の若き日の至高体験を収録する。氏は学者であると同時に求道の人であり、深い宗教体験も持つ人であるが、その求道は苦難の連続であったようである。以下の至高体験は氏の『冥想と経験 』その他、いくつかの著書の中に記述が見られるが、ここでは『ダンマの顕現―仏道に学ぶ 』(大蔵出版、1995)から収録する。

 氏は、こうした苦難の連続のあと、晩年に覚醒を得るが、それは項を別けて収録する。


東大のインド哲学仏教学科に入学した玉城氏は、奥野源太郎氏に師事し座禅を続ける。文中先生とは奥野氏である。

私は、先生に就くだけではなく、専門の道場でも行じてみたいと思い、先生の許しを得て、円覚寺の接心にしばしば参じた。接心とは、一週間境内に宿泊してひたすら坐禅を行ずることである。われわれ在家も坊さんとともに坐り、坊さんとともに提唱(ていしょう:老師の講義)を聴く。その他、起居動作すべて同じ共同体である。午前二時に起床、午後十一時まで坐りとおす。その間に、提唱、食事、独参(ひとりひとり老師に参じて問答)、午後の小休止があるだけ。今にして思えば、専門道場の修行を垣間 見(かいまみ)ることができて、何よりの功徳であったが、当時は、坐れば坐るほど身も心もへとへとになり、悩 みは深くなるぼかり、坐禅の外は何事も手に就かず、ただ悶々の日々を過ごすぼかりであった。。

そうした或る目、忘れもしない、正確には昭和十六年二月七目の午後である。私は本郷座(本郷三丁目の映画館)に、フランス映画「ノートルダムのせむし」を見た。何とも奇妙な内容である。その印象が、 私の得体の知れぬ心態にぐさりと刺さり、どうにもならなくなって館を出て、東大図書館の特別閲覧室にかけこんだ。すでに夕暮れで、室の中にはわずかの学生がいるだけで静まっている。鞄(かばん)は手放していなかったとみえる。その中から『十地経(じゅうじきょう)』を取り出して、初めの歓喜地(かんぎじ)の所を見るともなしに見ていた時である。

何の前触れもなく突然、大爆発した。木っ端微塵(こっぱみじん)、雲散霧消してしまったのである。どれだけ時間が経ったか分からない、我に帰った途端、むくむくむくと腹の底から歓喜が涌きおこってきた。それが最初の意識であった。ながいあいだ悶えに悶え、求めに求めていた目覚めが初めて実現したのである。それは無条件であり、透明であり、何の曇りもなく、目覚めであることに毛ほどの疑念もない。 私は喜びの中に、ただ茫然とするばかりであった。どのようにして、本郷のキャンパスから巣鴨の寮 まで帰ってきたか、まったく覚えがない。

いったいこの事実は、どういう意味を持つものなのか、その後ながい間の仏教の学習と禅定を重ねるうちに次第に明らかになってくるのであるが、その当座はただ歓喜の興奮に浸るのみであった。その状態は一週間ほど続いたであろうか、それからだんだん醒めてきて、十日も経つとまったく元の木阿弥(もとのもくあみ) になってしまった。以前となんら変わることはない、煩悩も我執もそのままである。そもそもあの体験は何であったのか。単なる幻覚が、いやいやけっしてそうではない。爆発の事実を否定するこ とはできない。しかしそのことをいかに詮索しても、現に煩悩、我執のままであることはどうしよう もない。

悩みは出発に戻って、さらに倍加し、ともかく坐禅を続け、手当たり次第に学んだ。それから一月ほど過ぎた頃であろうか、図書館の窓際の椅子にくつろいで、デカルトの『方法叙説』を読みっづけ、 コギト・エルゴ・スム(我思う故に我あり)に到ったとき、突然爆発した。同時に、古桶の底が抜け落 ちるように、身心のあくたもくたが脱落してしまった。なんだ、デカルトもそうだったのか、そうい う思いに満たされた。

かれは二十三歳のとき見習士官で出征し、ダニーブ河畔で越年した。そのある夜、焚火(たきび)の燃えるのを見ていたとき、驚くべき学間の根底を発見したという。それから九年のあいだそのことを暖めて、ついに『方法叙説』の執筆となったのである。これは単なる思索の書ではなく、全力を傾けて書かれている。コギト・エルゴ・スムは、「我思う」そのことが同時に「我あり」ということである。意識 と存在とが合致している。そのことに思い至ったとき、私もまた、あくたもくたが脱落してしまった のである。

このときは、その体験は明らかにデカルトとつながっている。しかし最初の大爆発は、『十地経』 の歓喜地に関わっていたかどうか、まったく分からない。無意識のうちに依りかかる所があったのかもしれない。また、この体験は、最初に比べると、ごく小さな爆発であるが、体験そのものは同質で ある。そしてこの時もまた、数日のうちに元の木阿弥に戻ってしまった。

そのあいだに円覚寺では、古川尭道老師から棲悟宝岳(せいごほうがく)老師に替わり、この老師の接心にもたびたび 参じた。また、奥野先生の禅会にも参加し、日光輪王寺における先生中心の坐禅の会合には、その都度先生のお伴をした。それは文部省の後援に依り、栃木県下の中学校長四、五十名が集まって、先生 の禅の指導を受けるものである。私はお手伝いのため先生に随行した。毎夏二年ほど続いたが、そのあとは先生の病気のため中止となった。

私はこの会合の間に、これまでとは違った無上の経験を得たのである。ある朝、起き出て見ると、満目の日光の山々が透明に輝いていた。ハッと我にかえると、私の身心もまた爽やかに透きとおっていた。私は思わず合掌礼拝した。それは警えようもない爽快な喜びであった。

もう一つは、この会における先生の『般若心経』提唱である。それは、諾老師の提唱とはまったく違っている。これまでも先生の道場で度々その講義を拝聴したが、それとも違っていた。火を吐くような先生の説法は、私の脳漿(のうしょう)を抉り抜き、絞りとおしてやまない。それはいわぱ、道理と会得とが私の全身心を貫いて、その張りつめた力に、私自身ははち切れそうになってしまった。何という提唱で あろう。このような経験はあとにも先にもなかった。私は、会合を終わり、東京に戻って心から先生に感謝した。

しかしながら、その後先生の体は病魔(結核)に冒され、ついに起つことができず、昭和十七年八月三日、世を去られた。わずかに数えの四十六歳、先生の薫陶(くんとう)を受けること三年。私.は先生の亡骸(なきがら)の前に坐って沈思していた。そのあいだに、いつのまにか私自身は浄土に引きこまれ、浄らかさと安らかさのなかに、いつまでもいつまでも動かなかった。

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01/7/1 追加

 

 

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