臨死体験・気功・瞑想 

覚醒・至高体験の事例集

ある青年医

 

 ここに紹介するのは井村和清氏という若き医師の体験である(『飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ―若き医師が死の直前まで綴った愛の手記 (祥伝社黄金文庫) 』 )。彼は、30歳のときに、右ひざに巣くった悪性腫瘍の転移を防ぐため、右脚を切断した。が、その甲斐もなく、腫瘍は両肺に転移していた。自分の命があと数カ月しか残されていないことを医師として知ってしまった。  


 もし、「この世」のこととして人間の心理的成長を語るなら、それは肉体的な成長と同じように連続的なプロセスである。それは、堅く閉ざされていた「自己」がより柔軟になり受容性を増していく過程である。それは、何重にも塗り固められた「自己」という表皮を一枚また一枚と脱ぎ捨てていく作業にも似ている。
  同時にそれは、殻の内側でひな鳥が充分に成長していくプロセスでもある。
 ところで一方「自己」は、少しづつ変容するという過程をとるだけではなく、ときとして一瞬のうちに飛び散ったかのように意味をなさなくなってしまう場合があるらしい。多くの場合それは、「限界状況」(哲学者ヤスパースの言葉)に直面し、そこから目をそらすことなく、限界を限界として自覚し引き受けるときにおこるようだ。

 ある青年医師の例で説明しよう。彼は、30歳のときに、右ひざに巣くった悪性腫瘍の転移を防ぐため、右脚を切断した。が、その甲斐もなく、腫瘍は両肺に転移していた。自分の命があと数カ月しか残されていないことを医師として知ってしまったとき、彼は次のような体験をしている。  

 「翌日、自分が働く病院のレントゲン室へ行き胸部写真を撮ったのですが、出来あがってきた写真を見た瞬間、覚悟はしていたものの、一瞬背中が凍りました。転移です。私の右足に発生していた肉腫の肺転移。それをさせないために切断した右足でしたが、その甲斐なく、肉腫は肺へ侵入してきたのです。‥‥いかなる治療を行っても、おそらく私は死なねばならないだろうという悲しい思いと、いや、抗癌剤か免疫療法を行ってゆけば、少しの展望は開けてくるのではないか、という一縷の望みとが交錯します。
  礼を言ってレントゲン室を出るとき、私は心に決めていました。免疫療法を始めよう、この治療法なら、体力のある限り仕事を続けてゆける。治療のために仕事をやめることも、入院する必要もない。歩ける限り、自分の足で歩いていこう。そう考えていました。
  その夕刻。自分のアパートの駐車場に車をとめながら、私は不思議な光景を見ていました。世の中が輝いてみえるのです。スーパーに来る買い物客が輝いている。走りまわる子供たちが輝いている。犬が、垂れはじめた稲穂が、雑草が、電柱が、小石までが美しく輝いてみえるのです。アパートへ戻って見た妻もまた、手を合わせたいほど尊くみえたのでした。」(『飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ―若き医師が死の直前まで綴った愛の手記 (祥伝社黄金文庫) 』 、井村 和清(著) )

 悪性腫瘍が両肺に転移し、自分の命があと数カ月しかないことを知ってしまったとき彼は「限界状況」に直面したのである。もちろん彼の中には抗癌剤か免疫療法に一縷の望みを託すことによって限界状況から目をそらそうとする気持ちもはたらいた。
  しかし、その直後に彼は、「免疫療法を始めよう、この治療法なら、体力のある限り仕事を続けてゆける。治療のために仕事をやめることも、入院する必要もない。歩ける限り、自分の足で歩いていこう」と決意した。この決意をしたとき、すでに免疫療法は限界状況から目をそらすための手段ではなく、限界を限界として直視し、引き受けたうえで、体力のある限り患者に尽くして仕事を続けていくための手段となったのである。  

 このように限界状況を自らのものとして引き受けたとき、彼はおそらく「自己」とそれにまつわりつく束縛を超えたのである。われわれが「自己」という観念の下にひっさげている様々な執着、プライドであろうと優越感であろうと劣等感であろうと権力欲であろうと地位欲であろうと名声欲であろうと、それら一切が、自らの死を直視し引き受けた彼にとっては無意味になったのである。だから、古びて色あせた飾り物のような「自己」が崩れて去っていったのである。そしておそらく、「自己」が飛び散り、「自己」というフィルターを通して見る必要がなくなったとき、世界は輝いて見えるのである。「自己」という壁が切り崩されて、あるがままの命が躍動するとき、同時に外なる世界もあるがままの姿で光り輝くのである。
  忘れてはならないのは、ここには、「自己」が一瞬のうちに飛び散っても大丈夫なほどに、「自己」による防衛が必要ないほどに内的な成長があったということである。それは、限界状況から逃避せずに、限界を限界として直視して引き受けるに充分なほど成長したという意味である。

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